3-5 バスジャック
ロープウェイに再び乗り込み、元の駐車場に戻った。
千鶴は博物館で消えてから現れていない。
〈橋内高等学校3号車〉というバスの表示を車外から確認すると、運転席に座っている制帽の父親と目が合った。いくつもの感情が混じった複雑な表情――。なにかあったのだとすぐにわかった。土井に会ったのだろう。すでに、金の受け渡しが済んだのか。
バスの階段を上がると独特の匂いが鼻をついた。バス特有のこの匂いは、ディーゼルの燃料由来のものなのだろうか。桃子はこの匂いが好きだった。父親の服から、いつもこの匂いがしていた。
「お父さん、なにかあったの?」
「大丈夫だよ」
そう言ってくれて、笑顔まで浮かべたが、こびれついた違和感は拭えない。父親は、おそらく憂に事情を話しているはずなのに、桃子には何事も悟られたくない様子で、土井とのことを隠し通すつもりのようだった。結果、何も起こらなければそれでいいが、憂によると自分と父親の二人は、このあとすぐ死ぬことになっている。
何か言ってくれないかと父親の前に立っていたが、「どうしたんだ?」と、変わらぬ様子を作る父親。
「いいの……」
と、それだけ言って、桃子は自分の座席に戻った。
車内には半数ほどの三組の生徒がすでにバスに戻ってきていて、桃子も席につく。
どすん、と憂も桃子の横に座った。
「お前の親父さんに、土井が現れたらすぐに呼ぶようにお願いされた。関心がないようにしてるけどさあ、親父さん、なにかあれば自分でお前を守るつもりだったんだよ」
「そうなの?」
「携帯に連絡してくれって番号を教えてくれて、だから今日は携帯片手にずっと緊張してたはずだよ」
憂は沈んだ桃子の顔を笑顔で覗き込み、
「実はこの席、不正して手に入れた。何度もやってりゃこれくらい簡単さ。クジの位置を覚えたから」
と、ことさらに明るい声音で言った。
「そうなの?」
「やがて、お前を守る」
「ありがとう……」
クジの結果を「偶然は面白い」と思っていたのだが、そういうことだったようだ。
そして優は溜息をして、急に怖い顔になり、
「金の引き渡しはすでに終わってる。俺は、ロープウェイに乗らないで、お前の親父さんを監視していた回がある。土井はバッグに入った二千万円を受け取った。今の親父さんはきっと安心してるんじゃないか。ようやく終わった……。だが、二千万円という大金が惜しい。あの金は、お前に残したいと考え始めていたんだ。そういう話を、お前の親父さんに聞いて確認したこともある」
「いつかの回で? 憂くんって、推理ができたわけじゃないのね。何度も繰り返していたから、起こることを知っていただけ」
「……今、親父さんは安心しているが、土井がこのあとバスに乗り込んでくる。その展開を、どうやっても俺は防げない。土井はプロボクサーだったんだ。何度戦っても勝てない」
「何度も戦ったの?」
「だが、やがては勝つ」
「ありがとう……」
桃子は、憂の鼻の絆創膏に手を伸ばした。何度も張り直して、いつも怪我だらけ。ちょっと逃げるような仕種をしたが、桃子の指先を憂が受け入れる。その赤味を帯びた温かい頬にも触れる。自分のために、こんなに頑張ってくれていた……。本当は緊張して、クラスメイトとも普通に会話ができないはずなのに。
「でも、もういいの。憂くんは自分の人生を大切にして。どんなことがあっても、私はそれを受け入れる」
憂は、その桃子の決意には返事をせず、
「……土井が、もうすぐ刃物を持ってバスに乗り込んでくる。それで、生徒たちを車外に出す。バスが発進すれば、俺はもうどうにもできない。また、四週間前で会おう。大変なこともあるけどさ、人生の時間が増えると思って、むしろ楽しんでいこうぜ」
あかるい感じで憂は桃子に片目を瞑った。口角も上げている。だが、その瞳に悲しい翳が宿っているのを桃子は見逃さない。憂は、これが最後の回だと疑い始めている。後戻りしたくても、もうできないかもしれない。
