第67話 赤髪のお調子者
1
東の空に朝日が昇った頃。
トキの腕の中で目を覚ましたセシリアは、なぜか密着して眠っている彼の姿に思わず悲鳴を上げかけて、何とか喉の手前に押し留めた。「えっ、……えっ!? 何で一緒に寝てるの!?」と脳内は大混乱だったが、無理に脱出しようと身じろいで起こしてしまうのも忍びなく思えて、取り敢えずそのまま彼の寝顔をじっと眺めてみる事にする。
相変わらずトキさんは綺麗な顔をしてるなあ、などとぼんやり考えながら見つめていれば、不意に薄紫の双眸がぱちりと開いて。あ、起こしちゃった、と真っ先に浮かんだのは罪悪感。安眠を妨げてしまった申し訳なさから、彼女が謝罪の言葉を告げようと薄く唇を開いた──その瞬間。
──ちゅ。
突如、唇を塞いだのは柔らかな感触。
それがあまりにも突然の出来事で、セシリアの思考はぴしりと固まってしまう。
起きぬけ早々、セシリアの唇に押し当てるだけの軽い口付けを施したトキは、目を見張ったまま硬直する彼女の顔を至近距離で見つめながら口を開いた。
「……おはよ」
「……、……っ!」
かあぁ、と顔に熱が集中する。え、え? 今、何が起きたの? と混乱状態に陥る脳内をフル回転させて状況を整理するが、そもそも何で彼と一緒に寝ているのかも分からなければ今の口付けの意味も分からない。
そう考えている間にも、トキは再び表情を緩め、唇を近付けて来て──。
「……っ、だ、」
「……、?」
「だめえーーっ!!!」
──ばっちーーーん!!
混乱の末に叫んだセシリアの大絶叫の後、いっそ清々しいと思えてしまうほどに乾いた音が、穏やかな川辺に響き渡った──
──というのが、今朝起こった一連の出来事の顛末である。
「……」
「……」
現在、セシリアは非常に困っていた。困りすぎて胃がキリキリと痛む程度にはお手上げだった。
……というのも、混乱のあまり思わずトキの頬をぶってしまって以降、完全に拗ねてしまった彼が一切口を聞いてくれなくなってしまったからで。ちらりとその横顔を一瞥してみても、目すら合わせて貰えない状況である。
(……や、やってしまったぁ……)
ぶすっ、と不機嫌そうに眉根を寄せ、ズカズカと前を歩くトキにセシリアは苦い表情を浮かべる事しか出来ない。
午前中、彼女は何とか彼の機嫌を直そうと奮闘したが、結局うまく行かず彼の眉間に深く刻まれた皺が緩む事は無かった。おやつにどうですかと果物を差し出してみても、アデルの得意な芸を披露してみても、セシリア渾身の謝罪を口にしてみても結果は同じ。
ここまで来ればお手上げだ、彼の機嫌が直るのを大人しく待つしかない。セシリアは肩を落とし、黙って彼の後をついて行く。
(……朝、何で一緒に寝てたんだろう……)
うーん……、と眉根を寄せながら昨夜の事を思い出そうとするが、水浴びに行くと言ってキャンプ地から離れたトキの背中を見送った後の記憶が無い。おそらくアデルに寄りかかっているうちに眠ってしまったのだろうと思うが、よくよく考えてみれば、夢見心地を彷徨う中でトキと何か会話したような記憶がぼんやりと……無くもない。
(……うう……、だめ、全然思い出せない……。寝惚けて何かしちゃったのかな、私……)
もしかしたら、彼を無理矢理毛布の中に引き込んでしまったのかもしれない。もしそうだとしたら悪質すぎる。無理矢理自分で引き込んでおいて、いざ目を覚ましたら平手打ち、だなんて。
(……あ、後でちゃんと謝ろう……)
