3-4 千鶴


 バスが日本平の山裾に到着した。有料道路のゲートを通る。

 紅葉が窓の外に見えはじめていたが、あいにくの空模様になって雨が降り始めていた。まだ午前中なのにかなり暗い。

 有料道路は車通りが少なく、桃子が腰を上げてバスの後方から窓の外を見ると、タクシーが一台、桃子たちのバスを追いかけるように走っていた。おそらくあれに、土井が乗っている。

 山頂のゲートをくぐる。「ようこそ日本平へ」という看板が雨に濡れていた。駐車場にバスが止まり、カフェテリアで昼食を取った。

 美術館を観覧したあと、ロープウェイに桃子たちは向かった。ロープウェイの先に久能山東照宮があるのだという。

 ロープウェイの乗り場で順番待ちをしていると、

「楽しんでる?」

 と、おさげの女の子に声をかけられた。赤い眼鏡が白い肌に浮かび上がっている。見覚えのない子で、何組の生徒なのだろう。もちろん、橋高の制服を着ている。

 桃子は内心で首をひねりつつ、ひとつうなずき、

「雨が止んでよかったね」

 と、その子に言ってみた。

 天気予報では「曇りのち晴れ」ということで、雨具の用意がないので助かった。

「バスで酔って、まだ気持ちが悪いの」

 女の子がわらう。

 退屈で話し相手が欲しかったのだろう。父親のことが気になって、桃子に遠足を楽しむ余裕はない。

(お父さん……)

 遠足のバスの運転手は、やはり運転が仕事なのだから、こういうときには自由時間になるのだろうか。自由時間といっても、観光を楽しむなどという浮かれた気分になるわけもなく、なっていいものでもないはずで、父親の真面目な性格ならば自由な時間があったとしても、バスの中で鎖に繋がれたように自分を縛りつけてお客さんの帰りを待っているだけだろうと想像した。

(土井さんも、この近くに居る?)

 人は、信じたくないものは信じないようにする。

 土井の姿を見ても、なにかの偶然であればいいとまだ思っていた。

 憂によると、金の受け渡しの時間までかなりあるようで、バスの近くにいても意味がないのだという。どこまで憂は知っているのか。放課後に一人で土井を監視して、それで金の受け渡しまで探り当てたのか。

 土井と父親の間に、どういう話し合いが今まであったのか――。もしかしたら、今の桃子は人質のようなカタチになっているのかもしれない。父親が桃子のクラスの運転手になったことに、なにか裏があるのか。父親は、桃子を守ろうとして三組の運転手に志願した――。

「憂くん」

 と、桃子は彼の名前を呼んだ。

「なんだよ」

 桃子の側に、彼は守るようにずっと居てくれている。

「本当に、お父さんはお金を持ってきてるの?」

「金の受け渡しがあるって言っただろ」

 何度も聞くな、と憂は不機嫌そうな顔をした。

「よく考えてみろ。あのバッグに金が入っていると仮定しろ。駐車場を売却した金をずっと隠し持っていた。土井に脅かされた場合の保険。お前を土井から守るための保険」

 また、憂は箱を持つ仕種をした。情報を分析すれば、ボールの跳ねる次の位置がわかるのだという。綿密な計算を積み重ねれば、ボールの止まる位置まで推測できると憂は言い切る。

「お父さん、お金を渡したくないんだね……」

 それは、桃子にもわかった。

 土井に渡すために金を用意したのに、出来ることならこの大金を誰にも渡したくない。粘りに粘って、こういう状況が誕生してしまった。受け渡し場所を何度も変更して、理由を付けて土井に会うことを避けていた。避けて避けて、ついに土井に追われるようにこういう展開になってしまった。状況的に考えれば、そういう結論が出た。

「警察に言ったらだめかな?」

 桃子はスマートフォンを取り出して憂に見せた。何かあれば守ってくれるはずで、警察の姿を見れば土井は姿を消すかもしれない。少なくとも、警察に相談しても害はないだろう。

「バカだな……」

 呆れたように憂は口を半開きにした。

「だって、バカだもん」

「ふて腐れてもなにも解決しない……。警察を入れてもだめだと思うから親父さんは悩んでるんだろ。土井の最後の手は、お前を殺すことだ。そういうふうにお前の親父さんを脅かしていて、だから今の状況に追い込まれた。よく考えてみろ。このくらい、すぐに想像できるだろ」

