第8話 満面の笑み
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「今日はいつもと違う駅にしたのに……」
腕を掴まれながら、いじける一之瀬。
「いい加減、電車に飛び込もうとするのはやめろって」
彼女の腕を掴みながら怒る僕。
「じゃあ、どんな自殺ならいいんですか?」
反省の素振りをまったく見せない。
「そうだな、八十年くらい経ったら安らかに死んでいいぞ」
「それ、自殺とは言わないです」
寿命を譲ってから二回目の六月一日。月曜日。晴れ。
この日、一之瀬が十八回目の自殺を決行した。
普段飛び込んでいる駅とは違う駅で飛び込みを図ったが、いつものように捕まえた。
「電車に飛び込もうだなんて、せっかくのかわいい顔が台無しになるぞ」
一之瀬は慌てながら「かわいくなんかないです」と否定する。
そんな彼女を見て「自殺なんてやめて、アイドルでも目指したらどうだ」と薦めるが、「からかわないでください」と怒られた。
「今日は少し遠くに行くか」
平日の朝、駅のホーム、横には捕まえた一之瀬。遠出する絶好の機会だ。ガイドブックを読んでいたおかげで、行き先も決まっている。
「お金ないですよ」「今日も全部払う」「もうすぐ死ぬ人間になんでそこまでしてくれるんですか」「もうすぐ死ぬ人間なら気にする必要ないだろ」恒例のやり取りをして、電車に乗り込んだ。
通勤の時間帯で電車内は酷く混んでいて、僕達にとっては苦痛な空間であった。
そもそも隙間がほとんどない。僕達じゃなくても、このすし詰め状態は苦痛だろう。つり革は全てサラリーマン達に占領されていて、バランスを保つのも精一杯。一之瀬は電車が揺れる度に僕の腕を掴む。サマリーマンだらけの中、彼女の小さな手と華奢な腕が心細く見えた。
駅に止まる度、奥へ押し込まれる。一之瀬と密着状態になると甘いシャンプーの香りがした。間違いなく彼女の髪からだ。横のいかついサラリーマンから漂っているのなら割と怖い。
乗り換えの駅に辿り着く頃には二人とも登山帰りのようにヘトヘトだった。
ホームに降りて、すぐベンチへ座り込んだ。自動販売機で飲み物を買って、一之瀬に手渡すとあっさり受け取って飲んだ。あの彼女が遠慮せずに飲むということは、それだけ疲れていたのだろう。
次に乗る電車はゆったり座っていこう。携帯で座席指定券の買い方を調べていると「今日はどこに行くんですか?」と訊かれた。「秘密」とだけ答えた。
券売機で座席指定券を購入し、次の電車に乗り込む。
僕達が乗った車両は新幹線のように席が縦に並んでいて、他に誰も乗っていない。窓側の席に一之瀬を座らせてから通路側に座った。
シートを倒して仮眠を取ろうとしたが、なかなか寝付けない。横に座る一之瀬はずっと外の景色を眺めていた。窓に映る彼女の顔は普段より幼く見える。
「寝ていなかったんですか?」
景色を見ていたと勘違いしているようで、「席変わりましょうか?」と訊いてきたが断った。
「寝付けなかっただけだ。それに起きていると酔う」
「相葉さん、酔いやすいんですか?」
「あぁ、小さい頃からずっと悩まされてきた」
乗り物に弱く、すぐ気持ち悪くなる。普通のバスや電車では酔わないが、こういう縦に並んでいるシート系には弱い。
「意外ですね。悩みなんてないのかと思っていました」
少し驚いている一之瀬に「ないわけないだろ」と不服を申し立てる。
「修学旅行のバスとか酷かった。ずっと酔っていた記憶しかない」
「あー、私のクラスメイトにもいましたね。バスで酔っちゃった子」
「まともに観光できなかったのに作文を書けとか言われて、仕方ないから酔っていた感想を細かく書いて提出してやった」
苦笑いしながら話すと、思い出して吐き気がしてきた。一之瀬は「その作文読んでみたいかも」と笑いながら傷をえぐることを言い出す。「あんな黒歴史は捨てた」と教えると、「もったいない」と嘆いた。
捨てたのは作文だけではない。生活に必要ない物は実家を出るときにほとんど捨てた。マンションにだって必要最低限の物しか置いてない。僕が死んだら、相葉純という人間が生きていた痕跡なんて同級生の卒業アルバムぐらいにしか残らないだろう。
