第55話 俺の知らない彼女
1
『──セシリア、泣くな』
そんな声を掛けられたのは、セシリアが十六歳を迎えた日の夜だった。自身の首元を押さえ付け、部屋の隅で声を押し殺して泣くセシリアを、同じ歳のマルクはぎゅっと優しく抱き締める。
まだ今より一回りほど体が小さかったアデルは、そんな二人に寄り添うように身を寄せ、セシリアの頬を伝う涙を大きな舌で舐め取っていた。
『……泣くなよ、セシリア』
『……う、ぅ……』
『大丈夫だよ、俺が居るだろ?』
だからきっと大丈夫、大丈夫だ、とマルクは何度も繰り返す。それは彼女を慰めていると言うよりも、まるで自分自身に言い聞かせているようなそれだった。
彼の腕の中で泣きじゃくっていたセシリアは、ぐすぐすと嗚咽をこぼしながら、震える唇を開く。
『……私……何なの……? 私は誰なの……っ』
『……セシリア……』
『……違うよ……こんなの違う……私は、“セシリア”じゃない……っ』
翡翠の瞳に涙を溜め、彼女はマルクの胸に顔を埋めた。その首に残る彼女の忌々しい“それ”に、マルクの表情が苦く歪む。
『私は……最初から……神様に望まれてなんか、いなかった……』
『……』
『私……ここに居たら、いけなかったの……?』
『違う……!』
マルクは震えるセシリアの体を抱き締め、強く言い放った。
『俺が……! 俺が必ず、お前を自由にしてやるから……!』
『……マルク……』
『俺がずっと、お前を守るよ……だからずっと一緒に居よう、セシリア』
強く抱く彼の腕の中、セシリアの頬には一筋の涙が伝う。暗い部屋の隅に縮こまる二人。セシリアは小さく嗚咽をこぼし、彼の胸に頬を寄せた。
『……マルク、私と……ずっと一緒に居てくれるの……?』
『……うん。俺は、絶対、』
──絶対、お前を一人にしないよ。
そう誓ったあの日の言葉を、彼女はきっともう覚えていない。半年前、突然セシリアが村を飛び出して居なくなったあの時に、マルクはそう思った。
アンティーク調のデザインが施された黒い表紙の古い書物。何冊も積み上がった本と走り書きされたメモの散乱する机上にどさりとそれを放り投げ、マルクは白い布に覆われた大きな“箱”をそっと指先で撫でた。
セシリアが無事に、この村に帰って来た──ただそれだけの事実が、ぽっかりと空いてしまっていた彼の胸の空白を埋める。
「神よ、感謝いたします……彼女を、無事にこの地へ帰してくれた事を……」
マルクは東に向かって呟き、白い布のかかった“箱”を再び撫でた。
──ああ、もうすぐだ。もうすぐ彼女を救える。
暗い部屋の中で一人、マルクは目を細める。
「これで……ずっと一緒にいられるからな……セシリア」
小さく呟いた声は、本やメモで埋め尽くされた部屋の中に、寂しく溶けて消えて行った。
2
ゴーン、ゴーン、と鐘の音が響く。セシリアはアデルと共に薄暗い廊下を歩き、重厚な扉の前でぴたりと足を止めた。
ふと顔を上げたアデルが、不思議そうに首を傾げる。セシリアは切なげに眉を顰めたが、すぐに小さく口元を引き上げると、アデルに向かって優しく微笑み掛けた。
「……ここまでで大丈夫よ、アデル。ついて来てくれてありがとう」
「……アゥ?」
「ハンナが今頃、トキさんの治療をしてくれてるわ。あなたは、トキさんの傍についていてあげて」
ふさふさと茂る白銀の毛を撫でながら慈しむように囁くセシリアの言葉に、アデルは暫く黙っていた。しかしややあって彼女の言葉を聞き入れたのか、くるりと背を向けると彼はトキの眠っている部屋までの道のりを戻って行く。
