今日も体調絶不調なので山井懸は絶好調
丁_スエキチ
第1話 唸れ疾病拳!これが山井懸の闘い方だ!
二人の男が、闘っている。
片方が拳を突き出したかと思えばもう片方はふらついた体勢でどうにか躱す。その躱した先に鋭い蹴りを繰り出されたかと思えばすんでのところで避ける、という防戦一方の闘いに見える。
先程から荒々しくも研ぎ澄まされた攻撃を繰り広げているのは筋骨隆々の大男、そしてふらりふらりと攻撃を躱しているのは顔色の悪い痩せた男である。
「げほっ……、ごほっ、ごほぅぇ」
咳き込んでむせているが、決して相手の殴打が鳩尾に食い込んだわけではない。只の風邪の症状である。そうなると焦るのは大男の方だ。
「何故だっ⁈何故こんな咳き込んだ病人相手に拳が当たらないんだ⁈」
〜〜〜〜〜
10分ほど時間を遡る。
「あぅあ……、まだ少し熱っぽいか……。でも今日提出のレポートを出したからよしとするかぅえほっ、げほっ」
しかし彼にとってこの程度の体調不良は幼い頃からずっと続いている日常茶飯事であり、もはや平熱が何度なのかよくわからない。そのため、健康が損なわれた程度で課題を蔑ろにすることはない。優等生の鑑である。咳も慣れっこなので、ちゃんと咳エチケットとしてマスクを着用している。読者の皆様も、咳が出ているときは周囲の事を考えてマスクをして頂けると助かる。
さて、山井懸はそんな年中無休不健康ボーイである訳だが、ちゃんと彼を心配してくれる存在がいるのでご安心して頂きたい。
「懸、熱あるのにわざわざ大学に来たの?言ってくれれば代理で提出してあげたのに……」
そう話すのは大学のクラスメイトにして彼の幼馴染である
「いや、流石にそれは申し訳ないよ。昔みたいに家が隣同士ってわけじゃないんだし、げほっ、わざわざ俺ん家に取りに来てもらうなんて迷惑かけるような真似はちょっとね」
「高々歩いて10分の距離じゃん。それにこうやって咳を撒き散らして歩いて、風邪を移される方がよっぽど迷惑でしょ」
「栞は風邪なんか引かない癖に」
「まあ確かに」
懸の言う通り、栞は生まれてこの方風邪を引いた事がない。莫迦は風邪を引かない、とかそういう話ではなく(彼女はどちらかと言えば頭の回転が速い部類の人間である)、ひとえに彼女の免疫力と生活習慣のお陰である。羨ましい。
そんな栞と懸は幼稚園児の時から小学校4年生の時までは家が隣だったので、よく一緒に遊んでいた。風邪で寝込んでばかりの懸の家に押しかけて、本を読んだりゲームをしたりすることもよくあった。始めのうちは「息子の風邪を移してしまう」と、山井家の両親は栞を追い返していたものの、しょっちゅう遊びに来るのと、面白いくらいに全く風邪を引かないのを見て、諦めて放置していた次第だ。
小学校4年生の時に、親の仕事の都合で栞が引っ越して以来、殆ど連絡を取らずにいた二人だったが、大学に入った矢先にばったり遭遇したので再び友人関係を築いている。いつもマスクをして咳き込んだり鼻をかんだりしている懸に近づこうとする人間はそうそういないので、彼にとって栞は数少ない友人の中でも大事な一人である。
キャンパス内をふらふらと歩く二人。ふらふらしているのは片方だけだが。
「それにしても、栞はなんでいつも元気なんだ。隣に病人がいるってのに」
「それはね——」
「それは彼女の類稀なる遺伝子配列と生体酵素のお陰だ」
突然、知らない男の声がした。
「ん?まあいいや、なんでそんなピンピンしてるのかって話」
「なんか私の免疫は凄いんだってー、ぶっちゃけよくわかんないけど」
「ふーん、げほ、ザックリした説明だな」
「彼女の持つ遺伝子の塩基配列は非常に貴重なのだよ。そしてそれが細菌やウィルスに対して特異的に反応する酵素を作り出しているんだ」
再び男の声。
「私、高校で生物取ってなかったから免疫とか言われてもよくわかんないんだよね」
「ごほごほっ、あーわかる、わかんないのわかる」
「わかる?わかんないのわかる?」
「わかるわかる、わかるのはわからんけど」
「わけのわからない会話をしてないで、人の話を聞けぃ!!!」
