第46話 最期の愛


 1




 ──状況が、理解出来ない。


 トキは瞬きすらも忘れて、目の前に立ち尽くす姉の姿を見つめていた。


 ジル、と掠れた声で呼び掛ければ、彼女の薄紫色の瞳が持ち上がる。その絶望に染まったその瞳の奥に、同じく絶望に慄いて立ち尽くしている自分の姿が映し出されていて。


 唇が震える。頭が真っ白になる。

 トキはごくりと生唾を飲み、ゆっくりと口を開いた。



「……嘘、だよな……ジル……」


「……」


「……なあ……嘘……嘘だろ……? ジルが、父さんと、母さんを……殺すわけ無い……」


「……」


「……嘘だ……そんなの嘘だ!!」



 悲痛に怒鳴り付け、トキは姉の元へと駆け出す。ぐしゃりとジュリエットの花冠を踏みつけ、花が潰れるのもお構い無しに。



「嘘だろ、ジル!! みんなで俺の事からかってるだけなんだろ!? もういいよ、やめてくれよ!!」


「……」



 必死に縋り付く弟に、姉は何も答えない。トキは表情を歪め、返り血で染まった彼女の胸に顔を埋めた。



「何でっ……! 何も、言わないんだよっ……! 嘘だって、脅かしただけだって、言ってくれよ……!」


「……」


「俺、ちゃんと良い子にするから……っ! もう町の奴らに命令されても、犬に石なんか投げないしっ……心配かけること、絶対しない……だからっ……!」



 嗚咽がこぼれそうになるのを必死に耐え、トキは懸命に言葉を紡いだ。



「だからっ……嘘だって、言っ──」



 ──ザクッ……



「──っ!!」



 直後、鋭い痛みを脇腹に感じてトキは思わずジルから離れた。彼女の手の中のナイフからは、ぽたぽたと赤い雫が滴っている。

 ズキズキと痛む脇腹を押さえると、温かい血で自分の手のひらが染まった。──切られた──そう理解した瞬間、経験した事のない痛みと絶望で目の前が滲む。



「……っ、う、うぅ……ぁ!」


「……あーあ。嘘じゃねえってよ、残念だったなトキ」


「……!」



 背後で愉快そうにアルマが笑い、手に持った青い宝石を掲げている。ぼろぼろと涙を落としながら、トキはようやくその宝石の美しい輝きを意識した。見た事も無い宝石。深く澄んだ青い色。けれど、やけに哀しく感じる。



「この宝石が気になるか? トキ」


「……っ」


「おいおい、そう怖がるなって。特別に教えてやるよ、同じ時間を過ごしたよしみだ」



 脇腹を押さえ、怯えるように後ずさるトキにアルマはにんまりと口角を上げる。平然と言葉を発している彼に、トキは恐怖しか抱けなかった。なぜこの状況で笑っていられるのかと不気味で仕方がない。



「コイツはなァ、女神の涙ってんだ。ラクリマって呼ばれる事も多いかもな」


「……女神の、涙……?」


「この世にほとんど無い幻の宝石だぜ? 美しいだろ」



 手の中で輝く青い宝石。確かに神々しさを感じるぐらいに美しい輝きだが──心底気味が悪く感じた。ぼろぼろと溢れる雫で滲んだ視界にも入り込んで来る、青い光が。



「この宝石は特別なんだよ、トキ」


「……っ」


「誰かの絶望や哀しみを吸って、女神の涙は光り輝く。そしてその輝きに魅了された者は──」



 チャキ、と金属質な音が響き、ハッと目を見開いてトキは振り向いた。するとジルが暗い瞳のまま、トキに向かってナイフの刃先を突き付けている。



「……!!」


「──石を持つ者の指示に逆らえない。つまり、俺の好きに操れるってわけだ」



 にっこり、楽しげに弧を描く口元。ジルはトキにナイフを突き付けたまま、蚊の鳴くような声で言葉を発した。



「……トキ……」


「……っ……ジル……!」


「……トキ……お願い……」



 暗い瞳が持ち上がり、彼女の表情が悲痛に歪む。悲しげなその双眸が揺れた時、手に握られたナイフもゆっくりと振り上げられて。



「──私から、逃げて……!」


「……!」



 ──ダンッ!