「気持ち悪くなったら我慢せずに言ってくださいね。その間に自殺するので」
「それだけはやめろ、マジで」
しばらく会話していると外の景色がガラリと変わり、海が見えてくる。一之瀬は「相葉さん、海ですよ、海」と小さな子供みたいなリアクションをした。
それから数分で駅に着き、徒歩で目的地に向かう。
海沿いを歩いていると目的地である建物が見えてきて、指さした。
「今日はあそこに行くぞ」
「ひょっとして水族館ですか?」
僕が指さしたのは水族館。この前購入したガイドブックに載っていたところだ。
「魚が好きって言っていただろ。水族館とか行きたいんじゃないかって」
一之瀬にとって熱帯魚屋は小さな水族館みたいなものなんだろう。だったら本物の水族館につれていけば喜ぶんじゃないか、とガイドブックを読んでいたときに思った。
「相葉さん、早く行きましょう」
目を輝かせながら「早く早く」と手招きしてくる。僕の後ろに隠れることが多い一之瀬が前を歩くのは珍しい。水族館につれてきて正解だった、と早くも実感した。
館内には小さな子供を連れた家族やカップルもいたが、平日だったおかげで空いている。チケットと一緒に購入したスタンプラリー本のスタンプを集めながら館内を見て回ることにした。
最初に向かったのは、水族館近くの海に生息する魚を集めたエリア。
視界いっぱいの巨大な水槽には青い海の世界が広がっていた。イワシの大群、サメやエイ、カメなどの様々な海の生き物が泳いでいる。
一之瀬は、水槽に両手をつけながら泳いでいる魚に熱い視線を送っていた。その光景を傍から見た人は、彼女が自殺志願者だとは思いもしないだろう。
「相葉さん、相葉さん。カメの甲羅の上に魚が乗っています」
一之瀬の視線の先では確かに甲羅の上に魚がピタッとくっついている。近くにいた親子も気づいたのか「カメの上におさかなさんいるねー」と会話しているのが聞こえた。
見上げながら一之瀬が「きれい」と声を漏らした。
今度は上の方を泳いでいるイワシの大群を見ているようだ。何百……いや、何千匹いるのだろうか。上からライトで照らされ、銀色に光り輝くイワシの大群は幻想的で綺麗だった。
「イワシの群れを見ていたら、小学校でやった学芸会を思い出しました」と見上げながら一之瀬が口にした。「学芸会?」と訊ねる。
「学芸会で魚が主人公の演劇をやったんですよ。確か……小さな魚の群れが大きい魚に食べられそうになるんですけど、小さな魚同士が集まって、大きい魚よりも大きな魚のふりをして追い返す……そんな感じの話だったと思います」
子供の頃にどこかで聞いた覚えがあった。
「あったな、そういう話。一之瀬は何の役をやったんだ?」
「小さな魚の一匹ですよ。台詞が少ないモブです」
「モブでもかわいいから目立っていただろ」
「お世辞はいいです」
イワシの大群を見ながら、ふと思った。
あれだけ沢山いるのなら仲間外れになるイワシも数匹いるんじゃないか。
もし、いないのなら僕も一之瀬も人間なんかに生まれずにイワシに生まれた方が良かったんじゃないか、と。
ちょうど水槽の前で飼育員の女性が小さな子供の疑問に答えていたが、流石に「仲間外れになるイワシがいるのか」なんて質問はできなかった。
巨大水槽の近くにあったスタンプを押して、次のエリアへ移動した。
案内図によると、次は深海の生物を中心としたエリア。
薄暗いフロアにグロテスクな深海魚が展示されている。反応に困るような深海魚も多く、一之瀬も他の客も黙り込んで不思議そうに見ていた。
唯一、リュウグウノツカイの剥製が展示されている前では「長い」「こんなのがいるんだ」など会話がチラホラ聞こえた。
暗くて水槽に顔を近づけていた一之瀬が突然、「きゃっ」と小さな悲鳴をあげて飛び跳ねた。
ダイオウグソクムシを見て驚いたらしい。虫が苦手な彼女からすれば巨大なダンゴムシにしか見えないだろう。恥ずかしそうに逃げる一之瀬の後を追った。
このエリアにはクラゲも展示されていてフワフワ泳いでいる。電球が入った作り物なんじゃないかと思うほど、光を点滅するクラゲもいて驚いた。
