第22話 もうすぐ死ぬ人間なので

 22


 翌日、目を覚ますと、一之瀬と目が合った。


「おはようございます」


 上から覗き込むように僕を見ていた彼女は先に起きていたらしく、にっこり微笑んだ。


 自殺する絶好の機会を逃したことに焦りを感じつつも、昨夜の出来事が夢でなかったことに胸を撫で下ろしている自分がいた。


 早く彼女の前から姿を消さなければいけないというのに。


 考えることすら億劫になり、二度寝しようと布団に潜ろうとするが揺さぶってくる。


「お腹空きました。どこか食べに行きましょうよ」


 まだ半分寝ている状態の体を揺り起こされ、手を引かれてベッドを抜け出す。


 顔を洗い終わると、一之瀬が「早く早く」と言いながら散歩に行きたい犬のような目で見てくる。


 一之瀬は僕の手をリードのように引っ張り、ファミレスへ向かった。


 時刻は昼過ぎで外は蒸し暑く、蝉の声が鳴り響く。


 普段なら絶対に出かけないような暑さだが、一之瀬が横にいるだけでどこまでも歩いていけそうだった。こうして二人で歩くのが懐かしく思い、心が揺れる。


 このままずっと彼女といられたら、どれだけ幸せな日々を送れるだろうか。銀時計で実現させた理想の生活なんて霞んで見える。


 冷房が効いた店内には学生の集団が多かった。夏休みの宿題らしきものを広げて勉強している集団もチラホラいる。


 僕達は四人席のソファに座り、ウェイトレスに注文する。


「相葉さんっていつもハヤシライス頼んでいますよね。好きなんですか?」


「そうなのかもな」と曖昧な返事をする。


「じゃあ、今度作ってみますね」


 健気に微笑む一之瀬を直視できず、メニュー表を見るフリをしながら言う。


「お前と会うのは今日で最後だ」


 彼女の顔をチラ見して様子を窺うが予想していた反応とは違い、彼女は微笑みながら訊いてくる。


「どうしてですか?」


「どうしてって彼女にバレたらまずいだろ」


 一之瀬は「本当に彼女がいるのならまずいかもですね」とクスッと笑う。


 完全に看破されているようだ。否定するべきか悩んだが、否定したところで信じてくれそうにない。


「相葉さんに会えないのなら自殺しようかなー」


 窓の外を見ながら涼しい顔をして、わざと僕に聞こえるように呟く。


「そんなこと冗談でも口にするなよ」


「冗談じゃないですよ。相葉さんと会えないのなら生きている意味ないんですもん」


 悪びれる様子もなく、平然とした態度の一之瀬は、自殺していた頃の面影と重なる。


「私の自殺を邪魔したかったら、相葉さんは死ぬまで私のことを監視していないと、ですね」


「無理に決まっているだろ。とにかく会うのも自殺するのも駄目だ」


 僕がそう言うと、一之瀬は「お断りします」とハッキリ言った。


 真っすぐな目で僕を見つめて、ストレートに話す。


「今までは嫌われないように隠してきましたけど、本当は相葉さんを困らせてしまうぐらいわがままで甘えん坊なんですよ、私。相葉さんが他の女性とバイト先に来たときはショックでしたし、やきもちも焼きました。他の女性に取られてしまうぐらいなら積極的になっていれば良かったなーって会えなくなってからずっと後悔していたんです。だから次に会えたときは思う存分甘えて、わがまま言って困らせようと決めていました」


