第97話 薬指の黒い棘

 ──ディラシナの街の汚い川辺に、意味もなく座っている事が多かった。スった金で買った安いチョコレートの破片を噛み砕き、ただぼんやりと、川の流れを見つめていた。


 喧嘩に負けたトキを背負ってねぐらへと戻って行く師の、あの大きな背中が見えなくなってから。

 トキは日毎に心を塞ぎ込むばかりで、彼の身を気にかけてくれる酒場の店主マスターにすらも悪態をついて遠ざけていた。


 他人を信じられず、盗みを働きながら、時折打ちのめされて、ゴミ溜めの中で眠る日々。

 そんな腐りきった毎日の中で、唯一、彼は信じていた。


 この街で待っていれば、居なくなった己の師に、いつかきっと──また会えるのだと。


 なのに。



「……何でだよ……」



 トキは暗闇の中で俯き、止めどなく流れ落ちる涙を拭う事も出来ずに呟いた。


 師が彼の元を去って、約七年。待ちぼうけを食らっていた間に魔女から呪いを受けたトキは、セシリアと共にあの街を出て、人々と出会い、大陸を渡り、ようやく彼と再会した。

 それなのにまた、師は背を向けて離れて行く。どんなに手を伸ばしても届かない、遥か彼方へと。



「いつもそうだ……いつも……。アンタはいつも、俺を一人、置いて……どこかに行っちまう……」



 ぽたりと、暗い足元に雫が落ちる。


 ディラシナの街の汚い川辺に、よく、一人で意味もなく座っていた。そこに座っていれば、酒臭い彼が土産にチョコレートを持って、ふらりと帰って来るのだと覚えていたから。


 いつしか彼を待つ事を諦めてからも、ずっと、ずっと。



「──もう泣くな、小僧」



 ゆらり。暗闇の中に青い火の玉が揺れる。「顔を上げろ、みっともない」と続けるドグマに、トキは下唇を噛んだ。



「……悔しくねーのかよ……ドグマ……」


「あ?」


「……あのクソ師匠、ムカつくんだよ……自分だけカッコつけて、いつも俺に何も言わねえ……」



 そんなに足手纏いかよ……、と力無く続けたトキは強く拳を握りしめる。ドグマは暫く黙り込み、やがてふわりとトキの周りを一周した。



「……あのバカは、七年前……、我を残してディラシナを発つ時、貴様の事をしきりに気にしていた」


「……!」


「何度も眠っている貴様の寝顔を見つめては、溜息ついてな。なかなか出て行こうとしなかった。睡眠の浅い貴様が途中で起きないように、自分で食事に睡眠薬を仕込んでおきながら……まるで貴様が目を覚ますのを待っているようにも見えた。滑稽だったものよ」



 青い火の玉はくるりと空中で身をひるがえし、懐かしむように過去を語る。



「マドックは貴様の事を、恥だとも、足手纏いだとも思っていなかった。むしろ、本当の息子のように可愛がっていたのは確かだ。何度も酒場の店主に貴様の事を話しておったからな、生意気な口ばかり叩く可愛い弟子だと」


「……っ」


彼奴あやつは無表情のように見えて、案外感情は表に出やすい。随分と貴様の愚痴ばかり聞かされたものだが、いつも嬉しそうに話していた。見た目じゃ分からんだろうが、所有されていた我には分かる」



 つう、とトキの頬には再び一筋の涙が伝う。「だから泣くなと言っておるだろう、この戯けが」とドグマは相変わらず辛辣に言葉を吐いた。



「……貴様こそ、悔しくはないのか小僧。唯一無二の師にとどめを刺したのは、他でもない貴様の親の仇だぞ」


「……っ、ンなもん……分かってる……っ」


「我は歯痒い。兎角いきどおっておる。あのような紛い物の毒蛇風情に、なぜ我らの主が殺されねばならん」



 ドグマは冷静ながらも、怒気を孕んだ声で静かに続ける。ただの火の玉の姿である彼女の表情など、見て分かるものではないのだが──なぜだかトキは、ドグマが泣いているのではないかと思った。実際泣いていたのかどうかは、定かでないが。



