てめェは俺が、潰してやる
その戦いの最中、セイマは妙にままならない体が鬱陶しくて仕方がなかった。
疲労や、傷の痛みとは全然違うそれ。まるで身体が自分の意識下から離れて行く、そんな感覚。頭の中じゃとっくにその拳を振り切っているはずなのに、現実はというと拳は握られてすらいない。あまりに奇妙で奇怪な現実。
そこを狙ってか狙わないか、眼前の敵の鉄パイプが頭部を襲う。咄嗟に避けてみせるが、これまた身体が言うことを聞かない。辛うじて頭蓋が砕かれることはなかったものの、衝撃が肩を奔る。
揺らぐ体勢を立て直そうとするも、逃さんばかりと蹴りが腹にもろに入り、昏倒。だが、それでもまだ止まらないのがセイマ。
なおも立とうと足掻いて見せるが再起の機会は必ず潰さんとするその男は、当然のようにマウントを取ってみせるた。もうこうなってしまえば、ひっくり返すのもままならない。
絶体絶命。
それまで潜り抜けてきた修羅場にも、その四文字が脳裏をよぎる事は幾度もあったが、ここまでこの言葉を眼前に突きつけられたと思わされることはなかったかもしれない。
いつもならば、ここから拳を握り返して、反撃に打って出るところなのに、今回に限ってはどうにも拳ひとつすら握ることがかなわない。
「どうしたよ、闘犬ェ……貴様の力ってのは、その程度のもんなのかァ?」
奴の顔が、目に映り込む。
宝石のような碧眼をしているくせに、その輝きはというと濁り切って仕方がない。それが、このどうにも嫌味な笑みと相まって余計に薄汚く思える。
「……へっ、なめちゃあいけねえな、勇次よォ……」
そんな男に対し、セイマもまた笑みをもって返してみせる。
実のところ、そんな笑みを浮かべる余裕なんざどこにもありゃしない。身体がうまく動かない今、この状況を打破するだけでも至難の技。せいぜいできるのは、少しでもハッタリをかましてみせること。
だが、正直言ってこのハッタリなんてものも、この男には通用なんかしないだろう、などとも思ったり。
そもそも、今あるこの状況が、この男の掌の上だとしたら……。
というか……こいつなら、普通にそんなことをやりかねねえ男だからな。
今宵この賭博試合、セイマと相見えるは自らを「悪」と評する男、勇次。その手に勝利を得るためならばどのような手も使ってみせる、まさに悪人。
「そのハッタリがもう惨めだな……まあ、その惨めさじゃあ、まだ俺は満足できねえな」
そして、握られたその拳は非情なまでの容赦の無さをもって、振り下ろされた。
……
元々、セイマと勇次という男は、非常に険悪な仲だ。
それというのも、それぞれの理由で互いで互いをひどく嫌いあっていたからか。
「奴は毎度卑怯な手しか使わねェ、汚え野郎の極みじゃあねえか」
「あの闘犬は噛み付くことしか知らない、愚かにも程がある愚か者だろうが」
というのは、それぞれの弁。
顔を見合わせればこれでもかと睨み合い、口を開けば罵り合いの数々。故に、今日の今日まで試合が組まれてこなかったことに疑問を覚えなかった者も少なくはない。
ただ、組まれないのは勇次の戦い方に問題があるのでは、そう思う人間もいた。言われてみれば、と納得する者も多い。
何故なら、勇次と戦った人間は殆ど、再起不能に陥っているからだ。
いや、再起不能のことだけじゃない。大抵の試合、勇次と戦った者は不自然な負けを喫している。
ある者は抵抗を何一つとてせず、或いは出来なかったかまるでサンドバッグのように殴られ通して負けた。
ある者は、試合途中に苦悶の表情を浮かべるや、吐血。そのまま立つことはできなかった。
またある者は、初めから勝負そのものを捨ててしまった。
当の仕掛け人、スポンサア曰く、
「彼はね、結構なズルをしているよ。でも、そういう男が1人くらいいたっていいじゃない」
面白ければそれでいいというのが、彼のスタンス。相変わらずふざけた男である。
しかして、そのスポンサアがわざわざ言わなくても、奴のズルに気付く者は少なくない。セイマもまた、そのうちの一人。