桃子の母親が亡くなったのは、あの事故のすぐあとだった。
その記憶も桃子に蘇っていた。
(千鶴が、お父さんと私を悲しませるために、お母さんを奪った……)
胸が締め付けられて痛い。
あの事故は、千鶴が呪って起こしたものだと、そのタイミングが教えてくれている。千鶴はあれから、桃子に影のように寄り添い、桃子たち親子が苦しむ姿を満足しながら見守っていた。そしてついに、その命を引き上げに来た。
ねえ、千鶴――。
胸の中の千鶴に話しかけた。
――そこは辛いところなの? でも大丈夫。これから先は、私がずっと一緒にいてあげるから。だから、お父さんを許してあげて……。
「――みんな、降りろ!」
しわがれた怒声が車内に響いた。
包丁を手にした土井がバスに乗り込んできたのだ。
一瞬の静寂があり、女生徒たちの空気を切り裂く悲鳴が車内に広がった。
「何もしない。降りろ」
また、土井が言った。目は充血し、火花が散るように鋭いが、落ち着いた声音だ。バスガイドが冷静に対応して、生徒たちを車外に誘導する。
「じゃあな、四週間前で待ってるぜ」
憂が、桃子の肩を打楽器を叩く調子で軽く叩いた。その手に触れようとしたが、憂はパッとその手をひらき、桃子にさよならの合図を送った。桃子も戸惑いながら手を振る。憂と同じ色の笑顔を浮かべたかったが、泣きたくなって眉尻を下げた。
「憂くん、ずっと守ってくれてありがとう」
それだけを言った。
「うん――」
と、憂は血色のいい笑顔を浮かべ、そしてその背中が小さくなる。
もう手を伸ばしても届かない。繰り返しが本当でも、今の自分は消えてしまう。
「君は、そこに座っていろ」
土井が桃子に包丁の切っ先を向けて指示を出した。言われなくても、桃子に動くつもりはない。土井が包丁を運転席の父親に向けて無言の威嚇をしている。バスガイドが最後に外に出されて、車内に残ったのは父親と桃子、それに土井の三人だけ。
「閉めろ」
土井の低い声が響く。
プーッ、と開閉の警告音がして、扉が閉まる。
「東名高速道路に行け。第一の上り方面。言う通りにすれば娘は助けてやる」
土井の手の鋭利なものが青白く光る。
父親の引き攣った横顔がちらりと見えた。
バスが発進する。
土井の手には包丁。それにあの茶色のバッグが握られている。二千万円が入っているというバッグ。これから起こることは逃亡中に起こる事故なのだろうか。それとも、自暴自棄になった土井が、桃子たちと心中するのか。桃子は、どうすれば父親が救えるのか考えていた。とにかく、バスをどこかに停車させなければならない。
千鶴の魂は今、どこに居るのだろう。胸が苦しい。誰かに強く押さえ付けられているかのよう。
「千鶴……?」
小さく呼んでみたが、その姿は現れない。桃子は心の中で彼女に訴えた。
――ねえ千鶴、聞いてる? 土井さん……、あなたのお父さんに、あなたの姿を見せることはできない?
「ねえ千鶴、出てきてよ……」
唇で伝えても返事はない。
――千鶴、お願い……。
バスが高速道路の料金所に入ってゆく。外の人は誰も異変に気付いていない。
――お願い千鶴。あなたのお父さんを止めて。これからは、私がずっと一緒に居てあげるから。もう寂しくないから……。だから、もうこんなことは止めて。ずっとずっと、私が一緒だから。
――おとうさんがね、いないんだよ……。暗いよー、暗いよー……。
「千鶴……?」
土井がこの車内にいる。
それなのに、土井の姿が千鶴には分からないようだ。
――千鶴、私とずっと一緒にいたの? 私だけがそこから見えて、ずっとずっと一人ぼっちだったの? そこから、お父さんを探していたの? あなたのお父さん、今ここに居るんだよ。ほら、すぐそこに。もう一度、出てこれないの?