一之瀬はクラゲを見ながら「クラゲ飼ってみたいなぁ」と呟いていた。
クラゲは飼育が大変で、死にやすいと聞いたことがある。飼うのは大変だぞ、と言いかけたとき、彼女は再び呟く。
「でも私、もうすぐ死ぬから飼えないなぁ」
クラゲより先に死ぬな。
深海エリアのスタンプを押して、次は大型の魚が展示されているエリアへ。
サメとしか言いようのないシルエットをした大きなサメが悠々と泳いでいる。元からそういう種類なのか、飼育下にいるからなのかは知らないが、まるまると太っているように見えた。
「この水槽が割れたら大変だな」
誰もが考えそうなことを口にすると、一之瀬は「サメに食べられるのは嫌ですね」と笑った。
サメに食べられるのが嫌なら橋から飛び降りたり、電車に飛び込むのもやめてほしい。
マンボウも展示されていて、一之瀬は嬉しそうに長い時間眺めていた。マンボウにはかわいいイメージを抱いていたが、よく見てみるとなかなか不気味な顔をしている。
ウーパールーパーといい、一之瀬は何を考えているのか分からない生き物が好きなのかもしれない。
三つ目のスタンプを押した頃には昼を過ぎていた。
フードコートがある入場口付近まで戻り、昼食をとることにした。
海が近いこともあって、メニューには海鮮丼や寿司などの魚介類が多い。僕は赤身やトロが乗ったまぐろ丼とカニ汁を、一之瀬はアジと白子が乗った前浜丼とタコの形をしたタコ焼きを頼んだ。
室内の席も空いていたが、人が少ないテラス席に座った。テラス席からは太平洋が一望でき、さざ波の音が聞こえてくる。風で一之瀬の髪がなびき、何度もかきあげていた。
海が近場で新鮮なんだろう。普段口にする海鮮丼とは全然違う。美味しい。
「こんなおいしいアジ、初めて食べました」
目を丸くして驚く一之瀬に「そりゃそうだ、展示しているのをすぐさばけるからな」と嘘をついた。
その嘘に「展示されていた魚なんですね……」とショックを受けていた。
そんなわけないだろ……多分。
食休みしていると、一之瀬の視線が親子連れの方へ向けられていることに気づいた。
父親と母親と小さな女の子の三人家族がテラス席で食事をしている。一之瀬はどうやら、女の子が持っているイルカのぬいぐるみを見ているようだった。
ずっと見続けている彼女に「ぬいぐるみが欲しいのなら買ってやるぞ」と言った。
「いえ、大事にしていたぬいぐるみに似ていたので、つい気になって見ていただけです」
「一之瀬もぬいぐるみを大事にしたりするんだな」
「お父さんに買ってもらったぬいぐるみでしたから」
イルカのぬいぐるみを見つめながら一之瀬は話す。
「幼稚園に通っていた頃、家族三人で水族館に行ったんですよ。その帰りにあの子が持っているようなイルカのぬいぐるみをお父さんに買ってもらったんです。いつも持ち歩いていましたし、私が大きくなった後も部屋に飾っていました」
買ってもらったときのことを思い出しているようだった。
「亡くなった父親に買ってもらった物なら、今も持っているんじゃないのか?」
そう訊ねると、首を横に振った。
「学校に行かないことを理由に義理の父親に捨てられました。ぬいぐるみだけじゃなく、私の部屋にあった物全てです。もちろん抗議しましたが、『学校に戻るまでお前の物は全て捨てる』の一点張りで聞いてもらえませんでした」
俯きながら話した一之瀬に何も声をかけられなかった。
女の子の笑い声が聞こえてくると、一之瀬は再び親子連れの方を見た。
父親がオーバーなリアクションをして、女の子が笑う。その二人を見て母親も微笑んでいる。幸せを絵に描いたような家族というのはああいう家族のことを言うんだろう。
そんな光景を眺めている一之瀬の姿は、昔の自分を見ているようだった。
幼少期の僕はずっと児童養護施設にいた。生まれてすぐに捨てられたのだ。
捨て子である僕は親の顔を知らない。同級生の家に遊びに行ったり、仲睦まじい家族を見る度に羨ましく思った。
僕がどれだけ願っても手に入らないものは、本来なら無条件で手に入るものだ。
願わずに手に入れ、それが当たり前だと思っている彼らを見て嫉妬した。