 乞うように紡がれた言葉の直後、鋭利なナイフが振り下ろされる。トキは寸前でそれを避け、血の海の中を転がると痛む脇腹を押さえたまま震える手足で必死に立ち上がった。



「……っ、はあっ……はあ……!!」



 衣服や肌が血で汚れる事など気にも留めず、トキは震える足を動かして迫るジルから離れる。しかし扉の前にはアルマが立っているため外に逃げ出す事も出来ず、トキは狭い家の壁に背中を付いて戦慄するばかり。



(……死ぬ、のか、俺も……)



 愛する父と母を殺した、愛する姉の手によって自分も殺されるのだろうか。そう思うと酷く恐ろしくて、トキの身体が硬直してしまう。


 アルマによって操られた姉は、彼女の意思を無視して確実にトキを殺すだろう。楽しげに口角を上げるアルマを睨めば、その赤い瞳がにんまりと細められた。



「何だよ、トキ。そんな怖い顔すんなって」


「……っジルを、操るのをやめろ! 何でだよ……何でこんな事するんだアルマ!! 俺は、お前を……っ」



 ──信じていたのに。


 消え去りそうな声を絞り出し、トキは表情を歪めて涙を落とす。そのまま嗚咽をこぼし始めた彼を、アルマは鼻で笑い飛ばした。



「……何でって? バカだなァ、さっきも言ったろ? 全ては、“女神の涙マドンナ”が絶望を欲してたからだ」


「……っ」


「俺の女神の涙は絶望と哀しみを吸ってないと輝けない。宝石は輝いてた方が美しいだろ? 俺は美しい物が好きだからな」


「……っそんな……そんな事で……? それだけのために父さんや母さんを殺したのか!?」


「……くくっ、本当に馬鹿だよ、お前らは。俺を信じてたって? 笑わせるよなァ。……俺はお前の事も、お前の両親の事も、ジュリアの事も──ただ“マドンナ”に絶望を喰わせるためだけの、ぐらいにしか思って無かったってのに」


「──……」



 淡々と紡がれる彼の言葉に、トキは己の心が冷たく凍りついて行く感覚を覚えた。


 優しく名前を呼んで、頭を撫でて。花の名前を、花言葉を、自分に教えてくれたアルマの姿が脳裏に浮かぶ。町の子ども逹の虐めからトキを救い、瞳からこぼれ落ちた涙の粒を拭い、花の冠を頭に乗せて微笑んだ彼は──全部、嘘だったというのか。



(……俺、は……)



 ──裏切られたんだ。


 そうまざまざと実感して、目の前が真っ暗になった気がした。信頼していた、憧れすら抱き始めていた兄貴分に裏切られたという事実が、トキの幼い心に重く重くのしかかって、壊して行く。



「──おい、トキ。いいのか? 逃げなくて」



 その声にトキの暗い瞳が力無く持ち上がった。するとナイフを持ったジルが、すぐ目の前にまで迫っていて。

 ああ、死ぬのか、とぼんやり考える。黙ったまま涙を流し、トキは彼女の持ったナイフがゆっくりと振り上げられて行くのを見ていた。


 逃げて、とジルの唇が動く。

 ごめんな、と心の中だけで彼女に謝った。


 両親は死んだ。姉は両親を殺した。信頼していた兄貴分には、裏切られた。


 まだ十一歳の少年に、その現実は重たすぎて。



(……もう、俺、どうしたらいいのか分かんねえよ……)



 死を受け入れようと、思ってしまった。


 ──しかし、振り上げられたナイフは、その場でぴたりと動きを止める。



「……、?」


「……あーあ、興醒めだな」



 アルマがつまらなさそうに吐きこぼす。ゆっくりと視線を彼に移せば、光を無くしたアルマの瞳が冷たくトキを見つめていた。



「両親を殺された絶望と、姉に殺される恐怖で慄くお前を期待してたんだがなァ。何受け入れようとしてんだ、面白くねえ」


「……っお前……!」


「やめやめ、プラン変更だ。こんなガキを殺すより、こっちの方がよっぽどいい」



 アルマはさらりとそう言い、トキの目の前にカラン、と何かを投げる。床に落ちたそれは──ジルが持っているのと同じ、鋭利なナイフだった。



「──お前がジュリアを殺せ、トキ」


「……!!」



 どくり、心臓が鈍く痛みを放つ。サッと背筋が冷えていくのが分かった。からからに乾いた喉が、震える声を紡ぐ。



「……そん、な、こと……出来るわけ……」


「大丈夫。お前なら出来るぞ、トキ」


「……!」



 青い宝石が掲げられ、美しい光が視界に飛び込む。──途端に、トキの手は意思に反して勝手に動き始めた。



「い、嫌だ! やめろ!!」



 抵抗しようと身をよじるが、無情にも体は動き、震える小さな手が床に落ちたナイフを拾い上げる。はあ、はあ、と短く呼吸を繰り返し、トキは歯を食いしばってナイフを握る手を押さえようとしたが、やはり無駄な事で。



