3-3 心に住む声


 バスが休憩のために駿河湾するがわん沼津ぬまづサービスエリアに入った。桃子と憂も休憩のためにバスを降りる。父親の横を通ったが、その顔を見ることができない。

「やっぱり来てやがる」

 憂の目が吊り上がって、その視線の先に土井の姿があった。桃子も土井の姿を目撃して、足が竦むような恐怖を覚えた。あの、猫背の姿勢は、幼稚園の頃と変わらないもので、自分の恐怖のシルエットだった。

 サービスエリアの駐車場には多くの乗用車が止められていて、土井はその影に隠れてしまい、すぐに見えなくなった。どうしてこんな場所に居るのか。

 ぞわっ

 と、背筋に寒気が走った。白い光が点滅して、目の前が急に暗くなる。


 ――……わい。……こわいよー。おとうさん、ひとりにしないで……。こわいよー、こわいよー……。――


 あの声が胸の奥に響いた。舌足らずで寂しそうな声。幼い頃からあの声が、胸の奥でずっと響いていた。

「千鶴……?」

 あの幼い声は、桃子のものではない。

(千鶴……どこにいるの? 私になにかを訴えてるの?)

 ぱん!

「しっかりしろ、バカ!」

 鋭い痛みが頬に走った。憂が怖い顔で桃子を見つめている。

「え……。なんで私をぶつのよ」

 桃子は意味がわからない。頬を押さえて、長いまつ毛を忙しく上下させる。

「バカ! だからお前はバカなんだ!」

「なんなのよ! 女の子の玉の肌をなんだと思ってるのよ! なんで怒鳴ってばかりなのよ!」

 ぱん!

 お返しで平手打ちを食らわせたら、避けると思った憂は、微動だにせず桃子の手のひらを受け入れた。

「避けるなら避けなさいよ。手が痛いじゃない!」

「あはは――」

 と、憂がお腹を抱える。

「ちょっと?」

 嬉しそうだ。また馬鹿にしてるのか。

「あー、おかしい。そうやって、怒ってるのがお前らしいよ。幼稚園の頃、お前はいつもそんな感じだった。そのイラついてる感じがお前だ。その感じを忘れるな」

「はあ?」

 馬鹿にされてるのかなんなのか……。

 探偵部で憂は、桃子にだけ挑発気味に話しかけて、それが気になっていたが、昔を思い出させるためだったのだろうか。桃子が怒るとしたら、それは怒らせる人が目の前に居るからだ。

(……ああ、そう)

 記憶の封印が解けたのか、次々に記憶が蘇ってくる。

 千鶴はおとなしい子で、

「だめ」

 と、両手を広げて立ちふさがり、喧嘩する桃子たちの仲裁をよくしていた。だが、桃子たちは喧嘩をするのも楽しかった。

 千鶴がつぶらな瞳に涙を溜めて、

「けんかしないで」

 と言って、

「え? 遊んでるだけだよ」

 と、びっくりして桃子たちは言ったものだ。

 憂との喧嘩は楽しかった。噛み合えるから喜びも怒りも共有できた。その言葉のひとつひとつが、理解し合える相手だからこそ、胸に響いてくる。

「千鶴が怒ってるんだ」

 憂は空を見上げた。

「俺もずっと、死んだ千鶴の存在を身近に感じていた。あいつが夢枕に立ったことも、二度や三度じゃない。あいつはずっと怒っている。不安になっている。悲しんでいる――。どうして私だけが暗い場所にいるのか。どうして私だけがみんなと一緒に居られないのか。千鶴は、お前の親父さんのことを恨んでいる」

「……でも、事故だったんでしょ?」

「千鶴もわからないんだ。暗い場所で苦しんでいる。今もずっと、一人ぼっちで寂しがっている」


 ――こわいよー……。おとうさんどこなの? 私を一人にしないで……こわいよー、こわいよー。――


 千鶴の舌足らずの声が胸に聞こえてきた。

 桃子は胸を両手で押さえた。

 胸の奥から響くこの声を、ずっと桃子は聞いていた。千鶴はずっとここにいて、そこで自分の父親を探していたのか――。

 声のことを憂に言うと、

「千鶴がお前の中に?」

 と、恐怖を宿したような瞳で桃子を見つめる。

「やめてよ、私が怖くなってくるじゃない」

「いや……。お前はずっとおかしかった。俺のことをずっと避けていたし、あれは、お前じゃなくて千鶴だったのか? お前に乗り移って、俺にそれを見破られる……。だから俺を避けていた」

「やめて」

(私は私だったはず……)