「私、わかんないよ……」

 本当に、あの縁の下の物はお金だったのだろうか。それを確認しておけばよかった。逃げてはいけない。逃げようとするから、自分は幼稚園の大切な記憶まで無くしてしまったのではないか。

「悪いと思ったが、この前、俺は放課後にお前の家に忍び込んだ」

「どうやって」

 反射的に桃子は答えた。

「郵便受けの中に玄関の鍵が隠してあるな。昔からあそこだった」

「嘘でしょ?」

 憂の青ざめた表情が真実を物語っていた。

「俺は、幼稚園の頃は頻繁にお前の家に遊びに行っていた。俺と千鶴とお前……。俺たちはお互いの家を訪問しあっていた。お前の家の台所の位置も収納ボックスも俺は知っている。幼稚園の頃、お前の家の縁の下に、あそこから潜ったことがある。かくれんぼで」

「あ――」

 そういうことも、桃子は思い出した。憂が、縁の下で四つん這いになっている。土が顔について、真っ黒になって、白い歯を見せて濡れた赤い唇でわらってる。

 自分は本当にどうなってしまったのか――。憂は、桃子たちといつも一緒にいた。

 憂が自分のスマートフォンを操作して、その画像を見せてくれた。縁の下のバッグを掘り起こし、バッグのファスナーを開けて中身を確認し、そして撮影した。

「お金ね……」

 大金が写っている。

「お前に見せようと思ったし、警察が出てきたときに何かの証拠になればと思ってな」

「ちょっと、やり過ぎ」

 桃子は、溜息が出るというか、憂のことが心配になった。

 二年一組の盗難事件のときに映像をでっち上げたのもやり過ぎだったが、今回などは他人の家に勝手に上がり込んで不法侵入をしている。そんなことで撮影した映像が証拠にはならない気がした。

 だが、その画像を見て思い出した。

 金は桃子が幼稚園の頃にあの場所にすでに隠されていた。それを幼稚園の頃の桃子と憂が発見した。もっとも、あの時には収納ボックスの脇に置かれていただけで、土の中に埋められてはいなかった。その後、あの場所に埋めて父親が隠したのだろう。

「土井が、いつか俺たちの前に現れる。俺たちはそれが心配で、お前はずっと怯えていた。ついにそれが起こってしまったんだ」

 幼稚園の頃、桃子は土井をとても恐れていた。だが、思い出せないことがある。

「……私、千鶴のことだけがよく思い出せないの」

「今はないが、千鶴はお前の家の五軒ほど離れた家に住んでいた。土井は昼間から酔っぱらってるようなやつだったし、幼稚園から帰って、千鶴がお前の家に暗くなるまでいることもよくあった」

「そう……なの」

 だが、その様子が思い出せない。千鶴のことだけが抜け落ちている。

「千鶴って、三つ編みの子だっけ? ちょうど――」

 さっき声をかけてきた女子生徒を探す。二年何組の生徒だろう。赤い眼鏡の女の子。白い肌が奇麗な女の子。憂に聞くと、その生徒を見ていないという。

 ――バチッ

 電気がスパークするような音が胸に響いた。心を震わせる。桃子は思わず胸を押さえた。

「なんの音?」

 不安になって憂に聞いても、彼には伝わらない。

 バチッ

 また、同じ音がした。

 ヒビが入ってくる。壊れてくる。

(さっきの子はどこ? 私の学校の制服を着ていた。あの子が千鶴――?)

 まさかとは思った。


 ロープウェイの順番がきた。

 桃子と憂が人波と共に一緒に乗り込む。

 三組の生徒を中心に一般の乗客も乗り、四十人以上が搭乗している。ドアが閉まり、坂を滑り落ちるようにロープウェイが発進した。登るのではない。向こうの方が低い位置のようで、滑るように降りてゆく。

 桃子は下を見て身が縮んだ。深い谷底を、桃子たちを乗せた箱が渡ってゆく。

「きれい!」

 女生徒たちの甲高い歓声があがった。

 紅葉が眼下一杯にひろがっている。

 雨があがり、日光が紅葉を照らしている。赤、黄色、緑。それらが鮮やかに光り、壮大な景色だ。谷の向こうには青い駿河湾が広がっている。

「落ちたら、死んじゃうね」

 吸い込まれるような谷底を見て桃子は思った。

 綺麗な景色を見ても、死の予感しか胸に生まれてこない。

 おさげの女子生徒が満員の向こう端に乗っているのが見えて、制服の背中を見せていた。ひとりぼっちで誰の話の輪にも入っていない。窓の外を向いているのに、紅葉を見るわけでもなく、空を見るわけでもない。ひとりぼっちで前を向き、まるで血の通わぬ人形のよう。赤い眼鏡の蔓が見えていて、さっきの女子生徒だ。

