第65話 ずっと私の家族(※2019/09/20内容修正)


 1




 静かな空間に、穏やかな寝息がすうすうと繰り返されている。腕に感じる重みと、腫れぼったい瞼の感覚。久しぶりにあんなに泣いてしまったからだろうか、薄く開いた目が随分と重たく感じた。


 今は夜中か、それとも朝方か。いずれにせよ、腕の中で眠るセシリアが起きる気配はない。

 無理をさせた自覚はある。無理矢理衣服を裂いて、噛み付いて、首を締め付けた。更にあの後、やり場の無い感情に心を囚われてしまったトキは、穢れ一つ知らなかったはずの彼女の体を強引に貫いて──全て、吐き出してしまったのだ。


 それでも何も咎める事無く、己の全てを受け入れてくれた彼女が、酷く愛おしくて──ただ、哀しい。



「……」



 首元を囲う“死”の十字架が、彼女がこの世の者では無いことをありありと証明している。起こさぬよう慎重に指先を伸ばし、そろりと掻き分けた髪。逆様の十字架が並ぶ白いうなじに残された、赤黒い“奴隷印”に──トキは眉を顰めた。


 ……ああ、やっぱり、見なきゃ良かった。



(……誰かに飼われてたのか、アンタ……)



 彼女が“アルタナ”だと知った瞬間、トキは真っ先にこの“奴隷”の烙印があるのではないかと勘繰った。──“アルタナ”はその回復能力の高さ故に、奴隷として売りに出される事が多いと聞いた事があったからだ。


 手酷く扱った所で、“アルタナ”であれば勝手に傷は完治する。「もう死んでいるのだから」と、人権も存在しない。奴隷としてはうってつけだ。



(……多分、コイツの過去はろくなもんじゃない)



 ディラシナで出会った日、記憶が無いんです、と悲しげに告げたセシリアの顔を思い出す。記憶を取り戻すために旅をしている、と言ったその顔も。

 今思い返せば、とんでもない事を言っていると思った。



(奴隷だった頃の、ろくでもない記憶を取り戻したいって……言ってたって事かよ……)



 眉根を寄せ、表情を歪めて、トキは華奢なセシリアの身体を抱き寄せる。「ん……」とくぐもった声を発した彼女に起こしただろうかと危ぶんだが、まだセシリアは夢旅を続けているらしかった。


 腕の中にあるのは、あどけない寝顔。

 もうすぐ消えてしまう、温もり。


 ……ダメだ、また目の奥が熱くなる。



「……消えるなよ……」



 掠れる声で呟き、忌々しい刻印の残る首元にそっと顔を埋める。


 ──家族も、故郷も失って、ろくでも無い生活を繰り返して。復讐に囚われることでしか、自分を保てなかった。そんな中、やっと見つけた光だと思えたのに。彼女の言う、「王子様」にだって、なろうとしたのに。



(ああ、ほら見ろ……)



 ──人なんか信じたって、やっぱり、ろくなことにならない。


 トキは眉根を寄せ、腕の中で眠る幻を抱きしめて、こぼれ落ちそうな群青を飲み込みながら再び目を閉じた。




 2




 ──結局、朝日が昇っても、セシリアは深い眠りの中だった。


 普段は神への祈りを捧げるために朝早く起床する彼女である。それがこうして目を覚まさないほどに、昨晩は無理をさせてしまったらしい。

 トキは彼女を起こさぬようベッドの中から抜け出し、冷たい朝の空気からその白い肌を守るように毛布を掛けた。柔い髪を指に通し、壊れ物を扱うように慎重に前髪を搔き分ける。そしてそっと、その額に“魔法口付け”を落として、トキは立ち上がった。


 昨晩脱ぎ捨てた衣服とストールを拾い、袖を通して足音も立てずに扉へと向かう。音を立てぬよう静かに扉を開き、風が通った気配さえ気付かせる事なく、密やかに部屋を出て行った。



「……」



 燭台の火が揺れる薄暗い廊下には、痛いほどの沈黙が流れている。トキは腫れた目元を押さえ、「あいつが起きるまでに冷やしとかねーとな……」などと考えて嘆息した。いつまでも目を腫らしたままでは格好がつかない。