「……っ」



 彼の持ったナイフの刃先が、ジルへと向けられてしまう。



「……嫌だっ……殺したくない……!!」


「……トキ……」


「俺……、俺は、どうなってもいいから!! ジルは……ジルだけは……!!」



 助けてくれ。お願いだ。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔をアルマに向け、トキは乞うように訴えた。しかしアルマは嬉しそうに笑うばかりで──掲げた宝石の青い光が、強く瞼の裏に焼きつく。



「う……っやだ……! 嫌だ!」



 ゆっくりと、震える腕が持ち上がる。ジルはナイフを向けるトキを、慄いたように目を見開いて見つめていた。



「嫌だああっ……!!」



 悲痛に叫んだ声が、暗い部屋に響き渡る。──すると不意に、涙で濡れたトキの頬に暖かい体温が触れた。



「──大丈夫よ、トキ」


「……!!」



 ぼやけた視界の中で、ナイフを突き付けられた姉がやんわりと微笑む。トキは息を飲み、優しく頬を撫でる彼女を黙って見つめた。


 いつもトキが泣いていると、彼女は必ずこうやって安心させるように柔らかく微笑む。そして、額に口付けをくれるのだ。「泣き虫さん専用の、涙の止まる魔法」だと言って、いつも。



「大丈夫。泣かないで」


「……」


「怖くないよ。大丈夫。トキは、何も心配しなくていいのよ」



 ジルはトキの頬を優しく撫で、涙に暗れる彼の額にいつも通り“魔法”をかけた。小さく響いたリップ音と共に、彼女の体温は離れていく。



「──トキの事は、必ず、お姉ちゃんが守るから」



 その一言と共に、ジルは自分が持っていたナイフを、自らの喉元に向ける。──そこでようやく、トキは彼女が何をしようとしているのかを理解した。



「嫌だ……ジル、待っ──」



 待って。


 そう言い終わる前に、彼女は目の前で美しく微笑んだ。優しく、柔らかく、穏やかな、いつも通りの笑顔を浮かべて細められた瞳から、一筋の涙が、滑り落ちて──。





「──ごめんね、トキ」





 ザクッ、と皮膚を切り裂く音と共に、目の前が真っ赤に染まった。血飛沫が散り、ぱたぱたと頬が濡れる。

 青く輝く宝石の光が、赤く赤く視界に映り込み、目を見開いたトキの前で姉の体が──崩れるように倒れて行く。


 ──ドサッ……


 真っ赤に広がる血の海の中に、ジルの体は倒れた。



「……ジ、ル……」



 呼びかけるが、返事は無い。トキはようやく動くようになった足を震わせながら、彼女の元へゆっくりと近寄った。



「ジル……ねえ、ジル……っ」


「……」


「ジル……ジル!! 嘘だ、ジル……!!」



 倒れる彼女の体を起こそうと、トキはジルの肩に手を掛けた。──すると真っ赤な彼女の血が、トキの手にどろりと流れ落ちる。生暖かいその液体が、酷く恐ろしく感じた。父と母の亡骸が、脳裏を過ぎる。



「ぅ……う、あ……」



 目の前で深く首を切り裂いたジルの姿が、何度も何度も頭の中に流れ込んで。怖い。嫌だ、見たくない。……やめてくれ……!!



「あああ……!!」



 トキはくずおれ、目覚めない姉の体を抱き締めた。涙が溢れる中で、彼は悲痛に泣き叫ぶ。



「うわあああぁぁっ……!!」


「……あーあ、やりやがったなジュリアの奴。慈悲深いねえ。弟のために自らを犠牲にしやがって」


「……!!」



 はあー、とつまらなそうに溜息を吐くアルマ。トキが涙に暗れた顔を持ち上げれば、青く輝く宝石にジルの亡骸が映っていて。


 どくどくと心臓が音を立て、彼への殺意が膨らみ始める。



(……こいつさえ……こいつさえ居なければ、良かったんだ……)



 トキはぎりっと奥歯を噛み締める。憎しみが溢れ出し、どろどろとした黒い感情が胸に満ちた。



(こいつがジルを……父さんと母さんを……! 俺の家族を殺した……!!)



