第57話 愛のまやかし


 1




『ねえ、マルク聞いて。私ね、文字が読めるようになったの』



 二人が出会って暫く経った頃、随分と流暢に会話が出来るようになったセシリアは嬉しそうにマルクに報告した。その手に持っているのは、生成きなりの表紙に白い果実が描かれた童話の本。呪いの果実を口にした王女が、ひつぎの中で深い眠りにつき、最後は王子の口付けで目を覚ます──よくあるお伽話の本である。



『……“ローゼリアの王女”か。すごいなセシリア、もう文字が読めるようになったのか』



 やんわりと微笑んで答えれば、セシリアはやはり嬉しそうに笑った。

 彼女が言葉や文字を覚えるのは思ったよりも早かった。おそらく記憶が無くなる以前にも、ある程度の言葉は話せていたのだろう。ほんの数ヶ月で辿々しかった言葉は流暢になり、マルクの名前もしっかりと呼べるようになった。


 にこにこと微笑むセシリアの頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに身をよじって手元の本に視線を落とす。



『ふふ、あのね、シスターに教えてもらってたくさん読んだの。物語って素敵ね。私もいつか、素敵な王子様にキスしてもらえるかなあ……』


『……俺は、それは反対だけど』


『え? どうして?』


『だって、王子様にキスしてもらうってことは、セシリアが一度ひつぎの中で眠らないといけないだろ?』



 マルクは不服げに眉根を寄せて、セシリアの手を取った。柔い手のひらを握り、彼は告げる。



『……俺は、セシリアが目を覚まさないのは、嫌だな……』


『マルク……』



 セシリアはぱちりと瞬き、視線を落としてしまった彼の顔を覗き込んだ。優しく細められる翡翠の瞳に、マルクの胸がどきりと高鳴る。



『大丈夫だよ、マルク』


『……え?』


『だって、マルクは聖騎士様になるんでしょう? だったら、きっと私のことを眠らせないように、王子様が来るまでずっとマルクが守ってくれるもの』



 ね? と首を傾げる彼女から、マルクは目を離せなかった。顎の下まで伸びたセシリアの金の髪がさらさらと揺れる。

 マルクは言いかけた言葉をぐっと飲み込み、彼女に向かって優しく微笑みを返した。



『……うん。俺が、ずっと守るよ……セシリア』



 ──例え、ずっと君の王子になれなくても。



 そう思っていた。が来るまでは。

 セシリアのことを“呪いの果実”から守り、“棺”の中に入れないようにと。彼女が永遠に眠ってしまうような事がないようにと──そう思っていたんだ。


 それが、今ではどうだ。



(……俺自身が、こんな選択をする事になるとはな)



 昼間だというのに光さえ届かない、閉め切られた暗い部屋の中。ランタンに灯る小さな火が揺れ、マルクの手元の真っ赤な小瓶を照らしている。

 マルクは本の積み上がった卓上にそれを置き、大きな蕾を付けた白い花の茎を、血の溜められた小瓶にゆっくりと差し込んだ。



(……だが、全ては彼女を守るためだ)



 セシリアの流した血の中に差し込まれた茎は、みるみると彼女の血を吸い上げ、白かった蕾の色を赤く染め上げていく。やがて完全な血の色に染まってしまったその花は、閉じていた花弁をゆっくりと広げ、真っ赤な美しい花を咲かせた。


 ──何だっていい。自分が彼女にとって、悪魔のような騎士であったとしても。彼女を守るためなら……彼女の騎士でいれるなら、何だっていいんだ。



「……俺は、どんな手を使ってでも──」



 ──彼女と、共にいる道を選ぶ。


 マルクは血を吸って咲いた花を掴み、徐ろに身を翻して大きな“箱”を覆っている白い布を取り去った。そこから現れたのは、透明な硝子で作られた、空っぽの


 彼は暗い瞳でそこに刻まれた名前を見下ろし、ゆっくりと口元に笑みを描きながら、赤く染まった花を棺の中に差し込んだ。




 2




 ふわふわと、肌に伝わる暖かな温度が心地いい。すうすうと静かに繰り返す、穏やかな寝息の音も。

 セシリアはそっと目を開け、普段は獲物を狩る獣ように鋭いその瞳を瞼の裏に隠して眠っているトキの端正な顔を見つめる。


 いつもより少し長めの“クスリ”のやり取りを終わらせた二人は、あのままベッドの上でどちらからともなく眠ってしまった。先に目を覚ましたのはセシリアの方で、自分を抱き寄せたまま眠っているトキに最初こそ戸惑ったものの、なんだかこのまますぐに起こしてしまうのも勿体無い気がして──結局数分もの間、彼女はこうして彼の温度の中に収まり続けている。



