第3話 旅立ちの時


 1




 トタン屋根のボロ小屋を出て数分、トキの手を引くセシリアを先頭に、二人は人の気配のない路地へと入り込んでいた。時間が経ってようやく冷静さを取り戻したトキは、呆れ顔で彼女に口を開く。



「……おい、アンタ本当にやる気か?」


「当たり前です! 私に任せてください!」


「……」



 むんっ、と胸を張って進んで行く彼女に頭を抱え、トキは嘆息しながら続ける。



「アンタ、神職に就いてる聖女様だろ? そうそう自分の身を安売りするモンじゃないぜ」


「何故ですか? 人を助けるためであれば自分の身なんていつでも差し出せます!」


「……アンタ本当、よくここまで無事だったな……」



 危なっかしい発言をガンガン投下してくる彼女に心底呆れていると、不意にセシリアが足を止めた。そこはトンネルのような筒状の空間の内部で、人どころかネズミ一匹すら見当たらない。



「この辺だったらいいかもしれませんね、人も来なさそうですし」


「……」



 ぱっと腕を掴んでいた手が離れ、彼女は振り返った。そのままトキの肩を掴み、地面に座るよう誘導される。

 首元を隠していたストールを抜き取られ、至近距離で優しい笑顔を向けられては、いよいよ心底居心地が悪い。



「大丈夫です、私に全部任せてください。すぐ終わりますから」


「……俺は、どちらかと言えば俺の主導で進める方が好きなんだが」


「えっ? それだとちょっと怖いです……。こんな事、初めてなので……」


「……おい、冗談だろ……」



 という事はつまり、何だ、生娘なのか。そのくせ俺に今からそういう事をしようとしているのか──などと考えながら、トキは目の前の聖女様の貞操観念は一体どうなっているのかと心配にすらなってしまう。


 そうこうしているうちに、セシリアは左腕に装着していた長いレザーグローブのファスナーをゆっくりと外し始めていた。ジジジ、とそれが下ろされ、白い腕が徐々に露になる。トキは思わず生唾を飲んだ。



「……そ、そんなに見られていると、恥ずかしいです……」



 ふと、そんなことを言い出したセシリアの言葉によって、トキは自分が無意識に彼女の腕を凝視していたことに気が付いた。ハッと我に返り、彼は気まずそうに目を逸らす。



「……やるなら早くやれよ」


「あ、はい! では……」



 彼女は頷き、トキの前にしゃがみ込んだ。そのまま彼の腰元へと手を伸ばす。その手には、脱ぎ掛けのレザーグローブが未だに半分付いたままで。

 ん……? と訝しげにトキが目を細めた頃──聞き慣れた金属音が、彼女の手元で響いた。



「これ、少しだけお借りしますね」



 穏やかに微笑む彼女の手には、トキが愛用している短剣ダガーが握られている。一瞬状況が理解出来ず、思わずぽかんとしてしまったトキだったが──次の瞬間、彼女が自らの白い腕に短剣の刃先を当てがったことで我に返り、彼はその手を強引に掴んだ。



「バッ……! 何してんだアンタ!」


「きゃっ!」



 カラン、と短剣が地面に落ちる。慌ててその白い腕に視線を向けるが、まだそこには傷一つ付いていない。ひとまず胸を撫で下ろし、トキはセシリアを睨む。



「……おい、アンタ今何しようとした」


「え……、あ、あの、ですから、私の血液を差し上げようと……」


「……はあ?」



 おずおずと答える彼女に、トキは今度こそ深い溜息をこぼして頭を抱えた。なるほど、“自分の身などいつでも差し出せる”というのはこういう事か。



「……そういう方法ならやめてくれ、人の血なんか飲めるか」



 冷たく突き放すように言えば、セシリアは困ったように眉尻を下げる。



「え、あの、でも、これしかトキさんの呪いを止める方法が……」


「アンタ何言ってんだ。“光属性の体液・・”だぞ。別に血じゃなくてもいい」


「……で、でも、他の体液なんて、どうやって……」


「……」



 トキは黙ったまま、じっとセシリアの顔を見上げた。その瞳が酷く飢えた獣のような色味を帯びたように感じて──彼女は息を呑み、肩を震わせる。


 一歩退こうと背後に手を付くも、彼の手が彼女の腕を捕まえる方が何倍も速く。



「──何言ってんだよ。散々期待させといてそりゃないぜ、聖女様」


「……あ、トキさ……、」



 ぐっ、と腕を引かれ、短い悲鳴と共にセシリアの体は壁際に押し付けられた。そのまま両腕を取られ、脚の間に彼の膝が割り込む。逃げ場を失った彼女が震える声で彼の名を呼べば、くぐもった笑い声が耳に届いた。