不毛な二人の会話に耐えきれずに男は叫んだ。流石に二人も気づいてその男を見る。大学に居るには少し相応しくない、筋骨隆々のスキンヘッドのオッサンであった。グラサンを掛けていたら完全にヤバイ人といった見た目だが、流石に掛けていない。
「えっ、俺たちに話しかけてたのかなあのオッサン」
「用事があるなら普通挨拶からじゃない?」
「わかる」
「そのヒソヒソ話も聞こえているぞ。だが確かに挨拶無しに話しかけたのは失礼であった、私は
そう言って差し出した名刺には、「宛野製薬新薬開発研究部第三課特別研究員」との文字列。ホンマに研究員かこの人?と思いながらもとりあえず応対してみる。
「はぁ、それで製薬会社の研究員さんが俺らに何の用事でしょうか?げほっ」
「風邪引きの君に用事は無い。私は寒河栞氏に用があって来たのだよ」
「私に?」
心当たりのなさそうな栞を見て、アポ無しの訪問、しかも家ではなく大学への訪問とは何かおかしいな、と思う懸だが、まだ様子見である。
「先程も言ったが、君の遺伝子配列は特別だ、ということは知っているだろう?」
「それは……、はい、中学生の時に父から聞いたと思います。確か7000万人に一人だかそれくらいだったような……。正直よくわかっていないんですけども」
「そう、その通り。まあ分かりやすく言えば、君は生まれつき病気にならない遺伝子を持っている訳だ。あるいは病気に感染しても発症する前に病原体を倒してしまう。君の免疫細胞は非常に強力だが、だからといって病原体以外に過剰反応することもないからアレルギー反応も起こらない。その上、君の特異な遺伝子は免疫細胞の他にも、病原体だけを識別して生体構造を溶かす酵素を作り出せるようになっている。まさに無病息災が具現化したような存在なんだよ」
「はあ……」
早口でつらつらと語る野呂の言葉を聞いても、栞はあまりよくわかっていないらしく首を傾げていい加減に相槌を打っている。懸は話を聞かずに鼻をかんでいた。
「それで、君の遺伝子配列や酵素の働きを調査したくてね。それを解析して薬に応用することができれば、たくさんの人々の命を救うことだってできる、素晴らしいだろう?君の父上からは既に許可を頂いているから、そこの車に乗って宛野製薬の研究所に一緒に来て欲しいんだ」
「お断りします」
栞は即答した。
「第一に、父の許可を得たなら私に連絡が入ってくる筈です。いくら父が忙しいとはいえ、私の身体に関わる連絡を怠ることは無いと思いますので。よかったらここで確認してみても構いませんよ。
第二に、私由来の酵素?でしたっけ、を用いた薬に関しては、おそらくうちの父の会社で特許を取っている筈です。私の身体が凄いことにいち早く気づいて、検査をさせたのは父ですから。こちらも確認してみても構いません。あと、まだ薬とかの一般の実用化には漕ぎ着けていませんが、逆に言えばそれだけ実用化が難しいということなのでは?失礼ですが、「宛野製薬」などという会社名は聞いたことがないですし、金と時間を掛けているうちの会社で無理なことを無名の会社にできるんですか?」
理路整然と臆することなく意見を述べる栞の姿に、懸は唖然としながら「そうだ、こいつ製薬会社国内シェア上位の寒河製薬の社長令嬢なんだよなあ」と思い出していた。生物の知識は若干少ないが、こういう時に咄嗟に理性的な対応ができるのは凄いことだ、と素直に感心する。
それとは対照的に、どんどん顔が険しくなっていくのは野呂である。生物学トンチンカンな小娘なんで簡単に騙せると思っていたらとんだ大誤算である。というか大学生なんだからころっと騙せない事くらい気づいてほしい。シンプルに他人を舐めてかかってるだけっぽい。
「クソッ、金持ちの甘やかされた嬢ちゃんだと思ってたらとんだ大違いだったか。こうなったら力づくだ、覚悟しな小娘!」
ムキムキの巨体が、強引に栞を捕まえようと迫ってくる。日焼けする程度には運動しているとはいえ、栞はただの女子大生。相手は鍛え上げられたスキンヘッドのオッサンだ。慌てて逃げるものの、このままでは栞が捕まってしまう!
