2-2 千羽鶴


 次の土曜日になり、

「三日ほど前に引っ越してきたようだ」

 と、憂が調査してきたアパートの住人を桃子たちは訪ねることになった。

 今日も全員がそろっている。

 五人の黄色の腕章の部員たちが、築五十年は過ぎているのではないかという年季の入ったアパートの前に立った。

 静かだ――。

 先週の女性のマンションは引っ越し中だったが、このアパートの住人は三日前に引っ越して来たらしい。調査といっても、桃子にはどのように憂が調べてきたのかわからない。たまたま引っ越しを目撃しただけの気がした。

 初めての人が怖いくせに、憂にためらいはない。呼び鈴を押す……。と桃子が見ていたら、彼は呼び鈴を避けてドアをノックした。

「今度は、憂くんが話しかけてよ」

「もちろんだ」

 二度目だから腹が座ったのか、落ち着いた声音で憂が言った。

「偉そうに……。どうしてノックなのよ」

「呼び鈴は鳴らない。壊れてるから」

「押してないでしょ」

「よく見ろ。ボタンが押し込まれたまま戻らなくなってる。故障中だ」

「そう?」

 桃子は手を伸ばして呼び鈴を押してみた。そしたら、憂の言う通りボタンは陥没した状態で動かなかった。何度押してもびくともしない。

「試すな」

 と、憂が言ったが、壊れているように見えても、押してみたら呼び鈴が鳴るかもしれないじゃないか。と、桃子は思った。憂の推理を外してやりたかったのだ。偉そうな鼻を折ってやろうとして失敗した。

 何度も憂がノックをする。

「留守よ」

「電気のメーターが回ってるだろ」

 不機嫌そうに桃子を睨む。棘のある言い方は相変わらずだ。

「どうしてそんな言い方するの?」

 この男には優しさが足りない。

(あなたの名前は見かけだおしか。『憂』って、せっかく愛が百個も乗ってる素敵な名前なのに)

 と、不満だった。

 住人が出て来ないのには理由があるのだ。

 寝ているとか、お風呂に入っているとか、なにもしてなくても、居留守を使う自由だって人にはあるはずだと桃子は思った。出てこなければ放っておけばいい。だいたい、しつこくノックをした末に出てきたら気まずいではないか。

「悪は放っておけない」

 また、桃子を睨んで憂が言った。

「どうして? 先週の引っ越しの女の人は良い人だったよね。人の善性とか信じられないの? 悪い事するんじゃないかって、疑うのがそもそも失礼よ」

「引っ越しなんてするやつはなあ、しょせんは逃亡者だ」

「意味、わからないんですけど」

「油断するなってことだ、バカ」

「バカは余計でしょ!」

 頭にくる……。

 彼の言うことは全く論理的ではない。どうして引っ越しをする人が逃亡者になるのだ。悪人の逃亡者が紛れていても、それはただの偶然だ。それに、悪いことをするんじゃないか……。と、疑って人を監視するより、良い行いをした人を褒めるみたいな、そういう前向きなことをやった方が気分がいい。

「――はい」

 ドアの向こうで声が聞こえた。

 扉が細く開かれ、白髪交じりの疲れた顔が暗闇に滲む。

「こんにちは。僕らは橋内高校の者です。新しく引っ越しされてきた方ですよね? なにかお手伝いすることはありますか」

 なにか棒読みで、いかにも練習したらしい言い方で憂は言った。彼なりに努力はしているようで、桃子はそれを感じて、ちょっぴり微笑ましいものを感じた。だが、しらじらしい笑顔を浮かべて、憂が扉に足をねじ込む姿は可愛らしくない。閉じないようにしているようだ。刑事の家宅捜索のつもりか。

「高校生?」

 住人がチェーンを外して扉を開けてくれた。

 憂が指を振って桃子たちに合図を送り、

「こんにちは!」

 と、みんなでお辞儀をした。

 ちょっと、高校生なことを利用してしまっている。男性は、ちょっと考えてるような間を置いて、「ああ、こんにちは」と真顔ながら挨拶を返してくれた。桃子たちが全員大人ならば、もっと警戒されていたはずだ。

