2-3 記憶


 土井甲一郎は危険人物である――。

 探偵部に出席すると、そのように部室の黒板に書き出されていた。

 書いたのは憂のようだ。

 黒板には土井の名前と共に、「強盗傷害で八年間服役していた」と、新聞のコピーが証拠として貼りだしてあった。憂が土井甲一郎の名前で検索をかけ、図書館で昔の記事を見つけてきたようだ。新聞の記事に土井の写真も載っていて、たしかに本人のようだった。少し垂れた目が特徴で、今は角刈りのような短髪だが、写真の土井は額が隠れる様な前髪をしている。

「今日から校内パトロールに加えて、土井の監視体制を敷く」

 探偵部会議が始まり、憂が部員に言った。

 桃子はもう、自分の目が吊り上がってくるのがわかるくらいに怒りを感じた。

 憂にだ。

 自分の写真がたまたまあそこにあったから気になって調べたのだろうが、過去、そういう罪を犯したら、一生監視を受けなければならないのだろうか。誰にも過ちはある。八年間の服役で、罪を償ったと言えるのではないか。

「甘いな」

 憂が、桃子をバカにしたように笑う。

「なによ! 憂くんに、あの人のなにがわかるっていうの?」

「俺にはわかる。お前だって自分の写真があんなところにあって気持ち悪かっただろ? あの男はとんでもないぞ。嘘だと思ったら後を付けてみろ。普通に万引きもしてるぞ。弱みを見せれば恐喝だってなんだってする」

「やめて!」

 まるで、見て来たかのように憂は言ったが、予感程度の曖昧な情報で人を悪者に仕分けなんかしてはならない。善と悪とに別ければわかりやすいのだろうが、人はそんなに単純ではない。良い面と悪い面が矛盾しながら同居しているのが人間というものだ。たまたま見つけた悪の瞬間を見て、その人のすべてを判断するのは間違っている。

 土井の監視を今日から交代制でやるというので、桃子は今日のメンバーに志願した。むしろ、探偵部から土井を守るつもりだ。

「がっかりするぞ」

 憂も桃子と一緒に行くことになった。今日の土井の監視メンバーは、桃子と憂のふたり。


 土井のアパートに行く途中、土井が歩いているのを発見した。サンダルをつっかけ、青いシャツを着て茶色のカーディガンを羽織り街角を曲がった。スーパーの帰りなのか、食材を手に下げている。午後四時十五分。仕事は休みのようだ。

「いたぞ、距離を保て」

 憂は、こっそりあとを付けようとしたようだが、桃子はそんな憂を置き去りにして、走って土井のところに行った。

「こんにちは!」

「ああ……君か。こんにちは」

 ちょっと驚いた顔。だが、すぐに桃子のために笑顔を作ってくれた。会ったのは先週の土曜日で、まだ四日しか過ぎていない。あのときと同じ制服姿だから、桃子のことがすぐにわかったようだ。

「この町のこと、まだよくわからないんですよね。銀行とか郵便局とかわかりますか?」

「この町に住んでいたことがあるんだよ」

 土井は、穏やかな感じでこたえてくれた。

「じゃあ、お店なんかの場所はみんなわかりますね」

「少し変わってしまったけどね……。八年ぶりに帰ってきたんだ。その前は、ずっとここに住んでいた。生まれもここだよ」

「そうだったんですね……」

 八年――。

 憂の調査が頭をよぎった。その間、刑務所にいたようだが、そのことはさすがに聞けない。だが、桃子は憂に言いたい。服役が本当でも、こんな何気ない会話にも嘘が混じっていないではないか。土井は正直者に改心したのだ。……と、信じたい。

