我儘を貫いた先に

 往来で、子と親が手を繋いで歩いていた。

 楽しそうに何か会話をしているようだ。

 ふと、子供は珍しいものを捉えると、途端に親の手を引いて駆け出そうとしていこうとした。

 最初は親も引き止める。が、結局は子供の引っ張る強さに負けていそいそと引かれて行った。

 やれやれと口にはこぼすが、息子に向けた眼差しは愛おしさに溢れているのが見て取れた。

 セイマには、縁のない光景だった。

 遠ざかって行く二つの背中をぼんやりと見送ってから、セイマは自分の道を歩み始めた。

 平凡な光景。

 よくある親子の姿。

 セイマはそれを知らない。

 生まれながら親はいなかった。

 気づけば貧民窟で他の孤児たちと一緒に飲み、喰い、育った。

 憧れだった男はいたが、かといってそいつが親代わりだと思った事は一度もない。

 もしも自分に親というものがいたら、あんな風に無邪気に育ったのだろうか。

 ちょっと考えて、セイマはすぐに捨てた。

 不毛だった。

 どうでもいい。

 知らなくてもいい。

 同じ往来を歩いていても、歩む道が交わるとは限らない。

 あの親子が行く道と自分が歩む道はどうやったって交わる事はないのだ。

 元より、家族を持って安寧に過ごす人生なんて、望んでなどいなかった。


 風を切って、セイマは歩む。

 前を開けた黒いシャツは吹き荒ぶ風でよく靡いていた。

 露わになった胸板は筋の一本一本がよく締まり、密度の濃い肉をしていた。

 セイマの足取りは、次第に人気の少ない場所へと向かっていく。

 大通りから外れた路地裏は、ネズミが這い回るような場所だった。

 空気も澱んでいる。

 吸い込んだだけで暗く重たい鉛を肺に沈めていっているかのようだった。

 慣れてしまった人間は、もはやこの空気の外では生きてられない。

 息が苦しくなるのだ。表通りの澄み渡った空気は、汚れた肺には毒になるらしい。

 いくら足を洗おうとしても、汚れた中身はそう簡単に拭う事は出来やしない。戻ってきてしまう人間は多かった。

 セイマは、戻るつもりもない。

 戻るという言葉も間違いだった。

 生まれてからこのかたずっと、この重く澱んだ空気の中で生きてきた。

 いわばここが故郷であり、生きてきた場所であり、これからも生きる場所だった。

 ある程度の路地を歩いたところで、錆びついた扉に差し掛かる。

 ドアノブを引くと、ぎいいと鈍い金属の音が響いた。油をちゃんと差していないのか、動きが悪い。

 さして気にせず入ると、すぐに地下に繋がる階段があった。

 カツン、カツンと降りていく。

 降れば降るほど、壁越しに喧騒が伝わってきた。


「相変わらずここの盛り上がりは尋常じゃあねえな」


 地上へと音が漏れないように、この空間一帯は防音性の壁で作られていると聞いたことがあった。

 どうやら、人が放つ狂気はその程度の作りでは、易々と抑えられないものではないらしい。

 それが数多となれば、尚更にだ。

 最深部にたどり着くとまたドアがある。

 がこんと、開く。

 瞬間、肌が焼けたような錯覚に襲われた。恐ろしいくらいの熱気がセイマの身体を襲ってきたのだ。

 むわっとした汗の臭いが、熱気に拍車をかける。

 円状に造られた観客席は人、人、人でひしめき合っている。

 観客席が囲む中央の舞台では二人の男が殴り合い、蹴り合い、肉と肉とをぶつけ合っていた。

 目は血走って、拳を交わす相手をぶっ倒すことしか考えていないようだった。

 親子が手を繋ぎ平凡な日々を謳歌している、その地下深くにあるのは狂気の産物と言っても過言ではないだろう。

 汗に混じって血の飛沫が飛び、血の量が増えれば増えるほど歓声が一段、また一段と上がっていく。

 コロセウムじみた闘技場では、今日も団欒の地下深くで人々の欲と熱と狂気とが渦を巻いていた。


────


「ボクサー崩れか」

 渡された書類をセイマはじっと眺めていた。

 今日の対戦相手の経歴などが載っている書類だった。

 この闘技場では、非合法の賭博試合が行われている。

 ルールはタイマンであることのみ。

 あとは何をしたって構わない。

 金的、目潰し、噛みつきはもちろん。武器を持ち込んだっていい。過去には銃器を取り出した輩もいるほどだ。

 殺しをしたって文句も言われない。なんなら殺した方が、盛り上がって金も回る。

 皆、それを承知で自ら舞台に上がっている。

 勝てば相応の金ももらえる。賭けられた分だけ、勝った時に手に入る金の量も相当だ。だから、ズブズブとハマっていくのは観客だけではない。

 狂気が狂気を呼ぶ賭博試合、セイマはその舞台に上がるのを生業とした男だった。

 ただ、金は二の次だった。

「こいつ、見たことあるぜ。表のリングに上がっていたよな」

 喧嘩と殴り合いが好きなセイマは、地下の試合だけでなく表で行われている格闘技興行にも目を向けていた。

 柔道、ボクシング、プロレス──種別は選ばない。

 表は表でルールという縛りがあり、自分が立つ賭博試合のような狂気の沙汰はさほど伺えない。

 しかし、ルールがあるからこそ駆け引きが生まれる。

 縛りのある中でどのように立ち回り、相手を下すのか。思いがけず、夢中になる自分がいることをセイマは否定できなかった。

「でもよ、確か……半年前に引退したって聞いた気がするぜ。なんでそんなヤツがこっちに上がってんだ、スポンサアよ」

 じろり、と目の前の豪奢な椅子に座る背広の男に視線を向ける。

 スポンサアは、ニヤリと口角をあげるだけだった。

 整った顔立ちも相まってか、彫像めいた美しさと作り物めいた胡散臭さがあった。

 いくら覗こうとしても逆にこちらが覗き見られているようなその笑みが、セイマは嫌いだった。

「何か答えろよ」

「そうだねえ……まあ、色々あったんだよ、その人も」

「色々、ねえ」

 結局答えになってねえじゃねえかよ、と胸の中で呟く。

 コイツはいつもそうだ。自分が楽しくなることしか考えてない。

 きっと今回の試合も、何事かの楽しみを見出して組んだカードなのだろう。

 詮索してもしょうがなかった。

 もう一度セイマは書類に視線を落とす。

 宇賀──それが今日の対戦相手の名前だった。

 書類に添付されている写真は、ちょうど試合の瞬間を撮ったものだろう。

 ストレートを決めて、対戦相手の顔を歪ませていた。

 何度か宇賀の試合は見たことがあった。

 ランキングでは引退間際こそ落ち気味だったが、それでもトップ層に最後まで食い下がった強豪中の強豪だった。

 うまい足捌きで相手の拳を躱し、打ち終わりめがけてストレートを決めるKOアーティストぶりが印象強い。

 この写真が捉えた瞬間も、見事なKOパンチを決めたシーンなのだろう。

 ゾクゾクした。

「まあいいか」

 ゴクリと喉をならす。

 セイマにも笑みがへばりついていた。

 スポンサアのものとは違う、獣が牙を剥いたような笑みだった。

 スポンサアもご満悦らしい。

「君の目に叶いそうな相手でよかったよ。それじゃ、もうすぐ始まるから準備もよろしくね」

 立ち上がって、セイマの肩にポンと手を置く。

 反射的に払い除けた。

 ついで睨みを効かせても、スポンサアは肩をすくめて困ったような笑みを浮かべるだけだった。

「馴れ馴れしいんだよ、アンタは」

「いいじゃないか。僕と君の仲なんだし」

「アンタと親しくなった覚えはひとっかけらもねえんだが」

「つれないねえ」

「るっせえ。てめえと喋ってるのも時間の無駄だ。先に出るぜ」

 言うや、振り向きざまに思い切りに扉を蹴り飛ばした。

 扉の向こう側にいたスポンサアの眼鏡を掛けた女秘書がギョッとした顔でこちらを振り向いている。

 一瞥もくれないで、セイマはとっとと部屋を出ていく。

 バタンと、強い音を立ててドアが扉が閉まった。

「いやあ、からかいがいがあるねえ」

 にこにこと笑むスポンサアに、秘書はただただ軽蔑の眼差しを送るしかなかった。


────


 ザク、ザクと砂を踏む。

 会場の中心、賭博試合の舞台となる闘技場は砂でびっしりと敷き詰められていた。

 ここに立つと、熱狂と狂騒が激しくうねり上がるのを肌身で感じられずにはいられない。

 四方八方が人、人、人で埋め尽くされている。

 その誰もが自分が賭けた金を汗と一緒に握って、血眼を剥いて声を張り上げているのだ。

 熱気が凄まじい。

 油断していると、あまりの濁流に溺れてしまいそうにもなる。

 実際、とめどない渦に心を呑まれて実力の半分も発揮できずに泥を舐めた男たちの数は計り知れないだろう。

 

