その鼻っぱしを砕いてやらァ
俺は今、獣とでも戦ってるんじゃあねェだろうな。
その男と拳を交える最中、セイマはそう思わずにはいられなかった。
それもそうだと言っていいか、その男との戦いはそれまで踏んできた修羅場とは一層の異なりを見せている。いいや、セイマを真に困惑せしめてるのは、その男のファイトスタイルにあるか。
男は、深く態勢を沈めてはセイマの懐めがけて跳び、ついで鋭く光る爪を抉り込んでくる。それもただの爪ではない、鉄爪が嵌められた、一殺の爪。それを背に冷や汗を流しながら紙一重でかわしたとしても、その動きの早さに反撃は敵わない。
よしんば、こちらから拳を放てたとしても野生の勘による回避とでもいうのか、奴の鼻先を掠めて空を切る。拳を振り続けても、これじゃあただの体力の浪費にしかならない。むしろ、その隙を逃さんとばかりに攻勢をかけてくるものだから、あわやその爪の餌食にもなりかねない。
まさに獣、獣以外の何者でもないんじゃなかろうか、この男は。
「へっ……どうだよ、やっぱり貴様も、俺には敵わねえ、ってェことだな、どさんピン!」
不敵に笑むその獣を前に、セイマは肩で息をするしかない。その自信満々で、よく伸びる鼻をどうにかしてへし折ってやりたいが、その確かな実力を前にしては納得せざるを得ないところがある。
……狼、まさにその名に相応しい戦い方だってェことかよ。
眼前に対峙するその猛者、狼と名乗りを上げた男に内心賞賛しつつも、しかして彼は勝負を捨てやしない。負けてやるつもりなども毛頭ない。
戦うというのなら、全力を尽くして潰しにいくまで。
「敵わねえかどうかは、まだ分からねえぜ。……俺はまだ、お前に慣れてねえだけだかんな……」
セイマは構える。
いや、構えるとともに、ステップを踏み始めた。それはいつか戦った男の真似ではあるが、あまり真似したくない男の真似ではあるが、このステップではないと目の前の獣についていけないと悟ったのだろう。突っ込むしか能のない愚直な男が、珍しく賢明な判断を取っているとも言えようか。
「おかしな真似をしやがって……そんなんで俺の動きはついていけやしねェーぜ!」
対する狼はというと、それまでの如く体勢を沈めて、息を吐く間も無く、獲物に食らいつかんとばかりに疾走する。鉄爪はぎらりと光り、容赦なくセイマの首元を狙う。
獣の戦いは、未だ始まりに過ぎない。
……
そもそもの因縁は、この狼という男が賭博試合に現れたことが始まりだった。
「俺がこの中で一番強ェんだ。貴様らなんざ、足元にも及ばねえンだよ」
現れて早々に堂々と見得を切ったものである。こんな見得の切られ方をされちゃ、元から賭博試合で名を上げてた男達も黙ってはいられない。新顔のくせに生意気な、とばかりに中々に屈強な男が生意気な獣に喧嘩を売ったのだ。
その時はスポンサアの取りなしで、喧嘩を試合の場に移し、そこで決着となったのであるが……。
「……派手にやらかしたな」
その試合を見たセイマは、どうにも冷や汗が流れるのを感じていた。言いようのない恐怖が、体にねっとりと絡みつく。
狼を相手にした男は、獣に噛み殺されるが如く、傷だらけの血だるまとなって転がっていた。
さらには、その鍛え上げられた筋肉をも剥ぎ取られ、喰われる始末。もはや彼は、二度と試合には立てまい。むしろ、この先もまともに生きていけるかどうか。
その始末はまさに、狼。名が体を表している。
しかして、奴の強さは、その自信家ぶりを嘘偽りないものと思わせるには十分。いや、あの強さだからこそ、奴は自らが一番強いと豪語できるのか。
「まあ、とあるツテで呼んできたんだよね。彼、大陸の方の出身らしくて、向こうじゃ負け無しらしい。それで、どうやら自分が強いと言い張るものだから、それじゃあ、ということでさ……しかし、ま、予想以上に面白い男がきたじゃあないか」
スポンサアは、あいも変わらずほくそ笑んでいる。まるでまた、面白いおもちゃが手に入ったかのように、無邪気な目をしていた。
「それで? 君はあのまま、彼が一番強いというのを黙って見過ごしているのかな?」