 憂は一人で尾行してもしょうがないと思ったのか、不満そうに桃子の後ろを付いてくる。

「きょうのお夕飯はなんですか?」

 無邪気な感じで土井のスーパーの袋を覗く。うどん玉とパックの総菜、それにビールの缶が見えた。

「おうどんですか! いいですねー、私が作りましょうか?」

「やめろよ、迷惑だろ」

 憂が桃子の袖を引いた。その手を桃子は「やめて」という感じで振りほどく。

 桃子はもう、意地になっていた。この人を監視するとはどういうことか。今はもう、彼はごく普通の社会人になっている。迷惑なのは憂の発想だ。

「私も、あかね幼稚園だったんですよ」

「え――?」

 言った後に「しまった……」と思った。こっそり、あの写真の裏側を見てしまった。それを土井は知らない。

 言ってしまったものは仕方ない。嘘をつきたくなくて、桃子は正直に言った。

「すみません……。前にお邪魔したときに、テレビの横の写真を見てしまったんです。実は、あの写真の真ん中に写っていたのは私です。それで、びっくりしてしまって……。もしかしたら、あの、おさげの女の子は土井さんの娘さんですか?」

 桃子は、舌を出しておどけつつ、土井の表情をうかがった。前にこの町に住んでいたのなら、娘が桃子と同じ幼稚園だったとしても何も不思議ではない。同じ幼稚園なら、偶然桃子が写っていることもあるだろう。

「えぇぇ……?」

 地の底から聞こえてくるような驚きの声を土井が上げた。

「あの写真に写っていた子が君? あの、真ん中の子? ……ああ、そういえば似てる」

「そうなんですよー」

 どういう顔を作ったら自然なのだろう。桃子はおバカな感じで「わー」とか、驚嘆の声を上げた。

「あ! そういえば、憂くんも『あかね』だったんですよ! あの右隣の男の子です!」

 桃子は土井の前に憂の腕を抱えて連れてきた。

「ほら」

 と、忙しく人差指を動かし、憂と自分の顔を交互にさす。

 土井は不思議そうな顔で桃子たちの顔を交互に見た。

「ああ……、二人とも写真の子とよく似てる。二人とも高校二年生……。あかね幼稚園に通っていたのか」

「そうですよー。びっくりしますよね。私、憂くんがあかねだって、最近知ったんですよ。存在感がないから忘れてました」

 桃子は罪悪感を打ち消すように必死に明るい声音を絞り出した。そして、乾いた感じで笑ってみる。憂も一緒に笑ってくれたらいいのに、嫌そうな顔で桃子を睨んでいるだけだ。

「あの写真の子たちかぁ……」

 寂しそうに土井が桃子たちを見つめる。

「娘が生きていたら、君たちと同じ高校二年生になる。もう、あれからそんなにたつのか」

「はい……」

 あれから――、とはいつからだろう。五歳のときに亡くなってしまったのか……。嫌な予感は当たってしまうもので、土井の娘はすでに亡くなっていた。

 さすがに笑っている場合ではない。

 こういう場面で出す顔が桃子の引き出しにはなくて、こわばった顔を浮かべるだけになってしまった。

 先週、桃子が「高校二年生」と言ったときに、土井は複雑な表情をしていた。土井は、永遠に年齢の上がらない娘の歳を、ちゃんと積み重ねて知っていたのだ。

 ――土井千鶴

 残念ながら、その名前は桃子の記憶にはなかった。亡くなったのはいつだろう。憂のようにおとなしい子であったとしても、同じ小学校に通っていたならば、桃子も知っていたはずだ。小学校のときにはすでに彼女はこの町にいなかった。

「六歳のときに亡くなったんだ」

「そうですか……」

 ただ、土井の顔には街角で虹を目撃したような晴れ晴れとした色が浮かんでいた。自分の娘の同級生に会えたのが嬉しかったのだろう。娘が生きていたらこのくらい……と、寂しさに襲われているのも間違いない。

