雨の降る日に貴方と出会う

「風邪、ひいちゃいますよ」

 軒下で座って雨宿りをする男の人に、私は声を掛けた。

 軒下と言っても、随分と穴だらけのヒビ割れだらけで、雨宿りなんてとてもできるものじゃない。だけど、ほかに雨宿りをできる場所は近くになくて仕方ないかも、だけれど。

 男の人は、黙ったまま何も答えなかった。いや、目は口ほどに物を言う。あっちに行けと、しょうがない。目つきの悪さと、頰や雑に着たシャツの合間合間に見えた生傷や青痣が、余計に顔のおっかなさに拍車を掛ける。

「傘、一緒に入りませんか? こんな雨じゃ、本当に風邪ひいちゃいますよ」

 それでも、私は彼に声を掛ける。

 彼が可哀想、なんて気持ちはさらさらない。きっと、彼は自分で選んでここにいる、そんな人だろうから。

 とは言っても、彼が抱えているその仔犬はどうなんだろう。この冷たさには耐えられないんじゃないだろうか。

「優しく……抱きしめてますね。だけど、このままじゃ貴方も冷えて、この仔犬が心配です。だから、その……」

 傘を翳す。十四歳の女の子が持つ傘だ、少々小振りで男の人が入るには少し狭いかもしれない。もしかしたら、やっぱり肩なんかは濡れて結果は同じかもしれない。

 男の人は、動かない。傘を見つめて、きっと私と同じことを考えているのかもしれない。

 ……やっぱり、駄目だろうか。駄目だったら、しょうがないかな……。

 そうは思えど、傘を翳す手を引っ込めることが出来なかった。

 延々五分、十分と時が経つのも気にせず、私は傘を翳し続ける。

「……しゃあねぇな……って言うのは、アンタに失礼だな。スマン、入れさせてくれ」

 どこか根負けした心持ちのように見えた。

 困ったような笑みが、ちょっとだけ浮かんでいる。その笑みに、私もほっと笑みを返した。

 ただ私の考えは足りなかったみたいで、彼にとってこの傘は大きすぎたみたいだった。正直さっきは座っていたから分からなかったけれど、やっぱり背丈は私よりも高い。

 それでか、少し遠慮がちというか、むしろ慣れてないといった感じで私の傘に入る。だけども身体も鍛え上げているからか、幅もあって肩が片方収まり切らない。

 でも彼は、私とそして、抱えた仔犬が濡れないようにとしてくれる。顔つきも身体もおっかないのに、その優しさは似つかわしくない感じ。

 それでもその一生懸命さは、いいな。

「どこに行けばいいですか?」

「とりあえず……そうだな、貧民窟に近いアパートだな」

「わかりました。あと、その仔犬はどうするんです? アパートだと、飼えないんじゃ……」

「飼わねえよ。野良犬を引き取る甲斐性もねえし、それにこいつも一匹で生きなきゃいけねぇだろうぜ」

 厳しい言葉。

 その割には、抱きかかえて一緒に濡れちゃっているわけで……矛盾の人だ。

 大通りを歩いていき繁華街を外れていくと、貧民窟に出る道がある。人の身なりも、だんだんしゃんとしたものじゃなくて、よれたり袖が破れたりが多くなっていく。

 貧民窟は、多くが生活に困ってそこで住むしかなくなったり、工場に出稼ぎに来てる人がなくなく住処にするところだ、なんて話。

 中には犯罪者やならず者の人が集まっていて、父から私も行くな近づくなとキツく言われていた。

 言いつけ破っちゃったかな……近くまでだから、別に大丈夫かな。ま、なんとかなるでしょ。

 ちょっと細い路地を抜けると、川を跨いだ橋向こうに貧民窟が見えてきた。ちょっとだけ身震い。

 ちょっと不安に襲われたけど、私たちはそこまでいかなかった。彼は、近くにあった木造建のアパートに足を向ける。ほっと胸の中で一息つく私がいた。

 建てて十年、と言ったところだろうか。新しくもなければあまり古くも、といった感じ。

 階段を登って二〇一号室、そこが彼の部屋らしかった。

「アンタのような嬢ちゃんをここまで付き合わせちまって悪かったな。ちゃっちゃと帰り……なとは言えないな。家から遠くなっちまっただろ」

「でも大丈夫ですよ、これくらい。一人でもちゃんと帰れますよ」

「いんや、嬢ちゃん一人で帰らせるのは流石に気が引ける。傘もあるし、後で送っていくぜ……だけど、その前にこいつだな」

 男の人は、抱きかかえた仔犬に目をやる。流石に濡れないように、そう気をつけていても既にびしょ濡れだったわけで、体は冷えてふるふると震えが止まらずにいる。

