第10話 シャボン玉のように
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寿命を譲ってから二回目の七月一日。水曜日。晴れ。
この日、一之瀬が二十回目の自殺を決行した。
飛び降り自殺、場所はいつもの橋だ。一番邪魔しやすい自殺にもかかわらず、今回も冷や汗をかいた。
普段は一時間以上前から自殺現場に先回りして待ち伏せているのだが、今回は僕が着く前から橋の上に一之瀬がいた。
彼女が気まぐれを起こして、本来より早く飛び降りていたら何もかも終わっていた。
「今日は来ないんじゃないかと思っていました」
遠くの景色を眺めながら一之瀬が言った。
「どのくらい前から来ていた?」
朝からいました、と返ってきた。
現時刻は正午過ぎ。何時間も前からいたことになる。飛び降りる機会はいくらでもあった。なのに彼女は景色を眺めている。
「待っていたんですよ。もう少し遅かったらここから飛び降りる予定でしたけど」
「待っていた?」
「今日は行きたいところがあるんです」
僕が来るのを待っていて、一之瀬から行きたい場所があると言い出す。
こんなことは初めてだ。
夢でも見ているんじゃないかと疑って頬をつねるが、一之瀬に「何しているんですか」と冷ややかな視線を向けられるだけだった。
手招きする一之瀬にどこへ向かっているのか尋ねたが、「秘密です」と言って教えてくれない。普段とは真逆である。
彼女の後ろをついていきながら、今日は何かがおかしいと疑問に思う。念のために頬をもう一度つねったが、一之瀬に蔑むような目で見られるだけだった。
「今日の相葉さん……なんか変ですよ」
変なのはそっちだろ、と言い返す。
「あれだけ行きたい場所なんてないと言っていたのにいきなりどうした」
たまにはいいじゃないですか、と一之瀬は答えたが、うやむやにされた気がしてならない。詮索するつもりはないが、今日の彼女は確実にどこかおかしい。
二十分くらい歩いて辿り着いたのは、地元にある国営公園だった。
一日じゃ回りきれないほど大きな公園で、遠くから訪れる人も多い。僕も小さい頃に何度か来たことがある。
入口で入園料を払う必要があるのだが、一之瀬が僕の分まで払おうとして止めた。
しかし、「今日は私が払います」と小銭を握りしめながら譲ろうとしない。流石に僕も中学生に奢ってもらうわけにはいかず、数分間もめた。
最終的にじゃんけんで勝った方が支払うことになり、勝者である僕が払った。
入園ゲートを通ると、川のような大きな水路が視界の先までまっすぐに伸びている。
水路には一定の間隔で水が噴出していて、水しぶきの音が聞こえてくる。その水路を挟むように二本の並木道がまっすぐ伸びていて、そこを歩いていく。僕達の他にも小さな子供連れや老夫婦が並木道を歩いていた。
七月に入って少し暑くなってきた分、水しぶきの音が涼しげに聞こえた。風が吹くと木の葉擦れの音が、足元では木の枝が折れる音が、まるで森の中にいるようだ。
「私、こういう静かなところが好きなんです」
警戒しながら歩く普段の彼女とは違い、穏やかな表情を見せる一之瀬。景色を眺める彼女は優しい目つきだった。「僕も好きだな、ここ」と口にすると、「それは良かったです」とにっこり微笑んだ。
水路沿いの並木道を通り抜けて、道なりに歩いていると大きな池が見えてきた。スワンボートや手漕ぎボートが数台浮かんでいて、水面には青空がくっきり映っている。
近くにあった売店でラムネ瓶を二本購入し、片方を一之瀬に渡す。ラムネ瓶を見ているとノスタルジックな気持ちが湧いてくる。なにか思い出があるわけでもないが。
ビー玉が瓶の中に落ち、細かい泡が立つ。一之瀬はラムネ瓶の開け方がわからないようで苦戦していた。彼女の代わりに開けてやると、小さく拍手した。
からからだった口の中で炭酸が弾けて一気に潤う。一之瀬は炭酸が苦手なのか、中に入っているビー玉を眺めながら少しずつ飲んでいた。彼女の唇がいつも以上に瑞々しく潤って見える。
飲み終えると、一之瀬が池の欄干から水面に手を振っていた。水面には無数の鯉が集まっている。餌を貰えると思って集まってきたのだろう。
そういえば、ラムネ瓶を買ったときに鯉の餌も売っていた気がする。売店に戻り、鯉の餌を買って彼女に渡すと目を輝かせた。