そのとき、赤い光が窓の外で点滅した。
耳をつんざく音が空気を震わせて響く。パトカーのサイレンだ。
パトカーがバスの横を通り過ぎ、そして前方を塞ぐように走り始めた。パトカーの助手席から、警官が赤い指示灯を出して振っている。方向指示器が左を示して点滅して、バスに脇に寄せて止まるように指示を出している。
「よかった……」
憂が通報してくれたのだ。
後ろの窓を見ると、バスの後方にもパトカーが赤色灯を光らせて走っている。これで桃子たちは助かる。
「スピードを緩めるな。追突させろ!」
土井が包丁を父親に向けて何度も振る。今にも刺すような勢いだ。
「早く行け! 娘を刺し殺すぞ!」
エンジンの回転数が唸るように上がった。低音がバスを震わせる。追突されそうになった前方のパトカーが速度を増し、土井がそのパトカーに向かって包丁を振った。止まらない意志を示している。
「あんなのぜんぜんだめ」
「あ……」
前の方の座席から、憂がひょこっと顔を出した。にやにや笑って、バスの中央付近の元の席に「やれやれ」という感じで座る。
「通報したってだめなんだよ。走ってるバスを、外からなんか止められないからな」
「憂くん?」
「いやー、今回はどうなってるんだろうな。降りるふりをしてバスに隠れることを何度も試したけど、いつも失敗していた。でも、今回はなぜか成功しちゃった」
「成功しちゃったって」
安心したような笑顔を憂が浮かべる。まるで、遅刻しそうになったバスに間に合って、ほっとしたかのようだ。でも、これは死のバス。
「なにしてるのよ……。このままだと、あんたも死んじゃうよ?」
「死なないように頑張るさ」
「ノンキな顔で笑わないでよ」
オアシスのような憂の笑顔。
通報したのは他の生徒か、バスガイドか。
土井が、突如現れた憂に向けて、包丁の先を向けて上下に振った。「そこで座っていろ」という指示だ。制服姿の憂を見て、逃げ遅れた生徒が残っていただけと思ったようだ。
「ここで、俺のボクシングの腕が役に立つ結末といこう」
拳を揉むような仕種をして気合いを入れる憂。彼は開き直っているのかへらへら笑っている。アドレナリンが放出しまくっているのか。
「弱いから無理よ。土井さんって元プロボクサーなんでしょ? 向こうの拳は凶器なのに、あんたのそれはお豆腐よ。飛び降りて逃げなさいよ」
「や、やめろ!」
憂の腕を引っ張って窓の外に出そうとしたら、憂が血相を変えて桃子の手を振り払った。窓も開いてないのに、本当に落ちるわけがないのに。
わっ……
と、窓の外に白く光るものが舞った。窓に一瞬、その一枚が張り付いて、すぐにどこかへ飛んでいってしまった。
一万円札だ。
土井が、前方の窓を開けてバッグの中身をぶちまけている。
「こんなものが欲しかったわけじゃねえんだ!」
土井が空になったバッグをバスの床に叩きつけた。
「ふざけんな、金なんていらない。千鶴を俺に返せ! お前は俺からすべてを奪った!」
土井が恐ろしい形相になって、運転する父親の胸倉を掴む。
「きゃあっ!」
バスが蛇行する。必死に座席に掴まる。もう、間に合わないのか――。
しばらく揺れ、バスの蛇行がゆるやかになり安定した。高速道路を疾走する。パトカーが距離を取ってバスを追走している。
窓際に座る桃子、その隣の憂、通路を挟んだ向こうの座席に女子生徒が一人座っていた。
「千鶴……」
向こうの座席に座った千鶴がこちらを見ている。薄く思惑ありげに微笑み、桃子と目が合うと千鶴は軽く一回うなずいた。
「千鶴、あなたのお父さんが見えないの?」
土井のことだ。
千鶴の恨みに操られる土井……。だが、千鶴自身がそれに気付いていない。まるで目的を完遂するためだけに走り続ける車のよう。そうでなければ、こんなことは出来ない気がした。
目的の完遂とは、桃子たち親子を殺すこと。
自分を暗闇に閉じ込めたと思い込んでいる。そこから、脱出したいと願っている。