「僕らはこれで失礼します」

 憂が土井に頭を下げた。桃子の腕をつねって引っぱる。

「痛い!」

 基本、憂は乱暴者だ。

「乙女の玉の肌をなんだと思ってるのよ」

 引っ張られながら桃子が抗議すると、やり過ぎと思ったのか、すぐにつねるのをやめて、かわりに服の袖を摘まんで引っぱる。

「君は、もしかしたら夏井さんか?」

 土井が、袖を引かれる桃子に声をかけた。

「あ、はい!」

「君のお父さんは、夏井智道ともみちというんじゃないか?」

「知ってるんですね。お父さんのお友達ですか?」

「いや、そういうのでは……」

「私、今度またおじゃましてもいいですか? 千鶴ちゃんの、ほかの写真を見てみたいです」

 そう桃子が言ったら、なんとも困ったような複雑な顔をする。

「すみません……。ご迷惑ですね。へんなことを言って」

「ちがうんだよ」

 土井は慌てたように手を顔の前で横に振った。

「千鶴の写真は……今は後悔してるんだが、忘れようと努力したことがあって、そのとき処分して何も残っていない。あの写真は、そのあとに君のお父さんから貰ったものなんだよ。でも、千鶴が写ってるのは、あれしかなかったようだ。だから大切にしてる。欲しかったら、コピーをしてあげるよ」

「あ、ちがうんです!」

 ちょっと、誤解されていた。

 もしかしたら、大切な写真だから、日光にあたって退色しないように伏せて置いてあったのかもしれない。

「私も、あの写真と同じものを持っています。だから写ってるのが自分だってすぐに気付いたんです。きっと、父が焼き増ししたんですよ。だから大丈夫です」

「そうか……」

 憂が、今度は桃子の腕を掴んで強く引いた。桃子は土井にあかるく手を振り続けて遠ざかる。腕を引かれて道の角に曲がり、土井が見えなくなった。

「なんなのよ!」

 桃子は憂に強く抗議した。

「いいかげんにしないと、ぶっとばすわよ!」

 ――うるさい!

 と、憂に怒鳴られるかと思ったら、意外と憂が噴き出すように笑いはじめた。

「あははっ、お前なんかにぶっとばされねーよ。何のためにボクシング部で鍛えてると思ってる。俺が憎かったら、ぶっとばしてもいいんだぜ。さあ、やってみろ」

 憂が、桃子を挑発するように顎を突き出してゆらゆらさせた。

「えらそうにして。弱いくせに」

「ボクシング部では、強い奴とばかりやってるんだよ。弱い奴に勝っても意味がないからな。さあ、できるもんなら、ぶっとばしてみろ」

「私のパンチが当たったら、お金を取るから。ボクシング部でお金を払ってるから慣れてるよね」

 むしろ、桃子が憂を挑発するように言ったら、

「いいよ」

 と、余裕の表情。

「俺は受けるだけで、絶対に手は出さない」

 それならば……と、パンチを繰り出したら、憂は桃子の鉄拳を軽い動作でかわした。

 余裕の表情の憂。へらへら笑っている。

「今のは冗談のパンチよ。本気になったらあんたの顔、絆創膏で見えなくなっちゃうよ?」

「本気になっても、一発も当たらないよ」

 憂が何の真似なのか、顎どころか下唇を突き出して口をパクパクさせる。そして腹立たしいことに、顔をゆらゆらさせて挑発する。

 びゅっ!

 と桃子は、怒りを乗せて頬を打つ!

「蝶のように舞う」

 ひらり、ひらり、と憂がかわす。

 悔しいが、一発もお見舞いできない。桃子がパンチを繰り出すたびに憂の口角が上がっていって、なにがそんなに可笑しいのか……。

「いいねー、昔を思い出すねー」

「えい!」

 何度やっても空振りばかり。

 桃子は馬鹿らしくなってきた。

 息が切れて、しゃがみ込んだ桃子の隣に憂もしゃがんだ。昔とは、憂とこんなふうに喧嘩をしたことがあったのだろうか。それとも、喧嘩ではなく遊んでるつもりか。

「いいか――」

 と、言った憂から、笑顔が消えていた。

「十一年前に、あかね幼稚園で送迎バスの事故があった。その事故で、土井甲一郎の娘、千鶴は亡くなった。娘と父親の二人だけの家族だから、大切に育てていたようだが……。そのときの運転手は、お前の父親だ」

