もっと、今を
すぱん、と気持ちよく空気を叩いた音がした。
渡の放ったストレートは隙が無く、それでいてボクサーでもないくせに本職顔負けの切れ味があった。
もろに食らえば、意識を刈り取られてもおかしくはない。
「ちったあこういうモンを覚えたらどうだい、にいちゃん」
顎を守るように拳を小さく構えたまま、渡は目線を送る。
腰を下ろしているセイマは、口を尖らせたままだった。
「にいちゃんの拳は振りが大きいんだよ。だから、簡単に避けられる。前のプロボクサー戦だってそうだったろ」
どうやら、この渡という喧嘩代行はこの頃セイマの試合を観戦しに来ているらしかった。
セイマからすれば、数ヶ月前に喧嘩した相手でしかなくて──いや、その結果に納得が今もいっていないからいつか仕切り直ししてやりたいが──まさか、今もなお自身の試合を観戦しに来ているとは思わなんだ。
別に観戦しにくるだけだったなら構わない。
「にいちゃんがタフだってことは知ってっけどな、打たれ強さばかりにかまけていたら、いつかは痛い目見るぜ? 今後も戦い続けていきてえんだったらちったあ戦い方を考えなきゃな」
今度は手本でも見せるように渡はステップワークを刻みながら、彼にしか見えないパンチを躱わすように上体を動かす。
鬱陶しくて仕方なかった。
喧嘩について教えてほしいだなんて、セイマは一言も言っちゃいない。
そもそも、誰かに教えを乞うだなんて発想も浮かんじゃいなかった。
喧嘩というのは、ぶつかって殴られて殴り返して培っていくものだ。他がどう考えているかは知らないが、少なくともセイマにとってはそういうものだった。
誰かに懇切丁寧に教わったところで、実戦と痛みとを繰り返さなければ強くなんてなれないだろう。
だからこう、渡がいくら手本を見せたところで自身の骨身に染み付くとは、到底思うことができなかった。
とはいえ、渡が言う事に関しては一理あると痛感してしまう部分もあるからこそ、ますます口が尖るわけで。
思えば、宇賀戦もそうだった。
パンチを見切るどころじゃなくなって、打たれ強さ前提に打たれ上等で戦っていたところがあった。
「俺も四十路になって分かったけど、思った以上に若い頃の馬鹿は体に応えることがあるぜ。労わってやんねえと、喧嘩なんていう商売はいつまでも続けられねえぜ」
「そんなもんかね」
「そうさ。いつまでも人間若いまんまでいられねえ。喧嘩が好きってんなら、長く楽しめるような闘い方も考えるのもアリなんじゃあねえかな」
──長く楽しめるような、か
「年寄りの考えるこったな」
嘲るように、セイマは笑った。
渡のこめかみに血管がぴくりと浮かぶ。
「おいおいおいおい、誰が年寄りだって?」
「アンタだよ、喧嘩代行よ」
徐に立ち上がると、コキコキと首を鳴らす。
生意気な態度を隠しちゃいなかった。
「アンタ、喧嘩する時に先なんて考えていんのかよ。そんなんでよく喧嘩代行なんてやってられたな」
「あん?」
「いやさ、喧嘩ってのは先なんて考えてやってられるもんじゃあねえだろ、ってな」
セイマの眼差しが、真っ直ぐに渡を射抜いていた。
セイマはそうだった。
喧嘩している時は、いつも夢中だ。
にんじんを顔の前にぶら下げられた馬のように、ひたすら拳を振るってばかりだった。
相手をどうぶちのめすか。
頭の中はそれ一つだけに一杯になる。
他ごとなんて考えてなんぞいられない。
ましてや、この喧嘩が終わった後のことなんて尚更──勝敗をきっちりつけるまで、満ち足りるまで、その先のことなんて考えられない。
「てめえが絞り出せる力全て絞り切ってぶち込んでいかねえと、喧嘩は愉しかねえ。違うかい?」
今度は、渡が口を尖らせる番だった。
だが、尖った口はため息を吐くと、すぐに呆れるような笑みになった。
「違わないな」
思い起こせば、渡がセイマに惚れてしまった理由はそこにあった。
いつまで経っても、その馬鹿を貫き通して生きていきそうな。
枯れてしまった己とは違って、胸の中にある炎を絶やさず、むしろ猛々しく盛りそうな。
そういうところに、惚れてしまったのだ。
惚れたからこそ、あんまり馬鹿な喧嘩の仕方に老婆心が疼いた挙句の行動だったが、それがもう年寄りのやること以外の他でもなかった。
「こりゃあ、年寄りだって言われても反論できねえな」
いつかセイマと散々に殴り合った時、その馬鹿に当てられて、自分も昔のような馬鹿になった。
戦略も、先のことも、全部全部忘れてセイマをぶっ倒すために、無我夢中で拳を振るった。
あれから、ちっとは若い頃の馬鹿みたいな無鉄砲さを取り戻したかのように思えたが、一度枯れてしまったものはそう簡単に瑞々しくとはいかないらしい。
「歳って取りたかねえな、おっさん」
「でも、にいちゃんだっていつかは俺のようなおっさんになるんだぜ? そん時、今のようなまんまでいられるのかな?」
「さてな。先のことなんて知らねえよ、やっぱ。それよりも俺は腹が減っちまった。そろそろ焼き鳥でも食いにいくぜ。つうか、アンタに呼び止められなかったらすぐにでも飯屋に行くつもりだったんだ」
言うや否や、セイマの腹の虫が盛大に鳴いた。
その盛大っぷりに、渡も苦笑するしかなかった。
「悪かったな、にいちゃん。詫びだ、今日くらいは奢ってやる」
「まじか! へへ、儲けだな」
「それはそれとして、だ」
渡の手が、セイマの方をポンと叩く。
「ほんと、戦い方はちっと考えたほうがいいぜ」
「またかよ」
「今度はちげえよ。全力振り絞り切りたいんだろ? 今のまんまじゃあ、全力を振り絞り切っているとはいえねえ」
「んだと?」
「無駄が多いんだよ。力みが過ぎて、お前さんの体や馬力を使いこなせちゃあいねえ。だからどうしたって届かない奴も出る。どうだ、長く喧嘩するんじゃなくて、今をもっと愉しめるようになるために、ちぃっと考えてみねえか。一段上の奴らとも、愉しめるようになりてえだろ」
セイマの眼の色が俄に変わる。
今度は口を尖らせることも、なかった。
脳裏に浮かぶのは、自分を負かした男達の顔の数々。
中には、意地をとことん張り続けて、結局拳一発しか目に物見せられなかったヤツもいる。
──そんな奴とも、もっと愉しく──
「火がついたな?」
ニヤリとした渡の顔に、ハッとしたように舌を打つ。
しかし、否定する態度は一つも取れなかった。
「どうやら、付け焼き刃にはならなさそうだな」
「アンタが乗せるのうめえンだよ、チキショウ」
「そりゃあ、伊達に歳を取ってねえもんでね、にいちゃんと違って」
「黙れ」
カラカラと大口を開けて笑いながら、渡はセイマの方に腕を回す。
鬱陶しそうな表情は隠さなかったが、セイマは振り解くこともしなかった。
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