 私も、余計に心配になってしまう。

 中に入ると、早速男の人は布やらタオルやらを用意しては、赤ん坊のおくるみのように仔犬を包みあげる。

 私は私で、大したことはできないけれど、仔犬が少しでもあったかくなるようにと体を撫でてあげるくらい。

 もしかしたらお腹が減っているのかもしれなかったけれど、「流石に餌になるようなもんを持ち合わせちゃいねぇんだよな……後で焼き鳥でも買ってくるか……」ということらしい。

 なんだかんだ、餌まで与えちゃうんだね。

 あとは懸命にできる限りの手を尽くし、取り敢えず仔犬のことは一区切り。今は、おくるみの中でぐっすりと寝息を吐いている。体の震えが無いのを見ると、ほんの少しホッとする。

 そんな安心からか油断からか、ちょっと私も体に気怠げな心地。腰を置いたら、そのまま身体まで横になろうとしちゃう。雨の中をずっと歩いていたというのもあるのかな。

 それとも、元からポンコツな体だからかな。

「大丈夫かい嬢ちゃん。ちょっと手伝わせすぎちまったか」

「いえ、その大丈夫ですよ。これくらい、へっちゃらのちゃらえもんです」

「ちゃらえもんたぁ可笑しなことを言うぜ。けどよ、本当に顔色悪いぜ、水の一杯くらい飲んだ方がいいんじゃあねえか?」

「ええと……それじゃあ、そうですね、喉も確かに渇いているのでいただきます」

「おう、いただけいただけ」

 そうして汲まれた水は、とても冷たくて身に沁みる。これが気持ちいいものだから、こくこくこくともう一杯くらい頂きたいところ。まあ、厚かましいから言わないけれど。

「いい飲みっぷりだな、嬢ちゃん。まあでも、あんたも一生懸命コイツを見てくれたもんな。ありがてぇよ」

「そ、そんな、お礼を言われるほどじゃあないですよ。それに、私だってこの子が本当に心配でしたし……」

「そういうもんかね……ま、それを言ったら俺も人のことは言えねえかもしれねえか。どうせ一匹で生きていかなきゃいけねぇってのに、目に入ったらどうにも放っておけなくて、なぁ……」

「まあでも、雨で凍えて死んでしまうよりも、マシじゃないですか」

「……そりゃあそうかもな。放って死なれたら夢見も悪いしな」

 仔犬を撫でるその手は、無骨どころじゃなくて、傷だらけに痣だらけ。だというのに、手つきは本当に優しく。

 ……さっきから、優しいばっかりだな、本当に。

 間近で、『あそこ』に立ってないところを見れば見るほど新たな一面……いや、知らなかった一面が見え隠れ。

 でも、なんというか、結局根っこのところは違わないんだな、って安心する私がいて。

「……なんだ、嬢ちゃん。俺のことをジロジロ見て。なんか変なところとかあったか?」

「あ、いや、その……」

 流石に見すぎてしまっていたらしい。

 人生経験は中々少ない、こういう時どうしていいのか、戸惑いばかりが頭を巡る。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 本で読んだ主人公は、こういう時どうしてたっけ。駄目だ、巡りすぎて思い出せない。

 だけど、幸いそこまで追求されることはなかった。

「まあいいや、つかそろそろ帰った方がいいんじゃないか、付き合わせたのは俺の方なんだけどさ」

「うーん……でもまだその、この仔犬も見ておきたいし」

 おくるみの中の仔犬を撫でる。濡れていた毛も、今じゃもふもふと気持ちいい。

 ごめんね、わんちゃん。ちょっと貴方をダシに使っちゃった。ホントは、違うんだ。ごめんね。

「やっぱ心配か」

「そ、うですね、ハイ。今はもう大丈夫そうですけど、やっぱりもう会えないのかな、って思うとつい」

「そうだよなあ。だけど、そろそろ帰らねえと心配するだろ、アンタの家族。見たところ、その身なりは中々いい家の出とみたが」

「あ……わかっちゃうものですか……」

「そりゃあ、この辺じゃあまり見ないくらいには綺麗だからな」

 確かに私は、お金持ちの家の出だと思う。元々はそこそこの階級の家だったけど、おじいさんの代で財を築いて今に至る、みたいな。

 だからこそ、貴方は私に気を使う。女の子だからというのもあるけれど、それをわかっちゃ余計に。

 だって貴方は、そういう人だろうし。

 でも。

 

