生活必需品
これは、那月と夕紀が異世界へと転移した初日の事。
乏しい所持金で必要な物を厳選した二人は、『せめてこれだけは』と、替えの下着を購入すべく、店を訪れていた。
「――はずだったんですが。夕紀、このお店は何ですか?」
「ここ? 雑貨屋だね」
「ですよね? 勘違いじゃないですよね? ランジェリーショップ、なんて贅沢は言いませんけど、せめて服屋じゃないんですか?」
「はっはっは。ランジェリーショップが無いのは当然だけど、下着も服屋では買えません」
乾いた笑いで断言した夕紀に、那月はしばし沈黙。
やがて
「……えっと、それは、『お金が無いから、とりあえずは百均で済まそう』とか、そういう風なお話では無く?」
「無く。一般的に、普通の人が買うのはこういうお店なの。お金持ちはまた別なんだろうけどねー。ははは……」
平民が買うのは基本的に古着、というこの世界に於いても、下着だけは新品を購入する。
少なくとも普通の平民であれば。
しかしその品質は、『新品でも平民が手を出せる』お値段相応。
販売場所が服屋では無く雑貨屋という時点で、推して知るべし。
とても単純な構造で、少なくとも現代人なら、それを見て女性用下着と認識するのは難しいほどである。
サイズも適当、下手をすれば男性用と女性用の区別が無いような出来で、むしろ布を買ってきて、自分で作る人も多いぐらいである。
「そうですか。これが下着、なんですね」
夕紀の説明に、那月はその現実を否応も無く受け入れ、目の前の棚に適当に詰め込まれた『下着』に目を向ける。
「どう頑張って自分を
「単純に短パンとしか表現できないよね。短パン……短いパンツ。パンツ。うん、下着だね!」
「いえ、そのパンツは別の意味だと思いますが……。ですが、こんなに単純なら、自分で作る方がまだマシかもしれません。少なくともサイズは合わせられますし」
那月は下着を一つ手に取って裏返し、その仕立てを確認してため息をついた。
目を凝らすまでも無く、微妙に縫い目がそろっていない上に歪んでいて、履き心地以前に耐久性が心配になるほど。
少なくとも、プロの縫製職人の手による代物ではないのだろう。
それでも普通なら、ほつれてきた時点で補修すればいいのだろうが――。
「無理だよ~。裁縫道具を買うお金も無いもん。針って、結構高いんだから」
「ですよね。解ってます。試着も……できるはずないですよね」
古着屋ですら試着室なんてほぼ存在しないのだ。
雑貨屋にそんな物があるはずも無い。
それでも一応と、那月は店内を見回し、店番をしているおばさんの
「少しでもまともな出来の物から、穿けそうなサイズを選ぶしかないですか……。下はこれで我慢するとして、ブラとかは――」
「無いよ」
「え?」
言下に返ってきた答えに、那月は目をしばたたかせ、ちょっとだけ悩んでから頷いた。
「……あぁ、そうですね。夕紀には必要ないかもしれませんね。ですが、私には必要なんですよ?」
「いや、あるからね!? 必要なぐらいには十分にあるから! 具体的にはBぐらい!」
事実である。
高校生としてはやや小柄な――いや、下手をすれば小学生に間違われそうなほど小柄な夕紀ではあるが、プロポーションという面では、そんなに悪くない。
全体的に小柄なだけで、凹凸が無いわけではないのだ。
「そうじゃなくて。ブラという物が存在しないの! ――少なくともあたしの知識では。貴族社会とかだと判らないけど」
夕紀はキッパリと答えつつ、途中からはやや自信なげに言葉をつなげる。
だが、それも仕方ないだろう。
彼女の知識の元になっているのは、ポイントで手に入れた【異世界の常識】というスキルで、これは決して異世界の知識を
得られるのは、『一般的な人が知っていて当然』というレベルの知識までであり、その『一般人』も、夕紀たちが転移してきたこの地域に
その中に『他の地域であれば常識』という知識は含まれないし、貴族などの特権階級や専門職が知る常識なども含まれない限定的な物なのだ。
更に言うなら、これらの知識は一般的にそう思われているだけであり、それが真実かどうかは別問題。
元の世界であっても、時代、地域によって、太陽は地球の周りを回っているし、大地は亀の上に乗っているのだ。
そのことは夕紀もスキルを得た時点で理解しているため、断言は避けたのだろう。
「じゃあ、どうやって? 無いと邪魔ですよね、胸って、結構」
「見てみれば良いんじゃないかな? 今の自分を」
「……そうですね」
夕紀に胸元をピッと指さされ、那月ははたと気付いたように頷いた。
平均的にある那月だけに、何も着けずに行動すれば、当然気付く。
にもかかわらず、こちらへ来てから今まで、特に問題が無かったわけで。
那月はキョロキョロと辺りを見回し、周囲に人がいないのを確認して、自分の胸元を覗き込んだ。
「これは……〝さらし〟ですか?」
「一応、〝乳帯〟って名前があるけど、単なる長い布だから、実質的にはさらしだよね」
ほぼ無加工の、一枚の長い布。
にもかかわらず、これまで違和感を覚えなかったほど自然に巻かれたそれに、那月は少々複雑な思いを抱く。
「……これ、邪神が巻いたんでしょうか?」
「…………那月、それは考えちゃダメな事だよ」
那月の言葉に、夕紀はなんともいえない表情を浮かべ、沈黙。
やがて絞り出すように応えた。
まぁ、乙女としては、知らない間に自分の下着が替わっていたとか、かなり深刻な事態である。
――もっとも、下着どころか、身体自体が違うのだが。
「しかも思ったよりも快適なのが予想外です。でも、これ、外す時によく見ておかないと、次に着ける時に困りますね」
「あれ? 那月だったら、さらしを巻くの、お手の物だったりしないの? ほら、古武術的な物とかやってたよね?」