座席に座った千鶴が、小鼻にキナ臭いわらい皴を寄せて桃子を見つめている。額に幾筋もの強い皺が出来ていて、血管が浮き出てくるような恐ろしい顔。
憂は、今まで何度やってもこのバスには乗り込めなかったという。今回乗れたのは、もう繰り返すことができない最後のバスだからで、最後に千鶴は憂も連れて行こうとしているのか。このままバスを谷底へ転落させる――。
「千鶴、もう止めろ!」
憂にも千鶴が見えているようだ。
「もう止めろ。こんなことをして何になる。寂しいのはお前だけじゃない。人は寂しさを抱えていつも生きてるんだ。甘ったれんな」
千鶴はそれを聞いて悲しそうな顔になった。
眉尻が下がり、どんどん下がり、大粒の涙が二重の奇麗な瞳からぽろぽろ落ちてくる。それを千鶴は拭おうともしない。くしゃくしゃの顔で泣き、桃子たちを見つめる。
憂はそんな千鶴に言った。
「甘ったれんな。辛いのはお前だけじゃない。桃子を自由にしろ。連れて行きたければ、俺を連れていけ!」
桃子が憂の腕を引いた。叱ったら、逆効果になるのではないか……。泣いていた千鶴の目がだんだん吊り上がり、恐ろしい顔になって桃子たちを睨んできた。涙はもうない。髪の毛が逆立ち、顔が黒くなり、そして姿が見えなくなり、気付いたら元の車内に戻っていた。
「……だめでしょ、あんな言い方をしたら」
桃子は興奮する憂の腕に手を添えた。
「だめよ。女の子には優しくしないと。やり直しになって千鶴がまた目の前に現れたら、今度は優しくしてあげて。特別だって誰にでもわかるくらいにベタベタに優しくするの。甘い声もかけてあげて。あの子、ずっと寂しかったんだから」
「だが、もう戻れないだろ。土井を止められなければ、俺も死ぬんじゃないか?」
「憂くんが死んだら戻れないの?」
繰り返しのルールがわからない。
憂もわからないのか、
「しらねーよ、死んだことないんだから」
と、片頬を膨らませる。
「私だってわからないよ」
三十一回も死んだのは別の自分だ。今の自分は、誕生から十七年間、ずっとひとつの糸を辿って歩き続けてきた。
「ねえ、憂くん」
桃子にはひとつだけ、どうしてもわからないことがあった。
「憂くんは、どうしてそこまで私のためにしてくれるの? どうしてそんなに頑張ってくれるの?」
「……………………」
「なに?」
教室での憂がオーバーラップした。憂は、うつむいてぶつぶつ言っている。
「なに? 頑張って言ってよ」
「――お前が、好きだからだ!」
ぱん!
と、胸の中で何かが弾け飛んだ気がした。
(死にたくない……。そんなことを言われたら、死にたくなくなるよ……)
どうしてこんなときに言うのか。
憂の方がずっとバカだと思った。空気を読むとかタイミングを計るとか、そんな気遣いをぜんぜんしない。四週間前に戻って繰り返しになれば、それをもう一度自分に言ってほしい。今の自分はどこへ行くのだろう。消えたくない……。
「死んだらだめだ。死ぬのは許さない。もうお前が死ぬのを見るのはたくさんだ。千鶴! 桃子を連れていくな。やめろ!」
憂がまた、興奮している。
立ち上がった憂の腕を桃子は引いた。座席に座らせてその手を握ると、憂が握り返してきた。大きくて、ごつごつしていて、絆創膏が貼ってある温かい手。
土井が、ポケットから小さな酒瓶のようなものを取り出した。酔っている……と桃子は思ったが、そうではなく、用意した火炎瓶のようだった。ライターを出して酒瓶の先に火を点ける。片手に包丁、片手に火炎瓶。
「行け! もっとスピードを上げろ!」
バスはパトカーを何台も従えたままスピードを増す。
――あれ、バスが止まってる。
不思議な映像を桃子は見た。
――いいえ、動いてる。
スローモーションのように車外の景色が動いている。パトカーも外に走っている。ゆっくりと赤色灯が点滅をしている。――
「……ろ、…………おい、しっかりしろ!」
