第4章
第17話 好意
17
寿命を譲ってから三回目の六月二日。水曜日。晴れ。
この日、制服姿の一之瀬に起こされた。
「あと五分、あと五分したら起きるから」
布団を引っ張る一之瀬に抗う。
「さっきも同じこと言って、五分経ちました」
布団を剥ぎ取られ、窓から差し込める光に襲われた。黒のブレザー制服を着た一之瀬に手を引っ張られ、洗面所で顔を洗う。
大きなあくびをしながらリビングに戻ると、テーブルに彼女が作った朝食が並べられていた。
ご飯、鮭の西京焼き、豆腐の味噌汁、玉子焼き、納豆。まさに日本の朝食といった顔ぶれである。
時刻は朝の六時過ぎ。一之瀬はいつも僕に朝食を作ってから学校へ向かう。
部屋に来る前に自分の家で食べてくる日もあれば、一緒に食べる日もあり、今日は彼女の分も置いてある。
今でも僕が食べ始めると、味に問題がないか訊いてくる。鮭の西京焼きは焦げがなく、身がやわらかい。玉子焼きはふっくらしていて甘みがある。ここ数ヵ月で料理の腕が上がっているのは確かだった。
「美味しい」と答えると、微笑んで彼女も食べ始めた。
一之瀬の通っている高校は彼女の家から少し離れていて電車で通学している。家から離れている高校を選んだ理由は、中学の同級生に会いたくないから、らしい。
彼女が通っていた中学は中高一貫校で、同級生はそのまま隣接された高校へ進学する。その為、他の高校なら同級生とバッタリ会う可能性が極めて低く、人間関係をリセットした状態で高校生活が始まった。
通い始めた頃は生活の変化で疲れが生じていたようだが、今は問題なく通っている。友達もできたらしく、高校生活にも馴染んできたようだ。
また高校に通い始めたことで親と言い争いになる回数も減って、部屋に泊まることもなくなり、なにもかも順調であった。
そして、彼女の順調はすなわち、既に僕の存在が必要ないことを意味していた。
もう一之瀬は死にたがりな少女などではなく、今すぐ僕が消えても問題ないはずだ。
僕に残された役目は彼女と距離を置き、フェードアウトする形で姿を消すだけだった。
だと言うのに今もこうして彼女と一緒に食事をしている。距離を置くどころか近づいていっているのが現状だ。
その原因は一之瀬が僕に対して献身的に尽くしていることにある。
彼女の家から歩いた方が駅が近い。つまり、僕に朝食を食べさせる為にわざわざ遠回りして早朝から部屋に訪れている。
それも朝食だけではない。昼食用の手作り弁当を置いて学校に行き、放課後も僕の部屋に来て夕飯を作る。休日も同じだ。朝から部屋に訪れて夜までいる。
流石にそこまでしてもらうのは悪く思い、何度も断った。
しかし、彼女は「一人だとちゃんとした物を食べないからダメです」や「前に話を聞いてくれたお礼ですよ」と理由を作って四月からずっとこの生活を続けている。
いくら鈍感な僕でもこれが無償の好意でないことには気づいている。
何故、僕なんかを……と考えたところで、彼女が積極的にアプローチしてくる現状は変わらない。
友達ができれば変わるかと様子見していたのがミスだった。今の状況で僕が突然姿を消したらどうなるか。彼女が傷つくのは目に見えている。
既に六月、もうじき余命半年を切る。フェードアウトしていく為には一刻も早くなにか手を打たなければいけない。
余命とは別の、見えないタイムリミットも迫っているのだから。
「相葉さん、ご飯粒ついてますよ」
僕の口元についていた米粒を指で取り、一之瀬は笑った。
そのまま自分の口へ入れた彼女の唇は血色がよく、とてもやわらかそうに見える。
高校生になった一之瀬は以前にも増して女性らしさに磨きがかかっていた。
持ち前の美貌はもちろん、華奢な体は丸みを帯びて女性らしい体つきになり、制服の上からも胸の膨らみがわかる。笑顔も魅力的で、笑ったときの唇の形が少し色っぽい。
これまではまだ子供だと誤魔化してきたが、もう女性として見るなという方が無理な話である。