(こんなに起きないのも、珍しい……)



 普段は足音一つ、風の音一つでもすぐに意識が覚醒する彼だ。それでも出会った当初よりは随分と睡眠が深くなったと思うが、ここまで熟睡していることは滅多にない。

 だがよく考えてみれば、この村に辿り着く前も体調が優れなかったらしく、セシリアが起こしても彼はなかなか起きてくれなかった。平気そうな顔をしていても、実は無理をしていたのかもしれない。



(……体調、大丈夫かしら……)



 顔を上げ、額同士をこつりと合わせる。じんわりと体温が伝わるが、どうやら熱は無さそうで彼女は小さく安堵の息をこぼした。マルクが「薬を投与した」と言っていた事を思い出し、ひとまず悪化はしていなさそうだと胸を撫で下ろす。



「……トキさん」



 小さな声で、囁くように呼び掛ける。しかし彼の瞼は閉じられたままで、穏やかな寝息が返ってくるばかり。



「トキさん、起きて」


「……」


「……起きないんですか?」


「……」


「……ふふ。可愛い……」



 静かに眠るあどけない表情についつい頬が緩んでしまう。いつも不機嫌そうな皺を刻んでいる眉間にも、今は一切の皺も刻まれていない。ただすやすやと眠っている彼は、五歳も年上のはずなのにどこか幼い少年のようで。


 そんな彼が、心底愛おしく思えた。決して、誰かを愛おしく思ってはいけないのに。


 セシリアは切なげに瞳を伏せ、やがて彼の耳元に唇を寄せると唇を薄く開いた。眠る彼を起こさぬよう、小さな鈴の音が優しく声を紡ぐ。



「……おやすみなさい、トキさん。いい夢を」



 少し名残惜しく思いながらもセシリアは囁き、骨張った彼の頬に唇を押し付けた。一瞬だけ触れたそれをゆっくりと離した後、セシリアは彼に気付かれぬようひっそりと、その暖かな腕の中から抜け出す。


 やはり彼は深い眠りの中にいるのか、未だに起きる様子はない。セシリアはそっと彼に微笑み、足音を立てぬよう静かに歩いて、穏やかな寝息が繰り返される医療室を後にした。


 ──パタン。


 静かに扉を閉め、彼女は薄暗い通路を歩き始める。しかし不意に、そんな彼女を何者かが呼び止めた。



「──随分と長いお見舞いだったわねえ、セシリア」


「……!」



 は、と目を見張り、セシリアは背後を振り返る。薄暗い通路の奥で彼女に穏やかな微笑みを向けていたのは──シスター・ドロシーだった。



「……し、シスター……」


「ふふ、ごめんなさいね。ジーンとハンナが貴女に部屋を追い出されたって言うものだから……少し様子を見に来たの」


「……」


「それにしても、彼と随分“仲良く”したのね? セシリア」


「……!」



 ドロシーの視線の先に目を向け、セシリアはぎくりと身を強張らせた。自身の鎖骨付近に咲いた赤紫色の痕跡──彼女の言葉はそれの事を示しているのだと気が付き、セシリアは慌てて彼の残した痕を手で覆い隠す。ドロシーはただ穏やかに微笑み、羞恥心によって頬を赤く染めるセシリアを見つめた。



