第14話 二人だけの世界
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寿命を譲ってから二回目の八月二十一日。金曜日。雨。
この日、一之瀬が二十一回目の自殺を決行した。
「花火大会が終わるまで自殺しない」などと浅はかな考えをしていた自分を殴りたい。
花火大会前日だからと言って油断していたのだ。一之瀬の安否を確認せず、一日中寝ていた。
「翌日に備えて病み上がりの体を休めておきたかった」「彼女の発言を信じきっていた」などと言い訳は沢山出てくるが、どれも一之瀬からしたら好都合でしかない。
冷静に考えれば、これほど自殺に適した日もないだろう。そんな日に限って警戒を怠った自分の甘さに悔恨の念がこみ上げてくる。
それでも自殺現場に先回りできたのは運が良かった。
風邪で寝込んでいたこともあって生活リズムが戻り、彼女が自殺した翌日は早朝に目が覚めた。起きてから、しばらくベッドの上で携帯をいじっていたが、一之瀬がいつも部屋にやってくる時間帯を過ぎても彼女の気配がなく、次第に疑念を抱き始めた。
起き上がって他の部屋を見て回るが、やはり一之瀬の姿はない。テーブルに風邪薬等のお釣りとレシートが置かれているのを見つけ、財布に入れようとしたときだった。
レシートの裏に「今までありがとうございました」と丸っこい字で書かれていることに気づき、血の気が引いた。その字は紛れもなく一之瀬のものだったからだ。
慌てながらネットを調べると、「女子中学生が電車にはねられ死亡」と書かれた記事が目に入った。事故が起きた場所は、一之瀬が普段飛び込み自殺に使っている駅だ。年齢も一致していて彼女でほぼ間違いない。
記事には、二十一日の午前八時頃に事故が起きた、と書かれていた。記事を見つけたときの時刻は二十二日の午前六時。約二十二時間前、駅へ先回りする時間を考慮しても二十四時間戻せばギリギリ間に合う。
運が良かったのはそれだけではない。ウロボロスの銀時計はあくまで時間を戻すだけで、普段は昼過ぎまで熟睡している僕が朝七時に戻ったところで眠ったままだ。しかし、前日の二十一日は台風が接近していて風が強く、窓が揺れてうるさかった。その音で起こされて朝の六時から八時頃まで起きていたのは奇跡に近い。
念の為、いつもの橋で飛び降り自殺がなかったか、ホームのどの辺りから飛び込んだのかを大雑把に調べた。橋から誰かが飛び降りたという情報はなく、ネットでは「ホームの一番後ろで自分から飛び込んでいたから自殺で間違いないだろうな」と目撃者らしき人物の書き込みがあった。
二十一日の朝に戻して、すぐにタクシーを呼び、財布とビニール傘を持って駅へ向かった。
途中まではスムーズに向かっていたが、事故の影響で渋滞が発生していてなかなか進まず、タクシーから降りて走った。午前中はまだ暴風域に入る前だったが、激しい雨風ですぐに足元がずぶ濡れになった。
そして、彼女が飛び込み自殺をするホームに辿り着き、今に至る。
一之瀬には訊きたいことが山ほどある。あのレシートからして自殺を事前に計画していたのは明白だ。確かに彼女は看病しているときに「花火大会が終わったら自殺します」と言っていた。自殺願望が消えていないのなら、一番邪魔されにくい日に自殺するのは論理的ではある。
それでもこのタイミングで自殺を決行したことを受け入れるのは難しかった。部屋に通うようになってからは自殺志願者らしい言動や卑屈なことを口に出さなかった。むしろ、ここ最近の彼女は明るく、自殺をやめないにしても前より頻度が減るんじゃないか、と期待もしていた。だからこそ、計画的に自殺されたことは予想外だったし、なによりショックであった。
一之瀬が来たら、とことん話し合うつもりだ。あんなレシートだけ残して死なれるわけにはいかない。絶対に。
発車標に彼女が飛び込んだ電車が表示される。
だが、見渡しても一之瀬の姿がない。
おかしい、今回はしっかり飛び込む位置も調べて時間を戻した。ホームの後ろから飛び込むのは間違いない。「まだ来ていないだけ」と自分に言い聞かせるが、未来が変わる可能性もゼロとは言い切れない。
不安になっていき、人の間を縫うように歩いて彼女を探した。
――早く出てきてくれ。
心の中で叫びながら必死に探す。しかし、いくら探しても一之瀬の姿が見当たらない。
『電車がまいります。ご注意下さい。』と発車標に文字が流れ、同時にアナウンスが流れ始める。