「てめェ、いつまでそんな戦い方してんだ? いい加減、見ていて反吐がでるぜオイ」
それは丁度、この試合の数日前に投げかけた言葉である。
その日の試合も、当然の如くあまりに不自然な勝利。相手は一切の抵抗も見せず、勇次の鉄パイプにタコ殴りに終わった。かろうじて生きてはいるが、両眼は潰され、四肢も砕かれた。あれでは廃人まっしぐらであろう。
廃人といえばセイマだって人のことは言えないが、それでも許せないのは奴の戦い方が余りにも外道であるからか。
しかして、勇次は悪びれない。
「これが、俺の戦い方ってやつさ。勝つ為ならなんだってやる。俺は、そうして高みに立ってやるのさ」
「はぁ? 高みだと? そんな卑劣卑怯な手で、掴めるわけねェだろ。どうせ立つのなら、正々堂々と挑んでこそだろうよ」
「……逆に俺は聞きたいな……高みに辿り着くのに、その手段を狭めて高みに届くのか、と……。まあ、噛み付くことしかできない闘犬には、何もわからないだろうがな」
火花は、静かに散る。
もはや一触即発の雰囲気がそこにあった。互いの殺気がみなぎり合い、異常なまでの緊張を張り詰めさせていた。
「そういうのは試合でやって貰えないかな、お二人さん」
と、その緊張の狭間に、いともたやすく足を踏み入れる男が一人。
誰であろう、スポンサアである。常人ならばその緊張を前にして腰が抜けるところを、この男は笑みすらたたえて、殺気漲る男どもの狭間に立ってみせた。
そして、二人の顔を見合わせるや、
「そろそろ、機が熟してきたみたいだね。セイマは勇次の卑怯な戦いに怒りを募らせ、勇次はセイマの愚直すぎる態度や戦いざまに苛つきを重ねて、二人ともこの場でもう最高潮。うん、御膳は整った。君達には、次の試合で存分に殴り合ってもらおうか」
と、淡々と次の試合のマッチメイクを決めてしまう始末。しかも、まるで初めからこうなることを予測しつつ、かつ互いのボルテージが存分に高まったところで争わせたらどうなるか、そんな魂胆からくるもの。故に今日の今日まで試合を組ませず、この一触即発を待っていたといえよう。
このまま戦わせても面白くはあるが、やはりただ戦わせるだけでは、つまらない。ならば、もっと燃えるような状況にしてやろう、などと。全くの曲者である。
だがまあ、己の楽しみとするものはそれ以上の楽しみに、などとするその精神は呆れを通り越して感嘆してしまうものがある。
とはいえ、当の二人は流石の芝居に唖然とする始末だが、こう整えられてしまっては、もはや反抗する気も起きやしない。
「……だったら、いいさ。こいつとは、もう拳でしか語れねえ相手だろうしなァ」
「同じく。まあ、俺の場合は貴様という闘犬を徹底的に叩き潰すだけだがな」
「そりゃ、どうだかな」
目を見合わせれば、再び火花。止まることは依然知らず。
こいつは、俺が張っ倒さなきゃあ気が済まねえ。
そして拳は、力強く握りしめられた。
……
その結果が、このザマかよ。
一方的、まさに一方的なまでの仕打ちである。今までも凄惨な戦いを演じてきたセイマだが、どの戦いも意地と執念で互角までに持ち込んできていた。しかしながら、そんはセイマが今この場では拳一つすら出せやしない。
マウントを取られ、幾度も振り下ろされる拳に、ただただ腕で防ぐしかできないセイマ。その腕すら、思ったような力が入らず、その衝撃が骨身に響くのを感じてならなかった。
「どうしたどうしたァ! 反撃はしてこねえのか? それとも怖くなって逃げ出したくなったか、闘犬が!」
勇次はなおも、拳を振り下ろし続ける。詰るような、嬲るような、酷く悪辣しいものがそこにある。
「無駄なんだよ、闘犬が!」
セイマの顔面を覆う腕に、勇次の両手が伸びる。そしてそれを無理やり引き剥がさんとするが、セイマもよくよく抵抗する。しかし力が入らない今、その抵抗もあまりに虚しく敗れ去る。
あえなく腕が開かれたその時、顔面に落ちるは強烈な一撃。頭突きだ。