ボートハウスが近くにあり、スワンボートに乗りながら鯉に餌やりすることにした。
観光地などでよく見かける二人乗りのスワンボート。何十年も前から使われているのか乗った瞬間に軋み、塗装が所々剥がれ落ちていてハンドルも錆びついている。乗る前は酔わないか心配だったが、今は沈没しないかの方が心配である。
二人でペダルを漕ぐが思ったより遅い。進まないわりにペダルは重く、一之瀬の細い脚を見ていると折れないか不安になってくる。
「相葉さんは右を見ていてください。私は左を見ます」
一之瀬は真剣になって鯉を探していたが、向こうから近寄ってきた。
というより気づいたときには鯉の大群に囲まれていた。数えきれないほど多く、一之瀬も「少し怖いですね……」と引いていた。
餌をあげるとバシャバシャと飛び跳ねて水しぶきが飛んでくる。ボートがひっくり返るんじゃないかと焦った。一之瀬はそんな状況にもかかわらず、餌やりに夢中になってボートから身を乗り出す。落ちないように後ろから彼女の服を掴んでいたが、本人は気づいていないようだった。
餌をあげ終えても鯉がボートから離れることはなく、一之瀬は「ごめんね、もう餌ないんだよ」と鯉と会話していた。微笑ましい光景だと思う。彼女が自殺志願者でなければ。
スワンボートから降りた後も公園内を見て回り、フードコートで少し遅めの昼食をとった。
僕達が頼んだのは使い捨て容器に入った普通のうどんだったが、こういう場所で食べると美味しいから不思議である。一之瀬はうどんを食べた後にソフトクリームも食べていた。髪を耳にかき上げながら食べる彼女は少し大人びて見える。
売店にはボールやフリスビーといった様々な遊具が売られていた。あまりハードな動きはしたくなかったからシャボン玉とレジャーシートを購入して、園内中央にある原っぱへ向かった。
緑色の芝生が視界いっぱいに広がっている。レジャーシートが無数に敷かれていて、持参した弁当を食べている老夫婦がいれば、子供とボール遊びをしている父親、フリスビーを飛ばして飼い犬と遊んでいるカップルなど、各自満喫しているようだった。
原っぱ中央には一本の大きな木がそびえ立っている。この公園のシンボルみたいなものなのだが、ここからだと遠くて小さく見える。そこを目指して芝生の上を歩いていく。
大きな木の日陰に辿り着き、カラフルなレジャーシートを敷いて、その上に座る。下がごつごつしていたが、一之瀬は正座で座っている。痛くないのだろうか。
風が吹くと木洩れ日が揺れ、葉擦れの音が静かに鳴り響く。
日陰の外からは弾んだ声が聞こえきて、つい目がいってしまう。目線の先には若いカップルがバドミントンをしていた。風のせいで彼女がシャトルを打つと彼氏を通り越すほど飛び、彼氏が打つと前に飛ばない。それはもうバドミントンとは呼べない別の遊びになっていたが、二人とも笑っていて楽しそうだった。
こうして眺めていると、日陰の中と日陰の外は違う世界で、僕は日陰の世界から羨ましそうに外の世界を見ているような傍観者の気分になる。
実際、隣に一之瀬がいなければ浮いている存在になっていたと思う。
見渡す限り、一人で来ている来園者は少ない。いたとしても景色をスケッチしていたり、レジャーシートの上で昼寝をしていたり、溶け込んでいるように見える。
もし僕が一人でここに来ていたのなら溶け込めていなかったと断言できる。うまく言葉にできないが、日陰の外にいる人間達とは何から何まで違う気がする。その違いが僕を孤立させた。
この違いがなくならない限り、僕は生きたいと思わない。死神は一之瀬といたら後悔するなんて言っていたが、ありえない話だ。仮に一之瀬が自殺を諦めたら、一緒に公園へ来ることもないだろう。結局、元の生活に戻るだけだ。
何があろうと、寿命を譲ったことを後悔する日は訪れない。
そんなことを考えていると、一之瀬が飛び跳ねた。
「虫! 虫です!」
僕の服を掴みながらレジャーシートの端っこを指さす。
小さなアリが歩いていた。
「驚くほどじゃないだろ」
アリを捕まえて木の幹に逃がしたが、一之瀬はその後もレジャーシートの上を何回も確認していた。
落ち着かない一之瀬の気を紛らわすため、袋からシャボン玉を取り出して渡す。