そして、全てを分かり切っているかのような言葉ぶり。やはり、セイマには気に入らないこと千万である……が、しかしここで乗らないセイマではない。
「逃げるかよ。つうか、あの態度にゃ気に入らねえ。あの、どこに行っても俺が一番だという、傲慢な態度……あれをぶん殴ることができるなら、てめェの腹にも乗ってやらァ」
恐怖はある。体が震えてしょうがない。奴と戦えば、この身が無事な可能性など、ほぼほぼ無いに近しい。下手をすれば、殺されかねない。そんな恐怖の震え。
そんな体とは裏腹に、その顔に浮かぶのは笑み。抑えることなどできぬ、歓喜の笑み。
脳裏によぎるは、あの恐怖とガチンコにやりあう自分の姿。久々の大物に、彼の疼きもまた、止められることはできない。
「決まりだね」
とほくそ笑むスポンサアは、すでにセイマの眼中には無い。かの目に映るは、あの勝ち誇る獣のみ。
既に、闘志の炎に薪はくべられた。とどまることを知らぬかのように、そいつは轟々と燃え盛って仕方ない。
……
爪は首筋を掠める。たかが爪、と思うなかれ。その首はうっすらと裂け目を見せ、そしてたらりと流れるは紅い糸。幾多の血を吸ったであろうその鉄爪は切れ味は中々に鋭く、あともう一寸ずれていれば、頸動脈すら断ち切らんばかりである。
なおも爪は襲って来るが、見様見真似のステップでなんとか間合いを推し量る。一つ見誤れば、途端にあの爪に切り裂かれるのは間違いない。故に、間合いを推し量るのも慎重にならざるを得ない。
俺が、まさかこんな戦いを演じることになるとはな。
殴る蹴る、愚の一直線な力押しで戦い続けてきたセイマにとって、このステップを使った機動に重きをおく戦法はやはり慣れないところ。
しかし、それ以上に相手の機動が俊敏な今、こちらも機動に頼らなければ切り裂かれるのは必至。さらには、これまでの相手のような拳や蹴りといった打撃系な技ではなく、奴が主とするのは指にはめられた鉄爪による斬撃。
こればかりは耐える耐えない以前に、喰らい過ぎれば血を流しすぎ、そのまま体が動かなくなるおそれもある。一つ待ち構えれば失血死。自慢の打たれ強さも、今回は形無しである。
いっそ、このまま突っ込んで一か八かの拳を撃ち抜く、という手もある。だが、その向こうに見えるのは、回避されてこちらの心臓が抉られる未来。
……分が悪い、な。
次第に追い詰められつつあるセイマだが、獣は容赦なしにさらに追い込んでくる。
何事も恐れず、ただ攻める、攻める、攻める。持久力も並外れているらしく、その攻めは一向に精彩を欠くことはない。むしろ、防戦一方のセイマの方が息が上がるほどである。
次第に爪はセイマの体を掠め始め、微量であるが確かに血が滴り落ちる。だからとて、息を吐かせる間も与えてはくれない。次から次へと来るそれを捌かなければ、こちらがやられる。
だが、その時は来る。
「まだ、慣れねェようだな、どさんピンよォーッ!」
遂に、その爪はセイマを捉えた。下から振り上げにかかったそれが、セイマの頬を裂く。あともう一寸上をいけば、瞳も無事では済まなかったろう。だが、その爪は深々と切り裂いた。
故に、鮮血は舞う。その鮮血に若干気に取られたセイマの隙を、獣が見逃すはずがない。
ずぶり、とその爪はセイマの体を深々と抉る。ジワリと染み渡る赤の色。急所はとっさに避けたものの、それでも肩口を抉られるのはキツイものがある。
「さぁ、そろそろ終わりにしようぜ」
勝ち誇るかのように笑う獣の顔。
事実、その爪に捉えられたセイマは、次の攻撃を避けることはできない。ガードで防いでみせても、相手は鉄爪、大した防御にもなりはしない。
故に、狼はトドメを刺しにくる。その爪はセイマの首めがけて、一息に切り裂かんと迫る。
「馬鹿か、おめェは。終わりなのは……お前だぜ」
その絶対絶命の中、セイマの口は笑んだ。それも、忌々しいほどに勝ち誇った笑み。かつて、獣に浮かんだあの表情を、この男が今浮かばさせている。
狼がその真意に気づくその前に、奴の目の前は闇に閉ざされた。弾ける痛みとともに、閉ざされた。放った爪は空を舞い、あてもなく彷徨う。