 暗い紫の双眸に明確な殺意が宿る。

 その瞬間、トキは落ちていたナイフを握り締め、アルマに向かって全力で床を蹴り付けた。


 お前さえ……お前さえいなければ!!



「アルマぁぁぁァ!!!」



 憎しみを込めた絶叫と共にナイフを振り上げる。しかし、その刃先が彼を捉える事は無く──。



 ──ゴッ!



「っぐ……!」



 腹を蹴られ、トキは壁に体を打ち付けて蹲った。カラン、とナイフも手元から滑り落ち、内臓が抉れ出るような痛みと苦しさに「か、っは……」と悶えながら床を見つめる。そんなトキの髪をアルマは掴み上げ、ずるずると引き摺るように外へと彼を連れ出した。



「っ……離せ! 離せよ! くそ!」


「おいおい暴れんなって。髪全部引っこ抜いちまうぞ?」


「いっ……!!」



 ぐぐ、と髪を強く引っ張られ、痛みと共にぶちぶちと何本かの髪が引き千切れる。トキは痛みと逆らえない歯痒さに悔しげに唇を噛み、アルマの後に続くしかなかった。

 あれほど頼もしく見えていた彼の背中。しかし今では憎しみに溢れ、その背にナイフを突き立てて刺し殺してやろうとしか思えない。



(……っこいつが、こいつがこの町に来たせいで……! ジルも、父さんも母さんも死んだんだ……!)