緑色のストローが二本、シャボン液が入っているピンク色の容器が四本。二人で分けてシャボン玉を飛ばした。
ストローから無数の泡がふわふわと飛んでいく。日陰の外まで飛んでいき、すぐに見失った。
「相葉さんがシャボン玉って似合わないですね」
日陰の外でシャボン玉を飛ばす一之瀬がクスっと笑う。
「そんなことは自分でもわかっている」
逆にシャボン玉を吹く一之瀬は絵になっていた。触れるだけで簡単に割れてしまうシャボン玉のように彼女も儚げに見えて、とてもマッチしている。
その様を日陰からずっと眺めていた。
「なあ、勝負しないか?」
日陰に戻ってきた一之瀬に訊いた。
「勝負?」と首を傾げる彼女。
「シャボン玉を遠くへ飛ばした方が勝ち。負けた方は勝者の言うことに従う」
一之瀬は数秒考える素振りを見せた後、「相葉さんが勝ったら、自殺を諦めろって言うんでしょう」とジト目で言ってきた。「それはどうかな」と返したが、「ふーん」と信用していない様子だった。
「わかった。『自殺を諦めろ』はナシだ。それならどうだ」
そう提案すると、勘繰るような表情を浮かべつつも勝負に乗ってきた。
同じ位置から一回吹いて、遠くへシャボン玉を飛ばした方が勝ち。細かいルールを決めた後、一之瀬が最初に飛ばすことになった。
一之瀬は頬を膨らませて思いっきり飛ばそうとしたらしいが、大きなシャボン玉ができてしまい、日陰を出ることなく割れた。
これなら勝てる、と確信した。
僕が吹いたシャボン玉は順調に飛んでいった。あと少しで日陰を超えるし、何個も残っている。余裕で僕の勝ちだろう、とシャボン玉に視線が釘付けになっていた……
その時だった。
パンっと小さな手によってシャボン玉が割られてしまった。
小さな男の子と女の子がシャボン玉を割ったのだ。
二人とも幼稚園生くらいに見える。顔立ちが似ていて、おそらく兄弟だろう。
僕が困惑している横で、一之瀬が笑いをこらえる。
「今のはナシだ。もう一度飛ばす」
再びシャボン玉を飛ばすが、それもちびっ子二人に割られた。しかも二人とも面白がって飛び跳ねている。
「もっと飛ばしてほしいみたいですね」
微笑みながら一之瀬が言った。
ちびっ子達に「そこを退いてくれ」と頼むが、退く気配がない。
その後も説得したり、シャボン玉を飛ばし続けたが全滅。完全にちびっ子達の遊び相手と化していた。
それでも飛ばし続けていると、今度は一之瀬が横から指で突いて割ってきた。そのまま靴を履いて、ちびっ子達の方へ走っていく。
「誰が一番多く割れるか勝負しようか」
優しい声で、ちびっ子達に話しかけていた。どうやら彼らの遊び相手をするつもりらしい。
普段とは違う明るい彼女に動揺していると、「相葉さん、早く早く!」と手を叩いてシャボン玉を要求してきた。
思いっきりシャボン玉を吹くと、ちびっ子達がはしゃぎながらシャボン玉を追いかけた。一之瀬は手加減しているようで、割ろうとする素振りを見せつつもちびっ子に譲っていた。
シャボン玉と戯れる一之瀬は明るく、無邪気な少女だった。
水族館のときに見せた満面の笑みに近い。誰よりも幸せそうに笑う彼女には慈しみたくなるような魔法がある。
いつも無表情な彼女から笑みを引き出すのは容易なことではない。自殺志願者ではなく、普通の女の子だったら日常的に見ることができるはずなのに、と勿体なく思う。
しばらく遊んだ後、ちびっ子達を探していた親が僕達を見つけ、礼を言って二人を連れて去っていった。別れ際に二人が「また遊ぼうね」と大きく手を振り、一之瀬も「またね」と笑顔で手を振った。僕も弱々しく手を振る。
「行っちゃいましたね」
一之瀬が振り返ったところにシャボン玉を飛ばしてやった。
「きゃっ! もういいですって!」
「何が『誰が一番多く割れるか勝負しようか』だ。くらえ」
シャボン玉を吹きつつ、笑いながら逃げる一之瀬を追いかけまわした。
彼女の周りを光り輝くシャボン玉が無数に飛び交う。
その光景をいつまでも見続けていたかったが、僕も一之瀬も体力がなく、すぐに息が上がって日陰へ戻った。
尻もちをつくようにシートの上に倒れこむ。その横で座る一之瀬も後ろに両手をついて木を見上げながら呼吸を整えていた。
仰向けになりながら、ゆらゆらと降り注ぐ木洩れ日を見ていると不思議な気持ちになってくる。
