第21話 死にたがりな青年

 21


 寿命を譲ってから三回目の八月二十一日。土曜日。曇り。


 カーテンを開けると、灰色の空が広がっていた。


 昼間なのにどんよりとしていて、色を失ったようなモノクロの景色。


 部屋の中は埃っぽく、テレビやリモコンの上は白くなっていた。台所には食べ終えたカップラーメンなどの容器が無造作に置かれ、割りばしも散乱している。


 一之瀬が部屋に来なくなってから一ヵ月。最近は少しずつ外に出かけるようになった。最後の思い出作りに彼女と訪れたことのある場所を巡り歩いている。


 ファミレスでハヤシライスを食べて、ポップコーンを片手に映画を見て、ゲームセンターでダーツをして、水族館でイワシの大群を見上げ、公園でシャボン玉をする。


 七夕祭りが開催されていた商店街をぶらぶら歩き、流れるプールに身を委ねながら流され、動物園では残された一頭のコアラをずっと眺めていた。


 どこに行っても一之瀬との思い出が蘇ってくる。どこに行っても彼女が横にいたらどれだけいいかと想像してしまう。どこに行っても一人では楽しくない。


 思い出の地に行けば行くほど、彼女に会いたくなる。


 もう一度、二人で遊びに行きたい。


 遠くから一目見るだけでもいい。


 日増しに大きくなってくる感情を抑える日々。


 もう会うつもりはない。向こうだって会いたくないはずだ。それにもう夏休みも終わりに近い。一之瀬なら彼氏ができていてもおかしくないだろう。


 僕はただ彼女が平穏に暮らせることを祈りながら、寿命が尽きるのを待つだけだ。


 これが本当の生き地獄ってやつか。ずっと前から自分の人生は生き地獄のようなものだと思ってきたが、ここまで心苦しい日々はなかった。


 別に寿命が尽きるのを待つ必要もない。今日終わらせてもいいんじゃないか、と毎日考えている。


 それでも踏ん切りがつかなかったのは、この日を待っていたからだ。


 去年、一之瀬と行った花火大会が今年も開催される。


 その開催日が今日なのだ。一之瀬と出会う前から花火大会には毎年行っていた。最後くらい見ておきたかったのだ。


 外に出た瞬間、むわっとしたがそこまで暑くない。今にも泣き出しそうな曇り空の下を歩いていく。


 すれ違う人々は皆、傘を持っている。夕方から雨が降ってくるらしく、天気予報通りなら花火大会は中止になる可能性が高かった。僕の手に傘はない。


 公園に近づくにつれて通行人の数が増えていき、空が暗くなっていく。周りから雨が降らないことを期待するような会話だったり、中止になったらどうするのか話し合う声が聞こえてくる。公園に入ると見物客に囲まれながら進んだ。


 公園に着く前からぽつぽつと降り始めた雨は、次第に土砂降りの雨へと変貌する。


 傘を持たずに来た僕はあっという間にずぶ濡れになった。


「本日の花火大会は雨天の為、中止となりました」


 あちらこちらに取り付けられたスピーカーから中止を告げるアナウンスが流れる。


 周りにいた見物客から残念がる声はなく、最初から中止になることを覚悟して来ていたようだった。


 傘を差しながら帰っていく見物客についていくように僕も出口へ歩く。僕の他に傘を差していない人間は見当たらない。


 小さな傘を持った子供を誘導しながら歩く親、相合傘をしながらこれからどこに行くか話し合っているカップル。周りが傘を差している中、一人だけ傘を差さずにずぶ濡れになっている様は自分でも異様に思えた。


 それはまるで羽のない蝶のように異端な存在で、周りとのズレを可視化しているようだった。


 傘を差していても後ろ姿でわかる。いや、傘を差しているからなのかもしれない。


 皆、それぞれ繋がりがある。そんな中で一人ずぶ濡れになっている自分が滑稽だ。誰も傘に入れてはくれない。当たり前だ。見ず知らずの人間を傘に入れてくれる人がいるか。僕だって入れない。でも、一人くらい傘に入れてくれる人間がいてもいいだろ、と思ってしまう。