その爪が届くよりも遥か前に、セイマの拳が狼の顔面をぶち抜いていた。一発、さらにもう一発、それはまるで憂さ晴らし。今まで逃げ一方だったセイマの、執拗な仕打ち。
「さあ、くたばりやがれってんだ!」
渾身の力を込めた大振りが、狼の頬を抉り抜く。これには堪らず獣は倒れ、その拍子に今まで体をえぐっていた爪も抜ける始末。
対するセイマも、その傷の深さにがくりと膝をつく。長いこと抉られていた肩口には、溢れんばかりに滴る血。何とか手で押さえてみせるが、流石の痛さに若干の悶絶。
だが、上々である。肉を切らせて骨を断つ、どうせこのまま傷を負い続けるのなら、一つでかいのを食らって、その何倍もを相手に叩き込めば上等。この傷は、この勝利の勲章である。
などと気を緩めたのが、セイマの失敗だった。
チッ。
その舌打ちが聞こえるか、聞こえないか。その瞬間に、セイマの頰が弾けた。
飛び蹴り。殴られ通して、倒れ伏したと思われた、狼の飛び蹴りである。だが、セイマはそれに気づく前に、いや気づく間もなく地面に伏す。
ただの一瞬で、場面が逆転する。今立つのは、ボロ雑巾のように殴られ臥していた狼、そして倒れるは鮮血のセイマ。この逆転劇に、観客がどよめかないわけがない。
「……はっ、油断したなどさんピン、ありゃア確かに効いたが……でも、肩口抑えてたおかげでよ、片方はあまりって感じだったんだよなーッ! 甘かったなァ!」
そう、かの獣が言う通り、見た目的には仕打ちにもほどがある殴りは、その実肩口を抑えられていたがゆえに、肩が乗らず威力が半減されていたのである。事実、狼のダメージはそこまでと言ったところ。まあ、彼の場合、多少の打たれ強さも関係しているのだろうが。
さて、勝負の行方は迷走入りし、喧騒さらに騒がしくなって来たこの試合、当然ここで終わるわけがない。血を流しながらも、脳の揺れ具合を抑えられないながらも、男は立つ。
「そうだ、立ってくれなきゃ困るぜどさんピン……俺に本気を出させるんだからな……あのまま本気を出さずに勝つほうが、格の違いを見せつけられたのによぉ……クソが」
今の狼に笑みはない。むしろ、血管はよくよく浮き出、迸る殺気はもう止まることを知らない。まさに憤怒、その言葉がよく似合う顔。
徹底的に、相手を殺し尽くす、喰らい尽くす。何よりも誰よりも己が強い、と刻み込む。
獣の真髄を宿らせた、その瞳。そこには容赦も油断もない。
その瞳に映るセイマはというと、笑みが溢れるのを抑えきれずにいる。だが、その笑みはヤケになった笑みの類ではない。
深手を負って、ようやく叩き込んだ攻撃も、眼前の男に耐え切られ、そしてその男はさらに深い実力を表し始めた。
逆境の嵐は吹き荒れる。恐怖が身体を支配しようとする。震えはしかし、セイマは逃げない。むしろ、その本気というものにどれほど己の拳が通じるか、試さずにはいられない。
故の、笑みである。
拳は今、握られる。
呼応するかのように、狼の気も引き締まる。
歓声はもはやない。あるのは、決戦を前にした、ひと時の静寂。
「てめェのその鼻っぱり、今ここで砕いてやらァ!」
戦慄が、走る。
獣は、跳ぶ。
跳んでからの、足がひとつ、ふたつ、みっつ。ほぼ同時に見えるほどの速さで、セイマを襲う。が、そのセイマもまた、それを迎え撃つ。避けるなんて真似はもうしない。全てその躰をもって正面から受け切るや否や、放つ拳は狼の鼻先を掠める。
ここにきて彼の動きもまた、狼の動きについていけるほどになっていた。それはある種、彼の燃え盛る闘志が成せる技か。
だからとて、恐れる狼ではない。それが通用しないならば、別の技を使うまで。
と、その足を地につけた途端、今度は独楽のように旋回する。右左右左、ただ回転するのみではなく、代わる代わる足が入れ替わり立ち変わる。激しいながらも、その形は美しい。まるで舞踊といっても差し支えないか。
だが、その威力は見かけによらず凄まじい。
咄嗟の切り替えに、若干対応が遅れたのか、足先がセイマの腹を掠める。これくらいはどうでことない、なんて思ったのもつかの間、先ほどの頰のように腹が裂け、鮮血が吹き出す。かすかに見える足先を見れば、そこにもかの鉄爪。
そりゃ、こんな切られ方もされるわな!