憂が、桃子の肩を揺すっていた。
「今のことを覚えてるか?」
「……なにを」
「今、お前は俺に『一緒に死のう』と言った。あれはお前だったのか?」
「一緒に死のう? 私が憂くんにそう言ったの? 言ってない。私、言ってないよ! だって私、死にたくないもん。千鶴と一緒に居てあげてもいいって、さっきまで思ってたけど、でも、やっぱり死にたくないもん!」
涙で憂の顔が霞む。桃子は憂の手をしがみつくように力いっぱいに握った。
「やっぱり千鶴が、私の中に……」
憂のことが思い出せなかったのは、千鶴が桃子の中に入っていたためだ。寂しくて、どうしていいかわからなくて、桃子の身体の中に入って、ずっと千鶴は一緒にいた。
「そうか……。だから私は早く家に帰りたかったのかも」
千鶴は、桃子の父親が怖かったのではないか。桃子の父親が自分を殺したと思っている。
――あれは事故……。
だが、千鶴からしたら、桃子の父親は恐ろしい人で、死んでからも近寄り難い存在で、自分の前に立ちはだかっていた。
千鶴は亡くなってから、心が近い桃子と一緒に居て寂しさを紛らわしていた。桃子が家に入ると、千鶴は父親を避けるために桃子の心から離れる。桃子は無意識のうちに付きまとう千鶴を避けようと、早く家に帰りたかったのかもしれない。
「ちがうの……。これは本当の私よ」
桃子の唇が勝手に動く。
「いいの。千鶴が求めているのなら、私は死んでもいい。憂くんも一緒に行こう。私たち三人は、いつも一緒だったじゃない」
「そうしたいのか? 今は本当のお前か?」
「……うん。私だよ」
「お前がそれでいいなら、俺は……」
憂は、土井に飛びかかる機会を伺っていたようだ。力を抜き、座席に腰を「どすん」と落とした。「ふーっ」と、大きな溜息をして天井を見つめる。
「あはは……」
なぜか憂は、あかるい笑い声をあげてバスの天井を見つめる。
――憂くん、あきらめたの? 憂くん、違うの。今の言葉を言ったのは千鶴……。私の身体に乗り移っている。
「私たちは一緒だよ。三人とも」
――違う。それを言っているのは千鶴。助けて、憂くん助けて……。
こわいよー、こわいよー……。私を一人にしないでよー……。
――千鶴、寂しかったんだね。でも、ごめんね。私はやっぱり死にたくない。できたらこの先を見てみたい。歩んでみたい。ごめんね千鶴、ごめんね千鶴……。
左の胸が熱い。
声は出ないが、身体は重いながらもなんとか動く。
左胸から生徒手帳を取り出すと、土井の折ってくれた和紙製の折り鶴が出て来た。生徒手帳に挟んでいたものだ。
桃子は心の中で語りかけた。
――千鶴、この鶴は土井さんがあなたを想って、あなたの供養のために折った物なんだよ。土井さんの部屋には、これがたくさんあるんだよ。毎日毎日、あなたのことを想って折っていたんだよ。
――おとうさんが?
舌足らずの千鶴の声が胸に響いた。
――土井さん……。あなたのお父さんは、このバスの中に居るんだよ。ほら、すぐそこに。
桃子は運転席に向かい、赤い折り鶴を土井に見せた。
――土井さん、わかりますか? 千鶴ちゃん、ここに居るんですよ。
桃子の手のひらの折り鶴を見つめる土井。
今ここに、折り鶴と重なるようにして千鶴が存在している。千鶴が土井を見つめている。
土井の瞳に涙がいっぱいに溜まり、やがて溢れるように大粒の涙が頬を伝って流れ落ちた。土井にも、その姿が見えている――。
「ああ、千鶴……。大きくなったね……。お父さんが悪かった。いいお父さんになりたかったけど、だめだった。だめだったんだ……」
――おとうさん……。ずっと探してたんだよ。私のこと、覚えてた? 忘れてない?
「……忘れるもんか。一日だって、一日の中の、どの一瞬だって忘れたことなんてない。お父さんは、いつもいつも千鶴のことを想っていた」
バチッ!
胸が苦しい……。何かが破裂する音が胸に響いている。
バチッ!
バチッ!