今朝の行動を猛烈に反省していると、不意に前方を歩くトキが立ち止まった。はた、とセシリアは瞬き、小走りで彼に追い付く。
「……ど、どうしました? トキさん」
おそらく答えてくれないだろうとは覚悟しつつ、念のために問い掛けてみた。彼は一瞬じとりとセシリアを睨んだが、「……カーネリアンだ」と普段より幾分か低い声が返ってくる。
こ、答えてくれた……! と彼からの反応があった事に感激しながらも緩む頬を噛み殺し、セシリアは前方へと視線を移した。
その瞳に映ったのは、高く聳える白い外壁に囲まれた、まるで要塞さながらの大きな街。僅かではあるが、壁の向こうにターミナルのような巨大な建造物が連なっているのが確認出来る。
「……わあ、本当ですね……! あれがカーネリアン……!」
「……」
「早速行きましょう、トキさん! アデルも!」
「ガゥ!」
「……待て」
トキは眉間を寄せ、アデルと共に歩き出そうとしたセシリアを制した。きょとんと目を丸めるセシリアの事は、この際いいとして。問題なのはもう一匹。
「……」
ちらりと、彼が目を向けたのはアデルである。主人と同じようにきょとんと不思議そうに、金の眼を瞬くオオカミの魔物。人慣れしているとはいえ、あれほど大きな街の人混みにアデルが踏み入れば騒ぎになるのは目に見える。
遠くから確認した限りでも、門の前に自警団のような見張り番が二人立っているのが分かった。トキは眉を顰め、浮かぶ一つの懸念に嘆息する。
(……この犬が居て、中に入れてくれるのか、そもそも……)
魔物を引き連れた得体の知れない小汚い旅人など、門前払いされてしまってもおかしくはない。仮に中に入れたとしても、これだけの図体の魔物を引き連れていては目立たず行動するのは不可能。情報収集に支障が出る。
(しかもこの犬が居たんじゃ、飛空艇どころか宿の中にも入れて貰えない可能性が高い……。つっても、置いていくって言ったら確実に反対されるしな……)
そもそも、彼等は飛空艇に乗船して北の大陸へ向かうためにこの街を目指していたのだ。街に辿り着いたところで飛空艇に乗れなければ、本末転倒である。
かと言って、アデルをこの場に置いていく選択肢はない。セシリアが許さないのは分かりきっている。──前回、それが原因でアデルと生き別れてしまったのだから。
どうするか、とトキが顎に手を当てて考えていると──不意に、ドタドタと忙しない足音が耳に届いて彼は顔を上げた。
その瞬間、がばりと大きく広がった何者かの両手が、トキとセシリアの体を包んでいて──。
「ひっさしぶりじゃねえかー!! 二人共ー!!」
「──!!?」
がばあっ!! と二人まとめて筋肉質な腕の中に閉じ込められた。
トキとセシリアは目を見開き、何事かと困惑して声を詰まらせる。しかもトキに至っては硬い胸板に勢いよく顔面を押し付けられた際、思いっきり鼻を強打していた。
「……〜ッ……!!」
「あ、悪ィ。鼻ぶつけた? いや〜、遠くから二人とアデルの姿が見えてさ、加減出来ずについ
へらへらと、聞き覚えのある声が謝罪を告げる。届いたその声の主が何者なのか悟った瞬間、トキの頭の中の何かがブチリと音を立てて切れるのが分かった。
「……ね……」
「……ん? 何て?」
「……死ね……」
ぼそりと呟かれた恨みの篭った低い声。セシリアが「あっ……!」と顔面を蒼白に染めて何かを悟った時には、もう遅かった。
ぐっと力強く握られた拳を振り上げ、トキは怒鳴る。
「死ね、このクソ筋肉ゴリラがァ!!!」
──バキィッ!!