セシリアは黙ってその背を見送り、やがて小さく息を吐いて、再び目の前の重々しい扉を見つめた。──これから何が行われるのか、彼女は分かっている。セシリアは恐怖に震える胸を押さえ、覚悟を決めて扉を叩いた。
「──入りなさい」
扉の奥から放たれた声に、セシリアはぎゅっと唇を噛む。そしてようやく、ゆっくりとその扉を開けた。
──ギィィ。
軋む扉の向こうは、いくつもの蝋燭に火が灯された広い空間。花の蜜を砂糖漬けにして煮詰めたかのような甘い香りがふわりと漂い、再奥の壇上には大きな女神像と──この地に伝わる魔女・セシルの像が静かに佇んでこちらを見下ろしている。
そんな壇上の前で、まるでセシリアを待ち構えていたかのようによく知った顔の三人が並んでいた。先頭には、セシリアを拾って育て上げてくれた張本人である修道院のシスター・ドロシー。その両脇を囲っているのは、教会を守る聖騎士長であるガノンと、補佐のジーンである。
しかしセシリアに向けられているその視線は、冷たく鋭い。
「……」
じっと睨み、何かを警戒するようにこちらを見つめる視線。セシリアは震えそうになる唇を噛み締め、無言でその場に立ち尽くした。
するとそんな彼女の背後で、再び重たい扉が音を立てて開く。そこから入って来た男に、聖騎士長・ガノンは固く閉ざしていた口を開いた。
「……ああ、来たかマルク。待っていたぞ」
「申し訳ありません、ガノン騎士長。彼女の同行人を名乗る男がどうやら感染症を患っていたようでして、消毒に少々時間を取られてしまいました」
「……!」
マルクの言葉にセシリアは目を見張った。同行人の男──つまりトキが感染症に罹っているというのだから驚くのも無理はない。不安げに瞳を揺らした彼女の視線に気付いたのか、マルクはすれ違いざまに「安心しろ、症状は軽い。薬を投与したから問題ない」と小声で耳打ちをこぼして通り過ぎて行った。
「……マルクも揃ったな。ならば、そろそろ始めようか」
「……」
その言葉に、セシリアの表情が強張る。彼らは一様にセシリアを冷ややかな目で見つめ、やがて重々しくガノンが口を開いた。
「──手袋と服を脱ぎ、後ろを向いて、その場で膝を付きなさい」
「……」
淡々と告げられる命令に、セシリアは震える唇を固く結び、静かに従って背中を向けた。そのままレザーグローブのファスナーを下ろし、常に隠されていた白い腕が徐々に顕になって行く。
やがて両腕の手袋を取り外すと、彼女はぺたりとその場に膝を付いた。両腕に刻まれた忌々しい“それ”を、修道院の面々がじっと見つめる。
「……腕の“印”はあるようだな」
「……」
「では服も脱ぎ、髪を上げなさい」
「……っ」
セシリアは固く唇を結んだまま、大人しくガノンの言葉に従う。ワンピースのファスナーをゆっくりと下ろし、彼女は白い素肌を彼らの前にさらけ出した。下着の留め具まで外した後、セシリアは長い髪を掻き上げ、背後で見つめる彼らに首元を晒す。
「……首の“印”もあるようです」
彼女の白い
「うむ。“外”はとりあえず問題無いだろう。あとは“中身”だ」
「……」
「……やれ、マルク」
「はっ」
マルクは短く答え、上半身を曝け出して膝を付いているセシリアの元へと近付く。カツ、カツ、と徐々に歩み寄ってくる足音。セシリアは固く目を閉じ、震えそうになる唇を更に強く噛み締めた。
──カツン。
程なくして、彼女の真後ろにまで迫ったマルクが足を泊める。修道院の面々が黙って見つめる中──彼は徐ろに、腰に携えていた剣を引き抜いた。
そして。
──ザシュッ!