 ──牙のねえ羊のくせに、声だけは一人前に喚きやがる


 セイマは、観客席など見向きもしない。

 こき、こきと首を鳴らし、手首や足首も回しながら目の前を一直線に見据えていた。

 そろそろ出てくるはずだった。

 ザク、ザクとまた砂を踏む音が聞こえてくる。

 音が近づいてくるにつれて、影が一つ、はっきりと見えてきた。

 面長の顔に短く刈り上げた頭。

 すらっとしているが無駄な肉を削ぎ落とした彫像のような肉体。

 眼光には、生半可なゴロツキには決して宿ることのない、刃物のような怖いものが孕んでいた。

 宇賀だった。

 赤いラインの入ったボクサーパンツは、表の興行でも見たことがある彼の勝負衣装だ。

 しかし、拳にグローブはなかった。

 ゴツゴツとした岩肌じみた拳が、露わになっていた。

 あれは人を殴るだけでは仕上がらない。皮が何度剥がれようが関係なく、骨以上に硬いものを幾度も叩いて、作り上げた拳だろう。

 何より圧だ。

 奴が舞台に上がり距離を詰めてくると同時に、息を呑むような圧が肌をピリピリと刺激するのをセイマは感じ取っていた。

 ここに面白半分で上がってくるチンピラどもとは、圧倒的に格が違う。

 やっぱ、リングの外から見るプロと、実際に対峙して見るプロじゃあここまで違うもんなのか

 冷えた雫が肉をなぞって流れていく。

 裏腹に、肉の中の熱は加速度的に高まっていっていた。

 歳は確か三十五、六と聞いたが、衰えがあるようには見えない。心身ともに、現役ボクサーに負けない仕上がりだ。

 いつぞや戦ったボクサーとは違う、舐めた態度もない。

 ひたすら己を仕留めんとする鷹の如き視線は、セイマの細胞を余すことなくジリジリと激らせた。

 時折、こんなヤツを用意してくれるから、どれだけあのスポンサアが嫌いでも、この賭博試合に上がるのをやめることができなかった。

「光栄だな。アンタのようなボクサーが、お遊びもなく俺をぶっ潰そうとしてくれんのはよ」

 宇賀は、何も返さない。

 無言で己の拳を柔らかく整えると、すっと顎近くまで高く上げた。

 足が小気味よくステップを踏み始める。

 地面を蹴り出せる準備はできたようだ。

 「そうだわな、言葉を交わす時間も、ちいと勿体無いわな」

 この賭博試合に審判はいない。

 二人を割って入るような邪魔もいない。

 火蓋を切るのも、幕を引くのも、闘技場に立つたった二人だけが決められる。

 戦いたい相手と、決着をつけたい相手と、とことん戦えるからセイマのような喧嘩好きとしては堪らない。

 今なんぞは、目の前に立つような本物の男とぶっ倒れるまでやり合えるという事実が、確かにある。

 セイマの唇がいよいよ深く捲り上がった。

 喜悦で血が沸騰しそうになるのも、無理からぬ話だった。

 ギチ、とセイマは力強く拳を握り、腰を落として大きく構える。

 緊張が二人の間で弓が引き絞られるように張り詰めていく。

 息を呑む。

 肌を流れた雫が、砂にぽたんと落ちた。


 緊張が弾けるには、十分すぎた。


 セイマの顔面もまた弾けていた。

 目にも止まらぬ速度の拳が直線に奔って、セイマを打ったのだ。

 瞬く間に左フックが脇腹に、ショートフックが頬にと、稲妻のようなコンビネーションが突き刺さる。

 パンチはどれもノーモーション、事前の動きが少ないために反応が一手遅れる。

 撃たれたところが焼きごてを当てられたように熱い。

 だが、宇賀から目を外してしまうほどではなかった。

 プロボクサーの拳を浴びながらも、セイマの瞳はしかと宇賀を捉え続けていた。

 宇賀の拳が、またセイマの胴に叩き込まれる。

 腹の中身が口までせり上がりそうになった。

 知ったこっちゃなかった。

「ッああッッ!」

 ぶん、と大ぶりの拳が奔る。

 これまで喰らった痛みを全部返してやらんと言わんばかりの拳は、ものの見事に外されていた。

 宇賀の軽い足捌きは、セイマの大ぶりなど易々と当てさせてはくれないらしい。

 撃ち終わりの隙だって見逃さない。

 離れた距離分を一気に詰めて、右拳が唸る。

 セイマの背筋にゾワっとした怖気が浮かぶ。

 汗飛沫が舞った。

 幾多のボクサーを屠ったストレート、それがセイマの顔面にクリーンヒットしたのだ。

 仰け反った顔の肉に水面が立つ。

 ぐらりと一歩二歩よろける脚。

 倒れる。

 会場中の誰もがそう息を呑んだが、しかし、セイマの三歩目はしっかりと大地を踏んで体を支えていた。

 膝はわずかに折れているが、土をつくことはなかった。

「──モノホンはやっぱちげえな」

 ボタボタと口から赤い雫が落ちて、砂に吸い込まれていく。

 それをぐいと拭うと、唇の端が吊り上がった。

 宇賀は警戒するように距離を保ちながら、左へ、左へとわずかに回るように動いている。

 調子に乗った様子は見えない。

 状況は優勢ながら、冷徹と言っていいほどの眼差しでセイマを注視する。

 嬉しかった。

 表でプロとして戦っていたり、少し名を馳せていたりする格闘家は、自分の技が易々と決まると一気に調子に乗る。

 相手がそれほどでないとわかって、たかを括る。

 攻め方が甘くなるなんてこともしょっちゅうだ。

 諦めなきゃ、ここでの試合は終わらないというのに。

 止める者がいない。だから、死んじまうくらいになるまで俺は終わるつもりなど毛頭ないっていうのに。

 しかし、この宇賀という男は違う。