今ここにいることが不思議なのだ。余命三年間を一人で過ごすつもりだったのに、馬鹿みたいにはしゃいでシートの上で仰向けになっている。
自分が『普通の人間』のように原っぱに溶け込んでいるこの状況が信じられず、不思議で不思議でたまらない。
『一之瀬は何故死ななければいけないのだろう』
横にいる一之瀬を見ながら、もう一つ不思議に思った。
当然、彼女が自殺する理由はわかっている。家族とも仲が悪く、友達もいない。八方塞がりなのは理解している。
僕が不思議に思ったのは、何故彼女が自殺しなければならないのか、だ。
普通の少女ではないか。何も悪いことをしていなければ、彼女が望むだけで死なずに生きていける。彼女は生きていて当たり前の存在。
なのに一之瀬は自殺をして、僕は邪魔をしている。
彼女を自殺へ導く運命だとか、世界だとかそういうものが不思議なのだ。
この世は理不尽なことばかりだ。だから、こんなクソゲーの電源なんてさっさと切りたいと考える。そして僕は寿命を手放した。
でも彼女の自殺だけはどうしても認めたくない。
「本当に自殺をやめる気はないのか」
仰向けのまま一之瀬に問いかける。
「自殺をやめるのならなんだってする。いじめてきた奴らに復讐したければ手伝うし、義理の父親が捨てるのを諦めるまで毎日ぬいぐるみを買い続けてやることだってできる。本当になんだっていいんだ。お前が自殺をやめてくれるのなら」
本心をそのまま言葉にした。
自殺をやめてほしい。それだけだ。罪悪感を払拭したいとか、言い訳を作りたいとかではなく、ただ純粋に一之瀬月美の自殺を止めたい。
しかし、一之瀬の返事は「ごめんなさい」だった。
「今日、ここに来たのは最後にお礼を言いたかったからなんです」
反射的に体を起こして、「最後ってなんだよ」と訊いた。
こちらを向かずに一之瀬は遠くの空を見ながら言った。
「明日、橋から飛び降りて自殺します」
その瞬間、彼女の横顔が満ち足りているように見えて、諦観しているようにも見えた。静かで、力強くて、迷いがない。僕の本心を一切受け付けようとしない表情。
「死ぬ前にせめて、お礼を言いたかったんです」
「いや、待てよ。なんでそうなる。大体、礼を言われる筋合いなんて……」
僕が慌てて説得しようとすると、「そんなことないですよ」と微笑みながら言った。
「ずっと一人で怖かったんです。誰も味方になってくれないまま一人で死ぬんじゃないかって。実際、相葉さんがいなかったら一人ぼっちのまま死んでいたと思うんです」
穏やかな表情、落ち着いた声のまま彼女は続ける。
「相葉さんに自殺を止められたとき、正直ホッとしました。私にも心配してくれる人がいたんだな、って思うとなんだか救われた気がして。いつも卑屈で反抗的なことばかり口にしていたけど……本当は嬉しかったんですよ」
一之瀬は照れ隠しするようにもう一度微笑んだ。
自己満足のために自殺を邪魔してきた。礼を言われるのは複雑であったが、それでも嬉しかった。だからこそ自殺をやめてほしい気持ちが強くなる。
一之瀬の肩を掴んだ。
「だったら自殺しないで、これからも生き続ければいいだろ」
だが、彼女は首を横に振る。
「この半年間、相葉さんと過ごした時間だけが救いでした。でも一時的な痛み止めみたいなものなんです。学校に行かなきゃ、といくら自分に言い聞かせても制服を見ただけで不安に押し潰されて逃げ出したくなるんです。学校に戻る勇気も、家族と暮らしていく自信もありません……。生きていても悩み続けるだけで疲れました。だからもういいんです」
現実逃避している時だけが救いで、社会復帰を諦めて、人生を終わらせたい。まんま昔の僕ではないか。ウロボロスの銀時計を手にする前の僕と、同じ。
彼女の肩を掴んでいた手をそっと離す。
「いろんな場所につれていってもらったり、お金を出してもらったのにごめんなさい。相葉さんだけが私の味方でした」
そして一之瀬はこちらを向いて、『あの』満面の笑みで言う。
「こんな私を心配してくれて、ありがとうございました」
風が吹いた。
一之瀬の髪が揺れる。
葉擦れの音も、日陰の外から聞こえる声もノイズでしかなかった。
これが一番綺麗な終わり方なのかもしれない。