「──トキ。貴様が仇を取れ」



 一拍置いて、ドグマは珍しくトキの名を告げながら言い放つ。トキは薄紫の双眸を持ち上げ、暗闇で揺れる青い火の玉を見つめた。



「これが最後だ、もはや次はない。仇を取り損ねたら、貴様も死ぬと思え。二度と負ける事は赦さぬ」


「……っ」


「我と師に誓え、もう二度と負けぬと」



 トキはぼろぼろと流れ落ちていた涙を、ようやく手のひらで拭い取る。鮮明になった視界で揺れる火の玉の姿を捉え、彼は掠れる声を絞り出した。



「……誓う……、俺は……」


「……」


「俺は、たとえ刺し違えてでも……!」



 ──アルマを、殺してみせる。


 頬を滑り落ちた涙が暗い足元で跳ねた瞬間、青い火の玉の姿は、とぷりと深い闇に溶けた。




 * * *




「──……キ……、トキ! おい、大丈夫か!?」



 耳の奥に、喧しい声が響く。トキは重い瞼をこじ開け、夢と現実の狭間で微睡んでいる自身の体を揺さぶる男の顔をぼんやりと見つめた。徐々に視界が鮮明になり始め、目の前の男が誰なのかも理解する。トキはゆっくりと瞬きを繰り返し、ぼそりと口を開いた。



「……ロビ、ン……」



 ぽつり。放たれた名前。

 掠れた声で呼び掛けられたロビンは、一瞬ぽかんと呆気に取られた様子でトキを見つめ、「え……」と目を丸めた。そんな彼に、やがてトキも意識が覚醒し始めたのか──今しがた思わず彼の名を呼んでしまった事をようやく理解し、ハッと目を見開く。



「……っ、ま……」


「……ま?」


「……ま、ま……、間違えた!!」


「いや何も間違ってねえけど!?」



 トキはがばりと上体を起こし、混乱の勢いでついロビンの腹を蹴り飛ばした。「いってええ!?」と騒ぐ彼から距離を取り、トキはその名を口にしてしまった事を後悔する。


 一方のロビンは、腹を蹴られたというのに怒る様子は一切無かった。それどころか、彼はニタニタと嬉しそうにニヤつくばかりで。その表情にも腹が立ち、トキは赤くなった目尻を吊り上げて彼を睨んだ。



「……へえ~? トキって、俺の名前知ってたんだなあ? ふぅ~ん?」


「に、ニヤニヤすんな、このクソゴリラ!」


「そう照れんなってぇ~トキぃ。そうかそうか、あのトキくんが、俺の名前を間違えずに呼べるようになったとは! くぅ~、感慨深いぜ~。俺、感激でちょっと泣きそう……お祝いしなくちゃ」


「~……っ、この……!」



 トキは頬を赤らめ、ロビンのニヤケ面を一層睨む。対する彼は微笑ましいものでも見るように目を細め、「まあ、でも、」と声を続けた。



「……は、セシリアも揃ってからにしねーとな」


「……!」


「だからちゃんと、俺達でセシリアを救おうぜ。マドックさんのためにも。……そのために俺達、ここに来たんだろ?」



 に、と八重歯を覗かせてロビンが手を差し伸べる。そこでようやく、トキは彼の背後にそびえる巨大な建造物の存在に気が付いた。見るからに禍々しい、今にも崩れ落ちそうな漆黒の古城。極寒の北の果てだというのに吹き荒ぶ雪すらも寄せ付けないその周囲には、草木の一本すらも見当たらない。



(……ここが……)



 北の亡国、カルラディア。

 そしてこの古城こそが──災厄の魔女、イデアが潜む城なのだ。


 トキは奥歯を軋ませ、首筋の呪印に触れる。この呪いを緩和する事が出来るセシリアは、今はいない。つまりここでセシリアを奪還出来なければ──明日の命の保証はないという事だ。