「やっぱ、そんな嬢ちゃんが俺みたいな奴と一緒にいちゃあいけねえよ。色々と誤解されちまうかも知れねえぜ」

 

 それはちょっと、気に食わない。

 普通なら、きっとそんなところに引っかからないだろう。

 きっとなにも気にせず聞き流す一言だ。

 彼自身、その物言いになんの悪気もない。

 むしろ、親切心からの言葉、無碍にしちゃう方が失礼。

 だけど、私からしたらどうしたって気に食わない。

 

「『俺みたいな』……なんて、そんな言葉は使わないでください。貴方が……セイマさんのような人が、そんな言葉使わないでくださいよ」

 貴方のような人がその物言いを口にされると、どうしたって気に食わないから。

 

 流石の男の人も少し動揺。

 いや、動揺せざるを得ないよね。

 だって、初対面の女の子が自分の名前を知ってるんだよ、怖いよね。

「……嬢ちゃん。今のは」

「ハイ、セイマさん……私、初めっから知ってたんですよ。全部、知ってたんです」

 ごめんなさい、そんな言葉の代わりに笑顔を見せる。

 笑顔で誤魔化しなんて、狡いですね。

 ホントは、ずっとずっと前から、この男の人を、セイマさんという人を知っていた。

 なんでって、私はあの闘技場で行われていた、賭博試合に入り浸って彼の試合を見続けてきたんだもん。それこそもう、両手でも数えられないくらいには。

 賭博試合には、父親に連れられてよく行っていた。正直、小さな女の子を連れていくような場所ではなかったけれど、父には何か考えがあっての事だろう。

 ただ、無邪気だった私は私でそれを楽しんでいて、今じゃ父が困って頭を抱えるほど私の方からねだるくらい。

 ねだりたくなるほどに、私は釘付けにされてしまった。

 あそこに立った人たちはみんな一生懸命に生きているだもん。

 私にはできない、一生懸命を。

 貴方なんかは、とりわけいつだって一生懸命だったよね。勝ち試合でも負け試合でも、貴方は全力全開。血と汗と泥に塗れ何度も膝をつきながらも、なお立ってみせる姿なんかは、脳裏に焼き付いて離れない。

 そんなできる貴方が、好きで、羨ましくて、心底憎くて、そして馬鹿になるくらい憧れちゃって。

「実は、大きな声で応援してたりもしたんですよ。きっと、聞こえてなかったというか、聞いていなかったって言った方がいいですかね。だって、試合中の貴方は、戦っている相手以外眼中になさそうでしたから」

 おくるみの中の仔犬を撫でながら私は語る。

 セイマさんは、なにも答えなかった。

「時折、セイマさんのことを犬のようだと言う人を聞きます。目の前のに夢中になって噛みつくことしか知らない闘犬だって。でもですね、私、そんなセイマさんが好きだったんです。だって、本当に一生懸命生きているじゃないですか、自分のやりたいことに。それって、いいなって思うんです」

 正直、私は何を言っているんだろうって思う。

 初対面で、セイマさんは私のこと何にも知らなくて、とても変じゃないですか、そんな人が勝手に自分語りを続けるなんて。

 だけど、私はやめない。

 やめてやるもんか。

「私、生まれながら病弱だったんです。今もそうです。正直走るのだって一苦労。幼い頃なんかはずっと家の中で、本を読んで過ごしていた。十歳を超えてようやく外を出歩けるくらいの体力になったけれど、それでも時々体がおっつかなくなります」

 正直、喋っている今だって、ちょっとおっつかない。

 だんだん息が、切れてきそうだ。だけど、なんでだろう……私の喉には、まだ言葉が溢れてくる。

「本当は、こんな雨の中を一人ってのもダメなんでしょうね。だけど今日は、一人で歩いてみたくなったんです。倒れない程度に、ちょっと遠くまで、自分の足でどこかに行きたくなった。そんな気まぐれです。でも、そしたら、貴方がいたんです。ずっと遠目で見ていた、憎くて、羨ましくて、心底憧れてしまった貴方に。こんなふうに、言葉をかけるなんてことは無いと思っていました。私はずっと、貴方の背中をただ眺めるだけだと、ずっと思っていた。だけど、そこに貴方がいたら……足が向かずにはいられなかった」