「セシリア」


「……」


「貴女、自分が“”なのか忘れてしまったの?」



 ドロシーの言葉にセシリアはびくりと肩を震わせ、黙ってその場に俯く。ドロシーは彼女に近付き、目の前まで歩み寄るとその頬を優しく撫でた。


 燭台に灯る蝋燭の火が揺れる。

 暗がりを照らす仄かな明かりの中で微笑むドロシーの瞳を、まともに見ることが出来ない。



「可愛いセシリア。よくお聞きなさい」


「……」


「貴女は人を愛してはいけないの。誰かの“特別”になってはいけないのよ。誰かを愛せば、誰かに愛されれば……貴女は必ず、その人を不幸にする。愛した者を傷付けてしまうと──分かっているでしょう?」



 ドロシーの言葉が、セシリアの胸を容赦なく締め付ける。彼女の脳裏に浮かんだのは、やはりトキの顔だった。


 いつもの不機嫌そうな顔、時折見せる寂しそうな顔、子供のような寝顔、小さく微笑む、優しい顔──すべてが、トキの物だった。


 俯いて何も答えない彼女に、ドロシーは更に言葉を続ける。



「……セシリア。私だって、本当はこんな事言いたくないわ。でもね、意地悪で貴女にこう言っているわけじゃないのよ」


「……」


「マルクを見ていた貴女なら、よく分かるでしょう」



 ドロシーは瞳を伏せ、言い聞かせるように声を紡ぐ。マルク、という名前にセシリアは俯いたまま視線を泳がせた。



「マルクは、貴女の事を誰よりも愛していた。……だから、ああなってしまったのよ」


「……」


「……あなたの連れて来た彼が、マルクのようになっても良いというの?」



 ドロシーの言葉が、セシリアの心にずしりと重くのし掛かってくる。


 ──三年前、十六歳の誕生日。自分が“何”なのかを知った日。

 あの日を境に、マルクは変わってしまった。それまでの優しく、誠実で、ただ純粋にセシリアを想っていただけの彼が、まるで嘘だったかのように歪んでしまったのだ。


 か弱き人々を守るため、セシリアを守るためにと鍛錬を重ね、彼は教会を守る聖騎士として剣を振るっていたはずだった。ところがいつしか、彼は部屋に鍵を掛けて篭りがちになり、朝の祈りや鍛錬以外では滅多に外に出なくなって。──かと思えば、夜中にふらりと部屋を出て、一人でどこかへと消えてしまう。


 そんな日々を繰り返す内に月日は流れ、セシリアが十八歳の誕生日を迎えた頃。彼は、とうとう彼女に言い放ったのだ。か弱き人々を、セシリアを守るためにと振るっていたはずの剣を、セシリアに向けて、恐ろしい瞳で──『お前の血が必要だ』、と。



「……嫌です……」



 セシリアは震える声を絞り出した。



「私は……トキさんがあんな風になってしまうのは、嫌です……」


「……」


「……私……彼を、傷付けたくない……っ」



 セシリアは両手で顔を覆い、溢れ出そうになる涙が流れないよう白い手のひらで拭い取る。小さく嗚咽をこぼし始めたセシリアの頭をゆっくりと撫で、ドロシーは彼女を優しく抱き締めた。



「……そうね。それでいいのよ、セシリア……彼を傷付けたくないのね。……なら、後は分かるでしょう?」


「……っ」


「セシリア、貴女──」



 ドロシーは優しくセシリアに頬を寄せ、嗚咽を繰り返す彼女の耳に問い掛ける。



「──トキさんの事を、愛しているの?」



 その問いに対する、セシリアの答えは一つしか無かった。



「……私は、トキさんの事を──」




 3




 ──珍しく、優しい夢を見た。


 懐かしい風の中、白い花と紫の小花が揺れる丘の上。隣には微笑むジルと、父と母が座っている。

 ジルが手作りのサンドイッチを「トキの分だよ」と差し出して、父は風に流れる雲を指差しながら何やら楽しそうに語っていて、母は解れてしまった父の衣服を縫い直しているのか「動くな!」と父に怒っていた。


 トキはジルから受け取ったサンドイッチを手に持ち、穏やかに流れるその光景を眺めている。優しいジル、楽しそうな父、怒りながらも幸せそうな母。全て、彼の求めていた「幸せ」だった。