 部屋の中は引っ越して来たばかりだけに、ダンボールがいくつも重なっているのが見える。

「掃除、洗濯、料理、なんでもお手伝いしますよ」

 憂がずかずか上がってゆく。「おじゃまします」と、無垢な笑顔で桃子たちも続く。

 扉が開いてからの手順は打ち合わせ通りだった。

 呆気に取られた住人の思考の空白をツクのだ。

 上がってしまえばこっちのもので、もう住人は追い返しづらい。

 部屋の中を見たら、ほとんど荷物は片付いていて、ダンボールの中は空になっていた。ここの住人も一人暮らしのようで、元々荷物が少なかったようだ。

 憂が、桃子に顎を振って合図をした。

 部屋に入ったあとは成り行きで、住人と部屋の状態で臨機応変にということだったが、憂の意志が残念ながら伝わってしまった。「なにか作ってやれ」と言っている。料理が始まってしまえば時間を稼げるから、その間に新住人を調査するということだろう。残念なのは、望んでいなかったのに、どんどん探偵部の一員になってゆく自分を感じたからだ。

「あのぅ」

 と、桃子は住人の中年男性に声をかけた。灰色の上下同色のルームウェアを着て、戸惑いの色を瞳に浮かべている。それはそうだろう、桃子たちは勝手に上がり込んだのだ。住人が怒って、通報してもおかしくないことをしている。

「あの、片付けは済んでいるようですので、お昼ご飯をなにか作りましょうか?」

「お昼を」

「もちろん、ボランティアなのでお手伝いは無料です」

「でも……」

 当然、怪訝な顔を男性はした。

 男性は四十歳くらい。

 無精ひげの人で、頬がこけて痩せている。普通の男性のはずだが、桃子は嫌な予感がした。憂のイメージする「悪人」という見た目の型にはまってしまう人だ。ただの引っ越しの人なのに、憂の追及が厳しくなりそうな気がした。

「なんでも作ります。遠慮はしないでください。奉仕活動ですから」

 畳みかけるように桃子は言った。

(さっきはボランティアと言ったっけ?)

 と、自分の言葉に内心で首をひねりつつ、笑顔で押し通す。ボランティアと奉仕活動の違いもなにもわかっちゃいない。

 お昼を作るという乱入者を排除しようとするに決まっていて、その当たり前の答えが出ないうちにどんどん言うしかなかった。答えが出れば、その答えに回答者は固執する。

「作ります! えーと、チャーハン作りますね!」

 桃子は台所に入って流しの水を勢いよく出した。フライパンを手に取る。ご飯は……ご飯がない!

「ご飯を炊いてもいいですか?」

 すでに料理が始まっているアピールで、そのへんの食器やら調味料やらを抱えて男性に聞いた。

「いいけど……」

(や、やった!)

 訝し気ながらも了解が出た。あとはご飯をゆっくり炊けばいい。

 しゃがんで小型の冷蔵庫を開けると、ビールと卵と食べかけの缶詰にラップをしたものしかなかった。テーブルの隅に玉ねぎの入ったネットがあり、具は卵と玉ねぎだけでチャーハンを作ることにした。

 憂と西尾の男子二人は風呂の掃除をすることになった。

 優奈と森の一年生の女子二人が男性の話し相手になると、すぐに住人男性の頬が緩み、警戒する気持ちが薄くなったようだった。これは、花の女子高生が悪人を懐柔するという憂の立てた作戦。

 炊飯ジャーのスイッチを入れて、桃子も男性との会話の輪に加わった。

 ――土井どい甲一郎こういちろう。四十五歳。

 年齢まで男性は教えてくれて、仕事の関係で引っ越して来たのだと言った。

 最初、桃子たちの問いかけに戸惑うように答えるだけだった土井だったが、すぐに打ち解けて桃子たちに学年を尋ねた。

「二年生です」

 と、桃子が言うと、土井は桃子の顔をぼんやりと見つめた。何かに想いを巡らせているような虚ろな瞳。

(高二の娘さんでもいるのかな?)

 なんとなく桃子は思った。

 四十五歳なら、生まれた月はわからないが桃子の父親と同じ年齢で、自分と同じくらいの娘がいてもおかしくなかった。

 ピーッ

 ご飯が炊けた。

 チャーハンといえば古いご飯を使った定番料理で、間に合わせの材料で作るイメージが桃子にはあり、今まで炊き立てのご飯でチャーハンを作ったことがなかった。だがきっと炊き立ては、より美味しいはずだ。チャーハンにするつもりだったから、最初からご飯を堅めに炊いてみた。

(土井さんの奥様はどうされたのだろう?)