その現実が許せなかった。
呪いみたいなものだ。見知らぬ家族を見るだけ嫉妬して、劣等感に苛まれる。
一之瀬だって同じはずだ。
目の前にいる親子連れと彼女の家庭じゃ天と地の差がある。自殺を諦めたとしても呪いが消えることはない、と僕は思う。
せめて、呪いを和らげられるような気の利いた言葉をかけることができれば。
どんな言葉なら、と考えるが何も思いつかず、先に一之瀬の口が開いた。
「もうこんな時間ですね。次はペンギンを見に行きましょう」
食べ終わった器を持って、一之瀬が立ち上がる。
気の利いた言葉が思いつかないまま、案内図を見ながら歩く彼女の後ろをついていった。
ペンギンがいる屋外エリアに着くと、人だかりができていた。
覗いてみると、カピバラが気持ちよさそうに寝ていた。寝ているだけで人だかりができる彼らが一瞬羨ましく思えたが、すぐにカピバラにまで嫉妬し始めた自分を恥じた。
ペンギンの前にも人だかりができていて、陸上をよちよちと歩く姿は見ていて癒される。一之瀬も「かわいい」と喜んでいた。
階段を下りると水槽内を観察することができ、ペンギンが水の中をすいすい泳いでいた。その姿は、まるで水中を飛んでいるようだった。
近くに展示されていたラッコやアザラシを見た後、他のエリアも見て回り、スタンプラリーを全て埋めつつ館内を一周した。
最後にイルカとアシカのショーを見るために列へ並んだ。
平日だというのに行列ができていたが、すんなり入場できた。
席は後ろの方だったが、前の方は水しぶきが飛んでくるらしく、好都合だった。
ショーが始まり、イルカが大ジャンプすると水しぶきがあがり、前の方の客が「キャーキャー」叫んでいる。飛び跳ねたイルカが高い位置にあるボールを叩いたり、アシカがボールを器用に顔へ乗せたり、一つ一つの芸をする度に拍手が鳴り響いた。
普段見せないような笑顔で拍手する一之瀬が気になり、ついついそっちを見てしまう。
イルカとアシカがキスをしてショーが終わると、会場は拍手に包まれた。
帰りにスタンプラリーを制覇した記念品として、イルカが描かれた大きめの缶バッジを貰い、一之瀬に渡した。流石にこの大きさなら父親にはバレない、と思う。
水族館を出るとき、一之瀬が満面の笑みを見せた。
「相葉さん、今日はありがとうございました」
その満面の笑みは、今まで見てきた中で一番輝いて見えた。
彼女が自殺志願者だと知っている僕ですら、無邪気な少女にしか見えなかったのだ。
「それは良かった」
前を歩く彼女に気づかれないように頬を緩めた。
帰りも座席指定券を購入し、座って帰った。僕は真っ先にシートを倒して横になったが、一之瀬はヨレヨレになった水族館の案内図やスタンプラリー本を読んだり、イルカの缶バッジを手に取って見ていた。
しばらく戦利品を眺めている彼女を見ていたが、いつの間にか寝てしまったらしい。一之瀬も疲れていたようで、目が覚めたときには横で寝ていた。
目を閉じている彼女のまつ毛は影ができていて、いつもより長く見える。彼女の寝顔は綺麗で美しく、無防備に思えた。どんな生き物だって寝ていれば無防備なのは当たり前だが、周りの視線を気にしている普段の彼女とはギャップを感じられ、いつまでも見ていられる気がした。
すやすや寝ている彼女を起こさないように、着ていたカーディガンを慎重に被せた。
「気をつけて帰れよ」
「今日だけ気をつけて帰ります」
「今日だけじゃなくて、ずっと気をつけろ」
最寄り駅で解散し、一之瀬の後ろ姿を見届けてから帰った。
マンションのエレベーターで、別の階に住む親子連れと一緒になった。
父親は沢山の買い物袋を持って、母親はにこにこと笑う女の子の手を握っている。
幸せそうな親子連れを見て嫉妬する……はずだった。
親子連れがエレベーターを下りた後も嫉妬することはなかった。
『相葉さん、今日はありがとうございました』
女の子の笑みを見て、嫉妬するよりも先に一之瀬を思い浮かべたからだ。
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