 張り詰めた糸を切らすつもりはないらしい。

 獲物を確実に仕留めんとする、猛禽類のような眼光がまだ射抜き続けてくれていた。


「続き、やろうかい」


 ぐぐと、宇賀のいる位置にセイマの顔が向いた。

 宇賀が、飛び出した。

 そのタイミングでセイマの太ももが上がっていた。

 蹴りだ。

 突きつけるような前蹴りで、迫ってくる宇賀を迎え撃つ。

 ここでもまた、宇賀のステップワークが冴えた。

 踏み出した左足がぎゅるっと九十度に曲がるや、体が反転して蹴りを躱わす。

 反動で捻られた腰の力を弾き出すかのように、拳が放たれた。

 セイマの鼻にめり込んでいた。

 鼻腔がドロっとした生臭い粘液でいっぱいになる。

 空気を求めて思わず口を開ける、その前に顎に向かって拳が突き刺さった。

 アッパーカット。

 顎から脳へと直線に鋭い衝撃が突き刺さって、視界がぐらりと歪む。

 勢いよく仰け反る体、そこにブッ刺さるダメ押しのストレート。

 流石に、倒れないわけがなかった。

 砂埃を立てて、セイマの体が舞台に二転三転と転がった。

 転がった後に、血反吐の跡が浮かんでいた。

 知ったことじゃなかった。


「まだまだァッ!」


 グラグラと揺れている視界を押して、セイマは立ち上がる。

 笑う膝を無理やり動かして、ひた走る。

 拳をギチっと握り込んで、宇賀へと向かって振り切った。

 やはり、大きい振りだ。

 セイマの拳だって何人もの猛者を屠ってきた。

 しかし、プロボクサーからしてみればテレフォンパンチ、見切るのはあまりに容易だった。

 拳は簡単に外されて、手痛い一打をまた返される。

 血飛沫が舞台に舞った。

 砂地に吸い尽くされる前に、宇賀の乱打がセイマに次々と襲いかかった。

 タイミングを見切ってどうにか拳を返そうとしても、構えるより早く次がセイマを撃ち抜いてくる。

 暴風雨だ。

 拳の暴風雨を浴びているような気分にさせられた。

 顔面がまた抉られる。

 ドテッ腹から中身をかき混ぜられるように撃ち抜かれる。

 焼ける。

 焼ける。

 なお、焼ける。

 何度拳を打とうとしても、一歩も二歩も先を行かれて、気づけば痛みに焼かれていた。

 もう、喰らった拳の数など数えられない。

 また一発、ストレートをもろに顎へとくらって、脳髄に電流じみたショックが奔った。

 胴体が揺らぎ、膝がぐらりとまた折れる。

 だのに、セイマは倒れなかった。

 肉の至る所がとっくに青あざだらけで血で濡れている。

 加えて凄まじい衝撃を受けた満身創痍な体は、まだ二つの足で支え続けられていた。


「……しぶといな」


 初めて、宇賀が口を開いた。

 セイマを見据える宇賀の眉間に、皺が寄る。

 顔中にぷつぷつと汗が浮かんでいるのが見てとれた。

 息も上がって肩が上下していた。

 顎やこめかみをはじめとした急所に、幾つも拳を叩き込んだ。

 これでおしまいだと、手応えだって何度も感じてきた。

 ボクシングなら、とっくにノックアウトを決めていてもおかしくはない。

 なのに、目の前に立つ男は倒れない。

 たった一度倒れて以降は、膝に土すら着いちゃいなかった。

 セイマの下がっていた顔が、ゆっくりと起き上がって宇賀に向く。

 真っ赤になった歯を剥いて、笑った。

 眼差しには、まだはっきりと闘志の色が浮かんでいた。

 宇賀は、ごくりと息を呑む。

 やっと理解したらしい。

 タフだ。

 想像を絶する、その鋼じみた打たれ強さが男の最大の武器なのだ。


「魔窟とは聞いていたが、想像以上だな」

「……だったら、どうするよ」

「どうもこうもない──俺は、君を倒すだけだ」

「そこまでキッパリと言ってくれると、嬉しいぜ──けどまあ、だったらもう一歩、踏み込まねえと斃せねえぜ、俺はよ」


 双眸の奥で灯った炎は、ジリジリと熱さを増していく。

 セイマにはボクシングの──いや、格闘技や武術といった技術や心得など、さらさらなかった。

 ただ、男には百戦錬磨の経験が、そこで掴み取ってきたものがある。

 ガキの頃から喧嘩に明け暮れ、殴られて蹴られてを繰り返してきた。

 痛くって、立つことすらままならなくて、地を這いずったことも少なくない。

 何度這いずっても男は立つことを諦めなかった。


 ──喧嘩は、立っている限りは終わらない


 例え、いくら殴られて打ちのめされようが立っている限りは負けじゃあないし、相手が倒れるまで立っていれば終わらないのだ。

 事実、セイマはそうやって喧嘩に勝って、勝って、勝ち続けてきた。

 倒されては立ち上がり、打ちのめされてもまた立ち上がった。

 燻る限りは、いくらだって。

 拳を握っていられる限りは、何度だって。

 燃え盛った執念は、遂に体を張った我慢比べなら誰にも負けない、打たれ強さを掴んでいた。

 納得できるまでは、満ち足りたと思うまでは、決して倒れない馬鹿みたいにタフな打たれ強さだ。

 セイマは、まだこの喧嘩にまだ納得なんざしちゃいない。

 この喧嘩に満ち足りたなんて言葉を吐けるほど、目の前に立つ男に目に物も見せられていなかった。

 なにせ、殴られっぱなしの押されっぱなし。

 動けるだけのサンドバッグ、なんて惨めな形でこの喧嘩を終わらせるのは嫌だった。

 燻りは絶えるどころか、逆境を前にしてより強くなっていた。


 ──そうだよ、勿体ねえじゃあねえか