 盗人であるさがなのか、セシリアの部屋から離れても彼の足音が廊下に響くことはなかった。気配を殺したまま淡々と進み、やがて医療室に辿り着く──という所で、ふと、トキの目が一つの人影を捉えて立ち止まる。



「……!」



 赤茶けた短い髪、白いロングコート。通路の壁に背を凭れて立っている青年──マルクと目が合い、トキは眉を顰めた。



「……」


「……」


「……、殴らないんだな」



 しばらく続いた沈黙を打ち破ったのはマルクの方で。ぼそりと放たれた彼の言葉に、トキは目を逸らしながら答える。



「……昨日までは、殴り殺そうと思ってたんだがな」


「……」


「……けどもう、今はそんな気も起きない」



 トキは呟き、マルクとは少し離れた壁に背を付いて凭れた。その目は自身の足元を捉え、重々しく口が開く。



「……アンタの気持ちが、少しだけ……分かっちまったからな」


「……」


「俺が、最初からアイツの真実を知っていたとしたら……、アンタの行動は、止められなかったかもしれない」



 ──もし、あのままセシリアを眠らせておけば。


 少なくとも彼女の命は消える事なく、生きたまま、この世に留まり続けるのだ。泣きも怒りも笑いもしない、硝子の棺の中で眠る、ただの人形となって。


 それが良いとは、決して思わない。けれど、それでも良いから、どうか消えないで欲しいと──ほんの少しだけ、そう思ってしまった。そして気付いてしまったのだ。


 おそらくマルクも、似たような気持ちだったのだろうと。



「……“アルタナ”の寿命は、この世に呼び戻されてから約十年だと言われている」



 不意にマルクが口を開き、トキは地面を見つめたまま黙ってそれに耳を傾けた。



「……セシリアがこの教会に来たのが五年前……。いつ彼女の魂が呼び戻されたのかは分からないが、以前に比べて傷の回復速度がかなり低下している。……おそらく、セシリアの体はあと一年もたない」


「……」


「神の道理に背いた“アルタナ”は、死後も天には昇れず、暗く孤独な闇の中に落とされ……“無”の世界を永久に彷徨さまよい、生まれ変わる事もないと言われている」



 マルクは虚空を見つめていた視線を落とし、手に持っていた黒い本をそっと持ち上げた。“逆さ十字”の紋章が刻まれたその黒魔術書は、よく見れば表紙が擦り切れ、何度も読み返したのだろうという事が見て取れる。


 彼は、この魔術書を使ってセシリアに禁術をかけようとした訳では無い。──彼女にかけられた禁術を解く方法を、何年も探し続けていたのだ。



「……俺は、そんな寂しい場所に……セシリアを独りにしたくなかった……。あんな方法で、どれだけセシリアを傷付ける事になったとしても……俺は彼女を守りたかった」


「……」


「……貴様は、きっと後悔する。セシリアを眠らせておかなかった事を。……彼女を、いずれ孤独の闇に突き落としてしまう事をな」



 マルクはそれだけ告げると、壁に凭れていた体を離してトキの横を通り抜けた。コツコツと響く足音が遠ざかり、やがて冷たい沈黙が戻って来る。


 トキは壁に凭れたまま、ずるりと力無くその場にしゃがみ込んだ。自身の前髪を徐ろに握り締め、俯く。



(……俺は、選択を間違えたのか……?)



 そんな思いに苛まれて、トキは苦く表情を歪めた。死んだ人間がどこに行くのかなど、彼は知らない。しかしそう遠くない未来、セシリアは消えてしまう。彼女の消えた後の行く末が、暗い闇の底だなんて──考えたくもなかった。



(……今からでも、アイツを眠らせちまえば……)



 そんな考えすら過ぎってしまい、トキはかぶりを振る。それではマルクと同じだ。彼女を傷付ける事はしたくない。



(……無いのか……? アイツを助ける方法なんて、どこにも……。俺はこのまま、アイツが消えるかもしれない明日を、黙って待つしかないのかよ……)