 一之瀬は僕の目を見つめながら続ける。


「なので相葉さんが許さなくても会いに行きますし、会ってくれないのなら自殺します」


 無邪気に微笑みながら「覚悟しておいてくださいね」と宣戦布告した一之瀬は、その日から再び部屋に訪れるようになった。


 翌朝も目を覚ますと、一之瀬と目が合った。


「おはようございます」


 にっこり微笑む一之瀬に寝起き声で「どうやって部屋に入ってきたんだよ」と訊くと、ポケットから合鍵を取り出した。


 どうやらテーブルに置きっぱなしにしていたのを持って帰っていたらしい。


 窓から差し込める光が眩しくて布団をかぶるが、剥ぎ取られた。


「今日は映画でも見に行きませんか」


「どうせ見たいもんないだろ……」


 布団を取り返してもう一度かぶるが、また剥ぎ取られてしまう。


「そんなこと言わずに行きましょうよ」


 小さい子供をなだめるように言いながら、僕の頬を指で優しく突いてくる。


「わかったから、突くな」


「やった!」


 結局、この日も一之瀬の手に引かれて映画を見に行った。


 ********************************


 寿命を譲ってから三回目の九月十五日。水曜日。晴れ。


 この日、一之瀬が学校に行っている間に部屋から出ていくつもりでいた。


 別れを記した手紙を置いて、今度こそ彼女の前から姿を消そうと考えていたのだ。


『会ってくれないのなら自殺します』


 と一之瀬は言っていた。このまま姿を消すことを不安に思ったが、どちらにしても十二月二十六日に死ぬことは避けられないのだから自殺しないことに賭けて、早めに出ていった方が彼女の為だと結論を出した。


 ところが、僕を起こしに来た一之瀬は制服姿ではなく、私服だった。


「今日は学校じゃないのか?」


 そう訊ねると、彼女は「創立記念日でお休みなんですよ」と答える。


「相葉さん、今日はゲームセンターに行きましょうよ」


 僕の腕を両手で掴んで、ぐいぐいとベッドから引き摺り出そうとする。


「早く早く」


「自分で起きるから引っ張るな」


 一之瀬の手に引かれて辿り着いたゲームセンターは、以前彼女と行った場所だ。


 前に来たときと同じように僕達はガンシューティングゲームの前に立ち、ゾンビを撃つ。


 以前とは比べものにならないほど息のあったコンビネーションで、次々とゾンビを退治していく。そのままラスボスまで辿り着き、手に汗握る死闘の末倒すことに成功した。


「やりましたね!」と喜びながら一之瀬が抱きついてきて、僕も喜びのあまり彼女を抱きしめる。傍から見ればバカップルにしか見えなかっただろう。


 その後もレースゲームやダーツ、バッティング、コインゲームなど以前やったゲームを思い出話しながら夕方まで遊び続けた。ちなみにダーツではまた負けた。


 帰りに立ち寄ったクレープ屋で二人ともチョコ生クリームを注文し、食べ歩きながら帰る。何から何まであの日と同じで、懐かしく思えた。


「この前、スペシャルフルーツミックスを頼んだんですけど、美味しかったですよ」


「美味しかったなら、そっち頼めばよかっただろ」


「私が、これを頼んだのには深い訳があるんです」


「深い訳?」


「相葉さんと同じのが食べたかったのです」


 一之瀬は口に生クリームをつけながら、笑った。


 ********************************


 寿命を譲ってから三回目の九月二十八日。火曜日。晴れ。


「今度こそ部屋から出ていく」と前日に決心した僕は、一之瀬が来る前に起きて行動に移す……はずだった。


 起きてすぐに体の異変に気づいた。


 体が重く、慌てて布団をめくると一之瀬が僕に抱きつきながらすやすやと寝ていた。


「お前、何やってんだよ」


 一之瀬を揺さぶって起こす。


 時刻を確認すると、既に九時を過ぎていた。アラームが鳴らなかったことよりも一之瀬が学校に行かず、まだベッドの上にいることに疑問を抱いた。この日も着ているのは制服ではなく、私服だ。


「学校行かなくていいのか」


「今日は創立記念日なので……」


「お前の学校は一年に何回、創立記念日があるんだよ」


 彼女の頬を引っ張ると、「今日は学校に行きたくない」と弱々しい声を出して僕の胸元に顔を埋める。


 しばらく彼女の頭を撫でていると、僕の胸元で大きなあくびをして起きだした。


「今日は水族館に行きましょう」


 そう言って一之瀬はすぐに支度をして、この日も僕の手を引く。


 座席指定券を購入して貸切状態の車両に乗り込み、他に誰もいないことを確認した一之瀬は僕の肩に寄りかかってくる。


 花火大会の日に再会するまで、またこんな日がくるなんて思いもしなかった。まるで夢を見ているかのような気分で、彼女と一緒にいる。これが現実だということを寄りかかってくる彼女の体温で確かめているうちに、水族館の最寄り駅に着いた。


