◆第三章
*第五と六の不思議
──匠たちは東の階段をのぼり、二階の奥に向かった。
この学園は先にも述べたように、十字の形の建物になっていて、四方がきっちり東西南北に向いている。
その時点で何か宗教か心霊めいた印象は否めないものの、さしたる理由があるようでもない。
どこにもそれらしき情報の欠片すら見受けられないところをみるに、結論としては出来たからやってみた。
その程度のものである事が窺える、遊び心満載の学園である。
「なんだって? さっきのは幽霊じゃなかったのか!?」
健の説明に耕平が声を張り上げる。
憑依されていたときの意識はまるでなく、悪夢を見ているような感覚にひたすら悩まされていたのだった。
「でもさ~。縄跳びしてるって聞いたのに、違ったね」
「噂というものは、形を変えるものだからね」
「今度のはちゃんとした幽霊なんだろうな?」
幽霊なんて信じていなかったんじゃないのか。匠と健は心の中でツッコミを入れつつ先に進む。
「何か聞こえる」
音楽室に近づくにつれ、ピアノらしき音色が冷たい廊下に響いてくる。
しかしその曲は──
「ホントに犬のお巡りさんだ」
驚いた健に匠は小さく笑みを返す。音楽室の扉の前まで来ると、すすり泣く声がメロディに紛れて聞こえてきた。
匠はこれまたコピーキーで鍵を開け健が引き戸を引くと、ピアノと泣き声はぴたりと止んだ。懐中電灯の明かりをあてて暗い室内を見回す。
部屋に入ってすぐ左の壁、二メートルほどの高さに飾られているのは、有名な作曲家モーツァルト、シューベルト、ベートーベンの肖像画。
奥の窓にはしっかりとカーテンがかけられ、右の棚にハーモニカなどが置かれている。
部屋の中央を牛耳るのは、場違いとも感じてしまうほど豪華なグランドピアノ。年に何度かは授業の一環としてプロのピアニストを呼んで演奏してもらっている。
「逃げちゃった?」
健の問いかけに、匠はグランドピアノの前にある高さを変えられる横長の四角い椅子を見下ろした。
「まだいるよ」
少女だね。そうは言うものの、今度は青白い光すら見えない。
何故ならば、部屋全体が薄暗い光を帯びているからだ。夏だというのに、この部屋だけは少しだけ涼しい。
「今までと違うぞ」
まるで、霧が立ちこめているような異様な雰囲気に耕平は戸惑った。
「弾いてみて」
匠が優しく求めると、また犬のお巡りさんが部屋に響き、それと同時に肖像画が泣き始めた。
「え? なにこれ。どういうこと?」
さすがの健も訳がわからなくて視線を泳がせている。
「──ええい! もう止めろ! そのピアノは高価なピアノなんだぞ。それを、よりにもよって犬のお巡りさんだなんて!」
たまらずに荒らげた耕平の声に、ピアノと鳴き声が止まった。
匠はそれに、
「うん。そうなんだよ」
「え?」
聞き返した健を一瞥し、肖像画を見上げる。
「あの肖像画にも霊が取り憑いていて、折角のピアノから奏でられる音楽に嘆いていたんだ」
「なんだよそれ」
耕平は思いがけない肖像画の真相に、いぶかしげな表情を浮かべた。
「この子は高校に入ってピアノを勉強しようとした。だけど、通学途中で事故に遭いそのまま他界。勉強前に唯一奏でられたのは、犬のお巡りさん」
説明しながら、匠は鍵盤をそっと撫でた。
この子がピアノに取り憑いたことにより、同じようにピアノに関する霊たちが集まってきたけれど、ピアノを少女に占領されていて仕方なく肖像画に取り憑いた。
「なのに、高価なピアノから流れる音楽は犬のお巡りさんばかり」
これが嘆かずにいられようか──
「それで、七不思議がここだけ二つあったのか」
健はなるほどと手を打った。
「君は本当は、何を弾きたかったんだい?」
匠が静かに問いかけると、たどたどしく鍵盤が弾かれた。そのメロディは──
「アヴェ・マリア」
人差し指で弾かれたようなメロディに、耕平はつぶやいた。