 雨に濡れていくうちに孤独感が高揚感へ変わっていく。


 ――今なら終わらせることができそうだ。


 僕は多分、花火を見たくて今日ここに来たわけではないと思う。きっとこの光景を見たくて、ここに来たのだろう。こうやって惨めな思いをして、自分の人生に見切りをつけたかったのだ。


 最後にやらなければいけないことがある。


 もし、ほんの少しでも一之瀬の好意が残っているのだとしたら、僕が死んだことを知ってほしくない。念の為、どこか遺体が見つからないような場所で死ぬ必要があった。寿命が尽きる直前に山奥へ行ったり、海崖から飛び降りようと考えていたが、そんな勇気が僕にあるとは思えない。


 だからこうして破滅願望を誘発させるように傘も持たずに来たのだろう。心の中で無意識のうちに。


 結局、寿命を手放したところで終わり方は変わらない。


 自殺するのなら今日だ。この機を逃すわけにはいかない。


 決心を固めて、公園を出たときだった。


 僕が、誰かの傘に入っていることに気づいたのは。


 誰か?


 そんなのわかりきっている。


 僕を傘に入れてくれる人物なんて、この世に一人しかいないのだから。


「やっぱり相葉さんじゃないですか」


 白い傘を持った一之瀬が、僕の顔をまじまじと見てくる。


「お前……なんでこんなところに」


「それはこっちの台詞ですよ。びしょ濡れじゃないですか」


 呆れながらハンカチを取り出して、僕の顔を拭いてくる。


「一人で来ていたのか?」


 見たところ一人だ。友達の姿も彼氏の姿もない。


「そうですよ。相葉さんもですか?」


「見りゃわかるだろ」


「てっきり彼女さんに振られて傘取られちゃったのかと思いました」


 一之瀬はクスっと笑いながらハンカチをしまった。


「んなわけあるか」


 傘から出ようとすると、彼女の手が僕の手を握った。


「家まで送っていきますよ」


 そう言って傘を僕に押しつけ、びしょ濡れなのを気にもせず、腕を組んでくる。冷えた体に彼女の体温が優しく伝わってくる。


「……彼女に見られたら誤解される」


 心を殺して精一杯の嘘をつく。


「私は誤解されたいかなー」


 悪戯っぽく笑う一之瀬は、さらに体を寄せてくる。


 その反則的な返しに抗えず、結局マンションの前まで腕を組みながら歩いた。


「気をつけて帰れよ」


 マンションのエントランスで彼女と別れようとする。


 しかし、一之瀬はまだついてくる。


「部屋にある忘れ物を取りたいんですけど、ダメですか?」


 忘れ物らしきものはなかったはずだが、あの日から掃除をしていなければ一度も入ってない部屋もある。


 仕方なく、一之瀬を部屋に入れ、忘れ物を取ったらすぐに帰るように告げてシャワーを浴びた。


 ところが、シャワーを浴び終えた後も部屋に一之瀬が残っていた。


「まだいたのか」と口には出すが、内心では彼女がまだいることに安堵していた。


「ごめんなさい。忘れ物したというのは嘘です」


「嘘?」


「こうでもしないと部屋に入れてもらえなさそうだったので」


 ため息をついていると、一之瀬は無邪気に笑いながら「というわけで今日は泊まりたいと思います」と言った。


「なにが、というわけで、だ。駄目に決まっているだろ。大体服とかどうするんだよ」


「あ、私の物が置いてあるのは本当ですよ。実はいつでも泊まれるようにパジャマやタオルを隠しておいたんですよね」


 したり顔の一之瀬は、普段使っていない部屋のクローゼットから見慣れない袋を取り出してくる。


「シャワーお借りしますね」と言って洗面所へ向かおうとする一之瀬を引き止める。


