3-2 縁の下の秘密
――自宅の台所の縁の下に何かが埋められている。
縁の下を見てから、魔物がそこに住んでいるような存在感を感じてしまう。
少なくとも、土のその場所の色が黒く変わり、掘り返されたような形跡があった。あのあと、父親の居ないときを見計らい、桃子は収納ボックスを開いた。
なにも埋められていないかもしれない。なにかのメンテナンスのために床下に下りて、その場所を踏みしめた跡なのかもしれない。桃子の知らない時間に業者が呼ばれた……。水道管からの漏水。シロアリの駆除や予防。そういうことも考えられる。ただ、父親からそういう話を聞いていなかった。そういう可能性があることだけを残して、縁の下など確認しない方がいいという選択肢もあった。
不審な物が埋められている――。
土井は、この町に引っ越してきたばかり。その前には服役。「解き放たれた野獣」ならば、この町に来たタイミングで父親と接触したかもしれない。接触したあとに、父親の台所での不審な行動があった。
縁の下を調べれば、何もないことが確認できる。
桃子は懐中電灯と、手が汚れないように軍手を用意して収納ボックスを開けた。そこだけが黒く湿った土。床に伏せて手を伸ばす。地面に手が届き、土と木の匂いがした。土を恐る恐る押すと柔らかい。軍手をはめた指が土の中に沈んでいって、土と違う物体に触れた。
「なにかある……」
それは、ビニール袋だった。浅い場所で、手で土を撫でるように掘る。ビニールに入れられた何かで、中は茶色のバッグのように見えた。その中まで見る勇気が桃子にはない。夕方で、父親は午後七時頃の帰宅の予定だったが、その時間は不規則で、前のように何の連絡もなく帰宅してくる可能性もある。桃子は露出したビニールに土を被せて収納ボックスを閉じた。何もないことを期待して掘り返したのだが、悪い予感が当たってしまった。
「聞いてみる?」
と、そのことを、隣の座席に座る憂に言ってみた。憂なら、桃子を安心させる回答を持っている可能性がある。害虫駆除用に何かが埋まってるとか。
「――金だよ」
憂は、桃子の話を聞いたあとに静かに言った。
「お金……。そんなことないでしょ?」
「だが、金だ」
「お父さんが、縁の下にお金を隠してるっていうの? お金なら銀行に預けるでしょ?」
「桃子、お前は本当に何も覚えてないんだな。俺たちが幼稚園のとき、お前の親父さんは所有していた駐車場を売却した。俺は、そのときのことを覚えているぞ。当時、お前に聞いたからだ」
「私から……」
「本当に覚えてないのか?」
憂によると、桃子の父親は二十台ほどが駐車できる月極の駐車場を経営していたのだという。その土地を売却して作った金が、あのバッグの中にある。
「当時、土井への示談金のために作った金だよ」
「土井さんへの……。千鶴ちゃんの、バスのステップを踏み外した転落事故は、お父さんに過失があったってこと?」
「警察の調べでは無かったことになっている。それでも親父さんは後ろめたかったんだろ。土井に脅かされるままに二千万円を用意した」
「二千万円も? 憂くんの空想でしょ? どうして憂くんが知ってるのよ」
「俺と千鶴とお前は、幼稚園の頃は仲が良くて、いつも三人で行動していた。千鶴がバスからの転落事故で亡くなって、その責任をお前の親父さんは感じていた。警察の現場検証で過失がないことになっているが、親父さんは自分がしっかり園児の降車を手伝っていれば起きなかった事故。そう思ってるんだよ」
「それで、土井さんに言われるままにお金を用意したの?」
「話し合いの結果な」
小さな灯が心の奥に見えた気がした。自分は、あの降車の時間に同じ場所にいたのではないか――。
「俺も居た」
と、憂が桃子の瞳を見つめた。
「俺は、千鶴がバスのステップを踏み外す瞬間をバスの外から見ていた。千鶴が降りてくる。続いてお前が降りてくる。お前たちのところに俺は駆けて行こうとしていた」
「――私も、覚えてる……」
思い出した。
父親が、あかね幼稚園の送迎バスの運転手をしていたことも思い出した。
桃子は彼女のことを、
「千鶴――」
と呼んでいた。
千鶴の事故がショックで、桃子はある種の記憶喪失になってしまったのか。
あのとき、父親がバスの中から千鶴の背中に触れていた。それを桃子は見ていた。
押したわけではない。そう思いたい……。だが千鶴は、その勢いで転び、コンクリートの縁石の上に一転落して頭を打ってしまった。