「そうか。それじゃあ、これから勉強しよう」
匠は椅子の左半分に腰掛けて鍵盤に両手を乗せる。
「周防。おまえ、弾けるのか」
「匠はピアノ上手いんだよ」
「そうなのか?」
眉を寄せた耕平に笑みを見せ、誰もいない右側に視線を向けた。
「じゃあ、初めに私がゆっくり弾くから。よく見ていて」
音楽室は静まりかえり、匠は鍵盤を見つめ数回、深呼吸をして幽霊たちが待ち望むメロディを奏で始めた。
「これは──」
耕平は息を呑む。
それはまさしく、シューベルトのアヴェ・マリア──緩やかに紡がれていく、伸びやかで息の長い調べに思わず聞き入る。
アヴェ・マリアはラテン語で直訳すると「こんにちはマリア」「おめでとうマリア」を意味し、このタイトルが付けられた曲はほぼ全てが聖母マリアを讃える宗教曲である。
しかし、シューベルトのアヴェ・マリアは他の宗教曲とは異なる。その理由は、アヴェ・マリアの本来のタイトルが「エレンの歌 第3番」だからだ。
元々はウォルター・スコットの叙事詩「湖上の美人」に曲付けされたもので、歌詞にアヴェ・マリアと出てくることで、いつしか「シューベルトのアヴェ・マリア」と呼ばれるようになった。
つまりは、元は宗教的な曲ではなかったということだ。これだけ美しい旋律にも関わらず、簡単な部類で初心者向けともいえる。
「なんとなくは解ったかな?」
匠の声に耕平は我に返った。周りが見えないほど聞き澄ましていた自分が恥ずかしい。
「それじゃあ、少しずつやっていこう」
匠が左側の鍵盤を弾くと、誰もいないはずの右側の鍵盤がひとりでに沈んでメロディを奏でていく。
「あ。やっぱ、ここにいるんだ」
健がしれっと応える。彼はよく匠の家にいくので聞き慣れているのかもしれない。それ以前に、健に芸術的なセンスを求めてはいけない。
「ピアノ、上手いんだな」
「母ちゃんが元ピアニストなんだよ」
「なに?」
思いがけない事実に耕平は目をむいた。
「親父さんが怪我して仕事辞めたから、引退して一緒に居酒屋始めたんだってさ」
「ピアニストに未練とか、なかったのか?」
「あそこの夫婦、ラブラブなんだよね。加えて、匠をすげえ可愛がってるの」
それを聞いた耕平は、ますます目を見開く。
「そんな風には見えないが」
「あ~。他の家庭と一緒にしちゃだめだよ。匠んち、おかしいから」
言って健はケタケタと笑う。
こいつを見ていればそれは解るが──耕平はある意味、失礼な思考をめぐらせていた。頭脳は遺伝とは関係が無いとは言うけれど、こいつはどういった暮らしをしているのだろうかと少しの興味が湧いてくる。
それから、およそ三十分ほどが経過し、少女の霊は少しずつだが上達しているようだ。
「それじゃあ、一緒に弾こうか。ゆっくりいくから」
匠は微笑んで再び鍵盤に指を乗せた。息を吸い込み、静かに吐き出すと同時に鍵盤が弾かれる。
室内に響き渡るピアノの音色は今までとは違い、肖像画たちも泣く事はなかった。
ぎこちない演奏だけれど、肖像画に取り憑いていた霊たちは満足したのか、全体が青白かった空間は徐々に本来の暗さに戻っていく。
成仏したのか、残った薄明かりはピアノ椅子だけになった。
「もうちょっと練習しようか」
匠がニコリと笑って、ゆっくりと弾き始める。さらに弾き続けること三十分、匠がおもむろに立ち上がった。どうやら本番らしい。
「君ならやれる」
励ます匠に、いよいよかと健と耕平が固唾を呑んだ。
──暗闇に奏でられるアヴェ・マリアは多少、詰まる部分もあったが最後まで続けられた。そうして、再び静かになった音楽室に匠の拍手がこだまする。
「うん、よく出来たね」
その言葉に音楽室がにわかに暗くなった。
「成仏したってことかな?」
最後は、いよいよ食堂だ──!
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