 ぐしゃりと、前髪を握り締めた手に力が籠る。歯痒さに唇を噛み、どう処理すればいいのかも分からないやるせなさが胸を締め付けた。


 そんなトキの耳にふと、ぺたぺたと裸足で通路を駆け抜けるような、軽い足音が入り込んで。彼はハッと顔を上げ、通路の奥に目を向ける。


 そして目が合ったのは、潤んでぐらつく翡翠の瞳。



「……っ、」


「……セシリア……?」



 息を切らして現れたのは、不安げに瞳を揺らしたセシリアだった。薄いワンピース一枚でその場に立ち尽くし、彼女は黙ってトキを見つめていて。


 トキは眉を顰め、薄着のまま立ち尽くしているセシリアに戸惑いつつも口を開く。



「……お、おい、どうした? アンタ、身体は平気──」



 なのか、と言い切る前に、突如駆け出したセシリアがトキの胸に飛び込んで来た事で、彼はぐっと言葉を飲み込んだ。ぎゅう、とトキの胸に顔を埋めて震えるセシリアに、トキは困惑する。



「……っ、な、何……」


「……った……」


「……は?」


「……置いて、行かれたのかと……思った……っ」



 縋り付く腕に力を篭め、セシリアはトキの胸に顔を埋める。泣いているのか、彼女の声は少し掠れていた。



「……私がっ……“アルタナ”だって、言ったから……っ、私と居るの、嫌になって……トキさんが、居なくなっちゃったって……思った……っ」



 地面にぺたりと座り込んで、セシリアは途切れ途切れに涙声を紡いでいる。トキは一瞬息を飲んで黙り込んだが──ややあって震えている彼女の背中に腕を回し、ぽんぽんと不器用にその後頭部を撫でた。


 部屋に一人で置いて来てしまったからだろう、目が覚めて居なくなっていたトキを探して慌ただしく部屋を出て来たようだ。服はさすがに着たようだが、足元は裸足のままである。


 トキは小さく息を吐き、震える彼女の耳元に自身の唇を寄せた。



「……嫌になんかなってねーよ……置いて行くわけねーだろ……」


「……っ、う、ぅ……」


「アンタこそ、嫌になったんじゃねーのか……俺の事……」



 怯える彼女の身体を組み敷いて、無理矢理傷付けた昨晩の事を思い返す。自分でも最低だと思う程度には酷い事をした自覚がある。いくら優しいセシリアが相手とは言えど、“もう顔を見たくもない”と拒絶されてしまっても仕方がないと覚悟していた。