 ちょっと気になったが、立ち入ったことは訊けない。雑談の中で、彼は自分の家族について何も話さない。そこは、入ってきてほしくない場所なのかもしれない。

「みんな探偵部なんです。私、むりやり入れられたんですよ。ほとんど騙されて」

 チャーハンを作りながら、桃子も会話に参加した。

「探偵部……?」

 土井は首を傾げ、桃子の予想通りの反応をした。

「ごっこみたいものです」

 フライパンを返しながら自信満々に答えると、優奈と森の笑顔に微妙な翳が入った。難しいところだ。校内の見回りをして、町のパトロールみたいなことをやって、彼女たちに使命感みたいなものが育ってきている。一年生たちは探偵部誕生の一日目から在籍していて、自分たちが探偵を作った。という自負を持っているようだった。その気持ちに配慮しつつ、

「普段は校内や町の見回りとかしています。本物の事件とかには関わらなくて、ごっこみたいな感じはあるけど、私たちは困った人を助けたいと真剣に思っています」

 それは桃子の今の、偽らざる気持ちでもある。

 憂たち男子の二人は、風呂に続いてトイレの掃除もしてくれている。彼がいないことをいいことに、桃子は探偵部にむりやり入れられた様子を笑い話として土井に話し続けた。

 最初は堅かった土井の表情が、ずいぶんと柔らかいものになっていった。土井の甲一郎という名前は、「甲子園で一番になれるように」という、父親の願いが籠ったものだということも教えてくれた。

「――万年、補欠だったけどね」

 土井が笑い、桃子たちもそれを聞いて笑った。

 チャーハンが完成して、憂と西尾も掃除を中断して台所に来て、みんなでチャーハンを食べた。

 上手に味付けが出来たと思ったのに、なぜかチャーハンを食べる憂の表情が険しい。

(怒ってる?)

 と、桃子は気になった。

(いつもこういう感じだっけ?)

 そういえば、掃除を引き上げてきたときから様子が変だった。

 トイレ掃除がはかどらないからイライラしているのだろうか。

 だが、女子班が会話で住人の情報を聞き出し、男子班は掃除するというのは憂が決めた作戦だ。自分で進んでトイレの掃除もしているはずで、それが意外と手間のかかるものであったとしても、知ったこっちゃあない。

「あはは、女子高生の作ったチャーハンが食べられるとは、人生ってなにが起こるかわからないなあ」

 ちょっと、大げさなことを土井が言った。

 美味しそうに食べてくれて、桃子は嬉しかった。

 先週のラーメンに続いてチャーハンを作ったが、憂は最初からこういう場面を想定して料理の出来る部員が欲しかったのかもしれない。玄関先で住人に話を聞いても限界があって、掃除を自分からしてるところを見ても、そういう計画があったのかもしれないと桃子は思った。

「いやほんと、今朝起きたときには、今日の一日がこんなふうになるとは思いもよらなかった」

 土井の機嫌がいい。桃子は訪ねて良かったと思った。

「未来がわかればいいんですけどね」

 桃子が笑顔で言うと、土井は眉を下げて寂しそうに笑った。もしかしたら、自分もそういう笑顔をしていたかもしれない。

 少し、自分の感情が入ってしまった。

 未来がわかれば、母親の事故は防げたはずだ。明日流す涙が人にはわからないが、それでも人生は続いてゆく。土井も、四十五年という歳月の中で、回避したい悲しい出来事がたくさんあったはずだ。


 食事が終わり、憂たち男子班は掃除に戻った。

 料理は後片付けをもって完結する。「よーし」と、食器を洗おうとすると、

「あとでやるからいいよ」

 と、土井が言ってくれた。それでも無理にやろうとすると、

「おい、いいと言っただろ」

 と、トーンの落ちた声音で言われ、桃子は少し怖くなってしまった。食器洗いをあきらめる。

 目ぼしい物は、まだ何もない部屋だったが、テレビの横に折り紙の束が置いてあった。部屋の隅に千羽鶴がたくさん掛かっていて、前に入院していたことがあるのかしら……と、それを見て桃子は思ったが、もしかしたら土井が一人で折った千羽鶴かもしれない。