 ──あの時。


 草原で膝を抱えて泣いていたあの時に、大粒の涙を拭ってくれたその指を、笑顔を、信じなければ良かった。


 あの時彼の本性を見破れずに、家に招き入れてしまったから──みんな、死んだんだ。



「……何でっ……」


「ん?」


「何で、この町に来たんだ……! 何で俺の家で、あんな風に……家族みたいな、振りをしたんだよ……!」



 小さく嗚咽をこぼしながら、トキはアルマに叫んだ。



「殺すなら、もっと早く殺せば良かっただろ!! 何で二ヶ月も、ずっと、善人面して、居座ってたんだ……! 俺は……俺はお前を……!」



 信じていた。信じていたんだ。

 信じて、いたのに。


 どうして。



「……あーあ。馬鹿みてーだなァ、トキ」



 くぐもった笑い声。トキは涙でぼやけた瞳を持ち上げ、彼の背中を睨んだ。



「俺は“仕事”でこの町に来ていただけさ。風の魔女の“遺品”をっていう、大変な仕事任されちまったからな」


「……風の魔女の、遺品……?」


「〈魔女の遺品グラン・マグリア〉っていうんだが……ガキにはまだ早い話かもなァ」



 くく、と笑い、アルマはふと足を止めた。彼はトキの髪を掴んだまま、無理矢理引っ張ってトキの体を断崖の淵に追い込む。



「……っ」


「さーて、この町を守る邪魔な風も消えた事だし、俺の仕事は終いだ。あとは小生意気なクソガキを、ここから谷底に突き落とすだけ」



 にんまりと、蛇のような舌を出してアルマが笑う。トキは涙を止めどなく落としながら、目の前の男を睨み付けた。



「死んだって、俺は絶対お前を許さない……! お前みたいな奴、人間じゃねえ……!」


「……そりゃそうさ。俺は人間じゃないからな」


「……!」


「俺は“十三番目ハイレシス”の。ただの毒蛇さ」



 三日月のように弧を描く口元。その顔の半分が、じわじわと解けるように蛇のような鱗を纏った黒い皮膚に変わった。

 トキは一瞬怯えるように戦慄し、言葉を失う。しかし、やがて彼は己を奮い立たせるように目尻を吊り上げ、毒蛇を睨み付けた。



「……人間じゃないから、何だってんだよ……! 俺はお前なんか怖く無い! 俺が……、俺が! いつかお前を必ず、殺してやる……!」


「……ほう?」



 蛇の目が興味深そうに細められる。

 直後、トキの胸ぐらはガッ、と強く掴み上げられた。



「……!!」


「いいぜ、トキ。殺してみせろ、俺を」


「……っ、かは……!」


「“女神の涙”の光を相殺し、対抗出来るのは──同じ“女神の涙”の光だけだ」



 楽しげに爛々と輝く赤い瞳。トキは涙を落としながら、それを睨み続ける。



「“女神の涙”を手に入れて、俺を殺しに来い。待ってるぜ、弟分よ」


「……っ」


「──じゃあな、トキ」



 ──ドン。


 胸ぐらを掴んでいた節榑立った手が離れ、独特の浮遊感が背筋を駆け上る。──落ちる、と理解したその時、スローモーションのように揺れた視界に、薄紫色の野花が映った。



『──なあ、トキ。あの花、ちょいと洒落た花言葉があるんだよ。教えてやろうか』



 草原に腰掛ける、そんな優しいアルマの言葉が、脳裏に蘇る。



『……はなことば?』


『そうそう、花言葉。そっちの小さい、薄紫の花はトーキットっていうんだ』


『……トーキット』


『お前の名前みたいだろ? 花言葉は──』



 ──“信じる心”。



 トキはぎりっと奥歯を噛み締め、表情を歪めて涙を落とした。


 信じる心、なんて。


 そんなの……そんなもの──。




「──大っ嫌いだ……!!!」




 その言葉を最後に、アルマの姿は見えなくなった。暗い、深い谷底へ、トキの小さな体が落ちていく。


 喉が潰れそうなほど絶叫しながら、彼は闇の中に溶けて。

 ふと柔らかい風がその小さな体を包み込んだ頃──トキの意識は、ぷつりと途絶えた。



 ──もう二度と、人なんか信じない。



 そう、心に強く誓いながら──。




 2




「……ん……」



 チチチ、と小鳥の囀りが耳に届く。

 トキは重い瞼を持ち上げ、ふさふさと頬に纏わり付く毛羽立ったような感触に眉間を寄せた。のし、のし、と足音が響き、視界と体が揺れている。激しく痛む体をよじり、辺りを見れば──自分の体はアデルの背に乗せられて運ばれているようだった。



「……、クソ犬……」


「ガウ!」



 掠れる声で呼び掛ければ、アデルが嬉しそうに尻尾を振る。トキの意識が戻った事がよほど嬉しかったのか、べろべろと執拗に顔面を舐められ、トキは不機嫌そうに顔を顰めた。が、止める気力も無ければ怒鳴る力も湧かない。嫌悪感を露わにした表情で睨むも、アデルは更に顔を舐め回すばかりだった。



(こいつ……後でしばく……)