早くしなければ……自殺を阻止できなかったら全てが終わる。どこにいる……! それとも気まぐれで自殺しなくなったのか? このまま自殺しないことに賭けるか? いや、それで一之瀬が自殺したらなにもかも終わりなんだぞ! なんでもいい! もう一度……、
僕は、もう一度彼女に会いたい。
柱に設置されている非常停止ボタンに手を伸ばしたときだった。
後ろから肩を掴まれた。一之瀬だと思って振り返る。
「一之瀬月美じゃなくてガッカリしました?」
僕の後ろに立っていたのはうす気味悪く笑う、死神だった。
肩を掴んでいる手を振り払って再び非常停止ボタンに手を伸ばすが、死神に止められた。
「ここに彼女はいませんよ」
死神は笑いながら煽るように言った。
「いない? そんなはずは……」
「未来が変わったんです」
轟音を響かせながら電車がホームに入ってくる。
しかし、何事もなく電車は止まり、ドアが開いて人が降りてくる。
「どういうことだ」と問うと、死神は「貴方は知らないでしょうけど」と前置きしつつ話し始めた。
「基本的に一之瀬月美は家族ともめたときに自殺を決意します。決意すると言っても衝動的な自殺なので計画性はなく、衝動が起きたときに自殺の手段も無意識に決めているようです。ですが、本人も知らない法則があるんです」
「法則?」
「えぇ、彼女は自殺の手段にこだわりを持っていませんが、『偶然』橋から飛び降りて、『偶然』電車に飛び込んでいるわけではないんです。種明かしをすると、彼女は姉達に嫌味を言われて自尊心が傷つけられたときだけ橋から飛び降り自殺をして、父親に怒鳴られたときは自暴自棄になって電車に飛び込んでいるんですよ」
「自殺衝動を起こす原因によって無意識のうちに自殺の手段を選んでいるってことか」
「その通りです。無意識で選んでいるとはいえ、偶然でないのなら未来は変わりません。だから今まで貴方は自殺を邪魔できていたのです」
風が強く吹き、空き缶がカランカランと鳴りながら転がっていく。
「だったら、なぜ未来が変わったんだ」
そう訊くと、死神は声を出して笑った。
「何がおかしい」
「まだわかりませんか? 未来を変えたのは貴方ですよ。相葉さん」
「僕が未来を変えた?」
「えぇ、彼女は貴方と一緒に過ごすうちに死ぬことが怖くなったのです。例えば、ホームの一番後ろから電車に飛び込むことが多かったのは、死ぬことに迷いがなく明確に死ぬ覚悟があったからでした。でも貴方と過ごしているうちに自殺衝動を引き起こす要因の一つだった孤独感が薄まり、死ぬことに迷いが生じた。するとどうなるか……心当たりあるでしょう?」
十九回目の自殺を思い出す。あのとき、一之瀬はホームの後ろからではなく、真ん中辺りから飛び込もうとしていた。僕の尾行をかわす為のフェイントだと思っていたが、あれは飛び込むかどうか迷っていて中途半端な位置にいた、ということなのか。
二十回目のときも自殺せずに僕を待っていた。彼女は「待っていた」と言っていたが、時間を戻す前は自殺した。僕を待っていたのは飛び降りる決心がつかなかったから、という可能性も考えられる。
無意識でも本能で自殺の手段がパターン化しているのなら、それは強い意志と変わらない。だが、迷いが生じてパターンが崩れてしまえば、それはもうサイコロで自殺を決めるようなものだ。今まで以上に一之瀬は不安定な状態でいることになる。
しかし、十九回目も二十回目もどちらも自殺しようと橋やホームに来ていた。
だとすれば今回も……、
「一之瀬は今どこにいる?」
そう訊くと、死神は笑みを作って「さぁ、どこにいるんでしょうね」と言った。
死神のニンマリとした笑みを見た瞬間、僕は自分が想像した最悪の事態が起こっていることを確信した。
「前に貴方の使い方はつまらない、と言いましたが、撤回します。貴方の使い方は面白いです。あんな女の子を生と死の間で苦しませて……ひょっとして私と同じ趣味をお持ちなのでは?」
「ふざけている場合じゃない! 早くしないと手遅れになる!」
僕の声で周りの視線が集まる。だが、死神は態度を崩さない。
「人の心を読めると言っても近くにいない人間の心はわかりませんよ。まぁ、彼女は変なところで責任感が強いようですし、どこかで自殺しようとしているんじゃないですかねぇ」
悠長に話す死神を睨みつけ、僕は走りだす。
後ろから死神の声が聞こえてくる。
『ここにいないということは、あそこしかないと思いますけどね』
言われなくてもわかっている。彼女がいる可能性が最も高い場所はどう考えても橋だ。踏切や他の駅に可能性を賭けるぐらいなら……もう橋に賭けるしかない。
駅を飛び出してタクシー乗り場に向かう。しかし、列が出来ていてタクシーが来る気配もない。行きのタクシーでの渋滞を思い出して歯を食いしばり、諦めて走る。