「栞!ここは俺が相手する!お前はとにかく安全そうな所へ逃げろ!」
そうだ、安心してほしい、ここにはもう一人の人物がいるではないか!そう山井懸……、顔色が悪くて、痩せていて、風邪引きで、ふらふらで……。
あっ、終わった……。
「えっ、あんたそのふらふらで、正気⁈」
「オイオイ、俺が誰だか忘れたのかよげほっげほっ!!俺は疾病拳第16代正統継承者、山井懸だ!!!」
思い出してほしい。栞は大企業の社長令嬢。そんな御仁と家が隣だったというのだから、当然、懸の家だって由緒正しい家柄なのである。
疾病拳。それは古代中国武術をルーツとし、日本に輸入されて以降、山井家一門の男子を正統継承者として代々受け継がれてきた拳法である。
そもそも武術や拳法は、日常の弛んだ生活の中だけでは完全に習得することはできないものだ。わざと厳しい環境に身を置き、修行することによってしか習得できない部分も存在する。つまり、肉体に敢えて負担をかけることによって現状の自分の限界を超えた力を引き出すことができるのだ。
疾病拳はその究極の形と言えよう。敢えて病気になった時にこそ鍛錬を積むことで、健康体である時以上の技術を発揮することができるようになる拳法である。しかし、病気になった時にばかり鍛錬をするため、健康な時にはその100%の技能を使いこなすことはできないのである。却って病気の時の方が、練習の状況と同じなのでより良いパフォーマンスが得られるのである。
つまりこれは、年がら年中風邪だのアレルギーだのインフルエンザだのに苦しんでいる山井懸には相性抜群の拳法であるのだ!!!
猛スピードで走り来る野呂の前に立ち塞がる懸。マスクを外し、ポケットにねじ込んだ。
「とにかく逃げろ、栞!こいつの目的はお前だ!」
「わ、わかった!」
栞は大学の警備室へ向かって走り出した。ここからならそれほど遠くもないから何とかなるだろう。問題はそれまでに時間を稼げるかどうかだ。
「お前のようなモヤシ野郎、吹き飛ばしてくれるわ!」
あっという間に距離を詰めて来る野呂を前にして、懸は大きく息を吸った。
「
野呂が懸に飛びついて悪質タックルを仕掛けようとした瞬間、懸は思いっきりむせた!
「げほっ!げほげほっ!えほっ、ごほっ!!!」
すると何ということだ!野呂がぶつかった衝撃で逆に後ろに吹っ飛ばされたのである!懸は元々立っていた位置から微動だにしていない!
「何故だ⁈何処からどう見ても、私の方が体重が重いはず……⁈」
「これは疾病拳の技『噎踏』だ。咳をした瞬間は、横隔膜や腹筋といった全身の筋肉を使うだろう、げほっ、こんな風にな。その力を全て地面への踏ん張りに使ったとしたらどうする?」
「なっ……⁈」
「それにお前は俺のことをモヤシ野郎だと思って舐めてかかっていたな。だから地面に踏ん張ることもせず、走る途中で小さくジャンプして空中からタックルしようとした。ごほっごほっ、地面への摩擦を最大に利用した俺と、空中で何も踏ん張りが効かないお前、どちらが有利かわかるか?」
「そんな莫迦な……⁈クソッ、もう容赦しねぇ!」
「いい歳こいたオッサンが何言ってんだ、げほえほっ。こっちも手加減はしないぜ」
そう言って懸は腕まくりをしたが、シャツから見えるのは細いながらも引き締まった筋肉!彼は決してモヤシ野郎などではない!細マッチョなのだ!!!
〜〜〜〜〜
そして二人の闘いは冒頭の描写に繋がる。
野呂の鍛え上げられたゴリゴリの筋肉から縦横無尽に浴びせられる、雨の如き拳、肘打ち、蹴り、頭突き……。まさしく"肉弾戦"という言葉が相応しいと言えよう。
それらの攻撃を全てふらふらと危なっかしい姿勢で躱していく懸。時々咳き込みはするものの、今のところ全ての攻撃を躱している。数センチでもズレていたら、おそらく病院送りは免れないのが恐ろしい所だ。懸は内科にはよくお世話になるが、外科にはお世話になりたくない。
何も知らない素人が見たら、咳き込んでひたすら回避に専念する懸よりも、派手な技を大量に繰り広げる野呂のほうに勝ち筋を見出すことだろう。
しかし、このふらふらとした動きも疾病拳の戦術の一つである。
「
熟練した一流の武術家というのは、相手を一目見ただけで、何処に重心が存在するのか、何処に意識を向けているのか、というのがわかるものである。よって、相手の次の動きを容易く予期することができ、対策が取れるのである。
それに対してこの眩暈歩は、熱が出て眩暈がした時と同じような動きをすることによって、重心位置を相手の予想外のところへ持っていくことを可能にするのだ。さらに熱で意識が朦朧とした時のように無意識での反応をメインにすることで、一種の瞑想状態に近い状態を形成する。つまり、相手が闘いに慣れた熟練の戦士であればあるほど相手の脳内シミュレーションを乱すことができるのだ!