「こんな人気ひとけの無い場所に、得体の知れない男を女一人で連れて来て、体液を分け与えるって? ……そんなの、一つしか方法が思い浮かばねーよなァ?」


「……」


「神に仕える聖女様がこんなに尻軽とは驚いたが、まさかここでお預けはないだろ。俺はしつけの良く出来た大人じゃないんでね」


「と、トキさ、」


「アンタが悪いんだぞ……、こんな……人っ子一人居ないような場所に、俺を……」


「──トキさん!」



 威圧的な物言いに最初こそ怯えた表情を見せていたセシリアだったが、徐々にその表情は怯えるというよりも焦燥するようなものに変わる。彼女は力の緩まったトキの手を振りほどき、すぐさまその肩を支えた。



「大丈夫ですか!? 顔色が……!」


「……っ!」



 見るからに青白くなったその顔に手を当てる。呼吸が苦しくなり、額に汗が浮かぶのをトキもはっきりと感じていた。



「……っ、はぁっ、……くそ……!」


「大変、呪いが……!」



 セシリアはずるりともたれ掛かったトキの体を支え、ゆっくりと壁際に座らせる。苦しげに呼吸を繰り返すトキの手を握りながら、彼女はそっと短剣に手を伸ばした。



「……っ、やめろ!!」



 その行動に逸早く気付いたトキがトンネル内に響き渡るような声で怒鳴る。セシリアは体を震わせたが、手の中の短剣は握り締めたまま。



「……でも、このままじゃ呪いが……!」


「うるせえ、やめろ斬るな……っ、血は、女の血は、嫌だ……!」


「……!」



 カタカタと、握り締めた手が震える。嫌だ、嫌だ、と弱々しい声で繰り返す彼は、何かに怯えているようだった。

 セシリアは暫くその場に立ち尽くし──やがて、持っていた短剣を静かにその場に置き、安心させるように優しくトキの手を握る。



「……大丈夫。顔を上げてください、トキさん」


「……っ、はあっ、はあ……」


「血は、流しませんから」



 約束します、と微笑む彼女の表情に、強張っていたトキの体からゆるゆると力が抜けていく。そのまま青白い頬に手を添え、彼女は自らの顔を近付けた。



「……だから、この方法に至ってしまった事、どうか許して下さいね」



 その言葉の直後、トキの視界はふっと暗くなる。何が起きたのかと考え至る前に、酸素を求めてだらしなく開いていた唇は柔らかい感触に塞がれ、その隙間からぬるりと湿った暖かい舌が遠慮がちに侵入して来た。



「……!」



 予想外の行動に目を見開くトキだったが、突き放す余力も無ければ応えてやる余裕もない。彼女の舌がぎこちなくトキの舌の上をなぞった頃、こくん、と彼は喉を鳴らした。

 すると徐々に、苦しかったはずの呼吸が正常な動作を取り戻して行く。



「……は、……トキさん、大丈夫ですか?」


「…………」



 ややあって唇を離したセシリアは、心配そうにトキの顔を覗き込んだ。悪かった顔色も正常に戻り始めており、呼吸も苦しそうではなくなったのを確認し、彼女はホッと胸を撫で下ろす。