 水族館に入ると、一之瀬が腕を組んでくる。僕はそれを拒絶することなく、館内を見て回った。


「あれだけ沢山いたら仲間外れになる子もいそうですよね」


 イワシの大群を見上げながら一之瀬が言った。


「前に来たときに同じことを考えた。もしかしたらいるのかもな」


「もし私がイワシになったら、きっと仲間外れになっているでしょうね」


 笑いながら見上げている一之瀬に「お前には友達がいるだろ」と言った。


「イワシになっても相葉さんが助けてくれるんですよ」


「お前を助けたところで、イワシ二匹じゃ生き残れないだろうな」


 鼻で笑ったが、一之瀬は「そんなことないですよ」と言って寄りかかってくる。


「お互いを励まし合って生きていくんです。私は相葉さんに置いていかれないように必死に泳いで、相葉さんは私がついてきているか確認しながら泳ぐんです。どこまでも一緒に」


 ゆらゆらと反射した光が僕達を包む。


「そういう生き方も悪くないかもな」


 イワシの大群を見上げながら呟いた。


 ********************************


 寿命を譲ってから三回目の十月六日。水曜日。晴れ。


「相葉さん、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか?」


 原っぱに飛び交うシャボン玉を眺めながら、一之瀬が訊いてくる。


「何のことだ」


 木の日陰に敷いたレジャーシートから原っぱに向けてシャボン玉を吹く。


「相葉さんのかっこ悪いところを教えてくださいよ」


「まだそんなこと気にしていたのか」


 この日も部屋から出ていこうとしたところを、学校を休んだ一之瀬の手に捕まり、公園へ連行された。


 スワンボートに乗って鯉に餌をあげた後、原っぱでバドミントンをして、二人でシャボン玉を吹く。


 あと二ヵ月で死ぬとは思えないほど平穏な日々が続いている。


 しかし、平穏な日々を過ごしている分、彼女の方は学校を休む回数が目立つようになっていた。


「学校でなにか嫌なことでもあったのか」


「ないですよ。なんでそんなこと訊くんですか?」


「最近、休みすぎじゃないか」


 一之瀬は「うーん」と悩む素振りを見せた後、僕の膝に頭を乗せた。


「相葉さんと少しでも長く一緒にいたいだけですよ」


 膝の上で大きなあくびをした彼女は「少し眠くなってきました」と言い、瞼を閉じた。風で彼女の前髪が揺れる。穏やかな寝顔を眺めているうちに、つい頭を撫でてしまう。まだ起きていた彼女は瞼を閉じたまま頬を緩めた。


 このときから彼女があることを隠しているのに気づいていた。


 彼女が学校を休む日は決まって、僕が部屋から出ていこうとする日だったから。


 ********************************


 寿命を譲ってから三回目の十月十日。日曜日。曇り。


 この日、一之瀬のバイト先であるファミレスに来ていた。


 彼女が働いているところを見に来た……わけではない。


 部屋を出ていくチャンスだというのにここへ来たのは、人を待っていたからだ。


 恥ずかしそうにこちらをチラチラ見てくるウェイトレス姿の一之瀬を目で追っていると、女子高生二人組に声をかけられた。


「あ、月美の彼氏だ」


「相葉さんだっけ。こんなところで何しているの?」


 声をかけてきた二人組は、前に会ったことがある一之瀬の友達だ。


「何しているのって月美を見に来たに決まっているじゃん」「それしかないか」と笑い合っている二人に「彼氏じゃない」とツッコみを入れる。


 もし僕の推測が正しければ、この二人から一之瀬が隠していることの綻びが出てくるだろう。


 彼女達とは待ち合わせをしていたわけではない。以前、一之瀬が「バイト中に二人が来て、写真撮ってくるんですよ」と話したことがあった。どうやら日曜日にシフトが入っているときはいつも来ているらしく、僕は二人が来るのを待ち伏せていた。