 ──でも、何かが足りない。



「──トキさん」



 ふと、背後から心地よい鈴の音が呼び掛ける。振り向けば、綺麗な金の髪を穏やかな風に揺らすセシリアがいつも通りの微笑みを浮かべてその場に立っていた。



「……セシリア」



 トキは立ち上がり、彼女に駆け寄る。そのまま華奢な体を自身の腕の中にしまい込めば、セシリアの温度と安心する匂いが彼を包み込んだ。


 ああ、そうだ。彼女が足りなかった。


 セシリアを腕の中で抱き締めたまま、トキは再び自身の家族が居る方角へと視線を移す。すると三人は、穏やかに微笑みながらトキを見つめて──まるで泡のように、静かに消えてしまった。



 ──こんな夢を、もう何度も見た。優しい家族の、幸せな夢。



 けれど決まって、目が覚めると泣いてしまうんだ。夢だと気付かされて。結局自分は独りなのだと、まざまざと痛感してしまって。



(……でも、今は……)



 そっと腕の中のセシリアに視線を戻す。彼女はトキの胸に頬を寄せ、幸せそうに破顔して彼の背中に腕を回して来た。そんなセシリアが、とてつもなく大事な物のように思えてしまって。



 ──今は、彼女が居る。夢から醒めても。



「……セシリア……」



 呼べば、翡翠の瞳がぱっと上向き、じっとこちらを見上げてくる。胸が締め付けられるようなこの苦しさも、なぜだか全く嫌ではない。


 この感情を、一体何と呼べばいい。

 誰かが言うには、おそらく、きっと、これは。



「……俺は、アンタの事を──」




 4




 ──ぱち。


 ふと意識が浮上して、トキは瞼を持ち上げた。ふわふわと未だに夢見心地の脳みそを叩き起しながら、彼は腕の中にしまっていたはずの温もりを探す。



「……セシ、リア……?」



 ぺたぺたと付近に手を触れ、隣で眠っていた彼女の姿を確かめるがどこにもその姿が見つからない。トキはゆっくりと上体を起こし、周囲を見回すがやはり部屋に彼女の姿は無かった。


 だが、ベッドの空いた部分に触れればまだ暖かい。おそらくついさっきまで、この場所に居たのだろう。



(……アイツと居ると、寝過ぎて困るな……)



 小さく息を吐き、トキはガシガシと後頭部を掻いて起き上がった。やけに良い目覚めだ。ここ最近は体の不調や呪いの発作続きで、まともに寝る事も出来なかった。寝る前に多めにクスリを摂取したせいか、心做しか体も軽い。


 あと、良い夢を見た気がする。



(……セシリアが、出て来たような……)



 ほんの僅かに思い出せる夢の破片の中に、幸せそうな微笑みを浮かべて自身に身を寄せる彼女の姿が浮かんだ。途端に頬が緩みそうになり、トキは即座に片手で口元を覆い隠す。



(……うわ、何だ俺……気持ち悪……)



 ニヤついてしまいそうな口元を必死で噛み殺そうと引き締めるが、どうにも治まらない。じんわりと胸に満ちる暖かな感情がこそばゆく、トキは己を殴りたい気分になりながらも用意されているサンダルに足を通して徐ろに歩き始めた。


 ──この感情の正体に、何となくだが彼は勘づいている。


 認めるのが嫌で目を逸らし続け、違うと自身に言い聞かせ過ぎて知恵熱までこじらせたアレだ。


 こんな情けない自分を、過去の自分が見たら失望するだろうか。憐れむだろうか。誰も信じず、一人で生きて、いつかアルマを殺すと誓ったはずだろう──そう咎められるだろうか。



(……過去の俺がどうだとか、よくよく考えてみれば心底くだらないな)



 脳裏で優しく微笑む太陽のような暖かい光を思い描きながら、彼は顔を上げた。


 ──過去の俺が、何だと言うんだ。今の俺が生きているのは、彼女と共に居る、“現在いま”だ。


 ディラシナの街から出て、沈んで行く太陽の光が強く目に染みた、あの時のような。

 眩しい感情の名前が、胸にすとんと落ちてくる。



(……俺は、きっと、セシリアの事を……)



 ──そこまで思い及んだ直後、ふと彼の耳は誰かの会話の音を拾い上げた。ぴくりと反応したトキは即座に自身の気配を殺し、扉の奥を警戒する。どうやら部屋の前で誰かが話をしているらしい。



(……女の声……)



 足音を殺して扉の方へ近付くと、徐々に誰の声かはっきりと耳に届き始めた。一方は昨晩自分に忠告をした修道院のシスター。そして、もう一方は。



(……セシリア……?)



