第二話 観察処分の辞令はかつての義兄より
「だから様子を見てきてもらうだけでいいんだって」
義理の兄であるアレクセイが頼み込んでくる。
「少しの間、ジェシカが戻ってくるまででいいから」
「やだ」
と幼い子供のようにエルスが言った。
短くも長くもない中途半端な長さの黒髪に澄んだ蒼空色の瞳の少年である。まだ未成熟な身体つきと線の細さもあって、中性的な印象が強い十代半ばの少年だ。
彼――エルスの目の前にいるのは、濃茶の髪とエヴァグリーン色の瞳の大人しそうな顔立ちの青年だ。
そんな自分より九つ年上の義兄にエルスは端然と言い放つ。説き伏せるように。
「アレク
と言いつつエルスが羽織っているのは〈アヤソフィアの学び舎〉の制服でもある紺色のローブだ。アレクセイが着ている服も似たようなもので、ただしこちらは黒色をしている。
「一応言っとくけど、エルスの名前はクラスファーストに登録されたままだからね? 〈秩序学会〉においても古都トレーネにおいても除名にも脱会にもなってないからね? 少しばかり特例が適用されてるだけだからね?」
「〈秩序学会〉にしろ古都トレーネにしろ、強制力が働かない点を考えると除名も同然だと思うぞ。それに、なんで俺なんだ。他にもカタリーナとかブリアンとかいるだろ」
「それは、こっちにも事情っていうのがあって……」
「その事情とやらを俺は聞いている」
鋭くエルスは兄を見据えた。
アレクセイが、うっと口ごもる。だが、言うつもりはないらしい。それ以上口を開こうとはしなかった。
「それに、アレク兄だって俺がユイと出会う度にぼろくそ言われてたことぐらい覚えてるだろ?」
「まあ……」
アレクセイが渋々とうなずく。実際、エルスがユイに「大嫌い」と言われたのは記憶に新しい。
「そもそも、こっちは顔を二度と見たくないとまで言われてるんだぞ。ユイが観察処分だろうが謹慎処分だろうが停学だろうが俺には関係ない」
そう突っぱねれば、アレクセイは聞き分けのない子供を前にしたように、ため息を吐き出した。
「あのね、先に嫌った向こうが悪い、みたいな子供っぽいこと言ってるんじゃないの」
「理由もなく嫌われるだけならまだしも、毎回顔を合わすたびに罵倒されてんだぞ。これで好意を抱けっていうほうが暴力だ」
「そうかもしれないけどさ」
「大体、俺に頼むぐらいだったら、アレク兄が行けばいいと思うんだが」
「僕が行けるんなら、最初からエルスに頼まないと思うけど?」
「……だな」
説得するつもりが逆に納得させられてしまった。
アレクセイとはそういう兄なのだ。面倒くさいことであっても、人に押し付けるような真似をしない。むしろ、その逆で人に頼まれると断れないお人好し。我が兄ながらこんなお人好しでどうするんだと言いたくなる。
そんな義兄がわざわざこうして頼み込みに来ているのだから、どれだけ無理難題であっても考える余地ぐらいあってもいいのかもしれないとは思う。
だが、たとえ義兄の頼みだろうが、エルスにだって渋る権利もあれば断る権利もある。
「今の時期、進路やら何やらで他の奴らに余裕がないのはわかるが、よりにもよってユイに罵倒されまくった俺んとこ普通くるか? 俺は罵倒されて喜ぶような変態的な被虐気質は持ってないぞ。遠慮するぞ。その申し出は謹んで丁重に
「でもさ、久しぶりに〈アヤソフィアの学び舎〉に来たんだから、少しぐらい長く滞在しても――」
「そのこととユイの様子を見に行くことは関係ない。っていうか、いやだ」
きっぱり言えば、はあ、とアレクセイは観念したように息を吐いた。
そして、苦渋の面持ちでこう切り出してきた。
「あんまりこの手は使いたくなかったんだけど、実はこれジェシカからの頼みでもあるんだ」
「師匠からの?」
今までとは異なる毛色の声でエルスは聞き返す。
アレクセイは懐から一通の手紙を差し出した。
