現実を超えた夢

【幸恵】

「あっ、また来てくれたんですね!」


【宣篤】

「うん、また会えたね」


【幸恵】

「あの、この前はごめんなさい。

 せっかく宣篤様が読み聞かせをしていただいたのに、

 眠ってしまいまして……」


【宣篤】

「あぁ、大丈夫だ。

それで、今書いてるのはこの前の続きか?」


【幸恵】

「いいえ、この前の作品は仕上がりましたので、

 今は別の作品を構想しているんです」


【宣篤】

「どんな作品を? 俺にも読ませてくれないか?」


近づいて手に取ろうとすると、彼女は机の上の原稿用紙の束を力強く押さえつけた。


【幸恵】

「ダメです!」


【宣篤】

「どうして?

 出版されたら、いずれ俺も読むことになるんだ」


俺が深くその理由を追求すると、彼女は頬を赤らめて目を逸らした。


【幸恵】

「いいえ……その……とにかく、ダメです!

 世に出る事もありませんし」


【宣篤】

「それは残念だ……その気になったらってことで。

 ところで、今日はお土産を持ってきたんだ」


手にしていた物はこっちに持ってこられるのか?


実験でもあったが成功したようだ。ベンチに置いた紙袋の中から小さな箱を取り出すと、彼女は邪悪な瞳をワクワクと輝かせた。


【幸恵】

「あら? それはなんですか?」


【宣篤】

「なんだと思う?

ティーテーブルを出してくれれば中を見せるよ」


【幸恵】

「では、さっそく」


彼女が言うが早いか、ティーテーブルとイスがじんわりと現れてきた。


【宣篤】

「甘い物は苦手かな?」


【幸恵】

「辛党ですが、甘い物も大好きですよ」


本来なら辛党は酒好きという意味だが……今日も彼女は平常運転らしい。


【幸恵】

「あら、ケーキですか? おいしそうです!」


【宣篤】

「チョコレートとショートケーキ、どっちがいい?」


【幸恵】

「では、ショートケーキをいただきます!

 今、お茶を淹れますから」


【宣篤】

「うっ! ちょ、ちょっと待った!!」


【幸恵】

「どうかなさいましたか?」


【宣篤】

「これによく合うお茶を持ってきたんだ!

その不思議な力だって、

あんまり使いすぎるのはいけないと思って」


【幸恵】

「あら、そんなに気を使っていただいて、

うれしいです! うふふっ……うふふふふっ……」


水筒に入れてきた紅茶を紙コップに注ぎ、満面の笑みで期待する彼女へと手渡し、次は食べるための準備を進めようとする。


【宣篤】

「あれ? フォークがない」


応対したスタッフが新人だったんだろうか?


紙袋の中にも箱の中にもフォークは見当たらない。


狼狽している俺を見て状況を察した彼女は、フォークを取り出した……が、何故か一本だけ。


【幸恵】

「宣篤様、はい、あ~ん」


【宣篤】

「えっ、あ、あ~ん……んっ」


子供扱いされてるみたいで、なんだか気恥ずかしい。


【宣篤】

「どうせならもう一本出してくれればいいのに……」


【幸恵】

「あまり力を使いすぎないように。

 そうではありませんでしたか?」


【宣篤】

「それは、そうだけどさ……」


【幸恵】

「宣篤様が望まれるのなら、出しますが……」


しょんぼりした表情で言われると、どう反応を返せばいいのか困る……


【宣篤】

「……いや、やっぱりこのままでいい」


【幸恵】

「うふふっ……うふふふふっ……うれしいです!

 それでは、もう一口。あ~ん!」


【宣篤】

「あ~……ん?」


彼女はフォークの先に乗せられたケーキを自分の口に運んだ。


まんまと俺は間抜け面をさらしたわけだ……


【幸恵】

「うふふっ……うふふふふっ……

 私もいただきますね……

 うん、とてもおいしいです!!」


【宣篤】

「気に入ってもらえてよかったよ。

 わざわざ遠回りした甲斐があった」


そう……彼女に喜んでもらいたかった……それだけなんだ……


俺は現実から逃げ出したかったからここに来たわけじゃないんだ……


【幸恵】

「残念です……」


いつの間にか暗い顔をしていたのか? 彼女が不満そうな声色を発して我に返る。


【宣篤】

「どうしたんだ?」


【幸恵】

「いえ……力で出したフォークですから、

 保管が出来ないのが残念だなって……」


【宣篤】

「あぁ、そういう事……って、どういう事?」


【幸恵】

「いえ、せっかく宣篤様の口に触れた物ですから……

 残しておきたいと思いましたのに……

 この力も、意外と不便ですね……」


ますます奇妙さに磨きがかかっている……


って、あれ?


【宣篤】

「……そうか……なにも……残らないのか……」


【幸恵】

「なにかおっしゃられました?」


【宣篤】

「いや、なんでもない……

 それで、また訊きたい事があるんだけど……

 いいかな?」


【幸恵】

「えぇ、私の目の黒いうちでしたら、お答えします!」


【宣篤】

「目の黒いうち……って」


そもそも彼女の瞳はあまりに邪悪で真っ黒だし、死人に口なしというし……


【宣篤】

「どうやったら、ここから出なくてすむんだ?」


【幸恵】

「えっ……出なくてすむかでございますか?

 いったいなぜそんな事を、お聞きになるのです?」


【宣篤】

「幸恵はずっとここにいるんだろ?