 けれど腕の中の彼女は、小さく首を振ってトキの胸に身を寄せるばかりで。



「……トキさんのこと、嫌いになんか……っなれるわけ、ないです……っ」



 震える声で、酷く自惚れてしまいそうな、そんな言葉を吐くものだから。トキは眉根を寄せ、胸に満ちる切なさを誤魔化すように唇を噛み、セシリアを強く抱き締めた。


 腕の中で泣きじゃくりながら、「……私のこと、嫌いになっちゃいました……?」とか細い声で尋ねるセシリアの髪に、トキは眉を顰めて頬を寄せる。



「……ならねえよ……」


「……っ」


「……俺だって、アンタを嫌いになれねえんだよ……もう……」



 彼女を嫌いになる事が出来れば、どんなに楽だったんだろうか。少なくともきっと、こんなに胸が痛くて張り裂けるような思いはしなくて済んだ。


 居なくなってしまうのが怖いと、気付く事もなかった。



「……トキさん……」



 セシリアは目尻に涙を浮かべたまま、おずおずと顔を上げる。トキは黙ってその声に耳を傾けた。



「……まだ……私と……」


「……」


「旅を、続けてくれますか……?」



 至近距離で見つめる、こぼれ落ちそうな翡翠の瞳。トキは彼女の目尻に浮かんでいる涙を指で掬い取って、切なげに頬を緩めた。



「……俺が嫌がっても、ついてくるんだろ?」


「……!」


「だったらついて来いよ、最後まで」



 トキはセシリアの手を握り、そっと指を絡める。遠くへ離れてしまわないように、強く力を込めて。



「……途中で消えたら、許さねえからな」



 優しい声で告げれば、セシリアはまた泣き出しそうに表情を歪めた。しかしすぐに口角を上げて微笑み、深く頷いてトキの手を握り返す。



「……はい……っ、どこまでも、ついて行きます……! 貴方を、救うために」



 涙を浮かべて微笑んだ彼女に、トキの口元も切なげな笑みを描いた。やがて徐ろに空いた手をその頬に添え、彼はゆっくりと彼女の唇に顔を近付ける。


 徐々に迫る彼の口付けを受け入れようと、セシリアも薄く微笑んだまま、涙の溜まる翡翠の瞳を静かに閉じ──



「──ウォッホン!!」



 ──たのだが。


 突如大きな咳払いが近くで吐きこぼされ、セシリアの肩がビクーッ! と跳ね上がる。反射的にトキの胸を押し返してしまい、不服げに眉を顰めたトキと目が合ったのも束の間、彼に構わず勢い良く後方を振り返った。


 するとそこには、気まずそうに二人から目を逸らし、頬を赤らめて立ち尽くしているジーンの姿。



「……お、お取り込みのところ……すみません……」


「……っ……!!」



 見られた、と理解した瞬間、セシリアは顔を真っ赤に染め上げて手で口元を覆い隠した。トキは不服げに舌を打ち、彼を睨む。



「……チッ……、コソコソと覗き見か? 良い趣味してるじゃないか騎士様、この変態」


「ち、違うわァ!! 俺はただ、貴様とセシリア様の旅に必要な物資を揃えたから報告しようと……! そしたらこんなっ……通路の真ん中でっ……!!」



 耐性が無いのか、ジーンもセシリアに負けず劣らずの勢いで急速に頬を紅潮させてしまった。「こ、この破廉恥な賊め!! 恥を知れ!!」と喚いているジーンの罵声はさておき、トキは彼の言葉に目を細める。



「……俺達の旅の物資を揃えたって?」



 訝しげに問えば、ジーンは火照った頬を隠すように口元を手で覆いながら頷いた。



「……シスターの計らいだ。どうせ止めても勝手に出て行くだろうから、せめて旅に必要な物資を最低限用意してやれと」


「……」


「……この村の市場では、セシリア様は買い物が出来んからな……」



 苦く続けられたジーンの言葉に、セシリアの表情が曇る。──おそらく彼女が“アルタナ”であるために、宗教観の強いこの村では肩身の狭い思いをして過ごしていたのだろうという事はトキでも察しがついた。


 一瞬表情に影を落としたセシリアだったが、それは本当に一瞬で。すぐさまいつもの笑顔を浮かべ、彼女は顔を上げる。



「……ありがとう、ジーン。色々任せちゃったみたいね」


「……セシリア様……」


「トキさんとアデルと一緒に、今日ここを発つわ。……どうかこれからも、元気でいてね」


「……っ」



 微笑んだセシリアに、ジーンはぐらりと瞳を揺らがせて俯いた。黙って眺めていたトキも眉根を寄せ、そっと彼から視線を逸らす。──彼らは分かっているのだろう。旅立ってしまえばもう二度と、セシリアに会う事はないのだという事を。



(……俺は……)



 ──いつの日か、彼女との別れが来た時に……、こうして、その現実を受け入れる事が出来るのだろうか。


 暫し考えたが、そんな日を想像する気にもなれず。

 彼は目を逸らしたまま、くしゃりと前髪を握り締めて、考えるのをやめたのだった。




 3




 サラサラと、海から吹き抜ける潮風が二人と一匹の肌を撫でる。ジーンの言っていた通りに最低限の物資を得た二人は、荷袋を背負い、教会の門の前に並ぶ面々と向かい合っていた。



「……本当に、行ってしまうのですね。セシリア様」


「……はい、私は行きます。ずっとトキさんの看病をしてくれてありがとうね、ハンナ」


「……いえ。わたくしは私の務めを果たしただけでございます。セシリア様もトキ様も、どうかお気をつけて」



 相変わらず表情筋の動かないハンナの言葉にセシリアは微笑み、トキは外方そっぽを向いてしまった。アデルは久しぶりに外に出れた事が嬉しいのか、ふりふりと尻尾を振って蝶々を追い掛けている。

