二十七話
彼はひとり、蒸し暑いカラオケボックスで熱唱していた。
周りにはグッタリとした男女が五人倒れている。うっすらと額に汗をにじませた彼は、恍惚とした表情を浮かべていた。
それは勝利の喜びか、異常性への恍惚か。誰一人として知る者はいない。
彼にある女が接触してきたのは、一か月前のことだ。塾帰りに繁華街を歩いていると、突然声をかけられた。
妖艶を具現化したような彼女は、尼僧の装いながらも不思議と周囲に溶け込んでいた。
『あなた、欲しいものがあるのでしょう?』
一言一言が、心を蝕むかのような声。
彼はいつの間にかうなずいていた。まるで意思の感じられない首肯。
『彼女にこれを飲ませなさい。あなたの言うことを一つだけ、聞いてくれるようになるわ』
差し出されたものは、閉じられた薬包紙だった。
『もし決心がついたら、ここにメールして頂戴。細かなタイミングや手順を説明するわ』
彼女は、いつの間にか消えていた。手の中には、粉薬の入った薬包紙が残された。
曲が終わり、一転して静寂に沈む。
五人の男女は相変わらず眠り続けている。
彼は一息つくと、一人の少女にゆっくりとにじり寄る。
「戸部さん……」
心なしか呼吸が荒い。
整った顔立ち、豊かな胸、程よく締まった腰回り。こんこんと眠るポニーテールの少女は、控えめに言ってもかわいい部類に入るだろう。
彼はそっと太ももに手をあて、ゆっくりとなぞるようにスカートの中へ滑らせていく。
バキッ
狭苦しい部屋に、鈍い音が響き渡る。顔面に強い衝撃を受け、彼は吹き飛んだ。
「……まったく、黙っていれば調子に乗ってくれちゃって」
私は床にのびている男を一瞥し、吐き捨てるように言った。思わず顔面に拳を叩き込んでしまったが……乙女の絶対領域を犯そうとしたのだ。多少はしかたない。
新調した制服に、毒耐性の術式を仕込んでおいたことが功を奏したようだった。適当な狸寝入りで様子をうかがっていたが、さすがに我慢の限界だった。
ひっくり返ったコップからこぼれたジュースは、微弱な術式の気配が感じ取れる。正体は飲んでみないとわからないが、そこまでする気にはなれない。
残りの四人は術式を仕込まれた様子はない。どうやら睡眠薬で眠っているだけらしい。
床に転がる男は、明らかに気絶していた。死人化している様子はない。さりとて、呪術師でもない。なぜ術式仕込みのクスリなど持っていたのか――
「さて……」
自分の管轄内で起きた呪術がらみの事件。どう処理しようか思案していたところを、耳障りな着信音で遮られた。
ピー、ピー、ピー、と甲高い音が規則的に流れる。着信音というより、むしろ警報音のようた。
どこか不安を掻き立てられるその音は、『最優先の連絡』を意味する。慌ててスマホを取り出した。
「もしもし、戸部です」
『緊急事態だ。至急、二瀬を連れていつものマンションの屋上に来てくれ。持てる武装はありったけ持ってこい』
「了解です、向かいます」
相手は、第四課の鹿島さんだった。
手短に会話を済ませ、電話を切る。
電話超しでもわずかに動揺が読み取れた。
時が来た、ということなのだろう。
私は眠り呆けている二瀬君をうつぶせになるように抱きかかえ、思い切って喉奥に指を突っ込だ。
彼は二、三回ほど痙攣した後、地面に胃の中身を思い切りぶちまけた。
「おえええええええ」
立ち
ゲホゲホとせき込む彼の背中を軽くさする。
「どう、目は覚めた?」
「……ああ、すまない。助かった」
彼は口を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「仁山くんに騙されたわけか……」
地面にのびている彼を見て、小さくつぶやく。
「さっき、鹿島さんから緊急で招集がかかったの。たぶん、例の三人目の屍でしょう」
私は彼にそう告げると、廊下へでようとドアに手をかける。
「え、ここはどうするの?」
「店員さんが始末してくれるわよ。私たちは隠匿の術式を纏って出ていけば気づかれないでしょ」
「でも……」
「これはおそらく、私たちを足止めするためのものよ。そこに転がっている彼、捨て駒みたいだし。見たところ人間である彼が私たちを襲う意味はない。どうせ死人連中に騙されて、都合よく時間稼ぎにされたのでしょう」
仁山君とやらに何があったかは分からないが、今は放っておくしかない。死人を使わずに足止めを企てるところを見ると、一人でも多く他のことにまわしたかったのだろう。呼び出しの案件は相当規模が大きいと考えられた。
「……冷静なんだな。見習いたいよ」
彼は心底うらやましそうにつぶやく。
「それは無理よ。だって私たち、正反対だもの」
特に深く考えたわけではない。思わず口をついて出た言葉だった。
「そうだな、正反対だ」
二瀬君はことも何気に言い、私が先に廊下へ出るように促した。
私は少しだけ強めに扉を押し開け、薄暗いカラオケルームを後にした。
私は、私の戦いをするために。
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