「折り紙を折るんですか」

 と聞くと、

「ああ……」

 と、土井は折り紙の包みを破った。

 赤い折り紙を一枚取り出し、素早く折り鶴を折る。慣れているようで、すぐにピンと角の反り上がった姿のよい鶴が完成した。

 折り紙は大小、色とりどりの種類があり、次々に土井は折り鶴を折ってゆく。早送りのように細い指先が動き、奇跡を目の当たりにしているようだった。

「ほら」

 と、特別な紙なのだという赤い和紙を使い、折り鶴を土井が折った。

「チャーハンのお礼に」

「私にですか!」

 ほとんど職人技で、今にも飛び立つような鶴だ。桃子たちも真似て作ってみたが、いびつな魂の入っていない鶴しかできない。

「鶴が好きだから」

 恥ずかしそうに土井がはにかむ。

 頂いた鶴を、どのように持ち帰ろうと思った。ポケットだと潰れてしまうし、いっそ折り畳んで生徒手帳に入れようとしたら、土井が奇麗に折り畳んでくれた。

「ほら、こうすると、折り畳んでも飛んでるみたいだろ?」

「わー、すごい」

 土井が、生徒手帳の透明フィルム越しに羽ばたく鶴に即興で改良してくれた。

 憂たちが居間にやってきて、ようやくトイレの掃除が終わったようだ。

 土井がトイレに立ち、桃子がテレビの脇の積み重ねた折り紙を見ていたら、その傍らに何かあることに気付いた。写真立てのようで、伏せてある。

(倒れてしまったのかな?)

 と、なんとなく持ち上げてみると、色あせた子供たちの写真だった。その写真を見て、ギュッと胸が締め付けられた。頭がほわっとなって思考力が低下する。その写真には、幼稚園時代の桃子も写っていた。見覚えのある写真だ。三人の園児が写っていて、真ん中が桃子――。

(なにこれ?)

 憂の写真をアルバムから探したとき、見つけたあの写真と同じものだ。

 真ん中が桃子。みんな〈あかね幼稚園〉の園児服で、桃子の左におさげの女の子。右隣に憂。まったく同じ写真なのかはわからないが、園児たちの髪型や写真の雰囲気が同じで、同じ日に同じ場所で撮られた写真としか思えない。

「どうして……?」

 土井の様子的に、桃子を知っているとは思えない。桃子も初めて会ったと思った。桃子は写真立てを慌てて元の状態に伏せて戻した。倒れたのではなく、伏せて置いてあったのかもしれない。

「中を見てみろ」

 眉を寄せた憂が言った。

「今の写真、見た? 憂くんも写ってるんだよ」

「だから気になってるんだろ。写真立てから出してみろ。写真の裏になにか書いてあるかもしれない」

「だ、だめだよ」

 人には秘密があるのだ。入ってきて欲しくない場所がある。土井は、家族のことを一切話さない。そこは、他人に触れて欲しくない場所だからだ。

(左のおさげの女の子が土井さんの娘……?)

 そんな気がした。

「こっそりだから大丈夫」

「だめよ」

 憂は、桃子の制止を聞かずに写真立てを手に取った。後ろの留め金をくるりと回して外し、中の写真を取り出す。


 ――あかね幼稚園。千鶴、五歳。


 と、写真の裏にペンで書いてあった。桃子の母親の文字ではなく、桃子たちの名前もない。

「早く仕舞って」

 じゃーっ、と音がして、土井がトイレを出た気配がした。足音が近づく。

「早く!」

 憂は写真を戻し、元のように写真立てをテレビの横に伏せて置いた。

 桃子の胸の鼓動が激しくなったまま鎮まらない。折り鶴と「千鶴」という名前に、なにか接点があるのだろうか。鶴が好き……。だから、娘に千鶴と付けたのか。古い写真で、千鶴という子が、この世にいない予感が胸に走った。

 桃子たちは、それで土井の部屋から帰ることにした。

「いつ来てもいいよ」

 と、土井は言ってくれた。桃子たちが写真の裏側まで見たことに気付いてない。

「また来ます」

 と、桃子は罪悪感を感じつつ、深くお辞儀をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る