 ハンナから少し離れた後方で、やはりジーンは目元を押さえて震えていた。それを隣で見守るガノンも、分かりやすく目を潤ませているのが分かる。そんな二人に、ハンナがそっと近寄ってハンカチを手渡していた。



「……セシリア」



 ふと、聞き慣れた声が呼びかける。顔を向ければ、切なげに眉を顰めたマルクがセシリアを見つめていた。



「……マルク」


「……俺、ずっと、お前を苦しめていたよな」



 ぽつりと呟き、マルクは視線を落とす。セシリアは答えず、彼からそっと目を逸らした。



「……俺、これから先、何があっても……教会のみんなを守るよ。セシリアが残して行く大事な物は、俺が全部守る」


「……」


「たとえお前が、どんなに遠くに行ってしまっても……」



 マルクはレザーの手袋に覆われたセシリアの手を取り、強く握った。これが最後だと己に言い聞かせて、彼は告げる。



「……俺はずっと、お前を愛してるから」



 目と目が合って、マルクは笑った。出会ったあの日のように澄んだ、青い瞳をやんわりと細めて。


 セシリアは暫し黙り込み、彼の目を見つめていた。しかしややあって、彼女もまた柔和に目尻を緩める。



「……ありがとう、マルク」


「……」


「ずっと、元気でね……」



 セシリアはマルクの手を取り、その手をそっと頬に寄せた。二度と触れる事はないと思っていた彼女の温もりに、マルクは表情を歪める。震えそうになる唇を噛み締め、彼は俯いた。


 ちょうどそんなタイミングで、彼の背後から「セシリア、」と澄んだ声が届く。



「……! シスター」


「お別れの挨拶は済んだ?」



 白い修道服を風に揺らし、柔らかな微笑みを浮かべながら近寄るのは、シスター・ドロシー。マルクは即座にセシリアから離れ、ドロシーにぺこりと会釈して後退した。



「……もう行ってしまうのね、セシリア。寂しくなるわ」


「……はい。今まで、本当にお世話になりました」


「気をつけて行くのですよ。貴女に大地の神のご加護があるよう、私たちはこの場所から祈ります」



 ドロシーは両手を組み、セシリアに優しく微笑みかける。──しかしふと、その時何かに気が付いたのか、ドロシーの表情からはたちまち笑顔が消えてしまった。



「……あら? セシリア」


「……?」


「──貴女、首に下げていた宝石はどこにやったの?」



 ──宝石。その言葉に、セシリアはぎくりと身を強張らせた。それが数ヶ月前に魔女に取られてしまった“女神の涙”の事を示しているのは明白で、彼女は居心地悪そうに視線を泳がせる。



「……あ……、そ、それが……、旅の途中で盗まれてしまいまして……。今は、持っていません……」


「え? 盗まれた……?」


「……は、はい……」



 気まずそうに俯くセシリアに、ドロシーは目を見開いて一瞬固まる。黙り込む彼女の様子に、セシリアは恐る恐ると顔を上げた。



「……? シスター?」


「……セシリア……貴女……」


「……?」


「あの宝石がなくても、もう、平気なの……?」



 震える声がそう尋ねる。セシリアはぱちりと瞬き、困惑したように視線を泳がせながらもおずおずと頷いた。



「……? は、はい……、大丈夫……です……」


「……」



 セシリアの返答に、ドロシーは再び硬直してしまう。──彼女の脳裏に浮かんでいたのは、海辺に打ち上げられ、死の淵を彷徨っていた、あの日の痩せ細った少女の姿だった。青い宝石を握り締め、“死”の十字架をその身に刻んでいた──奇跡的に助かった、小さな命。


 教会に連れ帰った後に“セシリア”と名付けられ、物音に怯えて言葉も話せなかった少女は、いつもあの“青い宝石”を握り締めていた。決して手放さず、愛おしげに、縋るように。何をする時も、あの宝石を手の中に収めていた。