「あの子だよ。あの子、千鶴に似てる?」

「どの子」

「あそこの端で、背中を見せてるおさげの子」

「さあ……」

 憂に聞いても、要領を得ない顔をしている。

「よく見て」

「いきなりどうしたんだよ。後ろ向きだし、よくわかんないよ。千鶴は六歳から成長が止まってるんだぜ。高校生とくらべてどうする」

 ちょっと、気味の悪そうな顔を憂はした。

 がたん。

 ロープウェイがひとつ大きく揺れた。そして停車して扉が開き、冷たい空気が飛び込んでくる。桃子と憂は、また人波と共にロープウェイを降りた。そして二人は女子生徒が降りて来るのを待った。

 おさげの子が降りてきて、桃子たちを見つけると、

「こわかったね!」

 と、細い足を忙しそうに動かして駆け寄ってきた。

 待ってはいたが、声をかけるつもりはなく、彼女が千鶴に似ていないか憂に確認してもらうだけのつもりだった。「似てない」と憂が言ってくれたらそれでよかった。

 だが、

「どうしたの?」

 と、女子生徒は笑顔で桃子たちの顔を見つめる。桃子と憂は二人で顔を見合わせた。憂も別に面識はない様子だ。

「ちょっと、変な顔をしないでよ」

 頬を赤くして女子生徒がわらい、

「私のことが思い出せないの? 千鶴だよ。桃子たちと同じ二年三組だよ」

 ギョッとした。

 一瞬、目の前が真っ白なスクリーンとなった。思考が混乱する……。自分は変になってしまったのか。桃子は、憂と仲が良かったことを忘れていた。千鶴のことが思い出せない。千鶴は、橋高で桃子のクラスメイトだった――。

(彼女は誰? 千鶴……?)

 思考の迷路に落ちて出て来られない。

「――しっかりしろ」

 憂の声で我に返った。

 憂が桃子の腕を握っている。温かい。力強い。ちょっと痛い。

「千鶴はいない。これは幻だ」

「でも……」

 たしかに、その姿が見えている。

「うふふ……。こっちだよ。偉い人が祀られてるんだって。誰だっけ、昔の人だよ」

 千鶴が桃子たちを手招きした。おさげの髪が揺れていて、赤い眼鏡が太陽の光を反射している。これが幻なのか。

 二人は糸に引かれるように千鶴のあとについてゆく。

「祀られているのは徳川家康だよ」

 桃子は、気持ちを取り戻そうと千鶴に言った。

「とくがわ……いえ……」

 千鶴と名乗る女子生徒が可愛い顔で首を傾げる。知らないようだ。知らないのは、幼稚園の時に亡くなったからだろうか。生きていれば、千鶴もここに居た可能性はある。

 千鶴と桃子、憂の三人で神社を歩く。

 社殿を見学して神廟にお参りをして、千鶴も手を合わせている。千鶴は白い肌で頬に赤味がさしている。黒くて長いまつ毛。形の良い唇。みずみずしく黒光りする重そうなおさげ。

「見て! 表参道を登ったら、ここまで千百五十九段も登らなきゃならなかったんだって。ロープウェイでよかったね!」

 案内板を読み、「ひゃーっ」と、千鶴が階段を見下ろして感嘆の声を上げた。明るくはしゃいでいる。その様子に、桃子たちは恐怖しか湧かない。彼女は居ない。居ないはずだ。

 久能山東照宮は山の斜面にあり、石段を少し登ると博物館があった。千鶴は当然のように桃子たちと肩を並べて歩く。千鶴の触れた肩が柔らかく、温もりさえ感じた。桃子は千鶴の表情をうかがう。博物館の中にも付いてくるだろうか。

 桃子はポケットから博物館のチケットを取り出した。

「……あのね、千鶴。私たち、ここを見学するんだよ。でも、千鶴はチケットを持ってないでしょ?」

 息が詰まるようで、彼女を引き離したかった。博物館の中にまでは来ないだろう。

「あるよ」

 千鶴が、どうしてそんなことを聞くの? という疑問を眉に浮かべた。チケットを胸のポケットから抜き出して桃子に見せる。

「ロープウェイに乗るときに、千鶴もちゃんと先生から貰ったよ」

 千鶴が屈託ない声音で言う。

 博物館の入り口に行き、チケットを係の人に渡して半券を受け取った。千鶴も同じように係の人から半券を受け取っている。桃子たちだけに彼女が見えるわけではない。

 ――バチッ

 また、あのスパークするような、ヒビが入るような不気味な音が聞こえた。耳を塞ぎたくなる不気味な音。世界が終わるのではないかと不安になる地の底の音。こんなに大きな音なのに、憂には聞こえないようで、周りの人の反応もない。