もはや目の前にあるのはただの独楽ではない、下手に触れれば途端に裂ける、余りに鋭い旋風。
だからとて、逃げるなんて選択肢は、無い。こいつをものにしなければ、反撃の糸口は掴めない。ならばどうする。逃げも隠れもしないなら、どうする。
「……腹括るしかねェ、死なば諸共ってなァ!」
襲いかからんとする死の旋を、敢えて男は迎え撃つ。ちょうど蹴りが迫るその時に、敢えて相打ち覚悟の蹴りを、セイマも放つ。
その刹那だった、獣は再び跳んだのは。顎が大きく開き、獲物に力強く喰らい付くかのように、両足がセイマの首を絡み締めつける。
辛うじてセイマの両足は大地を掴むが、その締めは容赦ない。窒息など生易しいものではなく、首の骨をへし折るかのような勢い。
「わかったかよ格下が、俺より弱ェってことをよォーッ!」
その言葉すら、今のセイマには聞こやしない。脳に血が昇らないせいか、次第に頭が回らなくなる。
そして、確実に聞こえてくる死の足音。骨の軋は未だ止まらず、この軋みが限界を迎えたその時、彼はすでにこの世にはいまい。
しぬ……、つう、か……ここで、おしめェ……な、のか……俺、は。
それは、諦めだろうか。目の前に迫るどうしようもない死に対する諦めと、それを受け入れる悟りだろうか。
けれど、この男が、そう簡単に悟るか。
逆境を前に、ただただ飲み込まれるだけか。
その本気を前に、己の全てはここで朽ちるのか。
……いいや、違ェなァ!
目が、光を帯びる。気の質が、変わる。
狼もそれを勘で悟ったのか、咄嗟に脚を離そうとする。やはりこの勘というものは中々に侮れない。
が、それでももう遅すぎた。深く食い込んだ脚はすでにセイマにしかと掴まれ、それも予想外の馬鹿力故に外す余地がない。いくらその身をよじろうと、その男の執念からはもはや逃れられぬ。
そこから先は、まさに凄惨。
「うがァアァアァアア!」
首を締めあげる狼をそのまま、セイマは地面へと叩き落とした。地はあまりにも硬く、その勢いはあまりにも強く。身動きを封じられている狼は、なすすべもなく頭蓋から落とされる。
それだけで終わるのなら、まだマシな部類だろう。セイマはなおも、狼を首に締め付けさせたまま立ち上がり、落とす、墜とす、陥とす。
凄惨にも程がある。何度も叩き落とされた狼の顔は、まるで柘榴が弾けたように血塗れになり、もはや息があるかどうかもわからない。かと言って我武者羅に叩き落とすセイマもまた、近づきようがなく試合はどうにも止まらない。
まさに夢中、無我夢中。しかし、その無我夢中こそ、この男が強さ。目の前の敵に自らの全てを叩き込まんと、己がその生き様をぶちかまさんとするその執念を前に、流石の狼もなされるがまま。
ようやくそいつが終わったのは、力尽きたのだろうか、セイマが膝をついた時だった。流石の獣も、ついに力尽きたか。首を締めていた足は外れ、ずるりとその体を地に落とす。完全に勝敗は決したと見えた。
「……くだけた、よ、なぁ……自信、満々のツ、ラし……た……お前の、は、な……」
セイマは、もはや立ち上がることもできない。生と死の狭間の中、その限界を超えた力の反動は、あまりにも大きかった。
だが、勝った。燃え盛る命のやり取りの果て、最後に立っていたのは、セイマ。この戦いで燃やすものは、全て燃やし尽くした。そんな充実感を、ひしひしと、感じていた。
それが、まだ終わりではないとも知らずに。
「き、さまより……おれは、つえぇ……んだ、よ」
吹き飛んだ。その執念が、意地が、何もかもが、吹き飛ばした。
目の前、力なく横たわった死骸はいない。
そこに居るのは、なおも自らを押しのけ、己が強いと豪語する、獣の貌。その目の闘志は、いや、最強だと豪語する自負は、未だに燃え尽きてなどいやしない。
「……オレは! ……誰よりも! ……強ェんだ、よッ!」
それから先、覚えていることは何もない。ただ一つ残るのは、獣に喰らい尽くされた感覚のみであった。
………
「ようやく気が付いたかい、セイマ」
目が覚めた先にいたのは、スポンサアであった。あいも変わらず笑みを貼り付け、愉快げにこちらを見ている。
「……俺が負けて、そんなに嬉しいか?」
悪態をつきスポンサアから顔を背けた時、不意に首に痛みが走るのを感じる。見れば、首には包帯が何重にも巻いてあり、動かすこともままならない。