 トキは目付きを鋭く吊り上げ、差し伸べられているロビンの手を取った。



「……ああ。セシリアを救い出して、この呪いを解く。必ず」


「おう!」


「……だから、お前も死ぬな」



 握り取ったロビンの手に力を込め、トキはそう付け加える。ロビンは一瞬きょとんと瞳を瞬いたが、ややあって「ったりめーだろ!」と破顔した。



「俺にも、カーネリアンで待たせてる相棒が居るからな! さっさと片付けて、賞金持って帰ってやらねーと!」


「……ハッ、賞金ね」



 トキは小さく笑い、その場に立ち上がった。



「……最初から俺を捕まえてりゃ、少しぐらい小銭稼げたんじゃねーのかよ」


「!」



 不意にそう告げた彼の言葉に、ロビンの表情からは笑顔が消える。面食らった様子で瞳を丸める彼に、トキは続けた。



「お前、本当はずっと気付いてたろ。俺が賊だって事」



 ぱ、とロビンの手を離したトキが嘲笑混じりに問い掛ける。一方のロビンは暫く目を丸くして黙り込んでいたが──程なくして、やんわりとその目尻を緩めた。



「……俺は、しか捕まえねーよ」


「……!」



 清々しいほどハッキリと言い切った彼に、今度は逆にトキが面食らってしまう。しかしやがて訝しげに目を細めると、「……お前、あの出会い方でよく俺の事悪いヤツじゃないと思えたな」と半ば呆れた。するとロビンは八重歯を見せて破顔する。



「まあ正直、セシリアがお前の事『良い人です!』って言い張ってなかったら、今頃一緒には居なかったかもな!」


「……はあ、やっぱアイツがそう言ったのか」


「あの時は、ぶっちゃけあんまりセシリアの言葉も信用してなかったけど……今なら分かるぜ。お前が、めっちゃ良い奴だって」



 ロビンは堂々と明言し、トキに視線を向ける。優しげに綻ぶ彼の表情に些か居心地悪さを覚え、トキはチッと舌打ちを放って目を逸らした。


 その時ふと、彼は先程から姿の見えない二匹の存在を思い出す。



「……! お、おい、そう言えばアデルとステラは!?」


「え? ……ああ、あの二匹ならあそこに──」



 そうロビンが指さした先には、随分と弱った様子でぐったりと岩肌に寄り掛かるアデルとステラの姿があった。途端にトキは肝を冷やし、「おい!?」と彼らに駆け寄る。



「お、お前ら、どうした!? ま、まさか、お前らまでアドフレアの奇病に──」


「おいおいトキ、落ち着け! 大丈夫だって! そいつら多分、単純にしてるだけだから」


「……、転移酔い……?」



 聞き慣れぬ単語にトキは眉を顰めた。何だそれ、とでも言いたげな彼に、ロビンは言葉を続ける。



「前にステラを連れてカーネリアンまで転移した時もそうだったんだけどさあ……転移石の空間移動系魔法って、魔物にとっちゃ結構負荷がデカいみたいでな。転移後はこうやってぐったりしちまうんだよ。たまに人間でも、三半規管が弱いやつはこうなる」


「……なるほど……」



 どうやら、病気や怪我の類ではないらしい。そう分かって安心したのか、強張っていたトキの肩からは力が抜ける。アデルとステラはぐったりと岩場に寄りかかったまま、「ギャウ……」「プギィ……」と力無く声を発した。トキは彼らの背を撫で、呆れたように嘆息する。



「……心配かけてんじゃねーよ、バカ」


「ガゥ~……」


「プギ~……」


「……ったく……」



 眉根を寄せて文句を吐きながらも、その視線や行動からは確かな優しさが滲んでいた。ロビンは彼の横顔を盗み見ながらくすりと微笑み、「……やっぱ、悪いヤツじゃねーんだよなァ」と小さく声をこぼす。


 ややあって彼はトキに近付き、その肩をぽんと叩いた。



「大丈夫だって、トキ! こいつら多分、あと一、二時間もすれば回復すると思うし」


「……そんなに時間かかんのか?」


「えーと、あー、まあ……。少なくとも、前にステラがこうなった時はそんぐらい時間かかったな」



 ロビンが苦笑すれば、トキの表情はあからさまに曇る。──アデルとステラの回復を、一時間も待っているような余裕はない。セシリアの無事が保証されない今、本当は一秒でも早く彼女を救出しに行きたいところだ。



(……かと言って、弱ってるコイツらを魔女の活動圏内に置いて行くのも……)