 苛立ちつつ、チッと力無く舌を打つ。


 何やら長く嫌な夢を見ていたような気がするが、目の前のアデルがわふわふと嬉しそうにしている様子を眺めていると心底どうでもよくなってしまった。

 トキは白銀の背をそっと撫で、もふもふと茂る毛を指に絡める。すると彼は、アデルの背に数カ所、矢で射られたような傷が塞がった跡があるのを見つけてしまった。



「……お前……」


「ウ?」


「……よく、無事だったな」



 数ヶ月前、立ち寄った村の住人によって殺されかけたであろうアデルにぽつりと語りかける。するとアデルは不思議そうに金の眼を丸め、「わふ?」と首を傾げた。

 その能天気な面が、主人であるセシリアを彷彿とさせてつい笑いが込み上げてしまう。



「……ふっ……間抜けな面すんなよ……」


「ガウ?」


「……まあ、無事で何よりだな……。早くアイツにその顔見せてやってくれ……。ずっと、お前のご主人はお前の事を心配して──」




 ──ごめんなさい。




「──……っ……!!」



 不意にセシリアの震える声を思い出し、どくん、と心臓が跳ね上がる。

 アルマによって断崖に立たされ、微笑みながら首を切った彼女の涙が、波のようにトキの脳裏に流れ込んで来た。


 赤く広がる血を流した、腕の中の少女。呼び掛けても目を覚まさない、閉じきった瞼。



「……っあ……ぁ……!」



 冷たくなって行く彼女の肌を思い出してしまい、トキの全身がガタガタと震え始めた。真っ赤に流れる血が広がって、脳裏で微笑むセシリアを飲み込んで行く。



「あああぁ……っ!!」


「!」



 ずるりと、悲痛に叫んだトキはアデルの背から崩れるように滑り落ちた。地面に膝を付き、蹲る彼にアデルが「クゥン……」と心配そうな声を発する。



「はあっ……はあ……!!」



 トキは浅く呼吸を繰り返し、ガタガタと震えながら表情を歪めた。そして咄嗟に、アデルの頭を腕の中に抱え込む。



「……っ……悪い……、俺の、……俺の、せいだ……っ」


「……」


「全部俺のせいで……! お前の、ご主人は……!!」



 トキは声を震わせ、腕の中のアデルをぎゅっと抱き寄せる。胸が押し潰されるような感覚が満ちて、今にも壊れてしまいそうだった。怒りも、哀しみも、喪失感も、全てが一気に襲いかかって──この感情は、一体どこにぶつければいい。


 顔を上げる事が出来ず、腕の中にアデルの頭をしまい込んだまま震えていると、不意に大きな舌がべろりとトキの頬を撫でた。そのざらついた感触に、彼は薄く目を開く。



「……」



 目の前には、金の瞳を真っ直ぐとこちらに向けるアデルの顔があった。凛と澄んだ、強い瞳。──この眼を、彼は知っている。



『──信じません』



 いつだったか、小さな村の檻の中で。

 相棒が死んだと聞かされた聖女様がそう言い放った際の、あの真っ直ぐな、強い意思を秘めた瞳を思い出す。



『私は……アデルが死んだなんて認めません。少なくとも、この目で見るまでは、彼が死んだなんて信じません』



 はっきりと言い放った彼女の、凛とした表情。

 目の前のアデルに、あの時のセシリアと同じような、澄み渡った強い意思を感じて。



「……お前も、見るまでは信じないって、言いたいのか……?」



 問えば、アデルは肯定するかのように「ガウ!」と鳴いた。そのままトキを慰めるように、再び大きな舌が頬を撫でる。


 ざらりと湿ったその感触に、トキはぐっと奥歯を噛み締めた。



「……そう、か……」



 トキはアデルの頭をぐしゃりと撫で、ふ、と乾いた笑みをこぼす。──結局いつまで経っても、俺が一番臆病で、弱いままだ。そうまざまざと感じて、彼はアデルから離れた。



「……わかった。俺も、あいつが死んだなんて信じない」


「ガウ」


「……一緒に帰るぞ、セシリアのところに」


「ガウ!」



 嬉しそうに返事をするアデルに、トキも薄く微笑んだ。そうだ、まずはこの目で確かめなければ。例え生存の可能性が絶望的だったとしても──こうして、アデルは帰って来たのだから。


 そう考え、トキはその場に立ち上がろうと膝に力を込めた。


 ──しかし。



「……っ!?」



 ずくん、と胸が強烈な痛みを放ち、彼の膝は再び折れてその場にくずおれる。「かはッ……!」と苦しげな声を吐き出し、彼は呼吸の仕方すら忘れて激痛に蝕まれる胸を抉るように強く押さえ付けた。


 身体中が痺れるように熱く、脂汗が吹き出す。響く激痛は胸から全身へと廻り、とうとう彼は地面に倒れて声すら出せなくなってしまった。



(何だ、いきなり……っ!)



 どくん、どくん。心臓の音が耳に届いて、全身が弾け飛びそうな程に痛い。とにかく体が熱いが、特に首元に焼け付くような強い熱を感じていた。──そして、彼はこの痛みの原因を理解する。



(──魔女の呪いか……!?)



 トキは目を見開き、汗を浮かべながら痛みと熱に悶えた。ディラシナの街を出て以来の、呪いによる発作。暫く緩和を続けていたせいか、その痛みは呪いを受けた当初とは比べ物にならないほど強い物に変わっている。


 全身に電撃を流されているような気分だった。あまりの痛みに息が出来ず、視界が暗くなる。真横でアデルが吠えているようだが、その声すら聞き取れ無かった。



(……くそ、これは、まずい……)



 呪いを止めたくとも、セシリアは居ない。

 彼の脳裏には明確な「死」が浮かんだ。絶望的なこの状況に、トキはぎゅっと唇を噛む。



(……セシリア……)



 いつだって微笑んで、優しくトキを名を呼ぶ彼女の姿が脳裏を過ぎった。焼けるほどに全身が熱いのに、指先や背中は徐々に、冷たくなって行くような気がする。



(俺は……死ぬのか……?)