「良かった……うまくいったみたいですね。これでもう大丈夫です」


「……アンタ、今……」


「……あ……」



 かあ、と頬を赤らめ、セシリアは俯いた。



「……ご、ごめんなさい……! 緊急事態で、血も駄目なら、もうこれしか思い浮かばなくて……!」


「……」


「ほ、本当にごめんなさい! 私なんかと、き、きききキスして体液のやり取りなんて、気持ち悪いですよね! でも、その!」


「……アンタは、」


「え?」


「アンタは、良かったのか、これで」



 淡々と、顔色も変えずにそれだけを尋ねる。セシリアは一瞬ぽかんとした後、照れくさそうに微笑んだ。



「……はい。人の命を救えたんですから、満足です」


「……そうじゃない。初めてだったんじゃないのか? その相手が俺で良かったのか」



 問えば、セシリアはきょとんと大きな瞳を瞬かせる。次いで、うーんと顎に手を当てて何かを考え始めた。



「……記憶がないので、以前のことは正直よく分かりませんけど……」



 ふふ、と小さく笑い、彼女は顔を上げる。その表情はやはり、穏やかだった。



「トキさんみたいに優しい人が初めてのお相手で、私は良かったですよ」


「……」



 ──馬鹿じゃないのか、と言葉が出かけて、寸前でそれを飲み込む。

 何が優しい人だ。さっきアンタを壁際に追い詰めて、脅しを掛けていた男は一体誰だと思ってるんだ。



「……さっき襲われそうになった男を“優しい”なんて、アンタ全く男を見る目がないな」



 言いたいことは山ほどあったが、皮肉も込めてそんな軽口を叩いておく。しかしやはり彼女は笑顔を崩さず、先ほど開いたグローブのファスナーをジジジ、と上に引き戻した。



「……トキさんはあの時、本気で私を襲ったりしようとは思っていませんでしたよ」


「……はっ、随分余裕だな。あの時発作が来て無ければ、アンタ今頃素っ裸で俺に脚開いてたかもしれねーのに」


「いいえ、それは絶対に有り得ません」



 セシリアはファスナーを一番上まで引き上げ、落ちていた短剣を拾うと、刃先を持ってトキに差し出した。



「──だって、私の初めてのキスの相手が自分でいいのかって、心配してくれたでしょう? ……そんな人が、もっと大事な初めてを無理矢理奪うはずがないですから」


「…………」



 ふふ、と微笑む彼女の穢れのない瞳に真っ直ぐと見つめられ──トキは居心地悪そうに目を逸らす。チッ、と舌打ちを放った彼は差し出された短剣を乱暴に引ったくり、鞘に戻すとその場に立ち上がった。



「……俺の負けだ、聖女様」




 2




 路地を出て、街の中心部に戻る最中、トキは先ほどよりも体が随分と軽くなったように感じていた。おそらく呪いの進行が止まったからだろうと一人納得し、淡々と歩いて行けば背後から苦しげな声が上がる。



「と、トキさん……!ちょっと待ってください、速いです……!」


「……アンタがチンタラしてるんだろ。さっさと歩け」



 命を救ってくれた恩人が相手だというのに、態度の悪さは相変わらずである。しかしそんな悪態にも慣れて来たのか、単純に彼女の心の器が広いのか。ごめんなさいと一言謝って、セシリアはようやく彼に追い付いた。



「……あ、あの、これからどこへ行くんですか?」


「魔女を追うんだよ。北の果てを目指す」


「え……じゃあ、もうこの街を出るんですか?」


「そうだな」



 淡々と告げれば、セシリアは一瞬目を伏せ、きょろりと周囲を見渡した。その後しばらくキョロキョロと何かを探すように辺りを見回していたが、目当てのものは見当たらない。表情を曇らせ、彼女は俯く。



「……あ、あの」


「何だ」


「……私も、連れて行ってもらっていいですか?」



 恐る恐る尋ねれば、見上げずとも分かるほどに嫌そうな視線が降りてきた。この反応は予想出来ていたが、セシリアも簡単には引き下がらない。



「あ、あの宝石は元々私のものです。トキさんは魔女から奪うと言っていましたが、それは違いますよ。私から奪うべきなんです!」


「……」


「そ、それに、トキさんにとっても悪い話じゃないはずでしょう? だって呪いの進行を止めるには私の体液が必要なんですし。私がいないと死んじゃいます!」



 ね? と上目遣いに見上げて来る彼女にトキは嘆息し、「へえ、」と口火を切ると唐突に彼女の顎を捕まえる。そのまま端正に整った彼の顔が目の前に迫ると、セシリアは目を丸めてその場に固まった。

