1-3 チョコレートオムライス


 三階の理科室に行くと、

〈橋内高等学校探偵部〉

 という大きな木の看板が入り口の横に掛かっていて、真新しい白木に黒々と墨書してあった。まるで剣術道場か相撲部屋のようだ。

「わあっ、できたんですね」

 優奈が嬉しそうに白木を撫でる。どうやら、設置されたばかりのようだ。

「できたの?」

「探偵部は誕生したばかりです。ここは日に日に立派になっていきます。木の板は校長先生が持ってきてくれて、書道部の人に頼んでいたものが届いたんです」

「どんどん、できていくのね……」

 そういえば五日前に探偵部ができたと言っていた。早く逃げなければ、ずるずると部員を続ける羽目になるかもしれない。きょうは強い心で退部を訴えなければならないと思った。それにしても、校長が木の板を持ってきたとはどういうことだろう。探偵部は、学校公認の部活なのだろうか。

 目立たない場所で、こっそりやっていると思ったのに、道場破りがやって来そうなくらい立派な看板だ。

「遅いぞ!」

 理科室に入るなり、憂が怒鳴った。

「帰りのホームルームは十五分前に終わってる。もっとキビキビ動け」

「私に言ってるの?」

 なぜか入室したとたんに叱られた。憂も二年三組だから、帰りのショートホームルームの終わった時間を知っているからのようだが、どうしていつも喧嘩腰なのか。

「なに言ってんのよ。私、帰るから」

 怒られた勢いで桃子は怒り返した。こういうのは勢いだ。

「私、昨日はむりやり入部届を書かされただけです。今日は退部の挨拶に来ました。あの入部届を返してください」

 手のひらを広げて差し出したら、鼻から息を吹き出してバカにしたように憂がわらう。

「退部は許可しねーよ」

 まるで、絵に描いた悪人のような表情で片側の頬を吊り上げる。

「むりやりなんてダメに決まってるでしょ!」

「ふざけんな、ばか!」

「ば……」

 桃子はもう、怒りでなにがなんだかわからなくなった。この男はいったいなんなのか。だいたい、同じクラスなら自分で声をかければいいのに、どうして一年生に呼びに行かせるのか。教室で憂に何も言われないから、部活に出なければそれで済むと思ったのだ。

「俺が声をかけたら、お前は怒って俺を無視して帰っていた。だからだよ。休み時間もお前をあえて避けて目を合わせなかった。喧嘩になるからな」

「え……?」

 睨み付ける桃子の気持ちが少しはわかっているようだ。

「頼むよ。しばらくして、それでも嫌なら辞めてもいいから」

「今日、辞めたいんですけど」

「頼む!」

「別に私じゃなくても誰かいるでしょ? なんで私なのよ。私、すごく忙しいんだけど」

「そこを頼む!」

 驚いたことに、手を合わせて拝むような仕種をして憂は頭を下げた。

「やめてよ」

 やれやれ……と、桃子は溜息。簡単に帰してくれそうもない。

「昨日、料理を作ってくれって俺が言ったよな」

「言ったけど……」

「材料は買って奥に置いてある。お前が帰ったら無駄になるから、それで何か作ってくれ。一年生は桃子を手伝え。俺はトレーニングをする」

 てきぱきと憂が指示を出した。まるで、桃子の退部問題はすでに終わったかのような態度で、桃子は目眩がしてきた。考えが甘かったようで、すぐに帰るなど決してできない。来なければよかった。

 入り口の方を見る桃子に、

「放課後に一度顔を出して、帰りたくなったら自分の好きなタイミングで帰っていい。だから辞めないでくれ」

 と、憂が妥協案を出してきた。

「いつ帰ってもいいの?」

「帰りたければ」

「うーん……。じゃあ、しばらくだけだよ」

 自分で言って驚いた。

 ということは、自分は本当に探偵部の部員になってしまったということか。

 理科室の奥に備品室があって、そこに入るとビーカーやら試験管など、もう理科室として使われていないはずなのに、それらが忘れられたように置かれていた。

「掃除がどれだけ大変だったか……」

 備品室に入ると森が居て、あの映画館で囁くような喋り方と共に溜息をした。

 置き忘れられたこれらの理科実験の道具類を森が掃除したようだ。少し前まで埃を被っていたようだが、今は天井の照明を反射して新品の様に輝いている。

 備品室は、そういうネームプレートが付いているが、森の活躍で綺麗な部屋になっていて、ガス台と冷蔵庫が置かれていた。調理実習でもここが使われることがあったようで、ガス台は一台だけだが、その名残りのようだ。ガス台の付近だけを見れば一見普通の家の台所。そして気付いた。