「二人に訊きたいことがあるんだが」と口にすると、二人は食いついてくる。


「なになに?」


「月美のスリーサイズ?」


「気になるけど、違う」


 僕の推測通りなら、最悪の展開であった。


 僅かに残された勘違いである可能性に期待して、二人に質問していく。


 しかし、結果は推測通りだった。


 ********************************


 寿命を譲ってから三回目の十月十二日。火曜日。曇り。


 この日、別れを記した手紙をテーブルの上に置き、日が昇る前に出ていくつもりだった。


 深夜の三時。一之瀬が部屋に訪れるような時間帯ではない。


 ただし、僕の推測が本当に当たっているのなら話は別だろう。当たっているかどうかはすぐにわかるはずだ。


 靴を履いてドアを開けると、


 目の前に三角座りしたまま眠っている一之瀬がいた。


 深夜三時にマンションの通路で寝ている女子高生を見たら誰だって驚くだろう。僕だって驚く。でもこういうことだと思っていた。


 僕は寝ている彼女を揺さぶって起こす。


「相葉さん……?」


 目を擦りながらキョロキョロ見回し、数秒後に状況を理解したようだ。


「これは……えーっとですね」と必死に釈明しようとする彼女の冷たい手を握って、僕達は夜の散歩に出かけた。


 歩いて向かったのは、いつもの橋だ。ここならなんでも話せそうな気がした。


 川のせせらぎ、虫の鳴き声が聞こえてくる。深夜なこともあって、橋の上は普段より静寂に包まれていた。風で一之瀬の長い黒髪がなびく。


「家出……家出してきたんです!」


 思いついたかのように釈明をする一之瀬。


「だったら部屋に入ればいいだろ」


 欄干に手を乗せて、彼女の方を向かずに遠くの景色を眺める。


「寝ているところを起こしたら、悪いかなーって」


 ぎこちない笑い方をする一之瀬に、僕は質問する。


「花火大会の日、なんであんなところにいたんだ」


「……どういうことですか?」


 一之瀬は訊き返しつつも質問の意図に気づいているようだった。


「お前の友達から聞いたよ。あの日、花火大会には行かず、カラオケに行く約束をしていたらしいな」


 元々、あの日は一之瀬を含む三人で花火を見に行く予定を立てていたようだ。しかし、天気予報は雨のまま。花火大会を諦めた三人は公園から離れたカラオケ店に集まることにした。集合時間は公園で僕と鉢合わせする少し前だった。


 ところが、集合時間を過ぎても一之瀬が来ることはなく、予め連絡もなかった、とのこと。


 その時間は僕を傘に入れて部屋までついてきていたのだから、行けるはずがない。


 何故、一之瀬は待ち合わせ場所に向かわず、離れた公園を歩いていたのか。


 そんなの簡単だ。


 僕があそこを通ることを事前に知っていたからだ。


 それも一之瀬が僕の行動を読んでいたのは、あのときだけではない。


 僕が黙って部屋から出ていこうとしていたことも、出ていこうとした日も彼女は知っていた。


 おそらく今日のようにずっとドアの前に座っていて、深夜のうちに僕が出ていかないか見張っていたのだろう。


 朝になると部屋に入ってきてこう言う。


「今日は学校に行きたくないです」


 そして、僕の手を引いて遊びにつれていっていた。


 一之瀬は僕の行動を事前に知っていて、意図的に自殺を邪魔していたのだ。


 僕は黙り込んでいる一之瀬に問いかける。


「いつ死神と取引したんだ?」


 それ以外考えられなかった。


 いくら長い間、一緒にいたからって連続で邪魔するのは無理がある。心を読んだり、時間を巻き戻さない限り、不可能だ。


 一之瀬は「流石にバレちゃいますよね」と諦めたように笑いながら、ポケットから懐中時計を取り出す。


 その懐中時計はウロボロスの銀時計と瓜二つで、蓋に刻まれたウロボロスの向きが逆なところしか違いが見当たらなかった。


 僕の持っている銀時計を横に並べれば相食んでいるようにも見える。その相食む姿は前にネットで見たことがある。まさにウロボロス、そのものだった。


 ウロボロスの銀時計は二つ存在していたのだ。


「取引したのは花火大会の日です。本当だったらあの日、相葉さんは自殺していたんです」


 自殺したとしてもすぐに見つかるはずが……いや、一人通報できる奴がいる。どこで自殺するかなんて死神なら簡単にわかるはずだし、あいつなら僕が自殺する前から通報だってできる。


 最初から死神はこれを狙っていたんだろう。今になって考えればアイツが協力するなんてありえない話だ。一之瀬と取引する為にあんな恋人のフリをして、僕達の関係を断ち切ったのだろう。彼女が死にたがりな少女に戻るように、と。


 手に持った銀時計を見つめながら一之瀬は話す。


「死神さんがこの時計を取り出したとき、全て理解しました。相葉さんの持っていた懐中時計とそっくりなんですもん。なんで私の行動を先回りできていたのか、なんで私の前から姿を消そうとしたのか。ようやくわかりました」