「うん。一応置手紙もあるけど読む?」
エルスは無言でそれを受け取ると封を切って中身を開く。そこには彼女の人柄を表すような優美な線でこう書いてあった。
――ユイの観察者にならなければ、破門とする。ジェシカ・ル・ロア
エルスは半眼を義兄に向けた。
「内容が既に頼みじゃなくて脅しなんだが?」
「だから使いたくなかったんだ。エルス、こういうの嫌いだろう?」
「嫌いも何も、脅しに喜んで屈するような人間の方が珍しいと思うけどな」
手紙をたたんで封筒に戻しながら、エルスは半ば諦めたような心地になる。
「要するに、俺に拒否権はないと。そういうわけだな?」
「まあ、ジェシカが帰ってくるまでの一か月ぐらいだからさ」
「気楽に言ってくれるよな……」
とエルスは憂鬱そうに息を吐いた。本音を言えば、今からでも断りたい。だが、アレクセイに頼み込まれ、ジェシカに脅されてしまっては、退路は断たれたも同然だった。
どうにもこうにも引き下がれる状況ではないらしい。
〇
なだらかな丘が幾重にも連なっていた。丘をやわらかに包んでいる薄い霧を朝日が照らし、全体をほのかな金色に染め上げている。
丘と丘の間にある比較的整備された広い道。そこをエルスは走っていた。
彼が走っている道の左右にある丘は波状畑になっていて、秋に麦を巻くためか、かなりまめに手入れされている。深い茶色をした畑の途中には防風林と畑小屋がぽつん立っているだけで、人の姿はない。
丘を抜け、森を抜けたエルスがやって来たのは〈秩序学会〉の敷地内にある見事な大門の前だった。美麗な格子の扉の上には鋼板のレリーフで宝玉を掲げながら祈りを捧げる乙女が浮き彫りになっている。乙女の背後にある花はアヤメの意匠をこらしていた。
その下には、このような文字がつづられている――〈アヤソフィアの学び舎〉。
黒いシャツの袖で額を流れる汗をぬぐい、エルスは呼吸を整えた。ひんやりとした空気が残った汗を乾かしていく。
日中はわずかに開いたままになっている格子の間を潜り抜け、奥にある赤いレンガで組まれた建物に向かおうとしたところで。
「おはよう」
背後から声をかけてきたのはアレクセイだった。いつもどおり黒のロープを着ている。これは法術士を統括する組織〈秩序学会〉に所属している証みたいなものだ。
「おはよう。アレク兄」
「今日も朝からジョギング? がんばるね」
「やらないと師匠に撃たれるからな。それに、学校いると身体がなまりやすい」
「今日からだっけ。観察処分」
「ああ。今日は午後からだけど」
エルスは感情の乏しい顔で自分より頭一つ分ぐらい上にあるアレクセイの顔を見上げた。
「アレク兄、やっぱボイコットしたいんだが」
「ジェシカに破門にされてもいいの?」
「んー、上級法術士資格も取れたからなあ。今なら破門にされてもいいかな、とか思ったりはする」
エルスがジェシカに弟子入りしたのは、大陸最難関と呼ばれる上級法術士の資格を取得するためだ。目的を達した今、彼女の弟子でいる必要はない。
「……エルスにしては珍しく、割と本気で嫌なんだね」
師匠に脅されたとはいえ、仮にも自分で決めたことをぐちぐち言うエルスを珍しいと思ったらしい。アレクセイが言ってくる。
「嫌っていうか面倒。アレク兄も本気で死ねと屑を千回ぐらい言われて存在否定をされてみたら、俺の気持ちがわかると思うぞ」
「そういうことがあっても、面倒程度で済ませちゃうのがエルスだなって思うよ」
呆れているのか感心しているのかわからない曖昧な表情でそう言った後、アレクセイは苦笑しながら。
「まあ、ジェシカが帰ってくるまでだから」
たしなめるような口調で、免罪符のように昨日と同じことを繰り返したのだった。
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