実際、野呂は困惑していた。病人だと思って侮っていた相手が、訳の分からないフラフラフラフラした動きで自分を翻弄しているのだから。そして、予想外の連続のせいで、野呂は冷静な思考ができなくなってしまっていた。自分が大学に来た目的が栞の誘拐であることを忘れて、とにかく目の前の懸を倒すことに夢中になってしまっていたのだ!
脱力した状態でただ避け続ける懸と、無我夢中になって渾身の力で攻撃を続ける野呂。いくら健康体と病人の差があるとは言え、いつまでも続けていたら体力が先に底をつくのは全力攻撃の方だ。そして、野呂の息が上がって来て、攻撃ペースが落ちたその瞬間を懸は見逃さなかった。
「
先ほどの「噎踏」では、腹筋や横隔膜の力を踏ん張りに集中させたが、今回はその力を全て、突き上げた右腕に集中させた!
「げほっ、ごほごほっ!!」
全身の力を受け止めた懸の右手は、野呂の鳩尾へと吸い込まれるように突き刺さった!
「ごぶぉっ!!!」
これは懸の咳ではない。野呂がダメージを食らった咳である。一瞬の不意をつかれた攻撃を受け、野呂は地面へと倒れた。
「取り敢えず、動かないように締めとくか」
懸は素早く野呂の上に馬乗りになると、身動きが取れないように軽く関節を締めるなどした。ちなみにこれは疾病拳の技ではなく、この間テレビで放送していたプロレスで見た技を見様見真似で再現しただけである。危ないので、良い子も悪い子も真似しないでね。
〜〜〜〜〜
栞が頃合いを見計らって警備員と警察を呼んできてくれたので、後の処理は警察と大学側でやってくれることになった。懸と栞も一応事情聴取を受けた。扱いとしては、不審者が構内に侵入して学生に暴行未遂をした、という所だろう。
パトカーで警察へ連れて行かれる直前の野呂は、ザ・意気消沈という感じの顔をしていた。きっと舐めくさっていた相手に闘いでボロ負けしてしまい、闘志とかそういう類のものが消えてしまったのだろう。
しかし去り際に一言、懸にだけ分かるようにボソリと彼はつぶやいた。
「お前の女を狙ってるのはうちだけじゃない筈だ。他にも色んなのが迫ってくるだろうから、せいぜい覚悟しとくんだな」
これは彼の負け惜しみの出まかせなのか、はたまた宣戦布告の真実なのか。いずれにせよ、しばらくの間は栞の周辺に気をつけた方がいいだろう。
「大丈夫か、栞げほっげほっ、ごっほげっほげっほう゛う゛ぇ゛っほお゛っほ」
「懸の方が大丈夫じゃない気がするんだけど」
「え゛ふっげへっ……でも大丈夫だったろ、野呂も倒したし」
「まさか懸があんなに強くなっていたとは……驚き桃の木山椒の木だよ」
「なんでそこでボケた?まあ、人一倍修行したからかな」
「ハハッ、風邪ばっかり引いてるのも役に立つことあるんだね」
「うるせえな」
そういえば野呂の奴、栞のことを"お前の女"って言ってたよな……。俺の女……?
無いな。うん。ただの友達だ。変なギャグかますし。
でも、掛け替えの無い大事な友達を守るために、この拳を使って行こうと思う。
懸は、その病弱な身体の中に、それはそれは強い決意を固めたのであった。
「それでも、私に逃げろって言ってくれたの、ちょっと格好良かったよ」
「そうか?ありがとうよ。げほっ、あれ、顔が赤くないか?あちゃー、風邪移しちまったかな?」
「……」
今日も体調絶不調なので山井懸は絶好調 丁_スエキチ @Daikichi3141
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