「あそこで狼が君の首元に噛み付くとは、僕も思わなかったさ。しかも中々に力強く噛み付くものでね……あの、セイマの最後の叩き落としに似たようなものを感じたよ」
和やかにスポンサアは語ってみせるが、セイマとしては悔しみに満ちた内容である。
あいつはまだ、終わっちゃあいなかった。あそこまで叩きつけても、なおも勝負を挑んだ……。燃え尽きた俺とは違い、あいつはまだ、燃え盛っていた。
完敗、セイマの脳裏にその二文字が浮かぶ。だが、負けたにしては、気分がいい負けだった。
「全く……ボロボロに痛めつけられたくせにいい顔をしているね、キミは」
「五月蝿えな……こっちだって、実のところよくわかんねえんだ。完全に、それこそ非の打ち所がねぇってくらいに負けたってのによ……なんか清々しい気分になってる、なんてのはな……。でもなんだろな、燃え盛るほど燃え盛って、燃え尽きることができるなら、勝ち負けだとかそういうのはその、どうでもいいんかもな……わかんねえけどよ。……だが、このまま終わり、なんかじゃねえ。この借りは、必ず返してやるさ」
「ふふ……いいね、いいよ、キミのそういうところ……でも、本当に負けたのはどちらだろうね」
スポンサアは、不気味に笑う。訝しげに自分を見やるセイマが、その言葉の先でどんな反応を示すのか、愉快そうに。
「だって彼、死んじゃったんだからさ」
死因は、やはり最後の顔面叩き落し。頭蓋は砕け、脳髄もめちゃくちゃだったらしい。むしろ、彼処で最後の足掻きでセイマに喰らい付き、勝利をもぎ取ったこと自体が異常だと、彼の死体を見た医者も言っていたという。
「自分が一番強い、彼は何よりも誰よりもそ自負が強かった。それは、僕らの目に映る姿以上に、ね。だから、最後に勝利をもぎ取った、のかな。それとも生死が勝負を分けるなら、死んでしまった彼の負けかな? まあ、いい生き様を見せてもらった、ってことでよしとしよう」
スポンサアの言葉は、あまりに淡々としていた。まるで、おもちゃが壊れてしまった、けどそういう遊び方をしてたのだから仕方ない、とでもいうように。そうして、セイマの個室から悠々と去っていく。言いたいことだけ言っていく勝手ぶりは、相変わらず。
残されたセイマのその顔に、少なくとも悲嘆の表情はなかった。罪悪の色も、特に。
賭博試合に立つというのは、そういうことでもあるだろう。だからこそ、殺される覚悟も、殺す覚悟だってとうの昔に決めていた。
実際、この拳で心臓を止めちまった奴らも、そうじゃなくてもまともな生き方をできなくしたのも、両手の指を超えるくらいには、中々に多い。
でも、悔いはない。むしろ、セイマからしたらしてたまるかという話だろうて。それは、それこそ奴が全力を尽くした結果なのだから。
だとしても、胸に穴が空いちまった気分になるのは相変わらずか。
たった一度、しかしその一度を共に燃え盛るほどに燃え盛り、命の鎬を削りあった相手はもういない。思えば思うほど、隙間風は酷く冷たく吹き荒ぶ。
それがどんなに憎らしくうざったい奴だったとしても、その感覚は一切の変わりもない。
いや、むしろ今回に限ってはそれはより強く、かもしれない。
「……あんやろうめ」
今ならわかる。
初めはただただ、憎らしかったあの自信家ぶり。だが、あれは嘘でも何でもなく、自分が強いとどこまでも信じていたからこそ、できた態度。あそこまでの自負を持つ輩は、そうそういやしないだろうて。
そして奴は、それを最期の最後まで貫き通した。
獣は獣でも、最後まで漢だった。
あんな生き方、早々できたもんじゃあねえな。
それは賞賛。拳を交えた戦友に対する、穢れなき賞賛。いっそ手を叩いて褒め称きたくもなる。
しかし、その賞賛など奴はいらないとでも言うだろう。なにせ奴は、己が一番強ければそれでいい、などという獣でしかないのだから。
「……あんやろうの鼻っぱし、とうとう砕けやしなかったな」
獣は一匹、己が誇りを突き通して逝った。そんな獣がつけた傷の痛みは、奴が最期に残した置き土産のように、思えた。
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