第23話 ありがとう
23
寿命を譲ってから三回目の十二月二十五日。土曜日。晴れ。
人生最期の日は、冬晴れと呼ぶに相応しいほど穏やかに晴れ渡った日だった。
昼過ぎから公園の原っぱに訪れた僕達は、太陽の光が当たっている場所にレジャーシートを敷いた。
僕はシートの上に寝っ転がって日向ぼっこしながら、横でシャボン玉を吹いている一之瀬を眺め続けている。
空気が冷たい分、降り注ぐ日差しがぽかぽかと暖かい。だんだんウトウトし始めて、大きなあくびが出た。
「あれだけ寝ていたのにまだ眠いんですか?」
優しく微笑みかけてくる一之瀬は、子供を寝かしつけるように僕の頭を撫でる。
「余計に眠くなるだろ」
起き上がり、あくびをしながら携帯で時刻を確認する。
時刻は午後二時過ぎ。十二月二十六日まで残り十時間を切っている。
既に一之瀬のウロボロスの銀時計を使って延命している状況で、今過ごしているこの時間は僕達にとっては二度目の十二月二十五日である。
最初の二十五日午後十一時半から二十四時間戻したことで、明日の午前十一時半まで時間を戻せない。
つまり銀時計の力が復活する頃には、とっくに僕は死んでいるということだ。
明日の午前十一時半から時間を戻せば、今日の午前十一時半まで戻ることが可能で、悪あがき程度の延命はできる。
とは言え、死体に触れながら時間を戻したところで死者の記憶まで引き継げるとは考えにくいし、記憶がないにしても二回も死ななければいけないのはご免だ。
そのことを一之瀬と話し合い、これ以上の延命はしないことにした。
僕にとって、この残り十時間弱が本当の意味で、最期の時間となる。
「起きているなら相葉さんも飛ばしましょうよ」
ストローとシャボン液が入った容器を渡され、シャボン玉を吹く。
一之瀬が飛ばしたシャボン玉と交わって、無数のシャボン玉がふわふわと飛んでいく。
最期の日をどう過ごすかは前から何度も二人で話し合っていたが、結局なにか特別なことをするわけでもなく、普段通りの日常を過ごしている。
どこか遠くへ遊びに行くプランも考えてはいたのだが、前日の疲れが残っていたこともあり、近場でのんびり過ごすことになった。
クリスマスイブだった前日は、遊園地で二人とも羽目を外しすぎた。
引っ切り無しにアトラクションに乗っては並ぶを繰り返したおかげで、体力がない僕達はフラフラな状態で帰宅。シャワーを浴びてベッドの上でじゃれ合っているうちに眠ってしまった。
僕も一之瀬も何時に寝たのか覚えてなく、起きたのは午後一時過ぎ。
どこか遠くへ行くには微妙な時間で疲れも取れておらず、ずっと部屋の中でいちゃつきながら過ごした。そして午後十一時半になり、二十四時間戻したのだが前日は思っていたよりも早く寝ていたらしく、睡眠中の時間に戻ってしまったようだ。
結局、二回目も起きたのは午後一時過ぎである。
人生最期の日だというのに半日寝ていたのだ。
普通の人間だったら、人生最期の日ぐらい普段とは違う行動をとるだろう。人類が滅亡するほどの巨大な隕石が地球に衝突するとわかっているのに学校や会社に行く奴はいない。きっと思い残すことがないように行動するはずだ。
ところが、僕は普段通りの一日に満足していた。
半日以上寝ていようが、呑気にシャボン玉を吹いていようが、一之瀬といられるだけで充分だった。
素直に生きるようになったあの日から話したいことは全て話し、行きたい場所には行き、二人で好き勝手に過ごしてきた。だから思い残していることもなく、今更なにかしたいわけでもない。
二人で過ごせるのならなんだっていいし、それだけで幸せだった。
ただ一つだけ不安があるとすれば、一之瀬を残して死ぬことだ。
もし彼女が死神と取引していなかったら、一人で惨めに死んでいた。
僕の為に寿命を手放した彼女に負い目を感じているが、当の本人は後悔していないどころか気にもしていない。健気というかなんというか……。
そんな彼女だからこそ愛おしく、残すことが怖いのだ。
彼女の余命はまだ二年半以上もあるのに一人で大丈夫なのか、いつか僕のように後悔して悲惨な最期を迎えるんじゃないか、と不安になる。
僕にできることは最期まで平穏に過ごしてほしいと願いながら、彼女の頭を撫でてやることぐらいだ。
今も無邪気にシャボン玉を吹いている一之瀬を見ていたら、不安になってくる。