 博物館を見学する桃子たち。千鶴は物珍しそうにガラスの中の展示品を見つめている。ガラスに千鶴の体が反射して、彼女は存在しているとしか思えない。

 日本最古の時計というものが展示されていた。金色でにぶく光っている。黒くすすけて、数百年という重さを訴えてきた。スペイン、マドリード製なのだという。スペインから、徳川家康に贈られたもの。この時計が、ほぼ当時のままで残っているのは、ほとんど使われていなかったからなのだと、遠足のしおりに書いてあった。

 その古い展示の時計を見ていると、かちり――と、針が動いた。

「あれ……動いた」

 見間違いだと思い目をこらす。使われていないはずの時計だ。

「あ、動いた。やっぱり動いてる」

「そんなわけないだろ」

 憂が、顔をガラスに近づけた。ガラスの向こうは湿度と温度が厳重に管理されているようで、貴重な時計のゼンマイなど巻くわけがない。だが、かちり……と、また動いた。

「動いたな……」

 憂も見たようだ。

 はっ、としたように憂が桃子を見て、そして自分の制服の腕をまくった。三つの腕時計で時間を確認する。

「俺の時計、三つとも動いてない」

「どうして?」

 その、彼の腕時計を覗こうとすると、

「うっ!」

 と、憂がうめき声を上げた。頭を抱えてうずくまる。

「大丈夫?」

「……く、来る。前兆だ。いつもこうなんだ」

「病気なの?」

「いや、違う。……大丈夫」

 しばらくして憂が立ち上がり、もう何でもないようだった。額の汗が光っている。横にいたはずの千鶴の姿が無く、憂の腕時計を見ると、三つとも動き始めていた。

「おかしい……。今までは止まったら、もうこれは動かなかった。なんだこれは? もう、終わったのか? 千鶴はどこに行った。あいつはもう消えたのか? もう現れないのか?」

「千鶴のこと、見たことがあったの?」

「いや、ないが……」

「ねえ、ちゃんと話して。どうなってるの」


 桃子たちは博物館の休憩室に行き、そこで憂が缶ジュースを買ってくれた。プルタブを憂がカチッと開けて桃子に渡す。いつも乱暴なのに、小さな優しさを送られると戸惑う。

「そのスリーピン、似合ってるよ」

 憂が、微笑んで桃子の髪を見つめた。

「これ……?」

 探偵部のイメージカラーは赤らしい。その赤色の毛糸で編んだ小さなハートマークが付いている。ハートマークはスリーピンをはみ出さない程度の大きさで派手ではないが、白の毛糸で周りが縁取られ、ちょうど小さな日の丸のようなデザインをしている。愛らしいこのスリーピンが、実は気に入っていた。

「お前がそれを付けてくれると思っていた」

 と、憂は炭酸の飲料水をひと口飲み、

「実はそれ、幼稚園の時にお前のお母さんから預かったものなんだよ。俺からお前に渡すと捨てられるから、水崎に渡してもらった」

「私のお母さんから憂くんが?」

「昔、みんなで公園で遊んでるとき、『桃子が落としちゃうから、持っていて』って、そう言われたんだ。それでずっと持っていた。返したくても、お前は俺を避けるようになったし」

「幼稚園のときに?」

 もしかしたら、この毛糸のハートは母親が編んだ物だろうか……。暖かく懐かしい気がしていたのは、見たことがあったからかもしれない。ずっと保管してくれた憂の優しさに感謝した。