僕がこれ以上、彼女にしてあげれることはあるのだろうか。いじめの解決を望んでいなければ、家庭の問題も手詰まりな状況。自殺を邪魔することしかできない。
その邪魔だって今まで奇跡的に邪魔できていただけで、そのうち突然の別れになるかもしれない。
自殺を決行した一之瀬は最期に何を考えていたのだろうか。もしかしたら今日みたいに僕が来るのを待っていたときもあったのかもしれない。あれだけ自殺を邪魔すると言い続けたんだ。来なかったら裏切られた気分になってもおかしくない。
そんな終わり方より今ここで一之瀬と別れの挨拶を交わして、せめて最後まで彼女の味方でいた方がいいのではないか。
やれることはやった。
それでも彼女は自殺を選ぶ。
自己満足で終わらなかっただけマシだ。
彼女は終わらせたいんだ。
死なせてやればいい。
だというのに……
「ふざけるな」
僕は何を言っているんだろうか。
「え?」
困惑する一之瀬に容赦なく言い放つ。
「いいか! お前を救うために自殺を止めているんじゃない。死なれたら後味が悪いんだよ。その為に自殺を邪魔して、金だって沢山使った。礼だけ言われて死なれたら大損でしかない。死ぬならせめて今まで払った金と川にばら撒かれた百万円を返してからにしろ!」
自分でもめちゃくちゃなことを言ったと思っている。
エゴでもなんでもいい。理由なんて必要ない。
僕は、彼女の自殺を止めたいのだ。
「は、払えるわけないじゃないですか! もうすぐ死ぬ人間なんだから気にせず奢られろとか言っていたの相葉さんですよ。それに百万円だって……きゃっ!」
必死に言い返す一之瀬の頭を乱暴に撫でた。
「お前が諦めるまで絶対に邪魔し続けるからな」
一之瀬はくしゃくしゃになった髪を直しながら、いつもの不満げな顔をした。
「……やっぱり相葉さんは私の味方じゃなくて敵です」
「敵で結構だ」
そう言い切って、シャボン玉を飛ばした。
飛んでいったシャボン玉は日陰を出ることもなく、パッと一瞬で消えた。
「……後味が悪いからって百万円も出せないですよ、普通」
「命に比べたら安いもんだろ」
「私の命なんて一円の価値もないのに」
不満げな顔をした彼女が飛ばしたシャボン玉も日陰を出ることなく、割れる。
「卑屈なこと言うな」
「髪くしゃくしゃするのやめてください!」
その後、閉園を知らせるアナウンスが流れるまで会話はなかった。
「そういえば、シャボン玉の勝負ついてなかったな」
公園を出る直前に思い出すと、黙り続けていた一之瀬も「すっかり忘れてましたね」と口を開いた。
「私の反則負けでいいですよ。横から突いて割りましたし」
あっさり負けを認めたのは意外だったが、「従うのは自殺以外のことですからね」と念入りに言うあたりは彼女らしかった。
「じゃあ、あれに付き合ってもらう」
入場ゲートに貼ってあったポスターを指さした。ポスターには花火のイラストが描かれている。
「花火大会ですか?」
この公園では毎年八月下旬に打ち上げ花火の大会が開催される。ポスターによると、今年は八月二十二日に開催される。
「あー、花火大会まで自殺させないつもりですね!」
僕の狙いは即バレたが、「なるほど、そういう邪魔の仕方もあるのか。考えもしなかった」と白々しく誤魔化した。
安楽死の記事から思いついた案だ。花火大会までという期限を設ければ大人しく従う可能性がある。時間稼ぎにしかならないが、この手詰まりな状況に変化があるかもしれない。
「とにかく約束は守ってもらう。前に渡した電話番号の紙、捨ててないよな」
「持っていますけど、電話するかどうかは……」
話を濁らそうとする彼女にシャボン液の容器などが入った袋を押しつけた。
「いつでも電話していい。だから明日死ぬとか言わずにもう少し頑張ってみろ」
一之瀬は仕方なさそうに「花火大会まで、ですからね」と言って袋を受け取った。
「気をつけて帰れよ」
「本当に花火大会までですからね」
「はいはい、わかったから」
別れ際にも確認してきたが、あの様子なら約束は守ってくれそうだ。
まだ自殺を認めるわけにはいかない。
花火大会まで五十日以上ある。
この五十日間を使って、なんとしてでも自殺を諦めさせる。
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