トキの振りかぶった怒りの左拳が、きょとんとしていた男の顔面を殴り飛ばした頃。“クソ筋肉ゴリラ”ことロビンは、鼻血を撒き散らしながら美しい放物線を描いて吹っ飛んで行ったのであった。
2
「……いや、久しぶりの再会なのにこんな仕打ちあるゥ? 俺めっちゃ傷付いたぜ、トキ〜……」
「うるせえ死ね、話し掛けんな」
「だってよセシリア!! どう思うこの態度!! 酷くない!?」
「……す、すみません……」
トキがロビンの顔面を殴り飛ばしてから、数分。
元より不機嫌だったトキの機嫌は一気に急降下してしまい、ロビンから距離を取った場所で
アデルは案外ロビンの事を気に入っているのか、嬉しそうに尻尾を振って彼に擦り寄っていた。
「……ロビンさん、大丈夫ですか? もう痛い所ないです?」
「……はぁ〜、どこかの誰かさんとは違って、相変わらずセシリアは天使だなぁ……。可愛い……癒し……」
「も、もう! からかわないで下さいよ……!」
恥ずかしそうに頬を染めるセシリアにロビンがデレッと鼻の下を伸ばした頃、背後からトキの殺気を感じて「あ、やべ……串刺しにされる……」と彼は表情を引き締めた。ふと、セシリアはそんなロビンに首を傾げる。
「……そういえばロビンさん、なぜ街の外に? ギルドに招集された件はいいんですか?」
「ん? ……あー、まあ、それの件もあって……ちょっと見回りしてたっつーか、そんな感じ」
「なるほど、見回り……」
「……つーか、セシリア。お前その格好ちょっとまずいぞ」
「……え?」
はた、と瞬くセシリアに、ロビンは黒い眼を細めて眉を顰めた。珍しく真剣な顔をするもので、セシリアはごくりと息を呑む。
「……怖がらせるつもりはねーんだけどさ。今、ちょっとカーネリアンの街の中は物騒だ。“カルラ教”の連中が潜んでるって話で、近いうちにテロ紛いの事が起きる可能性すらある」
「……え、そ、そんな事が……?」
「ああ。それで俺も呼び戻されたんだけど、とにかく街の中は自警団もギルドの連中もピリピリしてる。“ヴィオラ教”の紋章をそんなデカデカと掲げたローブなんか着てたら、すぐカルラの連中の
「……」
彼の言う“カルラ教”とは、“反ヴィオラ教”を掲げる“アンチ・女神”の過激派組織なのだという。
不安げに瞳を揺らし、セシリアは胸の前で両手を握り締めた。主人の不安を悟ったのか、アデルは「クゥン……」と鳴いて彼女の膝の上に顎を乗せる。
「……怖がらせてごめんな、セシリア。でも大丈夫だ、何かあったら俺が必ず守ってやるから!」
「……ロビンさん……」
「でもひとまず、街の中ではローブだけでも脱いでおいた方がいいぜ。今日はもう暗くなっちまうから、明日にでも俺が動きやすい服を見繕っとくよ」
「……はい。ありがとうございます」
ロビンの優しさにセシリアが破顔すれば、彼は照れたように頬を掻きながら微笑む。
「いいって! とにかく、セシリアはヴィオラ教の神官だってバレないように気を付けてくれ」
「はい! 分かりました!」
セシリアは力強く頷き、早速羽織っていたローブを脱いだ。ノースリーブのワンピース姿となった彼女は、夕刻の冷たい風の中にさらけ出された肩を寒そうに竦める。
「……あ、悪ィ、寒いよな? カーネリアンの街の中は壁に囲まれて適温だと思うから、少し我慢出来るか?」
「……あ、大丈夫です! お気遣い頂いてありが……、わぷっ!?」
へらりと笑ったセシリアだったが、突如顔面に何かが投げ付けられた事で目の前が真っ暗になり思わず声を上げてしまった。投げ付けられたそれをおずおずと手に取ると、そこには見慣れた藍色のストールがあって。
「……あ……トキさん……」
「……」
外方を向いたまま、無言でストールを投げ付けたのはトキだった。不機嫌そうに口元をへの字に曲げてはいるが、寒そうにしているセシリアの身を案じてくれているらしい。
セシリアはやんわりと微笑み、彼の優しさに胸を高鳴らせながら受け取ったストールを首に巻きつける。
「……ふふ。ありがとう、トキさん」
「……」