 そんな彼女の耳元に、彼の掠れた声が囁く。



「……つまり、アンタがこれから毎日、俺にキスして呪いの進行を止めてくれるってわけだ」


「……えっ!?」



 耳の中で響いた低音に、カッとセシリアの頬が一気に熱を帯びた。思わず彼から距離を取り、忙しなく早鐘を打ち始めた鼓動を落ち着かせながら彼女は首を振る。



「そ、そんな言い方は良くないです! ふしだらですよ!」


「何も間違ったことは言ってないだろ」


「そ、それは、そうなんですけど……!」


「楽しみだねえ。破廉恥キス魔の聖女様が、俺に毎晩ご奉仕してくれるんだと。呪われんのも悪くねえな」


「ちょ……! その言い方やめてください!」



 ううう、と顔を赤くして目を泳がせるセシリアをひと通りからかった後、彼は再び歩き始めた。そんなトキに悔しそうな視線を向け、彼女もまた彼に続いて歩き出す。



「も、もう! 嫌がっても勝手に魔女のところまで付いていきますからね!」


「ご勝手にどうぞ聖女様」


「その聖女様っていうのもやめてくださいっ! もー!」



 不服気な彼女の声を背中に受けながら、トキは淡々と歩いていく。

 街の中心部が程近くなるに連れ、耳に届くざわめきが徐々に大きくなって行った。元々それほど活気のある街ではないだけに、トキは訝しげに目を細める。



「……やけに騒がしい」


「え……」



 ぼそりと呟かれた声に顔を上げると、街の方から突如悲鳴のような声が響き渡った。トキはすぐさま武器に手を掛け、セシリアは肩を震わせる。



「な、何事でしょうか……!?」


「……どうも穏やかな空気じゃ無さそうだな」



 トキは戦闘態勢に入ったまま、街の中心部へと足を踏み入れる。セシリアもそれに続き、出来るだけ物音をたてないよう慎重に彼の後を追った。

 そうして二人が騒ぎの元凶である大路に辿り着いた時、破壊音や悲鳴は更に大きくなっていて。



「おぉい!! 俺様の金を盗んだゴミはどいつだァ!? ああ!?」



 ガシャァン! と瓶や窓ガラスの割れる音が響き渡る。街の中心で大きな鉄球を振り回している大男は、怒号を上げながら手当り次第に人や物を殴り飛ばしていた。


 その大男の顔には見覚えがある。



(今日、俺が金と宝石スった男か)



 よく見れば、そいつはつい何時間か前にトキが金品を拝借した大男であった。金が盗まれたことで酒による酔いも冷めたのか、激怒しながら前にも増して大暴れしている。



(……俺が盗んだとはバレていなさそうだが、見付かったら面倒だ。ここは見付からないようにやり過ごすのが妥当か)



 そんな考えを巡らせていた時──ふと、彼は背後から忍び寄る影に気付いてハッと目を見開いた。

 チッ、と舌打ちを放ってセシリアの体を抱き上げ、すぐさま地面を蹴ってその場から離れる。



「きゃっ……!?」



 ──ドゴッ!