鉄パイプ程ではないが、この頭蓋もなかなかに硬い。それが、幾度も幾度も落ちてくれば、いかにセイマといえど額は真っ赤に染めあがる。そのうち、初めはなんとかあった抵抗も、次第に弱まっていく始末。
薬さえ盛っちまえば、闘犬も弱った老犬と同じようなもんだな。
初めから、勇次は正々堂々と戦うつもりなどなかった。
そもそもの話、勇次が正々堂々と戦うことなどは皆無に近いのだが、今回もまた例に漏れなかった、といったところか。だが、この試合に限ってはわざと嬲り殺しにしようとさえ思える。闘犬は闘犬らしく、惨めにくたばるのを望むが故か。
その仕込みは試合前に行われていた。セイマの飲み物に、密かに金で雇った子供にちょっとした薬を入れさせ、飲ませた結果が今である。
セイマは飲み物などに注意などしないので、毒を盛るのは容易も容易。例え勇次の手筈とはわかっても、どこで盛られたかなんて気づいていやしないだろう。
そんな、体のままならないセイマを、勇次は徹底的に嬲り続ける。これはある意味、腹立ち紛れの憂さ晴らし。彼の戦いに、毎度吠えてくる犬への、徹底的な憂さ晴らしだ。
高みに登ることを知らない、今ばかりに噛み付く闘犬が……いい加減にくたばっちまえよ。
繰り返された頭突き。セイマの顔面は、鮮血に染まりあがり、体は力なく横たえている。見たところは虫の息。
だが、追い討ちとばかりに、奴は鉄パイプを振りかざす。容赦のなさは指折りだったが、ここまでやるとなると、この一方的な試合を見て来た観客も、背筋に冷たいものを感じる。
勇次は、相手を殺す気しかない。
最早そこにあるのは戦いではなく、ただの一方的な嬲り殺し。その戦いの様相を前に、良心のある者はもうやめてくれ、などと声を上げる始末。
しかし、試合は終わらない。終了の合図は下されない。
「誰が止めようと思っても、望まれない幕は引くつもりはないし、僕が引くんじゃないのさ。幕を引けるのは、あそこでやり合ってる二人だけさ」
相変わらず、殊更絢爛な椅子の上、スポンサアはほくそ笑む。全てが己の掌の上、とでも言いたげに。
そして、その時は来たと言わんばかりに鉄パイプは振りかざされた。その姿は、まるで処刑人のよう。哀れな闘犬に最期を下す、非情な処刑人。
セイマは、未だ倒れ伏したまま動かない。体に力が入らない、傷が骨身にしみる。視界も殴られ通し、頭突き通しではっきりしない。ただ、うっすらと見えるのは憎らしい奴の姿。
掌で転がされるだけ転がされて、ここで呆気なく負けるのか。
惨めだった。あれだけこの男に啖呵を切ってみせたというのに、あの男のやり方で負けるのが、惨めでならなった。
負けるのは、別にいい。己の全てを出し切って、本気で目の前の敵と噛みつきあって、それで負けるのならまだいい。
しかし、今はどうだ。己の全ても出せず、噛みつきさえも出来ず、一方的な嬲り殺し。
そんな負けを、この男が、セイマという闘犬が、認められるか、認めてやれるか?
……認めてやれるわけ、ねェだろ。
しかして、勇次はそんなセイマの心内を知る由はない。非情なる鉄パイプを以って、その戦いに幕を引かんとする。
それはまさに一息、ギロチンが首を落とすが如く、振り下ろされた。誰もがそれを最後に決着が着く、そう思った。
だが、実際はどうだ。そこに見える光景は、どうだ。
その鉄パイプは、脳天ギリギリで寸止めされていた。セイマの無骨な手がぎしりと掴んで、己が最期に届かせまいとしている。
「キッ……サマ?!」
驚愕。
まさにその二文字が、勇次の脳裏にありありと浮かぶ。周到にセイマを薬で弱らせ、さらに先ほどのマウントで瀕死にしたと思い込んだが故の、驚愕。
だが、今度はセイマがそんなこと御構い無しに、伸ばした足で勇次の金的を狙う。驚愕のうちにあった勇次も、こればかりは許さず、咄嗟に鉄パイプを離して回避する。だが、予想だにしない状況に若干の慎重さを見せ、間合いを取る。
全く……いつもながらの打たれ強さを見せるかよ、犬が……!