 そしてまた、一息。

 そろそろ頭どころか視界もクラクラしてくる。

 喋るだけに一生懸命でも、私の体はおっつかない。

 歩き疲れていたり、犬に心配しすぎたりしたせいもあるのだろうか。

 いや、普通に私の体が弱すぎるだけだ。思った以上にポンコツがすぎるだけだ。

 そんなこと私が一番分かっている、こんなことは何度もあったじゃないか。

 それでも私は、口を開かずにはいられない。

「ねぇ、知ってます? 誰だってみんなが一生懸命生き続けるなんてできないんですよ。私なんかは、本当に体が弱いから、一生懸命に体が追いつかない。だから、貴方は、本当に凄い人なんですよ。だって、全部自分で選んで、しっかりと一生懸命生きているじゃないですか。ずっと、私が賭博試合を初めて見た時から、ずうっと見てきたからわかりますッ。血まみれになるのも、泥まみれになるのも、自分で選んでいるんでしょ。だったら、俺『みたいな』、なんて言わないでよ。もっと、胸を張って、堂々としてよ。ちゃんと選んでいるんでしょ、選んで一生懸命生きているんでしょうッ。そんなこと、言わないでッ」

 

 ぐらり

 

 そこまで言ったところで、体がぐらつく。

 なんかいけない線を超えてしまったと思った時にはもう遅い、体の自由が思うように効かず、流石にべしゃりといっちゃう。

「初対面のくせに、俺にここまで言う奴は初めてだな、オイ」

 そんな私を抱きとめたのは、セイマさんの腕だった。

 さっきから好き勝手言っちゃったからきっと怒るだろうな、と思っていたけれど、その腕は仔犬を抱きとめていたあの腕のように、暖かく優しかった。

「病弱ってのは確からしいな、随分と軽いぜ嬢ちゃん。というか、それだったら尚更ここにいちゃいけねえじゃねえか。俺ァ、アンタが倒れてもなにもできたもんじゃあねえぞ」

「それは、その……ごめんなさい」

「……急にしゅんとされると、こっちが悪い気がしてくるな……。でも、まあいいや。それに、気に食わねえことがあったらとことん、そういう心意気は嫌いじゃあないぜ」

 そうして、セイマさんはニッと笑ってみせる。

 正直、今まで見慣れていた傷だらけで不敵に笑う姿と違って、あんまりにも優しすぎる笑みを見せたものだから、くちゅん。

 私の方が風邪をひいちゃいそうだった。

 

……

 

 それから少し休んで、ついでに私が休んでいる間にセイマさんが一走りして買ってきた焼き鳥を食べて、家路についた。もちろん、セイマさんも隣にいる。

 雨はあがったけれど、日もすっかりと落ちかけて宵闇も迫ってきた。やっぱりそんな中を女の子一人歩かせるわけにはいかないということだ。

「その、迷惑かけちゃったり……あと、焼き鳥もご馳走になって、その、すいません」

「謝るこたねえよ。そもそも先に面倒をかけたのは俺の方だ。トントンって奴だろ」

「それは、そうですけど……あと、その」

「ん? ……ああ、さっきの話か」

 私は、コクリと頷く。

 流石にあれは、好き勝手言い過ぎた。今更だけど、たった一言にあれだけ噛みついちゃったのは我ながら大人気ない。

 あんなのは勝手な憧れをぶつけているだけだ。

 そうわかってはいたのに、口は言葉を紡がずにはいられなかった。そうしなきゃ仕方なかった。

「別にいいんじゃあねえか。気に食わねえことを言った奴に、気に食わないと正直に言ってやった、それだけの話だろうぜ」

 やっぱりセイマさんは、気にも留めない。でも、それじゃあむしろ、こっちの心がちくちくしちゃう。

「私……セイマさんのこと、本当に好き勝手言いましたよ。怒られて、ついでに嫌われても、仕方ないと思ってます」

「あんなんじゃ怒らねえよ。それに、嫌いじゃあねえって言ったはずだぜ。確かにありゃワガママブッ通しだったが、それは俺も同じだから人のこたぁ言えねえよ」

「同じ、ですか」

「おう、俺だってワガママ貫き通しさ。だから、こんな傷も絶えないわけよ」

 セイマさんが指さすのは、さっきも見た頰にできた大きな傷痕。彼の頬が毎度弾ける姿をよく見るが、間近で見るとちょっと痛々しくて背筋がぶるり。見慣れているはずなのに、こっちまで痛くなってきそうだ。