「そこまでわかっていたならなんで取引した。僕の余命が残り少ないことだってわかっていただろ」


 僕がそう言うと、一之瀬は「そんなの決まっているじゃないですか」と言って微笑んだ。


「相葉さんにもう一度会いたかったからですよ。今度は私が相葉さんの自殺を邪魔して、またいろんなところに行きたかったんです」


 寿命を手放した人間とは思えないほど明るく誇らしげに話す一之瀬からは、後悔の念がまったく見えない。


「だからって寿命と引き換えに取引することないだろ!」


「そう言われると思ったから黙っていたんですよ。本当は相葉さんの寿命が尽きるまで黙っていようと思っていたんですけどね」


 開き直った態度で口にする一之瀬を見て、僕は静かに怒った。


「もうすぐ死ぬ人間の為に寿命を手放すなんてどうかしている」


「もうすぐ死ぬ人間はそんなこと気にする必要ないんですよ」


 そう言い返した一之瀬は勝ち誇った顔をしていた。


 完全に立場が逆転している。


「大体、相葉さんがいけないんですよ。人の自殺を邪魔しておいて自分だけ死のうなんて! 私を置いていくなんてずるいです!」


 逆に怒ってくる一之瀬に、僕はため息をつく。


「……お前は寿命を手放したことを後悔していないのか」


 僕の質問に一之瀬は満面の笑みで答える。


「全然後悔してませんよ。前にも言いましたけど、相葉さんが傍にいてくれないのなら生きている意味ないんです。だから後悔なんて絶対にしません」


 そう言い張る一之瀬を前に、「馬鹿なやつだな……」と小さく呟いた。


「なんとでも言ってください。私はもうすぐ死ぬ人間なので、何を言われても、どれだけ相葉さんに嫌われても気にしません。自分のやりたいことをやります」


 そう言って、彼女は僕の肩を指で突く。


「だからね、相葉さん」


 一之瀬の方を向くと、勢いよく抱きついてきて倒れそうになる。


 僕の顔を見上げながら、


「私はもうすぐ死ぬ人間なので……」と囁き、


 顔を寄せてくる。


 そして……、


 僕達の唇は重なり合った。


 たった数秒間の出来事だった。


 唇が離れていくと、一之瀬は「こういうことしても全然恥ずかしくないんです」と言って笑みを作る。


 彼女の頬は赤く染まり、耳も赤くなっている。


「顔を真っ赤にさせておいて、それは無理があるだろ」


 一之瀬の手を引いて、抱き寄せる。


「きゃっ!」


 最初は何が起きたのか理解できていなかった一之瀬だったが、すぐに抱き返してきた。


「お前は本当に馬鹿だ。寿命を譲ったことを後悔しても知らないからな」


 彼女の頭を撫でながら言った。


「後悔するわけないじゃないですか」


 僕の背中をさすりながら一之瀬は優しく言う。


 ずっと僕は憧れていた。


 こんな僕でも一番に想ってくれる人を。


 無償の愛を。


 今、抱きしめている彼女はそれ以上のものを僕に与えてくれている。


 これが、ずっと僕が求めてきたものなのだろう。


「なぁ、一之瀬」


「なんですか?」


「死ぬまで傍にいてほしい」


「最初からそのつもりですよ」


 一之瀬は笑った。


 その日、ベッドの上で今までのことを包み隠さずに全て話した。


 生い立ちから今日に至るまでの出来事を話し終えるまで、一之瀬は僕を優しく抱きしめてくれた。話を聞き終えた一之瀬は一年前の僕のように「相槌を打つくらいしかできませんでしたけど……」と口にする。僕はそれで充分だった。


 たったそれだけのことで、僕の人生は救われたような気がした。


 呪いがすぅっと消えていくような。


 別に他人嫌いが治ったわけではない。


 でも、確かに前とは変わったのだ。


 翌日から僕達は素直に生きるようになった。


 僕達の間にはもう遮る壁はなく、ただ望むままに彼女との時間を過ごす。


 ウロボロスの銀時計は時間を戻すとき、持ち主と触れていた人間も記憶が引き継がれる。


 一之瀬の銀時計で何度も時間を戻して、可能な限り一緒にいる時間を増やした。


 手を繋いでいろんな場所に出かけたり、一之瀬に甘えたり、甘えられたり、人前でキスをしたり……。


 絶対にありえないと思っていた理想を超えた生活。


 その日々は僕が生きてきた中で、最も穏やかに過ごせた時間だった。


 あのとき、自殺しなくてよかった、と心から思う。


 何度も。


 それから二ヵ月後、


 僕達は最期の日を迎えた。

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