「──……ッ!!」
──ほんの一瞬で抜刀された彼の剣が、深くセシリアの背中を斬り裂く。
彼女の真っ赤な血は弾けるように周囲に飛散し、目を見開いたセシリアが声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。焼け付くような激痛が全身に駆け巡る中、己の背中から流れ出た血の海が自身の体を飲み込んで行く。
「……ぁ……っ、か、は……っ」
「……」
セシリアの返り血を浴びたマルクは、倒れた彼女の背に付けた傷を眺めて表情を僅かに緩めた。彼の細めた目の奥は暗く澱みながらも、どこか恍惚とした色が見て取れる。
そんな彼の視線の先で、セシリアは血の海の中に倒れたまま浅く短い呼吸を繰り返していた。
「……どうだ、マルク」
ふと、背後からガノンが問い掛ける。マルクは即座に表情を引き締め、チャキン、と静かに剣を収めた。
「……はい。まだ反応はありません」
「やけに遅いな。……やはり偽物か?」
「いえ、まだ断定は出来ませんよ、騎士長。彼女ももう以前のような体ではないので、本物であったとしても多少の時間は要するかと。偽物であればこのまま死ぬだけです」
淡々と繰り返される会話。セシリアは徐々に遠のき始める朧げな意識の中、広がる真っ赤な血溜まりを見つめながらそれを聞いていた。
その直後。
斬られて裂けた背中の傷に、じんわりと微かな熱が宿る。
「──!」
物々しい空気の中で交わされていた会話がぴたりと途切れ、修道院の面々は一様にセシリアの背の傷を注視した。
血の溢れる傷口に淡く灯ったのは、微かに輝く青い光。最初こそ小さく輝いていたその光はやがて大きく強くなり、あっという間に彼女の背中の傷を包み込んでしまった。その光に包み込まれた瞬間、傷口から溢れ出していた血は止まり、斬り裂かれた傷跡が徐々に消えて行く。
「……これは……!」
「……」
目を見張るガノンとは対照的に、その光景を見つめるマルクは至って冷静だった。彼は、最初から分かっていたのだ──彼女が彼女であることを。それでも、深くその身を切り裂いた。
「……う、ぅ……」
浅く呼吸を繰り返し、呻くように声を漏らしたセシリアが閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。セシリアの背中から発せられた青い光がようやくその輝きを失った頃、彼女の背中の傷は跡形もなく消え去っていた。
完全に傷口が癒えた事を確認するや否や、それまで厳粛に彼女を見つめていた彼らの表情が途端に綻び始める。
「……この力……本物だ……」
「偽物などではなかった……! 本当に、セシリア様が生きてお帰りになられたのだな……!」
ガノンと騎士長補佐であるジーンが口々に安堵の言葉を紡ぐ中、三人の先頭に立っていたシスター・ドロシーは倒れているセシリアの元へ歩み寄る。マルクはぺこりと頭を下げ、その場から後退した。
「──セシリア」
優しげな、慈愛に満ちた懐かしい声。
セシリアは力無く顔を上げ、ぼんやりと霞む視界の中で揺れるドロシーの柔らかな笑顔を見つめた。
「手荒な真似をしてごめんなさいね。よくぞ、ここまで無事に帰って来ました」
「……」
「お帰りなさい、私の可愛いセシリア」
白い背中を撫でる手が、か細いセシリアの体を起こして優しく抱き寄せる。血に濡れた素肌に感じる暖かな体温。じわりと目頭が熱くなり、セシリアはドロシーの胸に顔を埋めた。
「シスター。セシリアに新しいお召し物をご用意いたしますので、汚れたワンピースと手袋をどうぞ此方に。セシリアにはこの毛布を」
「ええ、ありがとうマルク。さあセシリア、寒かったでしょう? これでもう大丈夫よ」
ドロシーはマルクから毛布を受け取り、セシリアの肌をそっと包む。ふわふわと暖かい毛布に包まれて気が抜けたのか──セシリアはくたりとドロシーに凭れ掛かり、そのまま意識を失ってしまった。