何かが剥がれる……。千鶴が離れてゆく――。
千鶴が桃子の身体からふわりと浮かび、ゆっくり土井に歩み寄り、そして土井に抱き付く姿が見えて、それを最後に姿が見えなくなった。桃子の身体が羽のように軽くなり、新鮮な空気が鼻孔から流れ込んで胸に満ちる。何かが変わった気がした。たしかに何かが――。
「きゃあっ!」
桃子は悲鳴を上げた。
土井が、父親の握るハンドルに手を掛けている。
バスが斜めになって蛇行が続き、父親は必死にハンドルを保持しようとしている。
土井は精神が錯綜したかのような取り乱し方をしている。土井は、やはり桃子たちと心中しようとしていたのだ。千鶴の姿を見ても暴走は止まらない。いやむしろ、千鶴の姿を見たからこそ、その魂に歩み寄ろうとしているのか。
「憂くん行って! お父さんを助けて!」
「い、一緒に死ぬんじゃないのか?」
「それを言っていたのは千鶴よ。お父さんを助けて。私は死にたくなんかない! 消えたくなんかない!」
「よし!」
向かってゆく気配を見せた憂に土井が気付き、火のついたビンを投げつけてきた。ビンはほんの小さなポケットサイズのお酒が入るもの。だが、床で割れて大きな火炎が車内に広がった。
「桃子、後ろに行くぞ!」
憂は炎の直撃を免れて、桃子の手を強い力で引いた。
バスの後方に二人で移動する。
バスの中央で炎が広がり黒煙が車内に充満する。
シートに火が燃え移り、もうバスの前方へは行けない。
「窓を開けろ! 煙でやられるぞ!」
憂が絶叫した。
「憂くん、飛び降りよう。非常口がそこにあるから」
「百キロ以上出てる。降りたら、道路に叩きつけられて死ぬぞ」
「でも、もう……」
桃子たちに生存のあがきをする余地はもうないのか。炎が迫り、憂とバスの車内に伏せる。そこで、わずかに残っていた空気を吸った。
パトカーが側に居るはずで、非常口を開けて体を出せば助けてくれる。自分は無理でも、男の子の憂なら、近付いたパトカーに乗り移れるかもしれないと思った。
「陸橋だ! 桃子、落ちるぞ!」
赤い鉄柱の大きな陸橋。
最初からどこかを目指しているかのようだった。土井の目的地かもしれない。
山の斜面ばかりが見えていたが、急に窓の外の視界が開けた。
遠くに海が見える。駿河湾――。
夕日が輝き、海と空の境界が曖昧になり、空も海もオレンジ色に染まっている。憂を非常口へ――。
バスが激しく振動して身体が跳ねる。もう、一歩だって動けない。
「掴まれ! 伏せろ!」
「もうだめ……」
強い衝撃が走った。桃子は座席の支柱に掴まっていたが、すぐにそれは手から離れてしまった。世界が回転する…………。
――――あれは……どうなったんだろうね。あの、幼稚園の年長組のときに育てていたアサガオ……。……赤と青の瑞々しいアサガオの花が見える。
幼稚園で種を貰ったね。
プラスチック製の植木鉢も貰ったね。
種を置いて土を被せている……。とても小さな手――。
最初に千鶴のアサガオの芽が出たね。次に憂くんと私の植木鉢から芽が出て、どんどん成長したね。毎日、成長するアサガオに驚いたね。嬉しかったね。
おままごとを三人でしたね。「あなた、おかえりなさい」って言って、いつもお母さんになるのは千鶴で、憂くんが旦那様だったね。私は二人の子供役……。楽しかったね。楽しかったね――。あのまま、三人で成長したかったね。
その瞬間に桃子が見た映像は、幼稚園の頃の思い出だった。そして世界が暗くなり、最後の一瞬に母親の微笑む顔が見えた気がした。
気が付くと、車内はめちゃめちゃになっていた。
バスは横転してガードレールに激突して止まり、谷底への転落は免れたようだ。桃子は車内で目を覚まして頭を持ち上げた。車外の景色を見て、まだ高速道路上でいるらしいことがわかった。これは、憂に聞いていた結末とは違う……。バスの外に救助の人の気配がして、桃子の気は再び遠くなった。――――
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