勇次の瞳に映るのは、血みどろに濡れながらも立ってみせる手負いの闘犬。
その様相は、あまりに力なく思える。だというのに、鮮血に染まりながらも勇次を見据えるその眼は、意地と執念の炎が揺らめかせている。当然、その男の終わりなんざひとっかけらも見えやしない。
勇次が最も警戒していたもの、それはこのセイマの非常なる打たれ強さだった。これまでの戦いの中、どのような攻撃をくらい続けて来たとしても、立ちのさばってみせるその打たれ強さ。
「それこそが彼の真髄さ。どんな攻撃に晒されても、彼自身が折れない限り、何度も立ち上がる打たれ強さ。昔、彼を見出した時、僕はそこに惚れたんだ」
などと、スポンサアが評するそれを攻略するために薬までも用いてみせたが、まさかそれすら超越するとなると、もう閉口するしかあるまい。想定していないわけではなかったが、万に一つもないと思っていたのも確か。
故に勇次は、この状況に戦慄する。そして、改めて奴の強さを見せつけられる。
勇次は、セイマの戦いを幾度も見てきた。今この場で徹底的に嬲り、そして勝つために、幾度もその奴の試合様を見極めていた。
それは勝負を度外視した、まるで自分がここで燃え尽きてもいいと言わんばかりの戦い様。それは己とはあまりに対照的なものだった。
勇次はそいつを軽蔑している。上を見据えない、今ばかりにしか噛みつかない闘犬の戦い方だと、反吐を吐くほどに。
だが、逆にその戦いざまを前にして己が敵うかどうかを考えてみると、青ざめるものが身の内にあったのも、事実。
あの愚直さを延々と向けられ続けたならば、きっと何処かでのされてしまう。だからこそ、確実に勝てるという手を打ってきたはずだった。
しかして、今となっては最も恐れた奴の愚直さに真っ向から立ち向かうしかなくなった。薬も、最早あてにできやしない。奴の意地を、執念を前に、薬などという姑息だが確実だと思われた一手は無に帰した。
恐れていたことが現実になることほど、嫌なものはない。この男の本気を前にして、冷や汗がだらりと流れる。
その時だ、セイマが掴んでいた鉄パイプを投げつけたのは。しかして、投げつけた先というのが、勇次の目の前。
攻撃というわけではない。まるで、その武器を勇次に返すかのよう。その不可解な行動に、誰もが目を丸める。
「なんの真似だァ、セイマ……」
それは、勇次も同様。まるで、コケにされてるんじゃないか、そう思ってしまうのも当然の所業だ。
対してセイマは、毅然として目を勇次に据えたまま、拳を突き出して、握りしめる。無骨で、しかし力強いその拳。
「俺はな……てめェのやり方がこの上ねぇってくらいに嫌いだ。嫌いで嫌いで、もうどうしようもねえ。……だからよ、だからこそ俺はてめェのやり方を、俺のやり方で潰す。……こいよ、そいつを手にして、てめェのやり方の全て、出してみろよ。俺が全部潰してやるからよ」
啖呵を切ってみせたその男は、もはや止まることを知らない。それほどまでの意思と、意地と、執念とがその拳に握られている。逃げることなど、叶わない。
「……貴様がそうなら、俺も俺のやり方で貴様の本気を潰すしかないな……いいや、確実に潰すぞそのてめェのクソッタレのツラをよォ!」
故に勇次もまた、腹を括った。
今ある全ての手段を使って、この男を打ち倒す。正直な話、今の今までこの鉄パイプは奪われたものと使う気はさらさら無かったが、貴様がそう言うのならば使うしかあるまい。いや、この俺の全てを賭けなければこの男には勝てやしない。そんな確信があった。
男二人は、対峙する。互いを見合わせ、そして徐々に間合いを取る。まるで抜き身の真剣が、相手の出方を探るような緊張感。下手に動けば、すぐさま得物の餌食となるのは明白か。
緊張が張り詰める。動かない戦況に、次第に客たちは文句を言い始め、物を投げ始める始末だか、当の二人は知ったことではない。まるで世界の中に彼ら二人しかいないような、そんな感覚。
汗が流れ、鼓動は大きくなる。緊張が破れるのは、まだ先か。
否。
動く。
どちらも、寸分の狂いなく、動く。