「……あらあら、寝てしまったわ」
「おそらく、傷の回復の負荷が大きかったのでしょう。随分と深く斬ってしまいましたので」
「……そう? ……でも、深く斬った割には遅かったわね」
穏やかにこぼされたドロシーの言葉に、マルクは一瞬言い淀んで目を伏せた。やがて「……彼女も、もう十九ですから」と返せば、ドロシーはセシリアの髪を撫でながら微笑む。
「……そうね。でも本当に良かったわ、無事に帰って来てくれて」
「ええ、それは勿論」
「……ねえ、セシリア? 貴女は、何も心配しなくていいのよ」
ドロシーは眠っているセシリアに愛おしげに語りかけ、その額にキスを落とした。毛布に包まれ、青白い顔で眠る彼女は、ただ規則的に穏やかな呼吸を繰り返す。
「──私たちがずっと、ここで、貴女を守ってあげるからね」
微笑むドロシーの言葉は、セシリアには届かない。愛おしげに彼女の髪を撫でたドロシーは、その白い額に、再びゆっくりと口付けを落としたのだった。
3
──ぽた、ぽた。
雫の滴るような音が耳に届き、トキはぼんやりと覚醒した意識を浮上させる。
セシリアが、泣いているのか──なぜかそんな風に思えて、彼は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
──べろり。
「……」
起き抜け早々、顔面に感じたのは湿り気を帯びた不快な感触。ハッ、ハッ、と間近で繰り返す吐息の音に気が付いて顔を横に傾ければ、案の定アデルが己を見下ろしていた。トキの眉間は即座に深い皺を刻む。
「……お前、顔舐めんなっていつも言ってんだろ……クソ犬が……」
露骨に不機嫌さを訴えるように低い声をこぼすが、どこかの誰かに似て能天気なアデルは「アゥン?」と間の抜けた声を返して首を傾げるばかり。腹が立つ事この上ないが、魔物なんぞと不毛な会話を繰り広げたところで時間の無駄である。トキはチッと舌を打ち、見慣れない部屋の中を見渡した。
「……どこだ、ここ……」
呟き、気怠い上体を起こす。ふと腕に視線を移せば、何やらチューブに繋がれて点滴を施されているようだった。ぽたぽたと滴る雫の音の正体はどうやらこれらしい。
(俺、何で点滴なんか……アイツはどこだ?)
周囲にセシリアの姿がない事に気が付き、トキはきょろりと辺りを見渡す。しかもよく見れば、己が身に付けている衣服も普段のそれとは別の物に変わっていた。濃いグレーのトップスに、黒いラフなズボンという簡素な格好。普段身に付けているストールやケープは勿論、武器などの所持品も見当たらない。しかし、右手の中指に光る金の指輪だけは残っていた。
(……〈
ふう、と安堵の息を吐き出した頃、高熱によって意識を手放してしまう直前までの記憶が断片的ながらも少しずつ戻ってくる。
──海沿いにあるという小さな村を目指している途中、得体の知れない男にセシリアが抱き寄せられていたのだ。それを視界に入れた瞬間、己の中の何かがブチリと音を立ててキレたのが分かった。その結果、つい武器を手に取ってしまい──というところまでは、思い出せる。
(……くそ……その後が思い出せねえ……。アイツは無事なんだろうな……)
トキは苦々しく舌打ちを放ち、腕に繋がれている点滴の針を引き抜いた。そのままふらりと立ち上がり、医療品の並べられた部屋の中を裸足のまま進んで行く。そんな彼の背中を、アデルもてくてくと律儀に追いかけた。
(……こいつが俺の傍でのんびりしてるって事は、セシリアに何かあったってわけじゃ無さそうだが……)
万が一、ということもある。
トキは医療棚の中から手のひらサイズの
「……おい、クソ犬。セシリアはどこ行った」
ぼそりと、隣を歩くアデルに問い掛けた。すると彼は顔を上げ、先導するかのように早足でトキの前を歩き始める。