 トキは眉根を寄せ、唇を噛む。

 以前、アデルを置いて行った際の事が脳裏を過ぎって、同時に哀しみに暮れるセシリアの顔も浮かび上がった。どうするべきか、と彼が決めあぐねていると──不意に、くい、とトキのストールが引かれる。



「……!」



 促されるように視線を上げれば、彼のストールを咥えたアデルがトキをまっすぐと見つめていた。凛と澄み渡る金の瞳は、彼に何かを訴え掛けている。やがてアデルは、硬直するトキの胸に鼻先を当ててその体を押し返した。


 ──それはまるで、早く行けと言っているようで。



「……置いて行けってのか」



 小さく問えば、アデルは咥えていたストールをぱっと離して岩陰に身を丸めた。ぐったりと倒れ込んでいるステラが寒さで凍えぬよう自身の毛皮で包み込み、再びトキの目を見つめる。


 おそらくそれは、肯定の意。トキは一瞬表情を歪め、アデルの白銀の背を撫でた。



「……ちゃんと、ここに隠れてろよ。何かあったらステラと一緒にすぐ逃げろ。分かったな」


「ガゥ」


「……お前の主人は、俺が必ず助ける」



 トキははっきりと彼に告げ、その場に立ち上がる。極寒の地だと言われる北の果てだが、魔女の魔法によって遮られているのか、この周辺には雪が積もっていない。彼らが吹雪に襲われる心配はないだろうと結論を出し、その点に関しては少し安心した。



「……行くぞ、ゴリラ。あの城に乗り込む」


「あっれ~? トキくんったら、俺の名前呼んでくれねーの?」


「誰が呼ぶか、バァーカ!」



 おどけるロビンに対して語気を荒らげれば、彼は「さっきは呼んでくれたくせに」とケラケラ笑った。全くもって緊張感のない彼に舌打ちを放ちつつ、トキは自身の懐の中に手を突っ込む。



「……手ェ出せ、ゴリラ」


「んえ?」


「……不本意だが、俺じゃは扱えない。コイツはお前が持ってろ。魔銃士なんてやってんだから結構あるだろ、魔力」



 そう言って彼から手渡されたのは──先程マドックから譲り受けた、魔女の遺品アウロラの指輪だった。


 ロビンはそれを受け取り、「おぉー! 魔女の遺品グラン・マグリア!」と瞳を輝かせる。伝説上の品を譲り受けた事で感激しているのかと一瞬思ったが、どうやらそういう訳ではないとすぐに理解した。



「なあトキ、これ売ったらいくらになる!!?」


「返せ」


「嘘! 嘘です冗談です!!」



 一瞬本気で怒気を放ったトキにロビンは焦燥し、すぐさま前言を撤回する。しかし先程の言葉こそが真理であろう。彼の瞳は、金への欲望を孕ませて爛々と輝いていたのだから。



「……俺、やっぱお前の事嫌いだ……」


「えー? 本当は大好きな癖にぃ~」


「…………」


「……ヤメテ、そんな本気でゴミを見るような目で見るのヤメテ……。あ、でもこれはこれで新たな性癖に目覚めそ──」


「行くぞ、時間の無駄だ」



 馬鹿ロビンの声を遮り、トキは彼の横を素通りして走り始める。「あ、置いてくなよ!!」と騒ぎながらトキを追いかけて行くロビンの背中を呆れたように見つめ、ステラは「プギプギ……」と些か不安げに彼らを見送ったのであった。




 * * *




「いやぁん、アルマったら激しくやりすぎ♡ セシリアちゃんボロボロじゃなーい」



 妖艶な唇に小指を咥え、牢の中へと足を踏み入れたテディは床に転がる哀れな聖女の姿を見下ろして笑った。

 口元を血や白濁した液体で汚した彼女の素肌には、青黒い痣や噛み跡が目立ち、首には締め付けられたような鬱血痕が残っている。浅く呼吸を繰り返し、虚ろな瞳で虚空を見つめるセシリアを眺めたテディは「可愛い~っ♡」と頬を染めた。