「お父さんが千鶴を押した……」
憂は、どこまで見ていたのだろう。
「俺もそれを見ていた。警察の現場検証では、親父さんは運転席の方にいて、千鶴の付近には居ないことになっている。俺たちのほかには目撃者がいない。だが、押したわけではない。事故だったんだ」
「お父さん……」
事故のすぐあと、土井が家に来ていた。土井が怒鳴っているシーンがフラッシュバックする。父親は土井に責められて、そしてお金を用意した。
それで、どうなったのか……。
思い出すシーンは断片的な映像で、それ以外の場面は暗闇で封がされたように抜け落ちている。
憂が知っている限りの続きの話を教えてくれた。
「――だが、警察に過失がなかったことが認められ、土井の、お前の親父さんに過失があったという主張は通らなかった。土井は当時から警察沙汰をよく起こしていた。そんな男の主張なんて誰も本気では聞かない。それに、土井はその現場を見ていたわけではない。『あの人が、一人で園児の降車を手伝っていた』と、そう聞いただけで、何も知らないんだ」
「お金を用意したけど、土井さんに渡さなかったんだね……」
父親に過失がないことが警察で証明された。だから、用意はしたが土井に金は渡らなかった。
「それでも、用意した金を、いつか土井に渡さなければならない。お前の親父さんはそう思っていたんじゃないか? ずっと手元に隠し持っていたんだ。いつか土井が怒鳴りこんで来たら、金を渡すつもりだった」
「……どうして?」
――人殺し!
という、当時の土井の怒声が頭の中に響いた。当時、家に怒鳴り込んで来た土井が、
――お前の娘を殺してやる!
と、そう言った。
憂が、うなだれる桃子の肩に手を置いた。
「親父さんは、お前を守るために金をいつも手元に置いていたんだ。そのうち、土井は強盗傷害事件を起こして刑務所に入った。そして、その刑期を終えて町に戻ってきた」
「……いつか、こういう日が来る。土井さんが家に訪ねてくるって、お父さんは思っていたんだね」
「用意した金は二千万円。お前を守るために手放せなかった」
「お金を見たの?」
憂の言葉で、暗闇に沈んでいた道が照らせてゆく。
暗闇の奥に封印されていた記憶の泉が刺激され、夜が明けたかのように明らかになり、その映像を桃子は必死に追う。
記憶の仕組みとはどういうものなのだろう。パソコンのメモリーに書き込まれた情報と一緒なのだろうか。検索ワードを打ち込まなければ表示できない仕組みなのか、水を満たせばいつか割れる風船のように外に出てこようとするものなのか。
「俺は、お前をずっと見守っていた。小学校、中学、高校……。いったい、お前はどうなってしまったんだ。どうして俺や千鶴のことを覚えてない」
「ごめんね、私……」
ぽろぽろと、瞳から熱いものが零れ落ちてきた。桃子は記憶の泉を封印していた。それは、父親が千鶴を殺したと思い込んだからだ。
「私、本当は知っていたのかも。知っていて、認めたくないから忘れようって……。そうしてるうちに、本当に忘れてしまったのかも」
「いや、お前というか、悪いのは俺なんだ」
「憂くんが?」
眉を下げ、辛そうに憂は下を向く。
「俺が臆病だったから……。幼稚園とか、幼い頃はさらにそうだった。怒鳴る土井が怖くて、お前と一緒に震えて、怖い怖いって、お前以上に俺の方が怯えて、それがお前に移って、お前はさらに怖がるようになって」
「そんな……」
桃子は思った。
憂はおとなしい生徒だった。
本当は静かに過ごしたい性格なのに、このままではいけないと、反発するように爆発する正義感は、桃子を傷付けたと思い込んだことで育ったのではないか。
――このままではいけない。
という強い想い。
憂が突然大声を上げることがあるが、あれも自分の臆病な性格を修正しようと自分を追い込んで出てしまうのではないか。探偵部を作り悪を追い、「俺は、強くならないといけない」と焦燥に駆られている。それも、このままではいけない――と、自分を脅迫しているせいだ。
「憂くんより、私のせいだよ」
桃子も臆病だった。だから記憶がなくなってしまった。その桃子の様子を見て、憂はおかしくなってしまった。少なくとも桃子はそう思った。
憂は桃子の言葉には返事はせず、
「あれは事故だ。おかしいのは土井なんだ」
と、目撃者として、そう断言してくれた。
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