今はなにかと理由を付けて献身的な彼女だが、もしも見返りを求めるようになったら……そのとき僕は拒むことができるのだろうか。
正直、自信はないし、未練がましく彼女の前から姿を消すことになるのは避けられそうにない。
一之瀬も僕の余命が半年だと知っていれば、ここまでしてくれないはずだ。だから彼女との関係がこれ以上、親密になる前に僕は姿を消さなければいけない。
それが僕達にとって、後腐れのない理想的な別れ方だ。
「そろそろ行きますね」
食事から皿洗いまで終わらせた一之瀬は通学鞄を持って学校へ向かう。彼女が持つ通学鞄には、水族館のスタンプラリーで貰ったイルカの缶バッジが付いている。
「今日も夕方には帰ってこれそうなので……」
玄関の前で靴を履いている一之瀬に「今日は来なくていい」と告げる。彼女は少し驚いた表情で振り返った。
「たまには友達と遊んでこいよ。せっかく友達ができたんだから」
放課後は寄り道もせずに、すぐ部屋に来る。休日もほとんど僕の家にいるし、学校以外で友達と遊ぶ機会がほとんどない。
そして、これを言うのは今回が初めてではない。
「前にも言いましたけど、それだと相葉さんに夕飯を作ってあげられなく……」
「だから毎日来なくても大丈夫だって。お前も大変だろ」
ここ数日、同じようなやり取りを何回もしている。彼女が次に発する言葉は決まって「大変じゃないです。私が来たくて来ているので気にしないでください」だ。
「お前がそう言っても気になるんだよ。三年間を一緒に過ごす仲間なんだから、僕なんかより学校の友達を優先するべきだ」
僕がそう言うと一之瀬は俯き、気まずい沈黙が流れる。
「……私が来たら迷惑ですか?」
「いや、迷惑とは言ってないだろ。なんでそうなる」
彼女があまりにも落ち込んだ様子を見せるから、心が痛い。
「最近、同じような話ばかりしてくるじゃないですか。なんだか避けられているような気がして……」
そう思われても無理はない。いや、こうなるのは普通だ。逆の立場だったら僕も同じことを考える。一之瀬からすれば遠回しに来るなと言っている偽善者にしか見えないだろう。
「そんなわけないだろ。ただお前の心配を……」
そのとき、一之瀬が「相葉さん」と言って僕の袖を掴んだ。
「私は友達より相葉さんと一緒にいたいんです」
上目遣いの一之瀬に心を持っていかれそうになる。
顔色を窺うように見てくる一之瀬に何も言い返せず、彼女は学校に行った。
高校に通いさえすれば、彼女の方から離れていくと思っていた。
鏡の前に立って、自分の顔を確認する。酷くはないと思うが、かっこいいかと訊かれたら返答に困る。少なくとも一之瀬ならもっと格上の男と付き合えるだろう。
何故僕なんだ、と不思議に思う。
だけど、最近よく考えてしまう。
もし……、
もしも僕が、『寿命を譲っていなかったら』
僕と一之瀬はどういう関係になっていたのだろうか。
死神と取引せず、自殺もしないまま一年後のクリスマスにも橋にいたとする。そこに一之瀬が来るが、僕を見て自殺せずに帰っていく。後日、また橋で彼女と出会う。彼女と目が合うが、会話はしない。その後も僕と一之瀬は自殺しようとするタイミングが偶然重なり、何回も橋で出会う。繰り返していくうちにひょんなことから会話するようになり、二人で遊びにいく仲になる。
そして、僕達は……、
ありえない話だ。ウロボロスの銀時計がなければ今の関係は築けなかった。こんなことを考えるだけ無駄だ。馬鹿らしい。
……それでも想像してしまう自分が情けなく思う。
夕方、僕は一之瀬の通う高校の校門前に立っていた。
あの後、冷静になって考えてみた結果、確かめなければいけないことが、まだ一つあることに気づいた。
一之瀬は友達ができたと言っていたが、それは僕を心配させない為についた嘘で、実際はうまくいっていなかった。それで僕と一緒にいたいなんて言っているんじゃないか。