 あの宝石がなければ、セシリアはどこへも行けなかった。何も出来なかった。

 宝石と共にいなければ生きて行けないのだと──ずっと、そう思っていたのに。



「……そう……、なの……」



 消え去りそうなドロシーの声がぼそりと呟き、セシリアは不思議そうに瞳を瞬く。ドロシーは俯いていた顔を上げ、彼女へと手を伸ばした。



「あなた、もう……あの宝石がなくても、一人で歩けるの……」



 ドロシーの唇からこぼれ落ちた言葉が、徐々に掠れていく。彼女はセシリアの頬に手を添え、以前よりも幾分か強くなったような気さえする、凛としたその瞳を見つめた。



「……ああ……そう……そうなのね……。私たち、ずっと……貴女の時間を……成長を、止める事ばかり考えて来たけど……」


「……」


「いつのまにか、こんなに……大きくなっていたのね……っ」



 痩せ細り、言葉も話せず、怯えてばかりいた少女。そんな頼りない少女が、いつの間にかこんなにも立派な大人になっていたのだと──その時初めてドロシーは気が付いた。


 愛おしげに細められた目尻から涙が伝い、頬へ流れていく。ドロシーは優しくセシリアを抱き寄せ、その背に腕を回した。



「……ごめんなさい。ごめんなさいね、セシリア……。ずっと、貴女の母親になったようなつもりでいたけど……私たち何一つ、貴女の事を見れてなかった……」


「……っ」


「こんなダメな母親を、どうか許してちょうだい……。貴女の未来を奪おうとした事、どうか許して……」



 頬を寄せ、静かに涙を落としながら震えるドロシーを、セシリアはきゅっと唇を噛み締めて抱き返す。


 ドロシーも、マルクも、修道院の人々も……きっと、やり方は間違っていた。しかし、少しいびつではあったけれど──きっとずっと自分は愛されていたのだと、セシリアには分かる。



「……っ、シスター……私……」


「……」


「辛い事、たくさんあったけど……ここで過ごせて、よかった……」



 ぽつりと、セシリアは声を紡ぐ。こぼれ落ちそうな涙を拭い、顔を上げ、ドロシーと同じように肩を震わせている修道院の面々を見つめた。



「たとえ、私が……この世界から消えてしまっても……」



 セシリアはそっとドロシーから離れ、悲痛に表情を歪める彼女に向かって精一杯笑う。



「こんなに素敵な家族が私を愛してくれているんだ、って思えたら……きっとどんなに暗い場所にいても、寂しくないと思うの」


「……っ」


「だから笑って、お母様」



 セシリアはドロシーの頬を両手で包み込み、生まれて初めての“母”という名を口にして微笑んだ。──物音を恐れ、青い宝石を握り締めて震えていた──あの日の頼りない少女の姿は、もうそこにはない。


 一人の立派な“女性”となったセシリアは、女神のように慈愛に満ちた翡翠の瞳をやんわりと細め、ついに親の手の中から離れていく。



「……私に、“セシリア”の人生をくれて……ありがとう」



 ──私の家族になってくれて、本当にありがとう。


 それだけを伝えて、セシリアはトキの元へと身を翻した。目尻からこぼれそうになる涙を指で拭ってトキに駆け寄り、そして彼女はもう一度、教会の門前で涙ぐんでいる愛おしい家族を振り返る。


 きっともう、二度と会う事はない。そんな彼らに、セシリアはやはり、精一杯笑った。



「……行って来ます」



 今度はちゃんと、一言告げてから。


 セシリアは大切な家族に背を向け、トキとアデルと共に歩き始める。いざ旅立つとなるとまた涙が出そうになったが、なんとか流れる前に拭い取った。


 ──ちょうどそんなタイミングで、歩む彼らを見送るように、ゴーン、ゴーン、と教会の鐘が鳴り響く。光へ導く鐘の音。いってらっしゃいと、まるで囁きかけるように。



(……ありがとう。さようなら)



 海から流れる潮風に背中を押されたセシリアは、愛する家族と偉大な魔女に見送られ、海辺の村・セシルグレイスを後にした。


 ──迫り来る“セシリア”の終わりへと、また一歩、その階段を踏み締めて。




 .

〈海辺の村と彼女の秘密……完〉

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