 その一秒後には、二人が無事回避したその場所に棍棒の重たい一発が叩き込まれていた。



「……あーん? 外したか。すばしっこいネズミだぜ」


「……チッ」



 二人が振り返った先では、大男の付き人の一人がくつくつと不気味に笑っている。そういや何人か周りに仲間がいたな、と思い出し、トキはセシリアを背後に隠した。



「と、トキさん……!」


「……アンタに死なれちゃ俺が困るんでな。不本意だが守ってやる」


「おーおー、一丁前に女を守る騎士様気取りかぁ? ドブ川のゴミのくせに生意気なこった!」



 くくくっ、と愉快そうに笑って、男は棍棒を肩に担ぐ。そのままトキの背後に隠れているセシリアへと視線を移し、舐めるような目付きで彼女を眺めた。



「ほお〜、まだガキだが、ネズミの女にしては上玉じゃねえか。旦那様の夜のお相手に丁度良さそうだ」


「……残念だが、コイツはやれねーな。俺の夜の相手で忙しいんでね」


「へっ、ゴミが生意気な」



 軽口を叩きながら短剣を構え、そっと懐に手を忍ばせる。視線だけを動かして退路を確認すると、背後のセシリアに小声で耳打ちした。



「俺が合図したら、真っ直ぐ西へ走れ」


「……! ……は、はい」



 彼女も小声で頷き、ぐっと両手を握りしめる。トキは一歩ずつ静かに後退し、目の前の男が棍棒を大きく振り上げたその瞬間、懐に隠していたあるものを投げ付けた。



「今だ! 走れ!」



 バンッ! と鈍い爆発音が響き、一瞬で周囲に煙幕が立ち込める。男は怯んで動きを止め、二人は一目散にその場から逃げ出した。



「……く、クソ! 旦那様ァ! そちらにゴミ共が!」



 棍棒を持った男が叫ぶ。すると、旦那様と呼ばれた大男が額に青筋を立てながら鉄球を構えて振り返った。

 しかしトキは大男に目をくれることもなく、関わるまいとひたすら足を止めずに走って行く。



「おい、構うな! さっさとここを抜けるぞ!」


「はい!」



 力強く返事して、セシリアも彼を追った。しかしその刹那、彼女目掛けて石のつぶてが凄まじいスピードで飛んできたことでその足は動きを止める。



「……うっ……!」



 投げられた石は彼女の目の上に直撃し、方向感覚を失った体がふらりと前のめりに倒れ込んだ。



「……!」



 即座にトキも足を止め、彼女の元へ引き返そうと地面を蹴る。しかし、大男の手がセシリアの髪を捕まえる方が早かった。



「……うあ……っ」


「何だァ? 可愛い女の子がいるんじゃねえか、こんなゴミみてえな街でもよォ」


「い……っ!」



 ぐぐっ、と髪を引っ張って無理矢理彼女を立ち上がらせ、大男が舌なめずりをする。石のつぶてがぶつかった瞼を腫らし、彼女は恐怖に震えながらトキを見つめた。



「さ、先に行って、くださ……」


「……」



 声を震わせ、彼女は真っ直ぐとトキを見つめて言い放つ。

 普段の彼ならば、すぐにでも彼女を置いてこの場を離れられただろう。しかし、今の自分は呪われた身。彼女を置いて行けば遅かれ早かれ呪いに蝕まれて死んでしまう。



(……チッ、面倒なことになったな)



 自分の身を守るためとはいえ、まさか他人のために力を使うことになろうとは。気乗りはしないが生きるため、自分の野望のためには仕方が無い。


 彼は右手の中指に嵌っている金の指輪の位置を確認すると、手のひらの中心に魔力を集中し、大男を睨んだ。──しかし、その時。



 ──ドゴォッ!!



「ぐわぁッ!?」


「!?」



 突如大男の体が真横に吹っ飛び、セシリアから手が離れる。短い悲鳴を上げて地面に倒れ伏した彼女は、震える手足に力を込めて懸命に立ち上がり、トキの元へと駆け寄って来た。



「と、トキさん! 大丈夫ですか!?」


「……いや、大丈夫も何も……」



 今、一体何が起きた。

 そう言葉になる前に、砂煙の中から大男の悲鳴が響き渡った。



「う、うわあああ!!! た、助け……助けてくれ!! やめろ!! うわああああ!!」



 ガリッ、バキッ、ゴキッ……。


 むごい音が響き渡り、トキは顔を顰める。断末魔の叫びを上げていた大男の声は徐々に弱々しくなり、やがて何も聞こえなくなった。


 一体何が起こっているのか、と砂埃の舞う瓦礫の中を確認する前に、飛び込んできた何者かがゆっくりとその姿を現す。刹那、別の付き人の男が悲鳴のような声を上げてその場から逃げ出した。



「……ま、魔物だ! 魔物のオオカミだァ!!」


「!!」



 ざわっ、と周囲がどよめき、トキは短剣を構える。ようやく引いてきた砂煙の中から現れたのは、大きなオオカミの魔物だったのだ。

 オオカミはグルルル、と牙を剥き出し、周囲を威嚇している。



「……な、何でこんな街の中に、魔物が……!?」


「こ、殺される……!」



 周囲がそんな声を発して逃げ惑う中、トキは短剣を構えたまま呆然とそのオオカミを見つめていた。そいつの首元には袋のような白っぽい物体がぶら下がっており、更に彼は眉を顰める。



(……何か持ってる……?)