 細々と声を紡いでいる鈴の音。何を話しているのかまでは聞き取れなかったが、彼女だとすぐに分かった。小さく紡がれるその声の端々には、僅かな嗚咽が混じっている。



(……泣いてる、のか……?)



 扉の前に立ち、トキは耳を澄ませた。やはり彼女は泣いているようで、小さく上がる嗚咽がトキの耳に届く。よもや、泣かされているのでは──? と、そう考えると途端に怒りが込み上げて、彼は思わず扉を蹴破ろうと片足を振り上げた。


 ──しかし、次にドロシーの口から離れた言葉によって、彼の動きはぴたりと止まる。



「セシリア、貴女──トキさんの事を、愛しているの?」


「……!!」



 予想だにしていなかった言葉に、トキはぐっと息を呑む。どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じ、彼は黙ったまま振り上げていた足を地面に降ろした。



(……な、何を……!)



 ──何を言っているんだ。


 カッ、と頬が熱を帯び、トキは再び口元を片手で覆う。──トキさんの事を、愛しているの? ──そんな問いに、セシリアは何と答えるのか。


 どくん、どくん、と鼓動が早鐘を刻む中、トキは黙って彼女の答えを待った。



「……私は、」


 ──俺は、


「……トキさんの事を……」


 ──セシリアの事を……。




「──何とも、思っていません……」




 紡ぐ鈴の音が、残酷なほど鮮明に、トキの耳の奥に入り込んで来る。トキは薄紫の瞳を見開き、扉の木目を見つめたまま黙ってその場に立ち尽くした。



「……私は、トキさんに対して……何の感情も持っていません。旅をする上での利害関係が一致していたから、一緒に過ごしているだけで……少し、情はあっても……特別な感情なんて、ないです……」



 早鐘を刻んでいた心臓が、冷たく凍り付いていく。カラカラと喉が渇いて、痛いぐらいに胸が締め付けられた。


 ──聞きたくない。



「……私は、神に仕える身です……自分の事も、よく分かっています。だから、」



 ──もう、それ以上言わないでくれ。


 そう祈っても、その祈りは彼女に届かない。いつも優しい微笑みを浮かべていたその唇が、ただ静かに残酷な言葉を紡ぐばかりだった。



「……私は、」


「……っ」


「──今後も、彼を一人の男性として愛する事は……ありません……」



 耳の奥に、心地よかったはずの彼女の声が毒のように注がれて行く。トキはそっと扉から後ずさり、足音一つも立てぬまま、逃げるようにふらりと踵を返した。



 ──胸の奥が、痛い。痛くて潰れてしまいそうだ。



 再び戻って来てしまったベッドの上に、音を立てぬようゆっくりと彼は身を投げる。──彼女の居た場所の温もりは、もう残っていなかった。



(……ああ、そうだ。そうだよな……)



 ──“恋”なんて、“愛”なんて。そんな生易しい名前では無かったんだ、この感情は。


 右手の中指に嵌められた金の指輪を視界に入れ、トキはそっと目を閉じる。何度も聞いた、魔女からの警告。



(……ただの……“依存症状まやかし”だ……)



 彼女の魔力を、過剰に摂取してしまったから──きっと心が惑わされているだけなのだ。恋しく思うのも、愛おしく感じるのも、彼女の魔力にただ“依存”しているだけ。誰かの言うような、“愛”などではない。


 ああ、でも。



 ──今後も、彼を一人の男性として愛する事は……ありません……。



「……きっつ……」



 先程のセシリアの言葉が蘇って、トキは片手で顔面を覆う。ぼそりと発した小さな声は、部屋に満ちた静寂の中に、静かに飲み込まれて消えて行った──。




 .

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