微笑む彼女に答えず、トキはふいっと顔を逸らしながらその場に立ち上がった。機嫌はまだ完全に直ったわけでは無さそうだが、拗ねていても優しいところは変わらない。
怪我が癒えたロビンも同じく立ち上がり、「よーし、行くか!」と笑った。はい、と頷いてセシリアもまた腰を上げたが、不意に「ちょっと待て」とトキが口を挟む。
「……ん? どうした?」
「……今、カーネリアンの中は物騒なんだろ? そんな所に、その犬連れて入って大丈夫か?」
「……!」
彼の発言に、セシリアの表情が分かりやすく曇った。まさか置いて行こうと言うのでは、と不安げに瞳を揺らした彼女の視線を察したのかトキは嘆息し、「……置いて行くわけじゃないから安心しろ」と付け加える。
ロビンは苦い表情で暫く考え込み、きょとんと首を傾げているアデルを見つめた。
「……確かに、ちょっと微妙だな。図体がデカすぎて、どうやっても目立っちまうし……」
「……アゥン?」
「……よし、こういう時はコレだ!」
ロビンは声を張り上げると、突如自信の持っていた荷袋の中に手を突っ込み、中を探って何かを取り出す。彼が取り出したのは、不思議な紋様の入った黒いリボンだった。
「……? これは?」
「俺のダチが作った魔法具なんだけど、“変化属性”の魔法が付与されててさ。例えばこれでセシリアを結ぶと──」
徐ろに伸びたロビンの手は不意にセシリアの手を取り、細い腕に黒いリボンを巻き付ける。するとその瞬間、淡い光がセシリアを包んで──
──ぼふんっ!
「──!?」
瞬く間に、彼女は煙に包まれた。
けほ、けほ、と軽く咳き込んでいるセシリアの周りから、徐々に煙が引いていく。そしてようやく煙が消えた頃、顕になったセシリアの姿にトキは目を見開いていた。──否、正確には、彼女の胸に。
「……っ……」
「……? な、何……? なんだか、体が重たいような……」
「……あ、アンタ……胸……」
「……え?」
目を見開いたまま、トキがセシリアを指差す。胸? と首を傾げつつ、セシリアはちらりと視線を落とした。
するとそこにあったのは、普段では考えられないほどに大きく膨らんでいる──豊満な自身の胸。
「……!!? き、きゃあああ!!?」
「じゃーん! こんな風に、使用者の好きに見た目を変える事が出来るという、夢のような魔法具だ! ちなみに今回は、普段控えめサイズなセシリアのおっぱいを俺好みの爆乳おっぱいに大変身させてみましグブェッ!!」
ばっちーん!! とセシリア渾身の平手打ちが上機嫌なロビンの頬を引っぱたいた。「バカぁ!! えっち!!」と胸を押さえながら涙目で絶叫するセシリアに苦笑しつつ、「あ、悪い悪い」と平謝りするロビンだったが、視線は彼女の豊満な胸元に釘付けな上に鼻の下はきっちりと伸び切っている。
一方、トキは珍しくロビンの行動を咎める事無く、巨乳化したセシリアをまじまじと見つめていた。
元々女の胸のサイズにこだわりなど無かった彼は、今までセシリアの胸の大きさなど大して気にした事もなかったが──なるほど、悪くない。豊満に実ったその胸元に、トキは「意外といいな……」などと呟きつつ、頬を腫らしたロビンの肩をガシリと掴んだ。
「……おい、たまには良い仕事するじゃねーかクソゴリラ。アレって触り心地とか感度もリアルなのか?」
「当たり前だろ、質感も重量感も本物と同じだぜ。……あれ、何? もしかしてトキも巨乳派?」
「……いや、形と感度が良けりゃ別に大きさなんか気にしねーが……まあ無いよりはあった方が良いだろ」
「あ〜美乳派か〜。なるほどな! 俺は逆に、大きければ別に何でもい……」
──ばちん、ばっちーーん!!!
下世話な談議に花を咲かせる男二人の頬に、セシリアの重たい平手打ちが一発ずつ放たれる。彼女の地雷を見事に踏み抜いてしまったのだと彼らが気が付いた頃には、もう既に手遅れ。
怒り心頭で睨み付ける聖女様の視線に、頬を押さえた男二人はぎくりとたじろぎ、嫌な汗を滲ませながら頬を引き攣らせるばかりなのであった。
.
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