「どういうこと……?」

 初めて聞いた話だ。

「だが、お前の父親に過失はなかった。運転中でもない。園児を乗せたバスが幼稚園に到着して、園児の降車をお前の父親は手伝っていた。誰が悪いというわけではない。土井の娘は、そのときにバスのステップから足を踏み外し、縁石のコンクリートに頭を打ち付けた。それが原因で亡くなったんだ」

 憂は同じ幼稚園だった。千鶴の事故のことを覚えていたようだ。

「私の……お父さんが悪いの?」

「だからちがう。バスは停車していた。園児の降車を手伝うのは保母の役目だ。保母が現場を離れていたために、お前の父親が手助けして、そのときに事故が起こったんだ。誰の過失といえば、現場を離れた保母だ。お前の父親は、土井の娘に触れてもいない。俺は新聞の記事でもその事故のことを調べた」

 ぱん!

 と、音がして、憂が目を丸くした。桃子が平手打ちを食らわせたのだ。

「勝手に調べないでよ! 知っていたら、もっと早く教えてよ!」

 桃子が事故のことを知らなかったのは、おそらく、父親が桃子に隠していたため……。

(お父さんに過失はない――)

 だが、目の前で女の子がバスのステップを踏み外し、その外傷が原因で亡くなってしまった。当時、桃子の父親は相当悩んだはずだ。女の子はもう、戻らない。忘れてはならないが、忘れたい出来事だったはず。

「落ち着いて聞け」

 と、憂は声のトーンを落とし、

「土井は、お前の父親を今でも恨んでいる。娘をあいつに殺されたってな。恨みを晴らすために、八年ぶりに町に戻ってきたんだ。土井は、解き放たれた野獣だ」

「土井さんが……? そんなことないでしょ?」

 それは想像が逞しすぎるというもの。その逞しい想像の結果、土井を監視するという計画を憂は立てたようだ。

 土井が父親を今でも恨んでいるという話を桃子は否定したい。

「恨みを晴らすって、土井さんが何をすると思ってるのよ」

「それは……」

 そら、答えられない。と、桃子は満足した。

「まあ、それはわからないんだが、たとえばもう、恨みには思っていなくても、お前の親父さんから金を揺すろうとするかもしれないだろ? お前の親父さんが、あの事故のことを気に病んでいたら、金を出してしまうんじゃないか?」

「それは、ないと思うけど……」

「今度、俺はお前の親父さんに会いに行くよ。土井が町に戻って来たって俺から言ってみる」

「そんな勇気があるの?」

 なにしろ、探偵部で威張りまくっているのに、町内治安維持挨拶活動で町の人に、

「……こんにちは」

 と、蚊の鳴くような小さな声でしか挨拶が出来ない人だ。それも顔を真っ赤にさせて。自分で決めてやってるのに、変な人だと桃子は呆れていた。

「まあ、大切なことだから俺から言うよ。注意するに越したことないだろ?」

「うん……。ありがとう」

 事故のことを父親が桃子に隠しているとしたら、その方がいいかもしれない。たしかに、なにごとも注意に越したことはないからだ。

「ここが大切なんだが」

 と、憂が顔を寄せてきた。

 道の脇にしゃがむ桃子たち。

 犬の散歩のおじいさんが通り過ぎて、まさか恋人に見えているのでは……と、ちょっと桃子は心配した。おじいさんが通り過ぎるのを憂は無言になって待ち、憂は制服の腕を捲って時間を確認した。三つ巻いた腕時計。

 おじいさんが通り過ぎて憂が、

「……土井は、お前の親父さんの名前を憶えていた。何のために憶えていたんだ? 土井が、娘の事故はお前の親父さんのせいだと恨んでいたと考えろ。娘を奪われた……。今度は、俺があいつの娘を奪ってやる。そう考えたらどうする」