 ここは居心地がいい……

 俺も、ずっとここにいたいんだ……」


【幸恵】

「たしかに、そうですけれども……」


【宣篤】

「じゃあ、こういえばいいかな……

 俺、幸恵とずっと一緒にいるよ」


彼女はハッとした表情の後で俺から目を逸らし俯くと、おもむろに立ち上がり俺のすぐそばまで来た。


これから起こるすべての事を――いい結果だろうが、悪い結果だろうが受け止めるべく、俺も彼女の前に堂々と立って見せる。


【幸恵】

「確かに……その申し出は嬉しいです……

 私は、幼い頃から暗くて、本ばかり読んでいて、

 変わっているところも多くて……話すのも苦手で……


【幸恵】

「誰からも好意を抱かれた事がありませんから……」


【幸恵】

「……いえ、宣篤様のお気持ちを聞いて、

 本当に嬉しいのです……けれども……」


【宣篤】

「ダメか?」


俺を座らせると彼女は暖かいその胸に抱きとめ、わずかに震えた声で続けた。


【幸恵】

「宣篤様は……帰る事が出来ますから……」


【宣篤】

「だから、帰らなくていい方法を――」


【幸恵】

「帰る場所がありますから!」


腕の力がギュっと強い物に変わる。


【宣篤】

「幸恵には……ないのか……?」


【幸恵】

「目覚めて瞳に映るすべての景色が……悪夢だと……

 眠って見る夢と、瞼を閉じて現れる景色だけが……

 そう……私には……ありません……」


【宣篤】

「俺にも、ない……」


【幸恵】

「いいえ……あります……」


【宣篤】

「いや、あれほど暖かかった帰る場所が……

いつからなんだろうな? 学校から帰れば、

いつも寒くて……」


【宣篤】

「つい、この前来た後……兄貴がいなくなって……

今日……親父と母さんが……離婚したんだ……」


彼女は息を呑んで驚いた表情を示したが、かける言葉が見当たらないといったようすで、目を逸らして俯いた。


【宣篤】

「……それでも、あるといえるのか?」


【幸恵】

「……辛い思いを、されたのですね……

 ですが、私と違って……

 宣篤様はここにいるべきではありません……」


【宣篤】

「ここにしかないとしたら?」


彼女の腕の力が弱まると同時に、俺は真正面からその涙と向き合った。


太陽が涙するなどあり得るはずはないのに……そこにはいつものぬくもり溢れる輝きなどまるでなくて……


悲しみを拭いたくて……彼女に口づけを交わす。


【幸恵】

「んちゅっ……ちゅっ……んふぅ……はぁ~」


【宣篤】

「やっぱり……ダメなのか……」


【幸恵】

「……いいえ……ただし、条件があります……」


【宣篤】

「どんな条件だ?」


【幸恵】

「一つ目に……私をたばからない事。

 二つ目に……私を好きでいてくださる事……

 そして、三つ目に……」


【幸恵】

「もう、ここに戻ってこない事……

 約束……していただけますよね?」


どうしてだ? ここはいい場所だと言っていた。


どうしてだ? 一緒にいて欲しいと言った。


どうしてだ? 楽しそうに小説を書いていた。


本当に、何も残らないのか?


本当に、何も残さないのか?


【宣篤】

「それなら……どうしてだ……」


【幸恵】

「えっ?」


【宣篤】

「それならどうして……俺の事なんか!」


【幸恵】

「宣篤様……」


【宣篤】

「俺だってそうだ! 

 幸恵と同じ変わったヤツなんだ!!」


【宣篤】

「勉強だって出来たためしはないし、

 イヤな事があれば走り回るだけのガキで……」


【宣篤】

「だけど、俺は幸恵の事が好きなんだ!!

 この気持ちじゃ誰にも負けないんだ!!」


【幸恵】

「……私も……ですが――」


振り返った彼女を抱き寄せて、強引にキスをする。


【幸恵】

「ちゅっ……や、そんな……宣篤様……

 あっ、ちゅるるっ……はぁ……ダメです!!」


【宣篤】

「何も感じないのか?

 俺はこんなに気持ちが痛いのに、

 幸恵には何もないのか!?」


【幸恵】

「いやっ!」


力いっぱい彼女に突き飛ばされ、しりもちをついた俺は我に返った。


【幸恵】

「はっ……ご、ごめんなさい……」


彼女との間に静かな風が吹き抜け……口を開こうとは思っても、なにも言葉が出てこない……


【宣篤】

「いや、いいんだ……俺の方こそ、ごめん……」


【幸恵】

「……ここには何もない……何も残らないのです……

 だから……大好きな方だけは……

 唯一……宣篤様だけは……」


邪悪さを失った神聖な表情。女神の微笑みにも似た美しさに圧倒されてしまう。


だが、俺の心は変わらなかった……


必ず……ここから彼女を……


【宣篤】

「俺は……それでも言うよ……聞いてくれるか?」


【幸恵】

「……なんですの?」


一陣の強い風に乗せられて、机の上に置かれていた原稿用紙が俺のひざ元に降り立った。


【幸恵】

「あっ、私の原稿」


拾い上げて彼女に渡そうとしたとき、黒い文字の羅列の二文字が俺の目に残った。


【宣篤】

「あれ? この名前……」


もう一度しっかり確認してみると、やっぱりその二文字と苗字に見覚えがあった。


【宣篤】

「……えっ……これって……」


これは……どういう事だ!?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る