彼女の頭を雑に撫でると、サラサラの髪がくしゃくしゃになっていく。嫌がる様子はなく、照れ笑いするだけだった。
「どうしたんですか? 急に」
「今のうちに思う存分撫でておかないとな」
「思う存分撫でてください」
寄りかかってくる一之瀬はシャボン玉を置いて、空いている方の手を握る。
「ねぇ、相葉さん」
「ん?」
「実は私、相葉さんに内緒で二十六日から時間を戻してきたんですよ。そして驚くことに二十六日になっても相葉さんは死ななかったんです、と言ったら信じてもらえますか?」
「信じない。ありえない」
そう返すと、一之瀬は「信じてくださいよ」と不満げに言う。信じられるものなら信じたかった。
「もしもの話です。もし明日になっても生きていたら何かしたいことありますか?」
遠くでボール遊びしている親子連れを見ながら考える。
「また二人でどこか遊びに行きたいな」
「いいですね。もし死ななかったら、またどこかに行きましょう」
僕の肩に頬ずりしながら興味津々に「他には?」と訊いてくる。
「特にないな。お前と一緒にいられればそれでいい」
一之瀬は「それはそれで嬉しいですけど、もっと他にないんですか?」と頬を赤らめつつ訊き返す。
「逆に一之瀬はやりたいことあるのか?」
「もちろんありますよ。高校を卒業したら相葉さんと同居したいです」
余命三年未満とは思えないほど生き生きとした表情で話す。
「死ななかったらな」と返すと、笑みがこぼしながら「やった」と喜んだ。
「同居を始めたらペット飼いましょうよ」
「飼うにしても、あのマンションは犬や猫飼えないぞ」
「犬や猫じゃなくてもハムスターとか……ウーパールーパーとか!」
「ウーパールーパーは生臭そうだから嫌だな」
「えー」と残念がる一之瀬を、笑いながら「冗談だよ」となだめた。
「それで今までのようにどこか出かけたり、家の中で遊びましょう」
「結局、二人ともやりたいことは一緒じゃないか」
「一緒じゃないですよ。いつか私達は結婚するんです。そして……」
そのまま黙り込んだ一之瀬の顔はどんどん赤くなっていく。
「そして?」
続きを促すと、一之瀬はもじもじしながら恥ずかしそうに口を開く。
「……子供作ったり」
僕も恥ずかしくなって一之瀬から目線を逸らすが、逸らした先には親子連れがいて自滅した。
「わ、私達ってあまり家族に恵まれていないじゃないですか! だからそんな私達ならちゃんとした家庭を築けるんじゃないかなーって」
もし本当に一之瀬と家庭を築けたら、と想像する。
「幸せな家庭になるだろうな」
気づいたときには言葉にしていた。
「きっと世界で一番幸せな家庭ですよ」
一之瀬は優しく微笑んだ。
その後も僕達は訪れることのない日々の話を続けた。
空が暗くなるまで、ずっと。
公園を出る頃には冷え込みが強くなり、手を繋いで帰った。
帰り道に「夕飯どうします?」と訊かれ、僕は「手料理が食べたい」と答える。「任せてください」と自信満々な返事が返ってくる。
スーパーで食材を買い、部屋に帰宅したのが午後七時頃。
それから一之瀬が作ったハヤシライスを食べて、風呂に入って、部屋の中でずっと手を握り合っていた。
静寂に包まれた部屋の中で、僕達は二年前の出会った日から今日までのことを話す。
話したいことは全て話したつもりだったが、最期になって出てくる言葉も沢山あった。
互いに褒め合ったり、感謝の言葉を交わしているうちに時間が過ぎ去っていく。
午後十一時を過ぎても時間が止まることはない。
いつもよりも早く時間が進んでいる気がする。
終わりが近づくにつれて僕達は何度もキスをした。
午後十一時五十分。ベッドの側面を背もたれにして時計を見つめる。
「あと十分ですね」
一之瀬が物寂しげな顔で言った。
「相葉さん、怖くないですか?」
「怖くない」
死ぬことは怖くない。
彼女をまた一人にさせてしまうことだけが怖かった。
「なぁ、一之瀬」
「なんですか?」
「ごめんな」
彼女を抱き寄せて、頭を撫でる。
「ちゃんと救ってやれなくて」
見守られながら最期を迎えることに安心感を抱きつつも、彼女には生きてほしかったな、と最期になって後悔が湧いてくる。
一之瀬は「謝らないでくださいよ」と言って僕の背中をさする。
「ずっと一人で怖かったんです。一人じゃどうしようもできなかった私に、相葉さんは居場所を作ってくれました。何度も私のことを救ってくれていたんです。だから謝らないでくださいよ」