 アンタはすげえ男だ、拳が全く追いつきやしねえ

 流石プロボクサーだ、宇賀サンよ

 そんなすげえ奴とこんなに殴り合えるんだ、ンなとこで幕引きなんざやっぱ勿体ねえだろ

 ましてや、殴る数が増えてもまだ、本気で潰しに来てくれるときた

 潰し返してやりてェじゃあねえか

 そんぐらいの気概じゃあねェと楽しめねえだろ、この喧嘩はよ

 納得するまでは、とことん満ち足りるまでは、倒れるわけにはいかねェ

 いかねェんだよ、なァ……ッ!──


「こっからだぜ、プロボクサー」

 吐いた言葉は、熱い息を帯びていた。

 プロボクサーの拳は凄いという話をどっかで、耳にしたことがある。

 それこそ、人を殺してみせることができるらしい。

 見せて欲しかった、殺せるだけのものを。

 出し切れるだけの全てを、見てみたかった。 

 そして、ぶつけたい。

 血が一滴も出ないくらいに絞り切った、自分の全てを。

 ──その全てをぶつけ切った先に何があるのか一緒に観に行こうぜ、プロボクサー

 捲り上がった笑みには、いよいよ狂気すらあった。

 燻っていた火が、大きな炎へと姿を変える。

 並の拳じゃ、倒されない意地があった。

 命を賭けた拳でなきゃ、砕かせない執念があった。

 諦めの悪さは、人一倍。

 こんなところで、諦めてなんか決してやらない。


「俺はまだ、まだまだまだまだ立っているンだからよォ……来いよ、なぁッ!」


 肌がビリッとするほどの気迫だった。

 宇賀は深く、深く息吹く。

 次いで、拳をまた高く上げて構えた。

 生半可な拳では、奴を仕留めきれない。

 満身創痍をなんのそのでここまでの気迫を放つ男に対し、宇賀も腹を括ったようだった。

 様子見は必要ない。

 ぎ、と歯を食いしばる。

 刹那、絞り切った弓を放つように地を強く蹴り出した。

 セイマとの間合いが、途端に詰まった。

 疾風だった。

 左ボディーアッパー。

 懐に飛び込んだと同時に、鳩尾を狙った拳が深々と臓腑まで突き刺さっていた。

 セイマの目が剥いた。

 ぐぶっ

 と、口から吹き出した赤い唾液が宇賀の顔にかかる。

 構わず迫り出す、右の拳。

 目でなんか追えない。

 さらにギアを上げたスピードが、セイマの動作全てを置き去りにしていく。

 左を引く勢いを乗せて迫るストレートに、死が見えた。

 セイマの顔面が、爆ぜた。

 ダイナマイトじみた衝撃が、セイマの頭を弾き飛ばしていた。

 顔の肉が歪む。

 汗と血とが混じり合った飛沫が舞台に舞った。

 セイマの体がつんのめる。

 勝負がついたと、誰もが思った。

 宇賀も例外ではなかった。


「──嬉しいな、ァ……プロ、ボクサー……ァアッ!」 


「な──」

 前のめりのセイマから、腕が伸びた。

 絡んだのは宇賀の右腕だ。

 抱きかかえるようにして、セイマの腕がぎちと掴んで離さない。

 己の力を最大にまで振り絞り放った一打は、まだ宇賀の懐へと戻っていなかった。

 そこを掴まれた。

 みち、とセイマの肉に力が漲る。

 双眸の奥で、獣が獰猛に牙を剥く。

 総毛立った。

 その日、宇賀は初めて背筋をゾワっとさせるような寒気に襲われた。

 離せ、そう言わんばかりに空いてる左をセイマに叩きつける。

 が、遅かった。

 なにせ男に、躊躇なんかない。

 あぁ、そうだ。躊躇いなんかとっくに捨てている。

 賭博試合の野良犬は、やるとなればとことんだった。

 腕に迸らせたのは、己の出せるありったけの力──


「────ウオァッ!」


 ──ぐきり

 人間の体から聞こえてはいけない、鈍い音がした。

「ッあ────?!」

 反射的に、声が漏れる。

 宇賀の顔が歪んでいた。

 セイマがやっと離した腕は、だらりと力なく垂れ下がる。

 折られた。

 激痛で肘関節から先の感覚が寸断されていた。

 喧嘩は、拳だけじゃない。

 身体中で使えるものはなんだって使うのが、喧嘩だ。

 きっと、宇賀には無い発想だろう。

 ボクサーが故──そして、ここまで打撃戦が続いたが故の思い込み。

 そこにセイマは付け込んだのだ。


「う、オ、オォォオオオォッ!」


 セイマの体の中で、焔はなお渦を巻く。

 振り上げたは、拳。

 まだ、宇賀は倒れてはいなかった。

 喧嘩は、どちらかが倒れるまでは終わらない。

 僅かに離れた宇賀との距離をセイマは一気に潰しにかかる。

 間髪入れずに、颶風が巻いた。

 腰を思い切りに入れ込んだ拳が宇賀の顎へと伸びて、撃ち抜き切った。

 痛みで鈍ったステップワークじゃ、大振りの拳すら避けられなかった。

 しかも、やたらにいい当たりだ。

 当たれば、喧嘩野郎の拳だって、ボクサーにも負けやしない。

 ぐるっと宇賀の頭が回る。

 体が軸を失って、砂埃を立ててベシャリと倒れた。

 ふっ

 ふっ

 ふ……っ

 先ほどまで一文字に閉じていた唇が、激しく息を荒立たせていた。

 ぷつぷつと浮かんでいた汗が、大きな雫となって宇賀の顔中をダラダラと流れ落ちていく。

 尋常じゃあない痛みが走っているのだろう。

 折られた左腕は、本来あるべき方向とは真逆に折れ曲がっていた。

 中身が皮を突っ張って、今にも突き出していきそうだ。

 瞳孔も揺れている。脳に刻まれたダメージも相当であることが窺えた。

 観客席にどよめきが広がる。