(そうか、ここでこれから、何かを作らないといけないのか……)

「先輩、なに作るんですか?」

 わくわくしたような顔で優奈が寄り添ってきた。

「どうしようか」

 昨日はオムライスがなんとかと言われたが、料理というより、おやつがいいと思った。クッキーはどうだろう。家でよく作っていて、学校に持ってきて友達にあげたりするから慣れている。

 冷蔵庫を開けると、卵がたくさん置いてあった。

 調味料も新品のものがたくさん置いてあって、レトルトのご飯があり、ケチャップもあるからオムライスは出来そうだと思った。クッキーは作れそうもない。

「こんなところで作ったものが食べられますか……」

 森が寒そうに自分の肩を抱いて冷蔵庫の中を覗く。そういえば、さっき憂が手伝うように一年生たちに指示を出して、男子の西尾も桃子の後ろに立っている。桃子は料理担当らしいが、桃子の料理の腕は誰も知らないはずで、料理が不味かったら追い出したくなるんじゃないかとふと思った。

「チョコレートのオムライスを食べたい?」

 と、チョコレート好きの西尾に聞くと、

「うん!」

 と、長い顔で嬉しそうにうなずく。

「板チョコを持ってる?」

「部長に今日の分を貰って、それならあるっす」

 西尾が、ちょっと惜しそうにポケットから板チョコを出して桃子に渡した。桃子は当然のようにそれを受け取る。桃子の計画は始まっている。自信満々という感じでコンロを操作すると、ちゃんと火が入った。

「フライパンもあるわね。大丈夫、ちゃんと洗うから」

 桃子は森に言った。

 何かを言われる前に流しでフライパンを洗う。

 お皿もある。

 ガスコンロや冷蔵庫は理科室に前からあったものかもしれないが、食材はどれも新しいようで、スーパーで買い揃えたばかりのように見えた。憂が買ってきたものだろうか。

 とすると、部員が逃げるのを防ぐために部員たちにお金を与え、食事を与え、チョコレートを与えたりして、その心を繋ぎ止めようとしている。必死さが笑えるというか、少し哀愁まで感じさせた。そこまでして仲間がほしいのか。

 卵をボールにあける。

 牛乳があるので使う。大さじ四杯。

 玉ねぎみじん切り。

 鳥のモモ肉がなぜかあって、消費期限も大丈夫だったので使うことにした。バター。塩コショウ。ケチャップ。

 ジャーっと、白い湯気と共に香ばしい匂いで玉ねぎが透き通ってくる。ご飯はパックのものしかないから仕方がない。電子レンジもあって、ご飯を優奈に頼んでチンして貰った。

 チョコレートを包丁で刻み、レンジで熱を加えて溶かす。

 パックのご飯を開ける。

「あっつ!」

 つん、と独特のパックご飯の匂いがして、父親の顔が頭に浮かんだ。

 いい匂いではないのだが、桃子の父親は、このパックご飯の匂いを「好きだ」と言ったことがある。

(きっと、嘘だとおもう)

 桃子は思った。

 ご飯を毎日炊いて用意する桃子に気を使っているのだ。

 レトルトとか缶詰が好きらしい……。

「キャンプみたいだから」

 と、不思議な説明を聞いて首を傾げたことがある。 

「ほんとうに?」

 と、ことさらに素っ頓狂な声を出して、インスタント物が好きだと言った父親に桃子は問い返した。

「――レトルトとか缶詰とか、そういうのっていうのは、例外なく味が濃いんだよ。そういうやつがお父さんは好きだなあ」

 桃子は苦笑い。

 桃子に迷惑を掛けまいと、そういう設定を作っているのだ。

 いつも焼き魚には醤油を黒々とかけて、たしかに父親は濃い味が好きだが、それがインスタント物が好きだという理由にはならないと思った。桃子に世話をかけることを極端に嫌がっていて、実の娘なのに、この世に存在するたった一人の世話をかけてもいい人なのに、父親は娘に気を使う。

 パックのご飯をフライパンにあける。じゅーっと、バターが溶けて泡立ち頃合いはよし、塩こしょう投入。続いてケチャップ投入。

 そして、ここからがキモだ。溶かしたチョコレート投入!