「
小首をかしげる夕紀に、そう力強く言い返した那月だったが、改めて自分が通っていた道場の事を思い起こし、目を逸らしつつ、気弱に付け加える。
「……少なくとも、私が習っていたのは。あ、いえ、メインで習っていたのは。一応は……はい。他にも色々やっていた道場でしたし、私も多少は他の事に手を出しましたけど」
最初の力強い言葉は何だったのか。
そう言いたくなるほど、那月の言葉は曖昧だった。
だが事実、那月はその道場で薙刀に加え、体術による護身術や小太刀による戦い方まで習っていたので、夕紀の言った〝古武術〟の方が、むしろ実態に近かったりする。
「まぁ、そのへんの細かい事はどうでも良いんだけど。そうじゃなくて、何となくさらしとか巻いてそうじゃない?」
「巻いてませんよ! ごく普通の……いえ、むしろ上着とカップが一体になった便利な物を使ってました。私は」
「あぁ、そこは古くないんだ?」
「むしろ合理性を重視しますからね、武術なんて。護身術だって、スタンガンや催涙スプレーも含め、習いましたし?」
「うわぁ……いや、現実的で良いんだろうけど……」
自分のイメージしていた古武術とは違った現実を教えられ、夕紀は微妙な表情で言葉を漏らす。
「もちろん、基本的には相手が使ってきた時の対処法ですが……大切ですよ? 暴漢なんて何をしてくるか判らないんですから」
「そりゃそうだけど……ま、いいや。とにかく、上の下着はこの乳帯――さらしでいいか。さらしだから、これも買っておかないと」
「解りました。では、早く買って帰りましょうか。……お店の人の視線も、気になりますし」
「だね……」
この世界では、たかが下着。
そんな物を
そのことに気づいた彼女たちは、慌てて下着を購入すると、そそくさと店を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
「さて、それじゃ。夕紀、脱いでください」
「――え?」
冒険者ギルドの斡旋で得た、宿での住み込みバイト。
そこで割り当てられた自室に入るなり、そんなことを言った那月に、夕紀が困惑の声を上げた。
「はっ! ま、まさか那月、二人っきりになったのを良い事に、あたしのこの熟れた身体を狙って!?」
自分の身体を抱きしめ、部屋の隅に後ずさった夕紀に、那月は『フフフ』と怪しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと近づく。
「そう、以前からこんな機会を……って、そんなわけないでしょう。むしろ夕紀の身体は熟れてないですよ? 未熟ですよ?」
「ぐはっ! まだまだこれからだもん!」
「成長、します? 中学の時から伸びてないのに?」
「判んないじゃん! 一応、身体も違うし! ――ってぇ、それは冗談にしても、じゃあ、なんなのさ!」
「さらしですよ、さらし。巻き方を確認しておかないと困るでしょう? この後、すぐに働きに行かないといけないんです。働いている間にずれたりしたら、困りますから」
「むむっ、確かに巻き直せないのは困る。見るからに、エロオヤジ的な人、たくさんいたし? そんな中で、ノーブラで働くのは……」
腕組みをして唸る夕紀に、那月も深くうなずく。
やや偏見混じりではあるが、必ずしも嘘とは言えない――宿で普通に売春が行われている世界である事を考えれば、夕紀の用心は当然だろう。
「でしょう? ですから、今のうちにしっかりと覚えておかないと」
「よし解った! さぁ、存分に見るがよい!」
「では、遠慮無く」
スポン、と思い切りよく上着を脱ぎ去った夕紀の周りをぐるぐる回りながら、那月は『ここがこうなって……』とか『これはこちらに回って……』とか呟きつつ、じっくりと観察。
居心地の悪そうな夕紀の様子を気にもとめず、しっかりと確認すると、次はそのさらしに手をかけた。
「ちょっと待った!」
――が、慌てたようにその手をつかんだ夕紀に、動きを止められる。
「何ですか?」
邪魔されて少しだけ不満そうな那月に、夕紀は口をとがらせる。
「むしろ、不満なのはあたしなんだけど。……脱がすの?」
「脱がさないと解らないじゃないですか」
「そ、そうかもしれないけどっ! あたしにも一応、羞恥心というものが――」
「大丈夫です。私のも後で見せてあげますから」
「え、いや、それに何の関係が……あ、ちょっと……」
「まあまあ」
夕紀の抗議も気にせず、那月はさらしをほどき始めるが、実際、ほどかないと解らないことは確かなので、夕紀も釈然としない表情を浮かべながらも諦めたように手を上げてほどきやすい体勢をとった。
「なるほど……単純は単純ですが、きれいに巻くには慣れが必要そうですね」
「ブラみたいにはいかないよね」
「それじゃ、次は巻いてみましょう。夕紀、協力してください」
「りょーかい。後で交代だからね?」
「もちろんです」
ということで、さらしを巻く練習を始めた二人だったが――。
「もう少し強く巻かないと、ズレますね」
「痛い、痛い! 締め付けすぎ!」
「胸を持ち上げてから――」
「鷲づかみにしないでぇ!」
「押さえつけすぎると、胸の形が――」
「いいから! そんなの気にしなくて良いから!」
「こっちのお肉を少し引き寄せれば谷間が――」
「盛る必要も無い!」
初めての作業、器用な那月でも一筋縄ではいかず。
やがて交代した夕紀も、自分よりも大きなものを持った那月相手に、悪戦苦闘。
その奮闘はギリギリまで続き……。
しばらく経って彼女たちを呼びに来た宿のおばさんは、働く前から汗だくになっている二人を見て、不思議そうに首をかしげたのだった。
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