 彼が注意深くそのオオカミを観察していると、不意にブロンドの長い髪がふわりと視界で揺れた。



(……え)



 トキは思わず目を見開き、そのブロンドを視線で追う。なんと今の今までトキの背後に隠れていたセシリアが突然飛び出し、あろう事かオオカミの魔物に向かって走り出していたのだ。



「……っ!? おい!」



 呼び止めるが、立ち止まる気配はない。トキは焦ったように地面を蹴り、彼女に手を伸ばした。



「バカ、アンタ何考えて──」


「──アデル!!」



 …………は?


 思考がぴたりと停止する。彼女はオオカミに向かって“アデル”と呼びかけ、その大きな体に飛び込んで行った。

 もふん、と、白銀の柔い毛並みがセシリアの体を包み込む。



「アデル! 良かった! 無事だったのね!」



 暖かいその体に頬をすり寄せると、オオカミ──アデルは嬉しそうに目を細めて彼女の頬を舐めた。セシリアは安心しきったように微笑んで、アデルの頭を撫でる。その様子は、もはや大きな犬と飼い主のようにしか見えない。


 取り残されたトキは、ぽかんと呆気に取られてそのやり取りを見守るばかりだった。そんな視線に気が付いたのか、セシリアがハッと我に返ってトキの元へ駆け寄る。



「あ、ご、ごめんなさい。びっくりさせちゃいましたよね……」


「……どういう事だ、これは」



 戸惑いつつ尋ねると、セシリアは石のつぶてに当たって腫れ上がった目を細めて微笑んだ。



「彼はアデルといって、私の大切な仲間です。ここへ来るまで一緒に行動していたんですが、途中ではぐれてしまっていて……」


「……ああ、そんな話はさっき聞いた気がする……んだが……」



 まさか、その仲間とやらが魔物だとは思っても居ない。トキは呆気に取られたままアデルとセシリアを眺め、成程、どおりで女一人でも無事にここまで辿り着けたはずだ、と妙に納得してしまった。


 周囲を見渡せば、先ほどの大男の付き人達は全員散って行ったようでどこにもそのような人物は見受けられない。肝心の“旦那様”も生きてはいるようだが、オオカミの襲撃によって完全に伸びてしまっている。

 まあいいか、と息を吐いて短剣をしまったトキの前で、先ほどまでピンチだったはずの彼女は呑気にへらへらと微笑んでいた。



「良かった。はぐれていたアデルとも再会出来て」


「ガウ」



 ふさふさとした銀色の毛並みを撫でて満足げに微笑む彼女にトキは眉間を寄せ、暫く視線を泳がせた後、彼は恐る恐ると口を開く。



「……おい、まさかとは思うが……そいつも連れて行くのか?」


「? 当たり前です。仲間ですもの」



 さも当然、と言わんばかりに即答した彼女の答えにトキはくらりと目眩がしそうだった。ちょっと待て、ちょっと待てよ、と脳内だけで状況を整理するが、纏まるはずも無い。



「……冗談だろ……」



 呪いのせいで得体の知れない記憶喪失の女を連れ回す羽目になっただけでも億劫だというのに、更に魔物まで引き連れて魔女の元を目指さねばならないのか。──そう考えると酷く頭が痛くなって、トキはそれ以上考えるのをやめた。否、諦めた、という表現の方が正しい。



「はあ……。あの大男が起きる前に、さっさとこの街出るぞ」


「はい!」



 完全に諦めきった彼の言葉にセシリアは笑顔で頷き、アデルと共にトキの背中を追い掛けて行く。魔物を引き連れた事でその後の彼らの進路を塞ぐ者は現れず、むしろ蜘蛛の子が散るように人が離れて行くばかり。

 居心地悪いことこの上ないな、などと考えながら、トキは長年暮らしたディラシナの街から旅立つ事となったのだった。


 そんな彼らの後ろ姿を酒場の二階の窓に腰掛け、ぼんやりと眺めながら煙草を吹かしている影が一つ。彼は密やかに微笑み、ふう、と光のない空に向かって煙を吐く。



「……達者でな、トキ」



 店主マスターは呟き、鳥籠から巣立っていく雛鳥を見るような眼差しで彼を見送って、短くなった煙草を灰皿の上に押し潰した。




 .


〈掃き溜めの街と根無し草……完〉

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