 甘い匂いが部屋に充満した。

「あまり、火を強くしないことがコツです」

 一年生たちに桃子は料理番組のように解説しながらフライパンを揺する。

 躊躇してはならない。まるで、いつも作っているかのようにチョコレートオムライスを作る。ケチャップ色のご飯が、みるみる黒くなってゆく。炒め終わったチョコレートご飯をボールに次々に入れて、手際よくフライパンをゆすりつつ卵に火を通す。黒ご飯、再度投入。

 見事完成!

 卵に包まれたチョコレートオムライス!

 色合い的に、オムライスにはチョコレートソースをかけるのがいいと思ったが、チョコレートが切れたので、ためらいもなくケチャップを乗せた。向こうの部屋から、ぼす! ぼす! と、憂がサンドバッグに打ち込む音が聞こえて、赤いボクシンググローブを意識してオムライスにケチャップで絵を描く。

「血のしみ……?」

 優奈が首をかしげた。ケチャップの絵を引きつる笑顔で見つめる。

「えーと、ちがったかな?」

 我ながら変な絵だと思った。ボクシンググローブってどういう形だっただろう……。まあいい。ハートに変更する。

「おしり?」

 完全なハートの形になったと思ったのに、優奈がそのケチャップの絵を見て言った。

「いいえ、りっぱなハートです!」

「わかってますよ」

 優奈がニヤニヤ笑う。さっきのポスターの感想の仕返しと気づき、

(おもしろい子だなあ)

 と、桃子は思った。

 ただ……。

 優奈たち一年生の三人には悪いが、五人分のチョコレートオムライスを作った。

(これを食べて、みんなで悲鳴をあげてください)

 これで、みんなは桃子を追い出したくなるだろう。


「部長! できましたー!」

 優奈たちが、嬉しそうにチョコレートオムライスを向こうに持ってゆく。あんまり嬉しそうにするから、桃子は罪悪感で暗い気持ちになった。もう手遅れだが、ターゲットは憂だけで、憂が自分を追い出したくなればそれでいい。憂のオムライスだけを罰ゲーム的なものにすればよかった。

「よし、会議を始める。食べながら聞いてくれ」

 何でも指示を出さないと気が済まないのか、「森はそこ」「西尾はその隣り」と、憂が各自が座る席まで指示を出した。桃子も言われたとおり、憂の隣の席に着席した。この席なら、これから起こる惨劇を見つめるには好都合だ。憂が料理に文句を言ったら、即座に「さよなら」と、席を立つ。

 桃子は少しは気楽になっていた。

 一年生たちがどういう人格の持ち主か昨日はわからなかったが、話せばみんな素直な子たちで、憂が命令したからといって殴りかかってくるとは思えない。それどころか、逆に憂から自分を守ってくれそうな気さえした。

 顔だけ出せばいつ帰ってもいいと憂に言われたし、今日も桃子は自分の足でこの部屋まで来た。出席しなくても、桃子の体を抱えて強引にここまで連れてこないはずで、事実上の退部状態にはいつでもなれるはずだ。来なければいい。

(その前に、ヘタクソ料理人を憂くんの方からお断りしてくるはず)

 ドキドキして憂の横顔をうかがう。

 みんなが、

「いただきまーす」

 と、いっせいにスプーンを手に取った。桃子も一応スプーンを手に取る。

 憂の様子に注目していたら、彼はスプーンを手にしたまま、「いいか」と、スプーンを振って食べずに話し始めた。

「今日の予定は校内巡回パトロール。それが終わったら部室に集合。俺はボクシング部に殴り込みに行く」

(殴り込み……?)

 桃子は、おもわず憂の鼻の絆創膏を見つめた。額の上にもアザなのか赤くなったような跡があって、殴り込み的なことが原因だろうか。

「――変わってるけどおいしい!」

 意外と、森が真っ先に言った。潔癖症だと思ったが、こういうのは大丈夫なのだろうか。

「おいしい!」

 優奈も森に同意した。二人がにこにこして桃子を見て、逆に抗議されてる気分になった。

(だって、ケチャップとチョコレートが絡んだご飯を、卵と一緒に食べるんだよ?)