互いの体温を感じながら、溶け込むように抱き合う。
「それでもだ。一之瀬にはもっと幸せになってほしかった。寿命を手放さずに違う人生を歩んでほしかったって今更思ってしまうんだ」
「充分幸せですよ。もう一度、相葉さんに会えるのなら命なんて安いなって思ったんです。それに私がこうしていなかったら、相葉さんが一人ぼっちじゃないですか」
余命僅かの人間の為に寿命を手放しておいて『安い』なんてどうかしていると思う。
でも彼女らしいと言えば、彼女らしい。
そんな死にたがりな彼女と出会えたからこそ僕は救われた。
逆に言えば、一之瀬と出会えなかったら救われなかったんだろうな。
「ありがとう、愛している」
僕は呟くように言った。
「どういたしまして、私も愛していますよ」
一之瀬は囁くように言った。
顔を寄せ合い、唇が触れ合う。
僕達がしてきた中で、一番長いキスだった。
キスをしている間、僕はもう一度想像する。
寿命を譲らずに普通の人生を送っていたらどうなっていたのか、を。
何十年生きようと、一之瀬と出会うことはなかった。
理想の生活を送れていたとしても、横に一之瀬はいない。
奇跡的に一之瀬と出会えていたとしても自殺を止められなかっただろう。
この出会い方じゃなければいけなかった。
寿命を手放した者同士だからこそ、僕達は唯一無二の関係になれたのだ。
これが最善の人生に違いない。
寿命を譲って後悔する、しないの話ではない。
僕の人生は、これしか正解がなかった。
死神と取引して、正解だった。
唇が離れる頃には、そう確信していた。
時計の針が五十五分を指す前に、一之瀬の瞳からポロポロと涙が零れはじめた。彼女は涙を見せようとはせず、僕の胸元に顔を埋める。
僕は右手で優しく頭を撫で続ける。
泣き止む気配はなく、残された時間はもう五分もない。涙を拭いてあげようとティッシュを取りに立ち上がろうとする。
左手を後ろについて立ち上がろうとした瞬間、指先からなにか冷たいものに触れた感触が伝わった。
とても冷たく、驚いた僕は振り返って左手を見る。指がベッドの下に隠れていて、当然指先にある冷たい物体もベッドの下だ。
恐る恐る掴んでベッドの下から出すが、掴んだときにそれがなんなのかわかった。
埃をかぶったウロボロスの銀時計だった。
蓋に刻まれたウロボロスの向きから一之瀬のではなく、僕が持っていた方なのは間違いなかった。
何故、ベッドの下に落ちていたのか。
時間を戻せなくなってから持ち歩かなくなり、部屋のどこかに放置していた。
しかし、最後に見た記憶を掘り起こそうとしても思い出せず、ベッドの下に落とすような出来事もなかった。
不思議に思いながら、ウロボロスの銀時計を眺める。
そのときだった。
僕の手からウロボロスの銀時計が転がり落ちた。
気づいたときには全身から力が抜けて、横に倒れかけていた。
一之瀬が慌てて僕を支えようとするが、そのまま横に倒れこんでしまった。
「相葉さん! 大丈夫ですか!」と必死に呼びかけてくる。
僕は返事をしようとするが、声が出せない。
次第に彼女の声が遠くなっていく。
僕の左手を握りしめながら、なにか呼びかけているようだが、何も聞こえない。
握られた手の温もりも伝わってこない。
雨のように一之瀬の涙がぽつぽつと落ちてくるのが見える。
これが死ぬということなのか。
瞼が重くなってくる。
泣きじゃくる彼女の姿が霞んでいく。
これまでの思い出が蘇ってくる。
走馬灯ってやつだろう。
僕が見る走馬灯なんて悲惨なものになるだろうと思っていたが、ほとんどが一之瀬との思い出で、そこまで悪いものじゃない。
僕は最後の力を振り絞り、彼女の涙を拭こうと右手を伸ばす。
しかし、僕の手が届くことはなかった。
力尽きた右手はウロボロスの銀時計の上に落ち、もう動くことはない。
薄れゆく意識の中、どうやったら彼女が泣き止んでくれるか考え続ける。
せめて彼女を慰めるだけの時間があれば……。
彼女が泣き止むまで、どのくらい時間が必要だろうか。
一時間や二時間では足りそうにない。
そうだな……、
あと一日あれば……。
瞼がゆっくり閉じていき、深い眠りについた。
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