だっておかしいだろ。友達より僕を選ぶなんてありえるのか、普通。
推測通りで友達がいないのなら、まだ彼女の前から姿を消すわけにはいかない。確認だけでもしておくべきだ。
校門からぞろぞろと生徒が出てくる。
長期戦を覚悟していたが、すぐに一之瀬が出てきた。
左右には同級生らしき女子二人がいて、楽しげに会話している。
「いるじゃん、友達」
思わず口から漏れた。
心配しただけ損したと思い、帰ることにした。正確にはウロボロスの銀時計で家にいた時間帯に戻るだけだが。
ウロボロスの銀時計をポケットから取り出したとき、一之瀬と目が合った。
とびっきりの笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。
「相葉さん、どうしたんですか? こんなところで」
その後ろから一之瀬の友達が駆け寄ってきた。
「これが噂の相葉さんかー」
ショートヘアの子がマジマジと僕の顔を見てくる。
もう片方のセミロングの子は「ねぇ、ねぇ、月美のことどう思っているんです?」と好奇心に満ちた顔で訊いてくる。
こういうことに慣れてない僕は少し、というかかなり戸惑った。
「ちょ、ちょっと二人ともやめてよ!」
一之瀬も突然のことに戸惑っている様子だったが、二人は僕から離れようとしない。
「だって月美も知りたいでしょ。いい機会じゃん」
「そうだよ。で、どうなんです? 月美のこと」
二人の視線に耐えられず、「かわいいと思うけど」と答えると二人とも「キャー」と叫んだ。
「良かったじゃん、月美! 嫌われてなくて!」
「かわいいだって!」
一之瀬の顔がみるみる赤くなっていく。
「私と相葉さんはそういう関係じゃないからっ!」
二人の声をかき消すかのような大きな声で、一之瀬は否定する。
きょとんとした顔をして、互いに見つめ合う二人。
「じゃあ、どういう関係なの?」
ショートヘアの子が言った。
「私と相葉さんは」と一之瀬が言いかけるが何も思いつかなかったようで、僕に「私と相葉さんの関係ってなんなんでしょう?」と顔を赤くしたまま訊いてきた。
それを見た二人はにやにや笑って、一之瀬の背中を強く押した。
押された一之瀬は僕の胸元に倒れて顔をうずめる。
二人は笑いながら逃げるように走り去っていく。
「月美! 今日は相葉さんと二人で帰りなよ!」
「帰り遅くなるなら代わりに私達が家に電話しておいてあげるね!」
「あ! 帰りに赤飯買わなきゃ!」
「私も!」
嵐のように過ぎ去っていく二人。
僕の胸元で顔を隠す一之瀬は耳まで赤くなっていた。
帰り道、互いに顔を合わせられずにいた。
「あの二人には明日ちゃんと言いますので」
一之瀬は少し怒ってるようだ。
「ちゃんと友達がいるようで安心した」
横目で一之瀬を見ながら言った。
「ひょっとして、それを確認する為に来たんですか?」
「まぁ、そんなところだな。毎日来るから本当は友達いないんじゃないかって心配してた」
すると一之瀬は立ち止まって、「ごめんなさい」と謝った。
何故謝られたのかわからず、彼女に尋ねる。
「今日、あの二人に今朝のことを話したんですよ。嫌われているんじゃないかって。そしたら二人に『通いすぎ』と言われて……。相葉さんには心配ばかりかけて……ごめんなさい」
そういえば、二人とも僕のことを知っていたり、嫌われてなくてとか言っていた気がする。
「毎日来てくれるのはありがたいと思っている。でも、それが原因で友人関係に支障なんか出たら困る。やっと学校に通えるようになったんだ。もう少し友達を大事にするべきだ」
一之瀬は少し残念そうに「はい、相葉さんも一人の時間が必要ですしね……。明日から通う回数を減らそうかと思います」と言った。
僕は「あぁ、それがいい」と返した。
その日を境に一之瀬が部屋に訪れる回数が減っていった。
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