眼球はころころと

 何気なく、スポンサアの部屋を掃除している時だった。

 真っ赤な絨毯に、丸いものがコロコロと転がっていくのが目についた。

 ピンポン玉? と最初は思った。

 でも、スポンサアの部屋はあまりに豪奢だ。どこから仕入れてきたのかわからない調度品に、壁には全く見たことのない物々しい武器やらグロテスクな場面を描いた神話らしい絵画やらが飾られている。

 そんな場所に、ピンポン玉なんて不似合いよね、と思いながら私は転がったものに手を伸ばそうとした。

「ひっ?!」

 変に構わなければ良かった、と後悔するのに一秒もいらなかった。

 それを見た私は、思わず脚がすくんで盛大に尻餅をついていた。

「へ、ああ……へ、え……?」

 我ながら、ひどい光景だったように思えた。口から出る声は言葉にならず、ただひたすらコロコロと転がる丸い物に目は釘付けだった。


 ──目玉だった。


 それは、人の目玉だった。

 赤い虹彩で、ちょっと間違えば視線が合いそうな、とれたてほやほやの目玉のようだった。

「な、んで……こんなものが、転がってんのよ……っ」

「だって、それは僕の目玉だからね」

「ヒェアっ?!」

 耳にかかった生ぬるい息に、今度はびくんと体が跳ねる。すくんでいた足も飛び上がって、咄嗟に距離をとっている私がいた。

「ひどいなあ、曲がりなりにも君の雇い主だというのにさ」

 やれやれ、と肩をすくませるこの男こそ、この部屋の主人──スポンサアだった。

 ひどい、などという言葉を使う割には、愉しげな眼差しを隠しちゃいない。明らかに、さっきの無様な姿も見られていたに違いない。下手したら写真にまで撮られているかも……。

「と、いうか! なんですか! 僕の目玉って?! なんでそんな物がここに転がっているんですか!」

「いや、言葉のままなんだけどなあ」

 ふふ、と笑みを溢しながらスポンサアは転がっていた目玉を拾う。くりくりと、まるで可愛がるように指先で弄っていた。

 もしかして、目玉のコレクションの趣味でもあるのか?

 うん、その可能性がどうしても否定できない私がいる。

 こいつの趣味は幅が広すぎる。人の命なんてものも、自分の楽しみの前には軽々しく扱うような男だ。そうでもなければ人が殴り合い、果ては殺し合いにまで発展してもおかしくない試合のスポンサーをやっていない。人の死体から目玉を取って、貴重な目玉をコレクション……うん、あり得なくはない。

「なんだい、なんか変な想像でもしていないかい?」

「いいえ、なんでもありませんが」

「ふうん」

 とりあえず、くいくいとメガネを動かして誤魔化す。下手な趣味に踏み込むのは愚か者のすることだ。私は決して踏み込まない、踏み込まないぞ。

「なあんか、誤解しているような気がするねえ」

 ニヤリ、と口の先を吊り上げると、スポンサアはカツカツと私との距離を詰めてくる。

 せっかく踏み込まないようにしてきたのに、向こうから近づいてくるのは計算外だった。

 どうする、私。

 どうしよう、私。

 思考を高速回転させるが、結局何もいい考えは浮かばず──気づけば、足が下がっていたのか、どんと背中に壁が当たっていた。

 そしてもう、逃げられない。

 甘いルックスの、でも心底憎たらしいスポンサアの顔が、鼻先すぐそこまで迫っていた。

 口は三日月のように、ニタリと弧を描いていた。

「折角だし、面白いものでも見せてあげるよ」

 言うや否や、スポンサアは私の手を取った。

 そして、そのままぐっと指をスポンサアの右目に押し当てる。

 意図が読めなかった。

 でもすぐに、それは感触としてやってきた。

 ぐいと、さらに強く押されることで、瞼からスポンサアの目玉が浮き上がる。

 とんでもない光景に、身震いした。

 にゅうと目玉が押し出されていく感触が、指を伝って背骨をぞわぞわとさせる。

 そういえば、スポンサアも右目の虹彩だけが血のように真っ赤だった。

「ま、ま、ま……っ」

「待・た・な・い♡」

 ──ぽん

 と、それは飛び出た。

 一瞬の出来事だった。

 ちょっと力を入れただけで、スポンサアの瞼に収まっていた目玉は、簡単に飛び出してきてしまった。

 濡れたそれが、私の胸に当たって、弾んで、コロンと赤い絨毯の上に落ちた。

「ひぇあ……え、あ……」

 背中が壁づたいにずるずると落ちていく。

 今度は腰が抜けてしまったようだった。

 くつくつと、スポンサアが笑っている。

 いつもは、その笑みを見ると怒りや鬱陶しさが湧き上がるのに、今は冷たくぬめっとした気味の悪さがあった。

「昔ね、僕は右目を潰してしまったんだ」

 落ちた目玉をまた拾い上げつつ、まるで子供に御伽話を聞かせるような声音で、スポンサアは語り出す。

「確か、何かの拍子に枝が刺さってしまったんだったかな。僕の右目は、それだけでもう何にも見えなくなってしまった」

「見え、なく……」

 何もない瞼を見れば、確かにそうなんだろう。全く何も見えていないのだろう。

「そう。びっくりしたよ。それに痛かった。ダラダラと血が頬を流れていく感触は今でも覚えている。生暖かった」

 レロ、と舌が目玉を舐める。

 赤色の虹彩が濡れたせいか、異様な輝きを帯びた気がした。

「目を閉じても開いても、何にも見えない。どう試してもなあんにも見えないんだ。──面白かったよね」

「──?」

 そこで挟まれるには全く不似合いな感想に、アホみたいな声が出てしまったように思える。

 スポンサアは私に視線を投げて、また笑った。


「だってさ、さっきまで見えていたものが何にも見えないんだ。初めての経験だったね、それまで当たり前だったものがたった一瞬でこぼれ落ちて行った、ってのはさ。不意にではあったにせよ、たった一瞬で、僕は視界を失った。右目は真っ暗闇に放り込まれた。右目を潰したら、こんなふうになるんだって、楽しい経験をさせてもらったよ」


 ぐい、と右の瞼に目玉を押し当てる

 あるべき場所に目玉がすぽんと帰るのに、そう時間はかからなかった。

 寒気が全身を襲っている。そのせいか、鳥肌が止まらない。

 口はぱくぱくと開閉するだけで、言葉すら一つも形にならなかった。

 そんな私に、スポンサアの眼差しが向いた。

 右目の、血のように赤い虹彩が不気味に感じた。

 義眼だというなら何も見えちゃいないだろうはずなのに、やたらしっかりと視線が私に向いている。

 スポンサアは、その右目がもう何も見えないと言ってた。

 でも、私はどうにもそうだと思えなかった。

 何か、現実とは別のものを──常人には決して見えない何かを、あの右目は見ているんじゃないか。

 私の胸の内を知ってか知らずかわからないけど、スポンサアは怪しく目を細める。

 見慣れているはずの薄い笑みを、今は直視することができずにいた。

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