「土井さんが、私を殺すってこと?」

「どっちにしろ、お前が土井に会うのはよくない。もう土井には会うな。お前は、土井が父親と接触した様子がないかだけを観察していろ」

「あ……」

 憂の瞳から涙が一筋、流れ落ちた。それを拭わずに桃子を見つめる。あおあおとした瞳。その瞳を見つめたことが前にもあった気がした。夕焼けの匂いがする。

 記憶を追うように匂いを嗅いでいたら、

「焼き芋か?」

 と、憂に笑われた。見間違いだったのか、憂の頬から涙の筋が消えている。

「これ、焼き芋の匂いなの? 焚火で落ち葉を焼いてる匂いじゃない?」

「その中に、焼き芋が入ってるのかも」

「なんかね、この匂いを前にも嗅いだことがある気がするの。憂くんの顔が近くにあって、そのときも憂くんの瞳を私は見ていた」

「デジャヴ? なら、いいことあるかもな」

「デジャヴって、そういう意味があるの?」

「知らないけど」

 憂は、さっぱりした顔で立ち上がった。

「そこのスーパーに焼き芋が売ってたよな。入り口を通ると焼き芋のいい匂いがするんだよ。お前も食いたいならこい。おごってやる」

「ほんとう?」

 桃子は憂に付いていった。

 ――父親と土井の因縁は本当だろうか……?

 ただ、この話も不思議だった。話を聞くまでは知らなかったのに、聞いたあとは、ずっと前から知っていたような気がするのだ。


 午後五時に家に帰ると、父親はすでに帰宅しているようで、黒い履物があった。

「お父さん、帰ってるの?」

 台所に人の気配があって、そこを覗こうとすると、ばん! と、大きな音がして、慌てた様子の父親が台所から出てきた。

「おかえり」

 なにごとも無かった感じで桃子に声をかける。

「ただいま。帰るのは七時頃って言ってたよね?」

「予定が変わって早めに帰れたんだよ。お前が喜ぶと思って、まっすぐ帰ってきた」

「ありがとう。夕飯作るね」

 桃子は家を離れるのが不安だ。離れる時間が長いと、訃報を知らせる叔母さんが家で待っているような気がしてしまう。父親にもしものことがあっても、自分にはどうにもならないことはわかっている。誰かに言ったら、ただの「心の病」と片付けられてしまうだろう。

 父親もやがては死に、桃子もやがてはそうなる。

 大切なのは、どう考えたか。どういう心を持って生きたか。それだけを考えるようにしたい。


 食事が終わり、父親が風呂に入った。まだ、さっきの怪音が気になっている。

 ――ばん!

 台所で何が鳴ったのだろう。戸棚を強く閉めた音のような……。桃子の帰宅に驚いて、慌てたために立ててしまった音ではないだろうか。桃子は、箱の中の弾むボールの方向を静かに見守ってみたが、憂のようには推理ができない。

 台所に行って戸棚を開けて調べてみたが、変わった様子はなかった。

「これかな?」

 床下に収納スペースがあり、床板を外す感じでその扉を持ち上げてみた。

「これって、縁の下に出る場所でもあるのかな?」

 収納ボックスには中華鍋や土鍋が仕舞ってあって、それらを取り除くと軽くなった箱状の収納容器を持ち上げて外すことができた。湿った冷気が吹き上がってきて、黒い土の地面が見える。

 懐中電灯が必要だ。

 スイッチを入れて、台所の床に伏せて頭を逆さにした。縁の下を覗く。髪が逆立つ。

 縁の下はヒンヤリとしていた。暗くて不気味な感じ……。

 なるほど、ここから入って縁の下のメンテナンスができる構造なのだ。水道管と排水管が見える。すぐ下の土が、そこだけが湿ったように黒かった。

「掘り返した……?」

 胸の鼓動が喉を伝わって聞こえてきた。なにかが埋められているのか……。

(――千鶴ちゃんが埋まっている)

 と、思って、

(いいえ、落ち着こう)

 と、深呼吸をした。そんなわけはないのだ。あれは、ずっと前の事故で、事故だから土井の娘の千鶴は病院に運ばれたはずだ。では、ここに何が埋まっているのか?

 父親がそろそろ風呂から出てくるかもしれず、桃子は収納ボックスを元に戻した。土鍋と中華鍋も元の位置に入れる。重い扉で、蓋をしようとしたときに、重さに負けて手が滑ってしまった。

 ばん!