「お前は、このあとに死ぬんだよ」

 だが憂は、優しさとは程遠いことを言った。

「私が?」

「今日がお前の命日だ」

「嫌なことを言うなぁ……」

 桃子は嘆息。でも、人はいつか死ぬから、憂の話を理解しようと思えば難しくない。いつ死んでも後悔しないように努力しろってことだろう。

「ちがう」

 と、憂は眉間に皴を寄せて桃子を見つめる。

「いいか、よく聞け。このあと、俺たちはバスに戻る。バスは発進する。そして、土井が原因でバスの事故が起こる。お前は死ぬ。そういう運命なんだ。親父さんも一緒に死ぬ」

「やめてよ……」

 気持ちのいい話ではない。元気づけてくれると思ったから、より不安になった。

「それが運命ってことだ」

「やめて。箱の中の結果がそうなってるの?」

 気を取り直そうと、買ってもらったオレンジジュースを唇に運ぶ。冷たい液体が喉を通り、甘ずっぱく香る。少なくとも今、自分はこの世にいると思った。

「いいか」

 と、憂の話は続く。

「俺はお前が死ぬ運命を知っている。だから、それを回避しようと様々なことを試しているんだ。最初俺は、お前に近づくこともできなかった。お前はいつも、家に早く帰りたいって、そればかりを言うんだ」

「ちょっと待って。私も頑張って理解するから」

「俺は、お前の悪い運命を知っている」

「うん……」

「それを変えようと頑張ってる」

「それはありがたいけど……」

「お前が死ぬと、俺は四週間前に戻ってしまう。十月十二日の朝だ。俺は目覚める。そこから何度もやり直している」

「やり直している?」

 憂は、桃子の運命を知っている。

 桃子が死んだあとに時間が四週間前に戻り、何度もそれを繰り返して桃子を救おうとしている。桃子に近づくため。そして、運命を変えるために探偵部を利用して土井に接近した。桃子を殺さない運命に変えるために――。

「そういうこと……?」

「今のところ、お前に近づく方法は探偵部を作ってお前と一緒にいて、それでお前を守る方法しか出来ていない。時間が足りない。今回、お前が死んだら、俺はどうすればいい。次はもっとうまくやる」

「ええ? 私が考えるの?」

「お前に近づくにはどうしたらいい。探偵部を作るしか俺にはわからない。付きまとっても、お前は逃げるだけだ。お前を守っていないと、もっと早くお前が土井に殺されるパターンがあるんだ。校内パトロール、二年一組の盗難事件、町の挨拶活動。あれらは全部、お前を探偵部にとどめるためだ」

「そうなの?」

「あれをやらなければ、お前は探偵部を信用しなかった。さあ、どうすればお前に近づける」

「ちゃんと説明するとか……」

 桃子も方法を考えてみた。それにしても、探偵部がそのために作られていたとは……。学校の下駄箱荒らしの問題はそのままで、あれも「悪」だと思うが、そこはスルーして人任せにするから不思議に思っていた。だがそれは、信用とは関係なかったためのようだ。

 きっと、繰り返しが浅いために、こんな突飛な方法しか思い浮かんでいないのだろう。繰り返しが本当でも、まだ五回くらいか。

「三十二回だ」

 憂が、その回数を教えてくれた。極めて真剣な表情で桃子を見つめる。憂には悪いが、桃子は吹き出してしまった。

「そんなに繰り返してるの!」

「お前に近づくことができないから苦労してんだろ。これは、お前が死にたくないと願ってるから起こってる現象じゃないのか? 俺に助けを求めている……。無意識だかなんだか知らないが、だから俺も一生懸命になってんだろ」

 探偵部を作っているのは二十一回目のやり直しからなのだという。前の自分は、この話を聞いてどう思ったのだろう。

「それが、おかしい」

 憂は、腕を組んで首をひねる。

「今までのお前は、幼稚園の頃のことを一切思い出さなかった。千鶴のことも、俺のことも……。さっきの、千鶴の姿を見たのも今回が初めてだ」

「千鶴が出たの、はじめてなの……? 私は幼稚園の頃のことを思い出さなかったの? じゃあ、大変だったでしょう」

「なにを試して生き残っても、最後には久能山行きの遠足のバスに乗ることになって、十一月九日の午後、お前は谷底に転落する。それを俺は救えない」

「憂くんはバスに乗らないの?」

「俺は、あのバスには乗れないんだ」

「どうしてよ」

 助けるなら、責任をもって最後まで助けてほしい。最後までは憂も一緒にいてくれない。

「乗りたくても乗れないんだ!」

「やり直すから、死ねないんだよね……」

「ちがう。俺たち二年三組の生徒は、さっきの駐車場に戻ってバスに一旦は乗る。お前の親父さんが待っているあのバスだ。だが、そのあとに土井がバスに乗り込んでくる。刃物を出してバスをジャックして俺たちを外に出し、バスに残るのはお前と土井、それに親父さんの三人だけだ」