「でも、コイツも俺を生きている証さ。俺が選んで、俺が生きたい生き様を生きている、それだけさ。そのワガママに胸を張れなきゃ、俺は俺を殴りたくなるぜ。……けどまぁ、それでも弁えてはいるんだ。アンタのような嬢ちゃんとは、生きる世界が違うってのもちゃんと知っているつもりさ」

 私は口を噤むしかなかった。

 実際そうだ、私とセイマさんとじゃ世界がまるっきり違う。

 そもそも生まれた世界も、今を生きている世界も。

 それは、決して交らわない。

 私はきっと、セイマさんの立つ世界には立てないだろう。踏み立とうとしたらお父さんが大泣きして引き止めようとするし、なにより私は酷い病弱だ。賭博試合なんて出たら、あっという間にあの世行きだ。

 セイマさんはセイマさんできっと、私が生きる世界には立たないだろう。だって、セイマさんは自分で選んでその世界にいるのだから。その心持ちが変わらない限り、今の世界で進み続けるんだろうな。

「……なんか勝手に思い込んじゃって、適当言っていた私が、恥ずかしくなっちゃいますね……顔から火が出ちゃいそうです」

「適当言ってたなんて言うなよ。ありゃあ、嬢ちゃんの魂の叫びだろ? そいつを適当で片付けてくれるなって」

 そして、撫でるのは私の頭。

 傷だらけの無骨な手でガシガシ、ガシガシと。

 お父さんに撫でられるそれよりかは乱暴みがあったけど、やっぱり優しさは負けていなかった。

 そこまで言われちゃったら、もう私は何も言えない。

 そんなふうに言われちゃったら、もう引くに引けないじゃないの。

 それに、そんな時間も無くなりそうだった。

 もう、私のお屋敷はすぐそこだ。遠目でも爛々に照る多くの窓が、私の帰りを待っていた。

「アレなんだよな? 流石に俺もあそこまではついていけねえ。ここからは一人でも大丈夫だよな?」

「あ、ハイ……大丈夫です」

「それじゃ、ここでサヨナラだな。嬢ちゃんのことだ、また賭博試合を見に来てくれるんだろ?」

 私は頷く。

 でも、『また』どころじゃない、もう明日にでも賭博試合に行って、色んな人の一生懸命を羨ましげに憎々しげに、目を輝かせて眺めるのだろう。

 私の踏み立てない世界を、ずうっと眺めるのだろう。


 ……それだけで終わるのは、嫌だ。

 

「私は……友海奈ゆみなです」

 一瞬、セイマさんの呆けた顔。

 いきなりこんなことを言われても、訳がわからないだろう。当然だ。

「私の名前、です。友海奈、それが私の名前です。その……私は、友海奈という女の子は、セイマさんのこと、ずっと見ていますからっ。ずっと、ずうっと見ていますからっ」

 また、馬鹿なことをやっている、そう思わないわけではない。

 どこまでも私は自分勝手、こうも大人気ない真似を繰り返しちゃうんだろう。

 反省してもすぐこれだ、あとからまた顔から火を吹いちゃうってわかっているくせに。

 だけど、思いの丈ってのも抑えたら、いよいよ私はどうにもならないじゃないか。

 ただでさえ生きづらい体なのに、さらに生きづらくなるのは……もう嫌だ。

 嫌なんだ。

 

「……だったら、ずうっと見てやがれよ。ずうっとな。二言はねえぜ、友海奈」

 

 そんなワガママが過ぎる恥ずかしい台詞も、貴方は途端に格好良くしてしまう。

 どんな言葉も馬鹿にしないで、真正面から正々堂々と応えてくれる。

 それこそ、賭博試合で立つ相手と同じように。

 ……敵わない、その一生懸命さに私はやっぱり敵わない。

 夕映えに別れた背中は、いつも以上に大きく見えて仕方がない。

 だからこそ、憎くて羨ましくて、どうしようもなく私は憧れちゃったんだろうな。

 

……

 

 血と汗と泥とが飛び交う賭博試合、私は今日もここにいる。

 瞳に映るのは、呆れ返るほどの傷を背負ってなお、堂々と胸を張る彼の姿。

 諦めの悪さは、拳を見れば一目瞭然。

 転び、挫け、倒れても、一層堂々立ち上がる。

 そんな相変わらずの憧れを、私は今日も追いかけていた。

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