 ああ、この音だったのだ……。やはり、父親はここに何かを埋めた。前から埋まっていたものを確認したのか、新たに何かを埋めたのか。

 父親が風呂から出たようだ。「ぎしゅっ」という、桃子の家の風呂場独特のドアの開閉音がした。洗面所で体を拭う気配がして、桃子は自分の部屋に逃げるように戻った。


 次の日の朝、家のチャイムが鳴った。

(こんな早くに誰だろう――)

 一瞬はそう思ったが、憂が来た予感がした。

 桃子が思うに、憂は一旦こうと思えば、その思い付きをコントロールできなくなって心を縛られるタイプだ。桃子の父親に会うのは初めてだから、きっと緊張して前の晩から悩んでいたはずで、何日も悩みを抱えるより、早く済ませたいと思ったのだろう。だからこんな早朝の訪問になったのだ。

 父親に、土井のことを注意してくれる――。

 そういうことだから、早めの方がいいと考えたはずでもある。

 桃子は起きたばかりのパジャマ姿で、自分の部屋から玄関の様子に聞き耳を立てた。笑い声が聞こえてきて、首を傾げる。

「――ご無沙汰してました。幼稚園以来です……」

 と、そんな憂の声が聞こえた。

 憂は桃子の父親を知っていたようだ。胸の鼓動が激しくなる。憂は幼稚園の頃にここに遊びに来たことがあって、そのときに父親と会ったことがあるのか。

「男の子だから覚えていたよ」

 父親の、そんな弾んだ声がした。

 桃子は幼稚園の頃の交友関係のことをほとんど覚えていない。でもおそらく、女の子が多かったはずで、一人だけ男の子が遊びに来ていたら、父親が覚えていることもあるかもしれない。

 ただ、こうとも思った。

 遊びに来たことがあったとしても、幼稚園の頃に会っただけの男の子の顔がわかるだろうか……。憂が親しそうに話しかけるから、父親も「そうに違いない」と、受け入れただけの可能性もある。

 どうしても会話が気になって、二階の自分の部屋を出て、階段から玄関の様子をうかがった。憂が父親に伝えたことは、こういう内容ものだ。


 ・十一年前の、あかね幼稚園の事故のことを自分は覚えている。

 ・当時、土井が事故の責任をあなたに追及しているシーンを見た。

 ・声を荒げる土井を自分はとても怖く感じた。

 ・土井を最近、この町で目撃した。

 ・何かトラブルが起こるのではないかと、土井が現れたことを伝えに来た。


 明るい様子で憂の応対をしていた桃子の父親。だが、憂からその話を聞いて、急に言葉が少なくなった。

「わざわざ伝えてくれてありがとう。でも、心配しなくて大丈夫だよ。もう古い話で、解決済みのことだから」

 父親は、憂にそう言って話を結んだ。

「それでは、失礼します」

 と言った憂に、

「君は――」

 と、桃子の父親。

「それは橋内高校の制服だよね。うちの桃子と今でも友達なの?」

「今は違います」

 それで、憂は帰った様子だった。

(私たち、友達じゃないのか……)

 友達の定義とはなんぞや、と考えてしまったが、土井と桃子が会ったことは父親には言わない方がいいと思うから、そういう設定で憂と桃子は疎遠ということで通したのかもしれない。

 桃子と憂が一緒に写った当時の写真があったということは、一緒に遊んだことがあったのかもしれないが、憂が家にも来たことがあるとは意外だった。だがそれは、土井のことを伝えるための嘘かもしれない。

 桃子が居間に行って、

「今のはだれ?」

 と聞くと、

「近所の人だよ」

 と、さっぱりした様子で父親は言った。

(――嘘をついてる)

 桃子はショックだった。

 憂は近所の人だが、父親の表情や言葉のニュアンスは、「近所の人が町内会のことで家に来た」というようなもので、よくある訪問――。という感じ。

 やっぱり、父親は千鶴の事故のことを、桃子に隠したい様子だった。憂に桃子の友達かと確認したのも、彼からこれが自分に伝わるのを心配したからではないか。

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