 こんなものが美味しいわけがない……。

 だが、二口、三口と、一年生女子たちはスプーンを忙しそうに口に運ぶ。桃子が淀みない手際で自信満々に作ったから、女子たちは軽い催眠状態で食べているのかもしれない。普通に考えれば罰ゲームみたいなオムライスで、嫌々作っていたら印象が悪くて、さすがにこうはならなかったはずだ。

 憂もスプーンを動かして、黒いご飯を卵と共に口に運んでいる。眉間に皴を寄せ、怒っているような……。

(いつもこんな顔だっけ?)

 桃子はわからなくなった。

 憂は教室でいつもうつむいていて、どこでもそういう姿勢なのか、日の当たらない色白の顔をしている。目が隠れそうな前髪で、ちょっとうつむくと完全に目が見えなくなる。だが、ここでは常に胸を張って別人のようだ。どれが本当の憂なのか。

 憂は、教室に居るときは花瓶のようにおとなしい。花を活けてあるやつではなく、教室の隅に忘れられている古い花瓶タイプ。居るのか居ないのかわからない。教師に指名されても、うつむいてぼそぼそ答えるだけで存在感がぜんぜんない。

 小学校で二回、中学で一回、桃子は彼と同じクラスになった。そのときの印象も、今の教室での憂と同じ感じで、きわめておとなしく目立たない生徒。口もほとんど利いたことがなかったから、どれが本物の憂か推し量る材料が桃子にはない。付き合いが薄いとはいえ長いから、桃子に親近感を感じてというか、やはり、無理が通る性格だと舐めていて、むりやり部員にさせられたのだと思った。

 探偵部の副部長――。

 いきなりの士官待遇は単に二年生だからで、実態は料理担当のお手伝いさん。

(でも、舐めちゃだめ)

 料理担当が毒を盛ることだってあるのだ。

 チョコレート好きの西尾が、もくもくチョコレートオムライスを食べて、そして一番に完食した。コップの水を喉を鳴らして一気に飲み干し、「ふーっ」と満足気に息を吐く。

「西尾くん……。もしかして、おいしかった?」

 恐る恐る聞いたら、

「うん!」

 と、翳のない笑顔で頬を赤らめる。本当か……?

「私のも食べる?」

 と聞くと、

「やったー!」

 と、ガッツポーズまで作り、可愛い笑顔で嬉しがる。

「ちょっと待ってね」

 ひと口食べてみよう。

 スプーンでオムライスをすくう。

「あら……」

 それまで卵に隠れていたチョコレート色に染まった毒々しいご飯が見えた。

「あと、いいよ」

 残りを西尾にゆずった。

 怖々とチョコレートオムライスを口に運ぶ。

「う、うん……」

 まあ、オムライスという食べ物を知らないで食べたら、どこか異国の不思議な食べ物だと思えば、なんとか食べられる。スイーツだと思えば。

 女子の二人も完食した。憂も完食。

 ちょっと、勇気が足りなかったかもしれない。

 どこかで味のバランスを取ろうとしたのか、ご飯にチョコレートと共に絡めたケチャップが少なかったし、チョコレートの風味が勝って奇跡的に食べられる味になってしまった。追い出されるためなら、さらにコショウを半ビン入れるくらいの度胸が必要だったようだ。

 いや、それがいけない。

 いっそ一ビン中蓋を取り、勢いと共に逆さにして全量を投入して、

「なんだこれは!」

 と、憂が咳き込みながら怒り、

「作ってられるかコンチクショー!」

 くらいの啖呵を切るのが正しい追い出され方だった。


 探偵部の会議が進む。

 桃子も校内巡回パトロールなるものに行くことになった。

「これが完成した。左腕に付けろ」

 と、憂が黄色の腕章を桃子たちに渡した。「校内巡回パトロール」と、書かれている。

「こんなの付けたら、目立つでしょ?」

 桃子は恥ずかしくて嫌だった。

 退部どころか部室の一番奥の部屋でオムライスを作り、探偵部の腕章をして校内を歩かなければならない。誰かに、見られるではないか。

「だからいい。目立てば悪の影を追い出せる。俺たちの目の黒いうちは、校内で勝手なことはさせない。そういう気概で睨みをきかせろ」

「だれに……?」

「悪に」

 はあ――。

 そういうわけで、パトロール腕章を付けて、桃子は一年生たちと校内のパトロールに繰り出すことになった。みんなで行けば怖くない。憂はボクシング部に「殴り込みに行く」から、パトロールには参加しない。殴り込みとはいったい……。