 生々しい光景に痛みを想像したのか目を覆う者も少なくないが、逆転劇に興奮し手に汗握って喚き立てる客の方が多かった。


「……るっせえぜ」


 一方、立ち続けてみせたセイマにも余裕という文字はどこにもなかった。

 宇賀に負けず劣らず上下する肩。

 興奮で誤魔化していた痛みが身体中を噛み付いて引き剥がせない。

 額から滝のように冷や汗が流れてくる。

 さっきの渾身だって伊達じゃなかった。緊張という名の糸が切れたら、きっと一秒も立たず膝から崩れ落ちていくだろう。

 バクバクと喚く鼓動も鬱陶しかった。


 正直に言えば、賭けだった。


 体に突き刺さった拳を掴めるか。

 掴めるほど、奴が深々と撃ち抜いてくれるか。

 奴がぶち込んできた渾身に、己の身体が耐えてくれるか。

 そもそも、奴がそれを全部読み切ってはいないか。

 この賭けに負けていたら、倒れていたのはきっと己の方だろう。

 それでも、セイマは力強くレイズした。

 なにせ、この宇賀という男は初めっから容赦なく自分を潰しに来てくれたんだ。

 あんな言葉を吐きかけられたら、きっと応えてくれる。

 そう、確信していた。

 ──とはいえ、だ。

 体が重くってしょうがなかった。

 肉も骨も、きっと中身の細胞すらもずうっと震えて、止まってくれやしない。

 必死さで振り切っていたと思っていた恐怖が、今になって身体中をゾワゾワと撫でているらしかった。


「まだ……だ」


 反射的に宇賀に視線をやる。

 捉えた光景に、口端が自然と吊り上がっていた。

 どうやら、喧嘩はまだ終わりじゃないらしい。

 激痛に苛まれているはずの体が、起きあがろうとしていた。

 顔中から噴き出した液体をいくつも砂に落としていた。

 脂汗に濡れた顔は、物凄い形相をしていた。

 双眸も、まだ諦めとは無縁の強い眼光を放っている。

「……へっ」

 変な笑いが出た。

 恐怖と喜悦とが混ざり合って出たような笑いだった。

 拳を改めて握り直し、宇賀が立ち上がるのをセイマは待つ。

 立ち上がる前に腹を蹴り飛ばして拳で追い討ちをかける、なんて真似は賭博試合では珍しくない。

 だが、セイマはそれを選ばない。

 どうせ闘るなら、正々堂々。

 立ち上がろうとするのなら、立てばいい。喧嘩は二人が立って相見えて、初めて成り立つものだ。

 宇賀はやっと片足をつく。

 だらりと垂れ下がって激痛で指一本も動かせない腕は、鉛のような重さがあるだろう。

 骨が折れた痛みというのは、言葉じゃ尽くせない痛みがある。

「……か、ない」

 譫言のように、宇賀が呟く。


「負ける、わけには、いか……な、い……!」


 ぎ、とさらに歯を食いしばると、脚に力を一杯に入れて男はやっと立ち上がった。

 そして、セイマに向かって真っ直ぐに立ち直る。

 轟々と唸り盛る焔が、必死な眼差しの向こうに確かに見えた。

 けれど、それを見た瞬間、セイマは気づいた。

 気づかなくてもいいものに、気づいてしまった。

 せっかく激った火に、水を浴びせられたようだった。


「──アンタ、」


 セイマが思わずこぼしたと同時に、宇賀が駆け出していた。

 ノロい踏み込みだった。

 ちょっとでも体を動かせば、途端に腕の激痛が身体中を駆け巡っているだろう。

 顎に叩きつけた衝撃だって、まだ脳髄に残っているに違いない。

 そのノロさが、宇賀が出せる今の全力だった。

 セイマにも超えられる程度だった。

 距離を潰したセイマの拳が、宇賀に叩き込まれる。

 ブッ、と顔をのけ反らせながら血が噴き出す。

 続けて足で蹴り付ける。

 また拳を叩きつける。

 ついでと言わんばかりに、宇賀の頭を掴んで引きつけると同時に、膝を打ち込んだ。

 ぐきりと柔らかい骨の潰れる感触が膝を伝う。

 跳ね上がった宇賀の顔面が血で染め上がっていた。

 鼻が潰れ、中の血管がビチビチと切れたのだろう。二つの鼻腔からとめどなく、ねっとりとした赤い液体が溢れるように流れている。

 倒れるかに見えた。


「アイ、ツ……の、ために、も……」


 また、譫言が溢れた。

 溢れた瞬間、宇賀の体にまた力が満ちたのがわかった。

 仰け反った体が押し戻る。

 両足はガクガクと震えながら、体を支え続けていた。

 立っているのがやっとに思えた。

 腕は折れて、技術の足らない男にも追いつかれるような動きしかできない。

 鼻も潰されて、粘っこい液体が詰まるせいで呼吸もしづらいだろう。

 血に塗れた瞳は──しかし、確かな気迫があった。

 ヤケクソになった男の顔ではない。

 未だ勝負を捨てなどしない、プロボクサーの顔をしていた。

 セイマに喜悦が湧き上がってくることは、無かった。

 

 ──アンタ、俺と戦っちゃいねえだろ


 そう問い掛けたくて、仕方なかった。

 焦りはあったが、油断はない。

 勝負を捨てる気もないし、自分を見据えてとことん戦おうという闘志は今も溢れている。

 だのに、どうしても自分ではなく、もっと他の誰かを見ているような気がしてならなかった。

 気のせいだと振り切りたかった。

 だが、今耳に拾ってしまった言葉で、セイマは確信してしまった。

 

 そうだ、アンタは俺に勝ちたいんじゃあねえ

 負けられないんだ、俺じゃあない誰かに

 負けられないから、ぶっ潰しに来たってのか俺を

 ふざけんな

 誰だ、そいつは

 一体アンタは、俺じゃあなくて……誰と戦ってんだッ──!