「それを持って早く帰れ。こんなところを彼女に見られたら、どうする」


 折れそうになりながらも必死に彼女を帰らそうとするが、一之瀬は退かない。


「玄関にお金が落ちたままなのに彼女さんを部屋に入れていたんですか?」


 何も言い返せないでいると、一之瀬は勝ち誇ったように微笑んで洗面所へ向かった。


 その後、寝間着姿の彼女に「一緒に寝ましょうよ」と手を引かれて、僕達は久しぶりにベッドの上で二人並んだ。


 月の光が差し込める部屋は二十一回目の自殺を止めた日の夜と同じ光景で、唯一違うのは横にいる彼女に対する思いだけだった。


「相葉さん、本当は彼女いないんじゃないですか?」


 ベッドの上で一之瀬が訊いてくる。彼女に背を向けて、返事をせずに寝たふりを続けるが一之瀬は喋り続ける。


「この間、黄色い線の外側に立っていたら駅員さんに怒られちゃいました」


 笑いながら話す一之瀬に「なんでそんなことしたんだよ」と反射的に口から漏れた。


「自殺する素振りを見せたら、相葉さんが邪魔しに来てくれるんじゃないかなーって思ったんですよ。なのに駅員さんの方が先に邪魔してくるし、橋の上に何時間いても来てくれなくて……正直寂しいです」


 後ろで音がした後、一之瀬の柔らかくて温かい体が僕の背中を包み込んだ。


「本当に自殺しちゃいますよ?」


 誘惑するような声で一之瀬は言った。


「もう自殺しないって約束しただろ」


 彼女の誘いを断るように僕は返す。


「最初に約束を破ったのは相葉さんじゃないですか」


 少し拗ねている口調だったが、僕の体を優しく抱きしめてくる。


「相葉さんと一緒にいられるならもう少しだけ頑張ってみようかなって思っただけなんですよ。だから今も死にたい気持ちは残ったままなんです。受験勉強を教えてほしいと言ったのも一緒にいられる理由を作りたかっただけ。高校に通いだしたのも褒めてもらいたかっただけ。料理を作っていたのも相葉さんの気を引きたかっただけ。あの日から相葉さんのことだけ考えて生きてきたのに……相葉さんは酷い人です」


 滑稽なほど思いを寄せてくる彼女が愛おしくて、愛おしくてたまらない。今すぐにでも振り返って抱きしめてやりたい。


 けれど、それでも僕は抗う。


「お前が思っているほど僕はかっこいい人間じゃない。勘違いしているんだよ、お前は。子供の頃はどんな大人でもかっこよく映るんだ。大人になればわかる。大したことのない奴だったってな」


 一之瀬は「そういうものなんですか?」と訊いてくる。


「そういうものだ」と僕は答える。


「じゃあ、相葉さんが教えてくださいよ。相葉さんがかっこ悪いと思う理由を一つ一つ、私に教えてください。そしたら私がかっこいいか、かっこ悪いか判断します」


 囁くように「相葉さんのかっこ悪いところを含めて愛しますから」と付け足す。


 その囁きは今まで体験した中で、もっとも甘く誘惑的でどうにかなりそうだった。なにもかも話してしまいそうになる。


 それでも僕は口を塞いで抑えきる。ここまでされて口に出せないことを自分でも不思議に思うぐらい必死だった。


「……そんなこと教えられるか、もう寝るぞ」


 言葉を発せたのは、沈黙から数分後だった。


 後ろから「いつか教えてくださいね」と優しい声が聞こえた。


 心の中では波風が絶えず、彼女を振り切れるほどの気力は残されていない。


 彼女の温もりを心と背中で感じながら、眠りについた。

 


 僕はその日、


 死にたがりな少女に自殺を邪魔された。

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