「それで、バスが発進して谷底に……」

「その前にバスが炎上する。炎上したバスが陸橋から谷底に落ちて爆発する」

「すごい死に方ねぇ」

 なんだか、桃子は感心してしまった。はーっ、と溜息を出す。

「他人事みたいに笑うな!」

 憂に叱られる。ぱしっ、と頭をはたかれた。ほんの、いたずらした子犬を叱るように、冗談っぽく軽く。

「ついに女の子の玉の頭に手を出したわね!」

 痛くはなかったが、桃子は大げさに頭を抱えて抗議した。

「玉の頭ってなんだよ。とにかく、俺はお前を必ず救う。今回もだめなようだ。上手くいかないときはサインがあって、時計が狂うんだ。だから俺は腕時計三個で時間を監視していた。ほら」

 憂は腕を捲って時計を見せてくれた。三つとも止まっていて、三つだから全部が電池切れということはないだろう。

「もう終わりだ。お前が死に、俺の頭が割れるように痛くなり、それで世界が暗くなる。さあ、威勢よく火の玉になって死んでこい」

「えー?」

 桃子は両手を額に当てた。前回の自分はどういう気分だっただろう。三十二回繰り返したなら、三十一回桃子もは死んだことになる。三十一回、自分は何を考えて死んだのか。

「ねえ」

 と桃子は、湯上がりのような気の抜けた憂の顔を見つめた。もう、すっかり諦めてしまったようだ。心ここにあらずで、思いはすでに次の回に飛んでいるのかもしれない。

「ねえ、戻ってきて」

「どこに……」

「ここによ。私が死んでやり直しが起こるとするでしょ。そのとき、私はどこへ行くの?」

「また、やり直しになるんだよ……」

 なにを言い出すんだ、という感じで憂が難しい顔をした。

「憂くんには記憶があるんだから四週間前に戻っても同じ人でしょ。私は違うんじゃない? 私はどこへ行くの。死んじゃうの?」

「だから、それは同じ人なんだから……」

 そう言って、憂は腕を組んで首を傾げた。

「まあ、よくわかんねーけど、記憶がなくても同じ人が四週間前にいるから問題ないよ。死んだら四週間前に行って、すべてが戻るってことで」

「無責任ね……。今の私は消えちゃうんじゃない? それは嫌だから、今回で助けて欲しいんですけど」

「どうして今回のお前はそうなんだ。そんな疑問を言ったことなんて今までないだろ」

 そう言われても、桃子にはわからない。

「やり直せるなら、死んだっていいだろ?」

 と、憂が極論を言った。

「いやよ」

 消えてしまうのは御免だ。

 人は悩みながら百歩を歩き、ときどき後退しながらちょっとだけジャンプして、その跳び上がれた一歩の嬉しさを大切な記憶として、また百歩を傷だらけの足で歩けるのではないだろうか。一歩を忘れてしまえば、百歩進んでもむなしい気がした。

「今回で助けてよ」

「できればそうしたいが……。なんか俺、悪い予感がしてきた。こういうループなんて起こり得るのか? 人は死ぬとき誰でもこれを繰り返しているのか? 何度か失敗した先に、人の本当の死があるのか?」

「それは死んだことないからわからないけど……」

「お前は、たくさんあるじゃねーか」

 なんだか二人で顔を見合わせて笑ってしまった。丸い頬の可愛い笑顔の憂。この一歩を、桃子は忘れたくない。せっかく、幼稚園の時のことも思い出せたのだ。

「俺の悪い予感はこうだ――」

 憂から笑顔が消えていた。

「今までの三十一回は、あれは俺の夢だったのか? 今が現実で、これが本番なのか? 今日お前が死ぬと、それっきりになってしまうんじゃないか? さっきの千鶴の姿はなんだ。これが本番だという証拠じゃないのか」

「私にはわからない。でも、選べるならもう、やり直さないでほしいの」

「なんでだよ」

 いつまでもきりがないから……。

 自分はまるで、生に執着した幽霊のようだ。

 死ぬのが決まっているのに、それを認めずに何度も何度も繰り返しをする。

 ハートマークのスリーピンに桃子は触れてみた。暖かさが指先に伝わる。もしかしたら、この永遠の繰り返しは、母親が自分を守ろうとやっていることかもしれない。だが、もう……。


 ――こわいよー……。おとうさんこわいよー……。ひとりぼっちにしないでよー……。――


 また、あの声が聞こえてきた。

(千鶴、寂しいなら私が一緒にいてあげるから)

 桃子は胸の奥に話しかけた。

 父親を守る方法はないだろうか。それを自分が今から考えてあげればいい。憂が自分を守ってくれたように、父親を必ず守る。

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