 怒りが、どうしても拳に滲む。

 戦いってのは、拳を交える二人以外の誰かが入り込んでくるものじゃあない。

 真っ直ぐに、戦う相手だけを見据えて、己の全力を振り絞るものだ。

 それを、コイツは。

 このプロボクサーは。

 俺に重ねて、他の何かと戦っていやがる。

 煮えくり返ったはらわたは、セイマの瞳を血走らせるには十分過ぎた。


「テメエは……ッ!」


 セイマが、駆け出した。

 怒りの滲んだ拳が、容赦無く宇賀の顔面へと突き刺さった。

 吹っ飛ぶ体。

 まだ、倒れない。

 反撃の拳を、宇賀はぎゅっと握っていた。

 許すわけがなかった。

 宇賀が残っている体の力を振り絞る──その前に、セイマの足が宇賀の脛を蹴り付けた。

 一瞬、反射的に神経が下を向く瞬間を狙って、まだ生きている左腕を取った。

「──テメぇは、ふざけてんじゃあねえぞ……ッ!」

 両腕で抱えるように掴むと、腕にいっぱいの力を漲らせる。

 宇賀の目が見開く。

 わかったのだろう、セイマが何をしようとしているのか。

 足をセイマの腹に蹴り付けて引き剥がそうとするが、もう間に合わない。

「グギ……ッ」

 宇賀がうめくと同時に、鈍い音。

 左腕が関節とは逆の方向に曲っていた。

 もうこれで、宇賀が拳を繰り出すことはできなくなった。

 宇賀が勝つ見込みは、十分の一もない。

 両腕を折られたプロボクサーができることなど、何一つとて無いだろう。

 宇賀は──それでも、なお勝負を捨てなかった。


「やくそ、く──した、ん……だ……ッ!」


 眼に宿った光は、今までで一番の力強さを放っていた。

 物凄い形相が、文字通りに牙を剥いた。

 二倍になった激痛に前のめりになった体で、なおセイマに体当たる。

 ぐわっと、思い切りに口を開いてセイマの喉笛を牙が狙った。

 喉肉に歯が突き立てられる。

 顎に、最後の力を迸らせる。

 ボクサーの姿では無かった。

 なりふり構わず勝ちを獲ろうとする、男の姿がそこにあった。

 その男に向かって、セイマは容赦無く拳を突き抜いた。

 宇賀の瞳が白目を剥く。

 体を支えていた脚も、ぐらりと折れた。

 肉に食い込んでいた歯も力を失ったかとうとう外れ、セイマの体を伝い宇賀はずるずると崩れ落ちていった。

 意識はもう、飛んでいた。

 いや、歯を立てた時点でこの男に意識があったかどうか。

 どうでもよかった。

「……チキショウっ」

 決着に湧き上がり熱気を抑えられない観客席とは裏腹に、セイマの胸には虚しさだけが吹き荒んでいた。


────


 ガシャンと控室のパイプ椅子を蹴っ飛ばしても、ウサを晴らすことなどできなかった。

 どう足掻いても、燃えカスのようなものがセイマの中でぶすぶすと燻ったまま、燃え尽きてくれそうになかった。

 振り切れなかった拳の行方をどうしていいのかわからない。

 このまま拳を引っ込めることができるほど、セイマはおとなしい男ではない。

 そんな男だったら、そもそも賭博試合になんて舞台に上がってなどいなかった。

 きっとこの後も喧嘩相手を求めてしまって、街を彷徨ってしまうのだろう。

 そうでもしないと、燻った火を燃やし尽くすことはできなさそうだった。

「荒んでいるねえ」

 振り返ると、スポンサアがそこにいた。

 彼が持つ手のひらに収まらないくらいの布袋には、札束がいっぱいに入っていた。

 賭博試合の勝者には、それ相応の賞金が与えられる。

「あンだよ、アンタが直接金を持ってくるこたあ珍しいじゃねえか。いつもは下っ端に持って来させるくせによ」

 ひったくるように金を奪い取る。

「ほら、用は済んだろ。とっとと消えろよ」

「ふふ、せっかちというか、カリカリしているというか」

「る、せえな……ッ!」

 語気が荒くなる。

 スポンサア相手に苛立ちをぶつけたって軽く流されるだけだというのは分かりきっていたのに、セイマにはもう相手を選ぶことができちゃいなかった。

 気づくと、手はスポンサアの胸ぐらを掴んでいた。

「──大体なんなんだアイツは」

 勝手に、言葉が次から次へと、堰を切った濁流のように込み上げてくる。

「俺のことなんざ見ちゃあいねえッ! というか、俺じゃあねえやつと戦っていたみてえじゃあねえか……なんだよ、本物が俺のことを全力で潰しに来てくれたって勝手に一人で盛り上がっていた俺が、もうバカみてえじゃねえか……ッ!」

 鬼気迫ったセイマの顔がすぐそこまで迫っているというのに、スポンサアは貼り付けている笑みにほころび一つ見せなかった。

 荒い息が髪に触れても、眉一つ動かさない。

 ニンマリと笑っているだけだった。

 ぎりっと歯が鳴る。

 掴んでいた手でそのまま、スポンサアを突き飛ばす。

 ポケットに手を突っ込んで、控え室の扉を蹴り開けた。


「しかしまあ、あのボクサーも無念だね。これで望みは絶たれたわけだ」


 今にも部屋を後にしようとしたセイマの背中が、ぴたりと止まった。

 見開いた目が振り返る。

 構わずスポンサアは、言葉を続けた。

「チャンスだったのにねえ。息子さんの病気の治療費が一気に手に入るかもしれなかったのに。いや、この試合で負けても次の試合に勝てたらまだ望みはあったんだけど、腕を二つとも折られちゃったら、ねえ」

 理解が追いつかなかった。

 一体急に、何をコイツは喋り出すんだ。

 唖然とした視線がスポンサアに向いていた。

 楽しそうだった。

 愉悦を舌でコロコロと転がして味わっているような、心底憎たらしい笑みが浮かんでいた。

「言っただろう、彼にも色々あるって。彼の息子さん、結構重い病なんだってさ。引退したのもここで治療費を稼ぐためなんだって言ってたかな。どうやら、海外の医者でしか治せないらしくてね、表の興行じゃあすぐには稼げないらしいとかなんとか」

「テメッ、なんで言わなかった……! なんでッ──」

「知って、君はどうした?」

 ナイフのように冷えた言葉を、喉元に当てられた気がした。

「勝ちを譲る? できないね。ここは八百長が禁じられている。ルールを破ればまず君が処分される。僕が処分する。知ったところで君にできることは何にもない。なあんにもない。せいぜいパフォーマンスが落ちるくらいだ。そんなの僕は君に望んじゃあいない。全力で戦う君の姿こそ、僕が望むものだから。それにまあ、今知らせたほうが面白そうだなあ、って思ったしね」

 セイマの肩に、ポンとスポンサアの手が乗った。

 強い感情に揺れる体は、さっきのようにその手を払いのけることができなかった。

「丁度、今日君に渡したくらいの金が必要だったらしいねえ。僕が用意したんだけどね。しかし、流石だよ親というものは。腕を二つとも折られても、なお戦おうとしたんだからね」

 スポンサアが覗き込んだセイマの顔は、いろんな感情がごちゃ混ぜになっているのがありありと見てとれた。

 スポンサアの姿も視界に入ってはいまい。

「そう考えると、中々な男と戦えたんじゃあないかい、セイマ」

 最後にそれだけ呟いて去っていく奴の足取りは、弾むように軽やかだった。

 