「セシリアちゃん、やっぱり絶望した表情がとーっても似合うっ! あはっ、テディちゃんもグッチャグチャに甚振ってあげたくなっちゃう……♡」


「おいおい、俺の女神の涙マドンナだぜ? 使なら俺の許可取ってくんねーと」



 壁に凭れて一服していたアルマは煙を吐き出し、短くなった煙草を投げ出されていたセシリアの白い脚に押し付ける。「ああぁあっ……!」と掠れた声で悲鳴を上げた彼女の脚には、既に火傷の痕が数ヶ所も残っていた。



「便利なモンだねえ。こんだけ醜く汚しちまっても、少し時間が経てば元に戻っちまうんだと」


「……っ、う……ぅ……」


「ねえねえアルマ~、もしかして最後までヤッちゃったのォ?」


「まさか。それは流石によ」



 アルマは肩を竦め、ぐったりと倒れ込んでいるセシリアの身体を乱雑に引き寄せる。生気を無くした彼女の瞳からは、涙だけが静かに流れ落ちていた。



「俺達は闇魔法の塊だからなァ。唾液程度ならまだしも、光属性の塊みてーなこの身体ん中にまで突っ込んじまったら、流石にどうなっちまうか分かんねえ。実際、さっきまでココに突っ込んでた指も思うように動かねーしな」



 そう言ってセシリアの内腿に感覚が麻痺した指を滑らせれば、彼女の身体はびくっと震える。アルマは口角を上げ、セシリアの口の中にもう片方の手の指を突っ込んだ。



「試しに口ん中にはみたが、やっぱ痺れてキツかったし。まあ、ある意味刺激的で興奮しちまったけど」


「やだ~っ! アルマってば、やっぱ変態でしょ~?」


「うわー、それオメーにだけは言われたくねえよド変態女」



 げんなりした表情でアルマはテディを見据える。テディは「あはっ♡」と小首を傾げ、アルマからセシリアを奪い取ると痣だらけのその肌に頬擦りした。



「んも~、セシリアちゃんごめんね? 変態おジジにもてあそばれて、怖かったよね? テディちゃんのお部屋、このお部屋のお向いなんだけど、そこまでセシリアちゃんの可愛い悲鳴が聞こえて来てたよ? 興奮しちゃったあ~、あはっ♡」


「おい、誰が変態おジジだ」


「可愛い可愛いセシリアちゃん……♡ 可愛いものって、テディだーいすき! だからね、つい興奮しちゃってえ……」



 キィ、と足元で音がする。虚ろな瞳でゆっくりと下を見下ろせば、テディの右脚が黒い刃へと変貌し、冷たい地面に傷を作っていた。身を強張らせたセシリアの耳元に、妖艶なテディの声が囁く。



「──テディも、セシリアちゃんの事、虐めたくなっちゃったあ……♡」



 狂気的な紅い瞳が爛々と輝き、セシリアの髪を掴み上げる。そのまま彼女の身体は壁に投げられ、呻き声と共に地面に落下した。

 すっかりが入ってしまっているテディにアルマは嘆息し、やれやれと肩を竦める。



「……俺に許可取れって言ってんのに、ホント言う事聞かねえなァ……」



 呆れがちに呟き、彼は立ち上がった。



「シャワー浴びて来る。そいつ殺すなよ、テディ」



 そう言い残し、アルマは「はぁーい♡」と楽しげな彼女に背を向ける。やがて扉の前までやって来た彼は、テディに踏みつけられて苦しげに呻いているセシリアの顔を一瞥した。


 生気のない瞳は、静かに涙を落としながらアルマの顔を見つめている。──その顔が、十二年前に死んだと、ほんの一瞬だけ重なって見えた。



「……」



 アルマは扉に手を掛けたまま足を止め、目を細める。


 彼の脳裏に蘇ったのは──いつまでも追憶の隅に焼き付いて消えない、カラコロと笑う懐かしい声。野花の咲き誇る丘の上で風に揺れる黒髪を指に絡めれば、照れたようにはにかんで柔らかく細められていた、薄紫色の瞳。


 最後の最後まで、その目に灯した光を絶やさなかった、彼女の。



(……健気だねえ、俺も)