「……そっちだな」
まだ少し熱の残った体で、トキはふらりとアデルを追い掛ける。薄暗い通路に明かりを灯す蝋燭には、ヴィオラ教の紋章が刻まれていた。よく見れば燭台や柱にも点々と紋章が刻まれており、どうやらここは教会の内部らしいと腑に落ちる。
(チッ……苦手だな、教会は)
実在するかどうかも定かで無い神なんぞを信じて崇める、盲目的で胡散臭い連中の集まりだ、教会なんてものは。神どころか人すら信じる事が出来ないトキにその心理は理解出来ない。故に、出会った当初の頃は毎朝律儀に神に祈りを捧げるセシリアの事が鬱陶しくて仕方が無かった。
まあ、そんな彼女の事を、今ではこうして必死に探してしまっているわけだが。
(……いや、別に、アイツの事を完全に信用してるわけじゃねえけど……)
言い訳のように自身に言い聞かせた、その時だった。ガチャリと音を立て、通路の奥の大きな扉が開く。──そしてそこから出て来たのは、己が気を失う前に見た覚えのある男だった。
「──!」
トキはぴたりと足を止め、目付きを鋭くして身構える。すると「ガウ!」とアデルが吠え、男──マルクはトキの存在に気が付いたようだった。
「……! 貴様は……セシリアの……」
「……」
「……こんな所で何をしているんだ? 医療室で点滴を打っていたはずだろう、部屋に戻れ」
「……!」
厳しい表情で言い放ったマルクの声を聞き入れる前に、トキは彼の腕に抱えられている物に目を見張った。
トキの視線の先には、上等な白い生地で作られた、ふわりと裾の広がる見慣れたワンピース。それはセシリアの着ていたワンピースに間違いなかったが──血のような赤黒い液体が、ベッタリと染み込んでいる。
トキは一瞬ぞくりと背筋を震わせたが、血に対する恐怖心よりも先に胸の奥が煮えたぎるような感覚を覚えた。そして気が付けば、「……おい……」と低い声が唇からこぼれ落ちていて。
「……テメェ……アイツに何した……?」
殺意を秘めた薄紫色の瞳がマルクを射抜く。彼はトキの殺気をひしひしと肌に感じていたが、動じる様子も無く淡々と答えた。
「……ああ、コレの事か。別に大した事じゃない、セシリアは無事だ」
「そういう問題じゃねえ。何したのかって聞いてんだよ、質問に答えろ」
「……貴様にそれを答えて、それで? どうするって言うんだ?」
「答えによっては殺す」
明確な殺意を顕にするトキを、マルクはハッと鼻であしらう。刹那、背後の扉が再び音を立てて開いた。
その場所から出て来たのは、鎧を装備した壮年の男と──その腕に抱えられ、毛布に包まれて眠っている、青白い顔のセシリアだった。
「──セシリア!!」
トキは彼女の名を叫び、即座に駆け寄ろうと床を蹴る。しかしすぐさまマルクが剣を引き抜き、トキの首元に鋭い切っ先を突き付けた。
だがトキは手に隠し持っていた鋏の片割れで向けられた剣先を弾き返し、マルクの横をすり抜けるともう片方の鋏を壮年の男──ガノンに向かって振り下ろす。ところがその刃は、扉の奥に控えていたもう一人の男──騎士長補佐・ジーンの抜いた剣によって阻まれてしまった。
「ガノン騎士長に刃を向けるとは、この不届き者め。何者だ貴様」
「テメェらが何なんだよ、そいつに何した!? そいつは俺の連れだ、さっさと返せ!」
「……“返せ”だと? それはこっちの台詞だ、汚いドブネズミめ」
カツン、とトキの背後でブーツの音が鳴る。そして彼の首元にはマルクの剣先が突き付けられた。
「セシリアはこの教会の神官だ。貴様のような汚いネズミと共に居ていい身分じゃない」
「……何だと?」
「ここがセシリアの家だ。彼女は返してもらうぞ」
マルクの言葉にトキは眉を顰めたが、ようやくこの状況を把握し始めた。
どうやらこの場所は、セシリアが育ったという修道院の中らしい。そして彼らが──彼女の口から度々聞かされた、例の“修道院の方々”のようだ。