「……なんだってんだよ」

 頼りを無くしたように壁にもたれかかると、セイマの体はずるずると崩れ落ちていく。

 全てがもう終わってしまったあとだ。

 今更そんな話を聞かされても、どうしていいかさっぱりだった。

 スポンサアの言う通り、初めから知っていたとして自分に何ができただろう。

 勝敗が始めっから決まっている喧嘩なんて喧嘩じゃあないし、そんな喧嘩はさらさら御免だ。

 かと言って、奴の事情を知りながらに本気の喧嘩ができたかどうか、と聞かれると口篭ってしまうだろう。


 ──君にできることは何にもない。なあんにもない。


「るッせえよ」

 スポンサアの言葉が脳裏で何度も蘇る。

 振り切ろうとくしゃくしゃに頭を掻き回しても、ねっとりとした声音はしつこく響いてきやがった。

 本当に何にもなかったのか。

 できることは、何にもなかったのか。

「──いや」

 髪の毛を掴んでいた手を離すと、俯いてばかりだった顔をセイマは持ち上げる。

 何にもできなくても。

 あのプロボクサーのためにできることがなくても。

 もっとちゃんと、奴のことを見ることはできたんじゃあないのか。

 自分こそ、あのプロボクサーのことをちゃんと見ていなかったのではないのか。

「ちゃんと見ているようで、なあんにも見えちゃいなかったのかな、俺は」

 あの時、プロボクサーと対峙して、セイマは浮かれていた。

 真っ向から潰しに来てくれた。

 正面から容赦無く勝ちを獲ろうとしてくれた。

 元はプロボクサーだった男が、賭博試合を生業とする一介のチンピラに、だ。

 浮かれて、舞い上がった。

 どうやって戦って。

 どうやって拳を乗り越えて。

 どうやって自分の全てをぶつけるか。

 そんなことばかりしか考えなかった。

 奴が背負っているものを全く見ずに、勝手に思い込んで、勝手にキレた。

 バカだ。

 一人で盛り上がっていた、目も当てられないバカヤロウでしかなかった。

 あのプロボクサーのことを──宇賀のことをちゃんと見てくれていれば、戦いの結末はもっと違う代物になったのではないか。

 少なくとも、こんな後味の悪い結末にはならなかった、はずだ。


「チキショウ──チキ、ショウが……ッ!」


 このまま締めるのは、嫌だった。

 筋が通らないし、納得だって出来やしなかった。

 金が詰まった袋をぎゅっと握り締めると、セイマは威勢よく立ち上がる。

 扉を抜けた足は全く迷うそぶりも見せずに、ある一室に向かって一直線へと向かっていった。

 廊下に扉は数多あるが、誰がそこに控えているのか、ちゃんとわかるように名前が書かれている。

 ガン無視だった。

 目当ての男はそこにはいないだろうことは、分かる。

 セイマがやっと足を止めたのは医務室の前だった。

 賭博試合に重傷者が出るのはしょっちゅうだ。だから、スポンサアはこれもまたどこのルートを通じてか、表じゃ商売ができない腕利きの医師を常駐させていた。

 ずかずかとセイマは医務室に踏み入る。医者の静止も聞かなかった。

 ちょっと辺りを見回して、すぐそこの周りとそこを遮るようにかかっている、薄汚れた白いカーテンが目についた。

 躊躇うことなくビッと引いた。

 そこに宇賀がいるかどうかわからないのに、男は後先も考えちゃいなかった。

 ただ、運は良かったらしい。


「……人が休んでいるというのに、君はなかなか騒がしい男だな」


 細長い目をうっすらと開けて、宇賀は呆れたように突然の訪問者に視線を向けていた。

 驚いたという風はない。

 抜け殻のように、淡々としていた。

 折れた腕の処置はもう済んでいたのか、ギプスが装着されている。

 今後の生活にどれだけの不便が生じるだろうか。

 折った当人が考えるもんじゃあねえなと、今更にセイマは思った。

 さてと、だ。

 いても立ってもいられなくなって、ここまで来てしまった訳だがセイマはどう切り出していいのかわからなかった。

 何をどこから始めたらいいのか。

 考えなしはダメだなと、内心毒づく。

 本当は色々言おうと思っていたのは、確かだ。

 それを、自分が望みを腕ごと文字通りに絶ってしまった男を前にすると。

 色々溜め込んでいた言葉が、全部のどの奥に引っ込んでしまって、口を開くこともできなかった。

「どうした。用があってここにきたんじゃないのか」

 宇賀は、さほど興味のなさそうな声音でセイマに尋ねる。

 それはそうだ。

 なのに、やはり言葉を紡げない。

 元来、言葉よりも拳で会話してきた男だ。自分の感情を乗せるにも拳ばかりで、言葉を使ったことはそう多くはなかった。

 何かを吐き出そうと口を開くが、出るのは呼気ばっかりだ。

「……その様子だと、俺の話を聞いたようだな」

 セイマが何か言葉を吐く前に、宇賀が呟いた。

「一つ、忠告しておこう。君は、よく感情が顔に出る男みたいだ。戦いじゃそれが命取りになるぞ。簡単に相手に考えていることや、自身のダメージがどれくらいかを悟られる」

「な……」

 いらねえよ、そんなもん。

 そう返そうとしたが、思い当たる節が多すぎてどうしても口籠る。

「まあ、負けた俺が何か忠告だなんて、烏滸がましいのかもしれないがな」

 宇賀はまたベッドに身を預けると、視線をセイマから天井へと投げた。

 セイマには、宇賀の中でどんな感情が渦を巻いているのかわからない。

 淡白で、起伏の薄いその顔の裏で、一体何を思っているのだろう。

 腕を折られても、なお勝ちを獲ろうとするのをやめず、立ち向かってきたほど強い望みがあったろうに。

 その望みを絶った男を前にして、一体。

「用が無いなら、出て行った方がいい。そこの医者も迷惑している」

 淡々と宇賀が告げる。

 実際、さっきから鬱陶しげな視線が背中を刺している事は知っていた。セイマはあえての無視を決め込んでいた。

「俺は──」

「もう一つ言っておくがな……同情も、哀れみも、受け取るつもりはない」

 セイマの言葉を遮って、じろりと強い眼光がセイマの掴んでいた袋に向けられた。

 両腕を折られてまでも宇賀が欲した、希望がそこに握られている。

 これさえあれば、宇賀の息子の病がどうにかなるかもしれない、一縷の希望。

「負けは負けだ、文句は無い。初めからわかっていたことだ。負けてしまうかもしれないことも、無事で帰れないかもしれないことも、承知の上で上がった。それで負けた。──俺にその袋の中身を受け取る資格はない」