「副部長、今日はどういう順路にしましょう」

 優奈が、ちょっと怖い顔を作って言った。この子も正義感が強いようだ。

(副部長なんて呼ばれちゃってるし)

 自分のことを滑稽に思った。

「いつも、どういうふうにパトロールしてるの?」

「腕章を付けたパトロールは今日が初めてです。探偵部はできたばかりだから、みんなで考えて校内をパトロールしようってことになったんです。正式な順路はまだ決まっていません」

「じゃあ、きょうはみんなで廊下を歩きましょう。とりあえず、旧校舎から。あんまり人が居ないし……」

 よかった。

 一人で見回りをさせられるのかと心配したら、みんなで見回る。

 それに、桃子がルールを作ってもいいようだ。もしも一人にされたら、こんな恥ずかしい腕章を外して見回りするしかない。

 探偵部とは、推理小説なんかを読んで感想を言い合うようなものかと思ったら、実態は学校の警備員なのかもしれない。放課後の校内など見回っても、どうせそれほど変わったことがあるわけがなく、散歩みたいなものだ。……と、桃子は自分に言い聞かせた。

 見回りを始めたが、放課後の廊下はほとんど生徒がいなくてほっとした。

「ねえ、ボクシング部に殴り込みってなんなの?」

 優奈に訊くと、

「これから見に行きませんか?」

 と、優奈は瞳を輝かせた。

「行ってもいいの? 私たちが行ったら、ボクシング部の人に私たちが殴られない? 腕章なんか付けて行ったら、憂くんの仲間だと思われて」

「殴られませんよ」

「どうしてよ……」

「殴り込みって、部長は練習試合にボクシング部に行ってるだけなんです」

「そうなの!? ということはまさか、あの人って強いの?」

 人は見かけによらない。

 いやむしろ、腕に自信があるから強気の態度が取れるのだろう。「誰と戦っても勝てる」……みたいな、絶対的な自信があるから。

 どちらかというとナヨナヨして、おとなしい生徒。それだけの印象の男子だったのに、昨日からまるで別人に見えている。あんなに言葉を荒げる人だったのも意外だった。正義感が溢れているためか、探偵部を立ち上げて、毎日ボクシング部に「殴り込み」に出掛けて技の鍛錬を積み上げている。

(そんな感じ?)

 だから学校の警備もするのだ。

「大きな声じゃ言えませんけど……」

 と、優奈が声をひそめて、

「お金を賭けてるみたいです」

「なにに?」

「ボクシングの練習試合です。勝った方がお金を貰えるんですって。勝てば、お金と格闘力が得られるんです」

「え~っ?」

 頭から血の気が引いた。ふらふらして、思わず額に手を当てる。ということは、探偵部の活動資金とは、そうやって出来ているのか。

「あいつ……」

 やっぱり、理解不能のとんでもない人のようだ。憂からは距離を取ったほうがいい。

 こんな同好会的な部活、どうせすぐに潰れてなくなるし、憂の傍若無人ぶりはそうそう続かない。溢れる正義感を厨二的な方向にこじらせてこうなった。

(それか、もっと悪い人かも)

 本当の悪人は憂で、人からお金を巻き上げる仕組みが「探偵部」かもしれないとも思った。

「止めにいこう!」

 桃子は一年生を引き連れてボクシング部に向かった。

 止められるかわからないが、どれだけ危険な男なのかを確認したかった。

 ボクシング部の部員相手に圧倒して勝ってしまうのか、ぎりぎり勝つ程度の勝負をする人なのかも見てみたい。圧倒的に叩きのめす方だとしたら、さすがに止められないから教師に相談するしかない。

 チョコレートオムライスがみんなのお腹に残っている。桃子を信頼し始めてる証拠か、桃子の側を歩く三人の位置が近い。計画と違ったが、あれを食べさせたことでみんなが桃子に心を開いてきている。こうなったら、無垢な一年生たちを憂から離してあげたい。探偵部が出来てから一週間もたっていないようで、みんなは訳が分からないまま、校内パトロールをやらされているだけだ。昨日は憂の命令で桃子を部室に監禁する手伝いをしただけ。憂のような悪人はしょうがないとしても、救えるのならば、一年生たちを救いたい。