警察に通報することも考えたが、橋の近くで交番らしきものを見た記憶がない。それに近くで渋滞が発生しているのにパトカーがすぐに辿り着けるのだろうか……そもそもポケットに入っているはずの携帯はどこだ。記憶を整理する……行きにタクシーを呼んでテーブルの上に置いたのが最後に携帯を見た記憶だった。
がむしゃらに走った。風に煽られて傘が折れる。傘だったものを投げ捨て、ずぶ濡れになりながら走る。服が体に張り付いて重い。水溜まりを踏む度に靴の中に水が浸み込んでくる。次第に靴も重くなっていき、水溜まりを踏んだかどうかもわからなくなった。
川沿いにでた頃には足が震えて限界を迎えていたが、増水した川の流れを見て走り続けた。
橋が視界に入り、目を細めて確認すると、橋の上にぼんやりと人の姿が見える。
こんな雨の中、傘もささずに橋の上にいる人間なんて彼女しかいない。
間違いない、一之瀬だ。
しかし、既に欄干の外側に立っている。
「一之瀬ッ! 飛び降りるなッ!」
今まで出したことのない大きな声で叫んだ。
彼女に届いたのかはわからない。強い雨風の音や濁流のように流れる川の音で遮られていてもおかしくない。それでも橋の上に辿り着くまで叫び続けた。
普段より長く見える橋の上を走る。一之瀬が飛び降りないことを祈りながら。もし彼女が飛び降りたら、僕もすぐに飛び降りるつもりだ。覚悟は出来ている。
「一之瀬!」
欄干の外側に立つ彼女のもとへ辿り着き、後ろから呼びかけた。
こちらを背にしていた一之瀬が振り返る。
「相葉さん……」
かぼそい声で僕の名を口にした。ずぶ濡れで目は赤く、欄干を掴む手は震えていた。
彼女の細い腕を掴んで「早くこっちに」と説得するが、首を横に振る。
「足が……足がすくんで動かないんです」
彼女の足を見るとガクガク震えていて、立っているのも限界の様子だった。
「僕が掴んでいる。ゆっくりでいい」
一之瀬は小さく頷いて、体の向きを変えようとする。
しかし、彼女の右手と右足が橋から離れた瞬間、強い風が吹いた。
バランスを崩した一之瀬の左足が橋から離れる。
「きゃああ!」
僕は瞬時に橋から落ちかける彼女の腕を強く握る。
だが、雨に濡れていたせいで彼女の腕が勢いよく僕の手から滑り抜けていく。このままだと落ちる、と諦めかけたとき、彼女の手首をうまい具合に掴めて止まった。「痛いっ!」と苦悶の声をあげる一之瀬。
慌てながらもう片方の手で一之瀬の腕を掴み、引き上げる。
彼女の足が着くと、欄干を挟んで僕に抱き着いてきた。
背中をさすりながら「持ち上げるから絶対に手を離すな」と言うと、一之瀬は無言で二回頷いて僕の両肩を強く掴んだ。
抱き上げて、後ろへ下がる。足が引っ掛かりながらも彼女の体が欄干を越え、それと同時に僕の体は限界を迎えた。
足に力が入らなくなり、一之瀬を抱きかかえたまま尻もちをつくように後ろへ倒れてしまった。
打ちつけるように雨が降ってくる。聞こえるのは雨の音、川の音、一之瀬のすすり泣く声のみ。橋の上は、僕と一之瀬だけの世界だった。
「……どうして今日、自殺しようとしたんだ」
一之瀬は僕の胸元に顔をうずめて嗚咽を漏らしながら「約束……」と言った。
「約束破れば……私のことを嫌いになって……くれると思って……」
一之瀬の言葉を理解したとき、彼女のことがどうしようもないほど愛おしくなった。
そうか……そういうことか。
僕のことなんて気にする必要ないのに。
ぎゅっと抱きしめて背中をさする。
「そんなことで嫌いになるわけないだろ」
彼女のむせび泣く声は雨音にも負けないくらい大きかった。
出会った頃、一之瀬が泣いているところを何回か見たことがあった。
泣きわめくわけでもなく、ぐっと堪えて一滴の涙が頬を伝う静かな泣き方だった。百万円を手渡したときも涙を見せようとはせず、儚げだけども強さを感じられる泣き方だった。
今、僕の胸元で泣きじゃくる彼女は違う。
ダムが決壊したかのように溢れ出る涙。嗚咽を漏らして震える体。今の彼女からは以前の強さが感じられない。ただただ弱々しく泣く少女であった。
彼女をここまで追いつめたのは、僕だ。
これまでにないほど彼女を救えたことに安心感を抱き、これまでにないほど罪悪感が湧いた。
様々な感情が混ざり合って心の中がドロドロになっていくが、雨は流してくれない。
彼女のむせび泣く声が雨音に負けるまで、二人だけの世界が続いた。
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