勇次の鉄パイプが、セイマの握られた拳が、互いを打ちのめさんと動く。まるで、示し合わせたかのような、激流。
そして舞ったのは血飛沫。鉄パイプがセイマの顔面を、そしてセイマの拳が勇次の頰を、抉る。が、ここで終わるわけがない。その後は拳と鉄パイプの応酬だ。
もはや、先ほどの静寂などはない。血と汗が吹き飛ぶ、拳と鉄パイプの殴り合いが一間の休みなく繰り広げられている。
互いに引くことは一切ない。いや、引けば押すの一進一退。互いに譲れないものがあるからこそ、男どもは目の前の憎らしい敵に向けて本気の拳を、本気の鉄パイプを喰らわすのだ。
この光景に、観客は先ほどの不興を忘れるかのような熱狂を挙げている。もはや、どちらを応援するということもない、熱に浮かされたように歓声を上げている。
しかして、この場に一人この熱狂の中にいて頭は冷えている男がいた。誰であろう、そこで戦う当の勇次だ。
確かに彼の鉄パイプは本気だ。本気でセイマを打ちのめそうと躍起だった。だが、鉄パイプでセイマを打ちのめすことは、限りなく不可能だと悟りきっているのもこの男。
そりゃ、こんだけ鉄パイプで殴ってるのに、倒れねえんじゃ、これ『だけ』じゃ勝てないと思うしかねえだろ。
そう、鉄パイプは思い切り振り撃てばかなりの威力を誇るはず。そのはずなのに、セイマは一向に倒れず、むしろ奴の拳は勇次の体を先ほどの言葉通り潰しにかかっている。
だからこそ、彼は冷静にいた。冷静に、その機を伺っていた。
闘犬は直情的だ。この殴り合いの最中、彼はまさしく闘犬のように、がむしゃらに噛みつきかかってくる。
それが命取りなんだよ、犬が。
それまで殴り合いをしていた勇次が、間合いから外れて一旦引く。当然、セイマは逃さんと追ってみせるのだが、しかしそれは、勇次からしたら蟻地獄にまんまとおびき寄せられた蟻んこと言わざるを得なかった。
セイマが引き戻せない勢いで来たその時、すれ違いざまに勇次はその拳を避けてみせる。そのまま、勇次を再び狙うかに見えたセイマだが、しかし様子がおかしい。
振り向くかに見えたが、一向にその体を動かすことができず、拳だった手はまるで首元をもがくかのよう。対して勇次は、何か糸を引いているかのような手つきを見せる。
よく見てみれば、セイマの首元に煌き一閃。
ワイヤーだ。勇次が袖口に隠して持っていた鋼製のワイヤーが、セイマの首を引き締めているのだ。
「いざとなった時の暗器さ。短絡馬鹿の闘犬を躾るには丁度いいもんだったか、アァ?!」
この男は、どこまでもブレやしない。勝つためならば、己が望みを果たすためならば、どのような手段も行使する。それが卑怯と外道と呼ばれても、言わせておけばいい。
そう生きることしかできない男は、そう生き切ることを自らに定めた、それ故に。
「俺のやり方で死ねよ、闘犬ェ!」
その引き締めは、窒息どころかそのまま頸動脈を断ち切らんとするほど。
物理的な攻撃こそ、セイマの打たれ強さは発揮される。しかして、このような締めの攻めには、どれだけ体が打たれ強くともそれは全て無意味。これには、流石のセイマも勝ち目はないか。
が、どうだ。
顔は次第に蒼白になりながらも、目は未だ落ちる様相は見えない。むしろ、その瞳の奥にはかつてないほどの執念の炎が燃え盛っているじゃあないか。
首が締まる? それがどうした。
息ができない? それがどうした
このままだと死ぬ? それがどうした。
俺は、こいつの全てを潰すと言ったんだ。
こいつの全てをぶつけられた上で、俺の全てで潰すと言ったんだろうがよ。
……なら、こんなんで引けるわけが、ねえだろ。
ねェだろォがよォ!!!
引き締めるワイヤーを、セイマは掴む。それこそ力の限り、勇次の引く力に負けぬように、奴のやり方に負けぬように。
そこにあるのは、もはや常人には測り難い意地と執念。目の前の今に対する闘犬のそれらは、勇次の決め手に喰らいついては離さない。
勇次は、それに気づいてなおもワイヤーを引ききる。その様相は、まさに綱引き。命と命を引き合う綱引き。
互いに一歩も譲らない、と言いたいところだが、勇次の引きが段々とセイマの引きに引かれつつある。
この男は、どこまでも……!