 十二年もの月日を費やした復讐も成せず、彼女との誓いも果たせぬまま──死んでしまうのか。



(──嫌だ……!)



 ぐっと歯を食いしばり、呪いに抗う。しかし、体は動かない。


 とうとう視界がぼんやりと歪み、意識が遠のき始める。ああ、もうだめだ、と、トキは半ば諦めかけて目を閉じた。


 ──しかしその時、脳内でキンッ、と劈くような怒号が響く。



「なーにを甘ったれておる、この小童こわっぱがァ!!」


「──!!」



 ゴウッ、と目の前に広がる青い炎。ドグマ──そう理解すると同時にトキは勢いよく炎に頬を殴られ、ガンッ、と強く背後の木に背中を打ち付けた。


 ゴホッ、と忘れてかけていた息を吐き出したその瞬間、彼の懐からころん、と何かがこぼれ落ちる。



「……っ、?」


「何をしておる小僧! さっさとその飴玉を食え!」


「……ドグ、マ……?」


「早く食えと言うておるのが聞こえないのか!? それはあの娘が貴様に託した、非常用のだろう!!」


「……!」



 は、とトキは目を見開き、目の前に落ちている白いキャンディーを見つめた。──それは以前、雨の街マリーローザの酒場で、セシリアが彼に託したものだった。



『実はですね、これ、光魔法を凝縮したキャンディなんです。つまり、クスリの代わりになります!』


『……ただし、一粒の効果はおそらく半日程度ですけど』



 そんな言葉と共に、数粒のキャンディーを渡されていたのだ。いざという時の応急処置にはなりますよ! と胸を張ったセシリアの姿を思い出し、トキは歯を食いしばってキャンディーに手を伸ばした。



 ──ガリッ!



 即座に包み紙を破り、中の飴玉を噛み砕く。するとその瞬間、口の中に暖かい何かが溶けるように広がり──喉の奥へと流れて行った。



「……っ、はあっ! はあ……っ!!」



 徐々に全身を蝕んでいた痛みが和らぎ、トキは荒々しく肺に酸素を送り込む。「クゥン、クゥン……」と悲しげに鳴いて見下ろす金の瞳。アデルのその声がようやく耳に届いた頃、彼の体からは呪いの発作による熱と痛みが完全に消え失せていた。



「はあ、はあ……! っぐ……!」


「ガウ……」


「……っ、大、丈夫、だ……心配すんな……」



 力無く呟き、トキは木に凭れる。するとそんな彼の前に、青い炎がぼんやりとその姿を見せた。



「……全く、この腑抜けが。あの娘が居らぬと何も出来ぬのか? もう少しで死んでおったぞ、貴様」


「……ドグマ……」


「ふん、シケた面をしおって。にも今の貴様の面を見せてやりたいわ、盛大に呆れられるぞ」


「……」



 彼女の口から出た名前に、トキは苦々しく表情を歪めた。深い藍色のストールを靡かせ、金色の髪を揺らす“彼”の姿を思い出す。



「……アイツの名前は……聞きたくない」


「……フン」



 ドグマは呆れたように息を吐き、ふわりと宙を舞った。アデルは物珍しげに、喋る青い炎を目で追いかけている。



の名前を“聞きたくない”とは。孝行の出来ない弟子を持ったと嘆くだろうな、マドックも」


「……何が“師”だ。あいつも、俺を……裏切っただろ……」


「……全く。これだからいつまでも貴様はガキなんだ」



 ドグマはぼそりと呟き、ふわりと舞ってトキの目の前へと降りて来た。火の玉から目を逸らすトキは、虚ろな瞳を眠たそうにゆっくりとしばたたいている。



「またか? 呆れた小僧だな」


「……」


「……まあよい。心地いい夢旅を演出してやるために、貴様に“良い事”を教えてやろう」



 そんな魔女の言葉を、トキは白む意識の中でぼんやりと聞いていた。目の前の火の玉が揺れ、楽しげなその声が頭の中に響く。


 トキはゆっくりと、重たい瞼を閉じて──。




「──あの娘、生きておるぞ」




 ──ぷつん。


 そう紡がれた言葉を最後に、意識を深い闇の底に手放した。




 .

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