 ボクシング部は体育館の隣のプレハブの建物だ。

 そこに向かっていると、憂が廊下の向こうに現れた。

「あ……! まだボクシング部に行ってなかった!」

 ちょっと、身構えてしまった。まさか、いきなり殴りかかっては来ないと思うが……。

 憂の髪が汗で濡れていた。手に赤いボクシンググローブを下げて、桃子たちを見つけると、首から下げたタオルで頭をごしごし拭き、

「なんだ、パトロールはどうした」

 と、不機嫌そうに言った。

「もう行って来たの?」

 逃げたくなったが、一年生たちのために勇気を出した。

 練習試合はもう終わったようで、憂は運動後のさっぱりした顔をしている。いったい、一試合でいくら稼いでいるのだろう……と思っていると、憂はふらふらして、床に尻もちをつくように座った。

「大丈夫? 鼻血が出てるよ……」

 ポケットティッシュを持っていない。トイレのペーパーを持ってこようとしたら、憂はタオルで汗をぬぐうついでに鼻の血も拭いてしまった。

「相手はもっと出てるよ。いってぇ……。鼻を打たれた。せっかく治りかけてたのに」

「折れてない?」

 桃子が憂のうつむく顔を彼の肩に手を置いて覗くと、恥ずかしいのかもっと憂がうつむいたから、その顔が見えなくなった。

「……大丈夫だろ。ヘッドギアも付けていた。ああ、いってぇ」

「保健室に行く?」

「大丈夫だよ。それより、お前たちはパトロールに行け。悪を追い払うんだ」

「パトロールって、そんなに大切なの?」

「大切だよ。よし、俺も行こう」

 憂が立ち上がった。

 もうケロッとしていて、さすがにボクシング部に殴り込みに行くだけあって体力はあるようだ。

 彼は毎日こんなことをしているのだろうか。

(ボクシングって一ラウンド三分で戦うやつだっけ?)

 こんなに早くボクシング部を出て来たということは、一ランドか二ラウンドで、あっさり相手を倒してしまったのだろう。憂は、もう何事もなかった様子で桃子の隣を歩いている。文句を言おうとしたが、痛がる彼を見てタイミングを失った。

「今日は何ラウンドで相手を倒したの?」

 ボクシングの賭け試合のことも気になって、憂の顔を横から覗き込んだ。

 鼻血は出ていたが、その自信満々の態度からは勝利しか想像できない。ほんの少し前に部室でチョコレートオムライスを食べていた。あれからニ十分も経っていない。ほとんど一瞬で勝負を決めてしまったのだ。

「ねえ、一ラウンドで勝っちゃった?」

 強い横暴者とはたちが悪い。だが、

「負けた」

 と、ぶっきらぼうに憂が答えた。

「え……。負けたの?」

「今日は、一ラウンドの一分も持たず負けて帰ってきた」

「ボクシング部の最強の相手だったから……? 優奈さんに聞いたんだけど、勝ったらお金が貰えるって本当なの? 賭け試合?」

「金を賭けないと本気の勝負ができないんだよ。一試合、五百円で戦ってる」

「勝った方が貰えるんだよね……。そのお金が探偵部の活動資金になってるの? 今まで何試合くらい勝ったの?」

「勝ったことはない」

 べつに恥ずかしそうでもなく、大真面な感じで憂が言った。

「勝ったことがないの? なら、お金を払ってるの?」

「負けた方が払う決まりだからな。今日はすべての試合を負けたが、そのうち必ず取り返す」

「今日はすべてって、何試合したの?」

「今日は二試合。二試合とも一ラウンドの一分で負けた」

「ということは、今まで勝ったことがないって……」

「五万円くらい負けてる」

「えー?」

 憂は憮然とした表情だ。

 落ち着いて考えてみよう……。もしかしたらお金を賭けているというよりは、ボクシング部の人に相手をして貰い、そのお礼としてお金が支払われているのではないだろうか。そうでなければ、こんなに弱い物好きな人の相手なんてしないと思った。向こうからしたら、いい金づるでは……。

「俺は強くならなければならない。やがて、なる」

「強くなりたいのね……」

 なんなのか、この男は。

 だったら探偵部なんてやめて、みんなを巻き込んだりせず、ボクシング部に入ればいいと思った。格闘技といえば学校にはほかに剣道部と柔道部があるから、そのうちそっちの部活にも殴り込みに行くつもりかもしれず、お金と絆創膏がいくらあっても足りない気がした。

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