(……なるほどな)
自分がここに居る理由を彼は何となく理解した。背後の番犬がやけに大人しいのも腑に落ちる。彼らが飼い主のような物なのだから当然だ。
──だが、それと血の付いたワンピースの件は別問題である。
青白い表情で気を失っているセシリアの姿を見る限り、何か良からぬ事が行われたのは間違いない。トキはギロリと己を取り囲む彼らを睨み付けた。
しかし不意に、凛と澄んだ声が「やめなさい」と薄暗い通路に響き渡った事で、殺気立っていた彼らの肩がぴくりと動く。
「剣を収めなさい、ジーン、マルク。彼はセシリアを送り届けてくれた客人でしょう」
カツ、カツ、と踵を鳴らして現れたのは、修道服を身にまとった壮年の女だった。トキは彼女を睨むが、女──シスター・ドロシーは怯む様子もなく柔らかく微笑む。
「貴方、セシリアをここまで送り届けて下さった方でしょう? この院を代表してお礼申し上げますわ、ありがとうございました」
「……送り届けた? ふざけんな、そんなつもりは無い。アイツが起きたらさっさとこんなとこ一緒に出て行く」
「あら、それは無理なご相談ですわ。セシリアは我が修道院に留まって貰いますので」
「……何だと?」
トキの瞼がぴくりと動き、目付きが更に鋭く吊り上がる。しかしやはりドロシーは動じず、ただ穏やかに微笑むばかり。
「貴方、感染症を患っているそうね。それが癒えるまでは旅立つのもお辛いでしょう? 治るまでお好きなだけ此処で過ごされて構いませんわ、侍女に世話をさせますから。ただし、セシリアは連れて行かせません」
「……何を勝手に話を進めてやがる。俺にはそいつが必要なんだよ、奪ってでも連れて行く」
「それはセシリアを愛しているから?」
「……、は!?」
唐突な質問にトキはぎくりと身を強張らせてたじろいだ。その反応に、ドロシーはニッコリと微笑む。
「……そう。愛しているのね」
「……な……っ、違……!」
「──愛しているのであれば尚の事、この子に関わるのはやめなさい」
ぴしゃりと、鮮明な言葉がトキの耳を貫く。目を見開いて固まった彼に、ドロシーは更に言葉を続けた。
「……可哀想に。貴方、彼女の事何も知らないのね」
「……は……?」
「──あの子は人を愛せない」
胸の奥を鷲掴みにされたような、息苦しい感覚。トキは目を見開いたまま、何も言えず黙ってその場に立ち尽くした。
「セシリアの事を愛するのはやめておきなさい。いくら想っても無駄よ、その想いは絶対に実らない。最後に必ずあの子に裏切られるわ」
「……」
「これは貴方のためを思って言ってるの。彼女の事は忘れなさい」
にこりとドロシーは微笑み、「行きましょう」と騎士団に呟いてトキの横を通り過ぎた。セシリアを抱えたガノンもその後に続き、トキに剣を向けていたジーンとマルクもそれを追うように離れる。
程なくして、訪れたのは沈黙。
トキは黙ってその場に立ち尽くしたまま、暫く動く事が出来なかった。
(……何だ……これ……)
ざわりと、胸の奥がざわめく。
──セシリアは人を愛せない。
そんなドロシーの言葉が、ぐるぐると脳内を駆け巡って。
(……どういう事だよ……)
──セシリアが、俺を、裏切る?
そんなはず無いだろ、と自分に強く言い聞かせた。彼女はいつでも正直だ。いつも真っ直ぐで、純粋で、世間知らずで──穢れを知らない。
……そうだろ?
そう、だよな?
視線を泳がせるトキの脳裏に、かつて幼い自分を裏切った憎い男の優しい笑顔が浮かび上がる。己が他人を信じたせいで全てを失った、あの日の後悔が、戻って来る。
「……セシリア……」
小さく彼女の名前を紡ぐ掠れた彼の声は、背後で心配そうに見つめるアデルの耳だけに届いていた。
.
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