勇次もまた、負けてはいられない。最早、こちらも力の限り、いいや意地の限りだ。彼もまた、セイマを潰さねばしょうがないのだ。
初めは金稼ぎと名を売るくらいの認識でなかった賭博試合。裏で手を回して効率よく勝つことで、高みへと登る足掛かりになればそれで良かった。
だが、そんな最中に現れたこの男。事あるごとに自らのやり方に毎度噛みついてくるこの男を叩きのめさねば、気が済まないのだ。
今にしか生きれない闘犬は知らない。その男がどれほどの苦難を経て、その高みを目指すのか。どれほどの痛みを持って、手段を選ばぬ男となったのか。今を全力で生きることに満足している犬になんぞ、到底わかりもしないだろうて。
だからこそ、この闘犬は潰さねばならない。この俺の生き様に賭けて。
しかして、やはり彼は「先」を見ていた。この男を倒すために、命を賭そうとはサラサラ思ってはいない。それもまた、高みを目指すものの宿命ともいえよう。
対して、セイマは違う。彼は執念は『今』に対するもの。それも、並みの執念ではない。
まさにその命を燃やせるだけ燃やし尽くさんばかりの、それこそ鎖ですら繋げまい業火のような執念。ここにある闘犬の喰らいつきは、まさに生を賭した喰らいつき。
故に、度が違う。『今』に対するぶつけるモノの、度が違うのだ。
それは今この時も、同じく。
だからこそ、その勝敗は明白だった。
ワイヤーを引き千切ったのは、セイマ。その反動に勇次の態勢は崩れ、大きな隙がそこに生まれる。そいつをどうにかせんと足掻いたとしても、最早遅い。セイマの拳はすでに、勇次の顔面に迫っていた。
てめェは俺が、潰してやらァ!
闘犬の拳が、勇次を地へと文字通り叩き潰す。
意地と執念と、そして戦いに赴く度の差が生んだ、正真正銘渾身の一撃。
そんな一撃をまともにくらえば、勇次とて立つことはままならない。軽い脳震盪でも起こしてるような気もする。どれだけこの憎らしい闘犬を叩きのめしたくとも、辛うじて残る息ではもはや叶いはしまい。
今に喰らいつく男と高みを目指す男、譲れぬ意地のぶつけ合いは今ここに決着した。
「……どうだい、叩き潰してやったぜ、オイ」
「ほざけよ……そんな生傷だらけの体でよ」
「ほざくさ、筋を通したのは俺の方だからよ」
そしてセイマ浮かべるは、勝ち誇りの笑みひとつ。これには勇次も、たまらず目を背ける始末。ああ、憎らしくて仕方がない。
しかして実際、セイマの体は満身創痍にも程がある。顔は血に濡れて、全身には生々しい青あざが浮かび上がっている。下手をしたら、アバラの一本や二本は折れているのではと思う様。
勇次が効いていないと思っていた鉄パイプのダメージも、決してないわけではなかったということだ。
きっと、その全身には止めどなく痛みが響いていよう。しかし、セイマはそんなそぶりをおくびにも出しやしない。
「いや、一見するとどちらが勝者でどちらか敗者かわからなくなりそうだねえ。でも、僕はこういうの嫌いじゃないさ」
と、どの観客よりも拍手を送るのは、誰であろうスポンサア。上級のワインを一飲みしたかのようなうっとりとした笑みで、この二人の戦いを称えてみせる。仕掛け人故に、その拍手も盛大。
その一点から、波紋が広がるかのように喝采が湧き始める。鮮烈で激烈、しかして意地と意地をぶつけた激闘を賞賛するかのよう。
だが、自らの戦いに対するその喝采に、目を向ける素振りはこれっぽちも無い。そんなチンケなモノを手に入れんがために、戦っていたわけじゃあないのだ。
勝者は、ただ去るのみ。言葉なら拳で十分に語ってみせた。
しかし、そのあまりに傷だらけ、痣だらけの彼の背は、栄光の道に進むどころか、闇の深淵にたち失せそうな危うさがあった。
死の影が見え隠れしていると言っても、過言ではなかろうて。
「俺が言うことじゃねえが……お前、いつか壊れちまうだろうぜ」
虚ろな視界に映るそれを眺めながら、勇次はポツリと溢す。
だが、セイマは歩みを止めはしない。つまづきそうになりながらも、倒れそうになりながらも、最後まで自らの二本の足で大地を踏み、そして歩む。
今も、そしてこれからも。
意地と執念がこの身に燃え盛る限り、どれほど壊れ果てようと、彼は歩みを止めないだろうて。
それが、憧れた生き様であるならば。
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