 正論だった。

 賭博試合は結果が全てだ。

 勝者が全てを得る。

 敗者はよくて何も掴めないか、運が悪ければ──。

 袋を握る手が、強くなる。

 漂う空気は息をするのもやっとなくらいに重かった。

「帰りな。勝者は君だ。その袋の中身は君が受け取るべきものだ」

 それ以上の言葉は無い。そう言わんばかりに、宇賀は口を閉ざすと視線をまた虚空へとやる。

 もしも、セイマが宇賀と同じ立場だとしたら、自分もそう言うだろうか。

 わからない。

 愛する息子どころか、家族を知らない男は、何かを背負って戦うということをわからない。

 ただ、これ以上この男の誇りを守るためなら、ここを立ち去るべきなんだろうことは、わかった。

 これ以上の行為は、敗者をさらに侮辱することになるだけだ。

 両腕を折って、さらに尊厳まで踏み躙るのは、愚か者のすることだ。


 ──元より、セイマは愚か者だ。


 ばすっ、という音が医務室に響き渡る。

 セイマは、握っていた袋を地面に叩きつけていた。

「な……」

 淡々とした表情をずっと崩さなかった宇賀も、その行為には目を見開かずにいられなかった。

「何を、しているんだ」

「俺はただ、もう一度アンタと戦りたいんだよ」

 今度はセイマの眼光が、宇賀に向く。

 息を呑むような力強さがそこにはあった。

「結局さ、アンタは俺とは戦っちゃあいなかった。アンタは息子さんの病と戦ってたんだ。俺は、そこで立ち塞がった壁の一つでしかなかった──違うかい」

 無言。

 その反応は、もはや肯定しているようなものだろう。

 セイマは、今更怒りもしなかった。

「いいンだよ、俺だって見ちゃあいなかったからな。アンタのことを」

 自嘲したような声音だった。

「アンタが何を背負って戦ってんのか、一体何を俺と重ねてんのか。全く見ちゃあいなかった。俺はただ、俺を潰しに来てくれるアンタしか見ちゃあいなかった。今そこにいるアンタだけを、だ。それが俺の好きな喧嘩だったからさ……だから、アンタがそこまでして闘った意味がわかったのが、終わった後だったけどな」

 しかも、スポンサアの面白半分な娯楽にされてしまっていた──改めて考えると額に幾つかの青筋がたちそうだった。

 今は、どうでもいい話だ。

「だからと言って……俺はその金を受け取らないのに変わりはない」

 宇賀は、セイマから顔を背ける。

 いよいよその顔がどんな色をしているのか、わからない。

「受け取らなくていいさ」

 セイマは、それでも言葉を続ける。

「俺はただ置いていくだけだ。拾うか拾わないかは、アンタ次第だ」

「……馬鹿にするなよ」

「馬鹿にしちゃあいねえ。言ったろ、俺はもう一度アンタと戦りたいだけなんだ」

 随分と勝手なことを言っているのは、自覚していた。

 エゴだ。

 あまりにも過ぎた我儘だと罵ってくれても構わない。

 ただ、一度やってしまった我儘は、最後まで貫かなきゃしょうがなかった。

 筋は、通したかった。

「このまンまじゃあ俺が納得できねえ。アンタが俺じゃあない奴と戦っていたあの喧嘩は、アンタをちゃんと見ねえまま戦っちまったあの喧嘩は、俺とアンタとの喧嘩じゃあねえ。だからよ──アンタの息子が治ったら、そこでまた勝負をしよう。今度は掛け値なしだ。俺はちゃんとアンタのことを見て拳を振るう。だから、アンタも俺をぶっ潰すためだけに来てくれ」

 宇賀は、とうとう何も答えなかった。

 別に良かった。

 むしろ、こんな勝手な真似に応えてもらえる方が、ずっと稀有だろう。

 セイマは金の入った袋をそのままにして、背を向けた。


「じゃあ、またな」


 セイマは宇賀にも、置いて行った金にも振り返らなかった。

 宇賀が金をどうしようが、セイマには知らないことだった。

 金を拾わないというのであれば、それが宇賀の出した答え──プロボクサーが持つ譲れない矜持を宇賀は貫いた、それだけの話だ。

 もし拾ってくれたのなら、その時は。

 唖然としてばかりな医者や他の患者に目もくれず、セイマは医務室から出ていった。

 廊下を歩いて行ってすぐに、壁にもたれかかってほくそ笑んでいる背広姿の男とすれ違う。

 苦虫を潰した表情が我慢する間もも無く浮かんでしまった。

「テメ……」

「全部聞いてたよ。本当に君は面白い真似をするもんだ」

 くくく、とスポンサアは笑みを溢す。

 結局のところ、さっきの会話も彼にとっては娯楽でしかなかったらしい。

「金をくれてやった訳じゃあねえ。俺は置いて行っただけだ。置いて行った金をアイツがどうするかなんて、アイツの勝手だろ」

「ふふふ……まあね、そうだね。勝手だ。どうしようが僕がどうこう挟む権利はない」

 お手上げだと手をひらひらさせながら、スポンサアは答える。

「しかし最後まで、君は自分の勝手だと言うんだね。本当はお人好しの君だ、息子さんのことを放っておけない気持ちもあったんじゃあないの?」

「何言ってんだ」

「だってさ、雨に濡れてる子犬と一緒にわざわざ雨宿りしたり、殴られてる子供がいれば手を出しちゃうような君だ、彼の息子さんだってどうにかしたかったんじゃあないかい?」

「……さあな、勝手に想像しておけ」

 それ以上はスポンサアの会話に付き合わず、後ろから相変わらず馴れ馴れしくかけてくる言葉も振り切って行った。

 

 宇賀がその後、あの金をどうしたのかセイマはとうとう知るよしもなかった。

 息子の病がどうなったのかも、全く耳に入ってこなかった。

 元より、一度拳を交えてそれっきりな相手の方がこの賭博試合には多い。

 宇賀のことも例外ではなかった、ということだ。

 ただ、どうしても思い出してしまう時がある。

 往来で、連れ立って歩んでいる親子とまたすれ違った時などは。

 きゃっきゃとはしゃぐ子どもと、振り回されながらも愛おしそうな眼差しで子供を見やる親。

 あの宇賀という男も、あんな一面があったのだろうか。

 自分の背中に家族を背負って戦うというのは、一体どんな代物なんだろうか。

 一生、知ることもないだろう。

 遠くなっていく親子の背中は、セイマにはやはり縁のない代物だった。

 今日も試合が組まれている。

 相手は、まだ知らない。

 今度の相手は一体何を背負って、何を胸に抱いて賭博試合の舞台に上がるのだろう。

 それを考えると、どこかワクワクしてしまう。

 譲れないものをとことんぶつけ合うが、喧嘩の醍醐味だ。

 どうしてワクワクしないでいられるか。


 ──そうだ、これが俺なんだ


 生粋の喧嘩野郎は、燻る火を拳に握ってあの舞台へと上がっていく。

 焼けるほどの喜悦に満ちた時間が、また始まろうとしていた。

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