 ──まだ、引きずっちまって。


 アルマは自嘲し、セシリアから目を逸らす。そして彼は、そのまま部屋を出て行った。




 * * *




 ばたん、と重々しい扉が閉じた後。テディに足蹴にされたセシリアは、表情を歪めて弱々しく苦鳴を漏らしていた。


 アルマに付けられた身体の傷は、まだ癒えない。

 心に大きく穿うがたれた穴も、埋まらない。


 力無く呻く彼女を見下ろすテディは、両頬を押さえて快感に身を震わせる。



「あぁんっ! セシリアちゃんったら、こーんなに弱っちゃって! もーっ、可愛くって、テディ早くもイッちゃいそう……♡ もーっと絶望させてあげる♡」



 くすくすと笑い、テディの右脚が大きく振り上げられる。黒い刃と化したその切っ先は、今から無抵抗のセシリアの身体を切り裂いて甚振るのだろう。


 倒れ込んでいるセシリアは、もはや抗う事も、許しを乞う言葉を発する事も出来ない。虚ろな瞳で、ただぼんやりと、振り上げられた黒い刃を見つめていた。



「はーい、それじゃ、セシリアちゃん」


「……」


「死ぬギリギリまで、イッちゃってね♡」



 愛らしく小首を傾げ、テディが微笑む。そして次の瞬間、高く掲げられていた黒い刃が彼女の元へと振り下ろされ──たのだが。


 ──ガキィン!!



「……っ!?」



 突如、真っ赤に迸った閃光と共に、黒く色付いたが地面を突き破ってテディの右脚の攻撃を阻んだ。鋼鉄のように硬いそれは更に数本地面を突き破って飛び出し、テディの体を巻き取って締め上げる。



「っ、ぐ、ぅあぁあッ!?」



 ギチギチと、身を引き裂かんばかりの力で四肢を締め付けるそれが体に食い込む。テディは思わず目を見開いて叫び、次いで首にまで回ったそれに危機を感じたのか、彼女は遂にやむを得ず皮膚をして拘束を逃れた。


 ずるりと皮を脱ぎ捨てた瞬間、まとわりついていた黒いが脱皮した蛇の抜け殻をブチブチと引き裂く。全身の皮膚の再生が追いつかぬままそれを睨み、テディは瞳を血走らせて声を荒らげた。



「……っ、クソがァ!! よくも私の美しい顔を!!」


「──うるっせーよ。黙って死ね、このクソアマ



 叫んだテディの言葉に答えたのは、どこからともなく響いたの声。その瞬間、長いレザーグローブの中に隠されていたセシリアのが、真っ赤な光を放った。



「……!?」


「邪魔な男が居なくなったおかげで、やーっと出てこれたわ」



 低く放たれる声と共に、禍々しい色に染まった何かが更に地面を突き破ってその本数を増やす。赤い光を纏い、セシリアを守るように取り囲むそれは──よく見れば、のようだった。


 禍々しく張り巡らされる黒い木の根にテディが息を呑んだ頃。その場に現れたのは、若草色の髪をした女。



「私の可愛いセシリアを、こんな目に遭わせやがって」



 とん、とん。サンダルの踵を鳴らし、女は表情に怒りの色を濃く浮かべて、少しずつテディに歩み寄る。彼女は自らの喉元を掻き毟り、瞳孔の開ききった瞳をぎょろりとテディに向けた。



「あぁぁぁ、ムカつく。ムカつくムカつくムカつくムカつく。どいつもこいつもぶっ殺したい、死ね、死ね死ね死ね死ね。全員殺してやる」



 がりがりと掻き毟った喉元からは血が滲み、爪の間を真っ赤に染める。やがて女がその手を掲げ、パチン、と指を鳴らせば──地面を突き破った木の根の一本が一瞬でテディの腹部を貫いた。反応が遅れた彼女は「があァ……っ!?」と呻き、血の塊をその場に嘔吐する。女はぴくりとも表情を変えず、彼女の腹を貫いた木の根を引き抜くと倒れ込むその体を冷たい瞳で見下ろした。


 若草色の髪を掻き上げ、彼女は告げる。



「まずはテメェからだよ、クソビッチ。生まれてきた事を後悔しながら死ね」



 セシリアの薬指の指輪から飛び出したのは、狂気を孕んだトゲを持つ、十二番目の魔女。


 彼女──アルラウネを睨み、テディは黒い血を吐きこぼしながら、「クソがァ……!!」と忌々しげに声を絞り出した。




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