 そのはずだ。

 桃子は自分の胸の奥を覗くように追想した。昨日も一年前も、その前もずっと自分の人格を持って生活してきたはずだ。憂のことを思い出せなかったのは幼稚園の頃のことだけで、それ以外は大丈夫なのではないか。


 お手洗いに行ってバスに戻った。

 土井の姿を停車する車の影に隠れるようにして探したが、その姿はもう見えず、

(見間違いだったらよかったのに)

 と思った。

 バスの車内に戻り、暖かい空気にほっとする。

 父親を見ると、相変わらず恥ずかしそうに桃子に笑顔を送ってくれて、別に変わった様子はなかった。休憩のために降りていた他の生徒たちが次々に戻り、気の早い生徒は静岡県に入ったばかりだというのに、もうお土産を手にご満悦だ。女子生徒が明るくはしゃぎ、黄色い声が車内にこだまする。桃子は車内に戻ってからも、窓の外の土井を怯えるような瞳で探していた。

 憂もバスに戻り、桃子の父親を見て唇を強く結んだ表情でうなずいた。

 桃子の父親は、それに対して真顔でうなずき返し、それを見た桃子は違和感をおぼえた。あの朝、二人の会話を聞いていたが、その後、憂と父親で何か別の話をしたような気がした。桃子の知らない物語を二人は共有している。そんな、含んだ表情だ。

 バスが発車する。

 気付けば、空には黒い雲が広がっていた。天気予報はどうだっただろう。雨が降るかもしれない。

 相変わらず、桃子は車外を気にしている。

 憂も窓の外を見て、

「土井はこのバスを車で追っている。おそらくタクシー」

「追って来てるのね……。ねえ憂くん、本当のことを言って」

 桃子は憂の瞳を見つめた。戸惑いの影を宿した瞳。なにかを隠している瞳。

「金の受け渡しが今日これからあるんだよ……。俺はこの四週間、それをずっと調査していた。今、詳しく言っても、お前はすぐには信じられない。全部片付いたら話すから」

 強い光を宿した瞳で桃子を見つめ返す。

 四週間――。

 それでは、探偵部が誕生する前ということになる。

「私を探偵部に誘ったのは偶然ではないの?」

 その質問には答えずに、

「俺は、ずっと調査していたんだよ」

 と、それだけを言った。

 千鶴、桃子、憂。

 土井の家を探偵部で訪ねたのも偶然ではない。探偵部のいつもの行事を装い、土井を調査していた――?

「お父さんが土井さんに、今も脅かされてるってことだよね」

 きょう、これからお金の受け渡しがある……。

 桃子の父親が憂に事情を話し、もしものことがあれば桃子を守ってくれるように頼んだのかもしれない。そう考えると、さっきの二人の表情にも納得ができた。

「……俺は、このときをずっと待っていた。お前の親父さんは誤解している。土井が金を受け取って、そのまま逃亡する――。そんなふうに思っているが、そうではない。土井の恨みはどの闇よりも深い。あいつは、親父さんとお前を殺すつもりだよ。娘の仇。お前の娘を奪ってやる」

「そんなことないでしょ? それは憂くんの空想でしょ?」

 少し、極端な気がした。

 憂は手に何かを持つ仕種をする。箱を持っているのか……。ボールの弾む方向がそうなっていたとしても、計算が間違うことだってあるだろう。これから、どこかで父親が用意したお金を土井に渡す――。土井がこのバスを追ってきていることからも、それには信憑性があった。

 人の欲望は星よりも高いもので、お金は誰だって欲しい。

 だから、土井がお金を得たいのは理解できる気がするが、殺人などを犯せば自分への追及があり、自分もただでは済まない。脅してお金を得られると考えるのは、相手の自責の念を攻めるからで、警察には言いづらいという心理を突くからだ。殺人は少し違う種類のものではないかと思った。

「お金の受け渡しが本当だとしても、土井さんの心のうちまでわからないでしょ?」

 何より、自分の父親が殺されるかもしれない。その可能性をなくしたい。だから憂を説得するように、

「土井さんが、私たちのことを殺したいほど恨んでるって、どうしてわかるのよ。あの人、お金が欲しいだけなのよ」

「残念だが違う。千鶴の恨みが土井に乗り移っている。千鶴はお前の親父さんを殺すつもりだよ。お前も千鶴の想いを感じないか?」

「そんなに……」

 千鶴は父親を恨んでいるのか。父親に殺されたと恨んでいる。一人ぼっちにされたと恨んでいる。暗闇に閉じ込めたと恨んでいる。

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