十四話 仇敵
二月にしては、やけに生暖かい風の吹く夜。
真空コンクリート舗装の急坂を踏みしめるように登っていく。特徴的なドーナツ型のスタンプ跡が遙か上まで続いている。
何気なく後ろを振り返ると、中心街の光がゆるやかにまとまって一つの塊のように見える。淡い夜景だ。
立ち止まり、息を整えてゆっくりと刀を引き抜く。
ふたたび前を向くと、一人の女性が立っていた。
尼僧のように見えるのは手に数珠を持っているからだろうか。身に纏う黒衣は身体のラインがハッキリと出ており、豊かな胸や艶めかしい腰つきが一層強調される。チャイナドレスを彷彿とさせる服だ。
殺意はない。というより、生物としてあるはずの気配がない。仕組みは不明だが、ほぼ間違いなく遠隔系の呪術だろう。おそらく立体映像に近いものだ。
「で、僕に何の用です?」
彼女は微かに笑った。
「そうね、まずは自己紹介かしら。私は……」
ふと思案顔になる。
「そういえば、きちんと名乗るための名を持ってなかったわね……人は私を八百比丘尼と呼ぶわ。本当は戒名があったはずなのだけれど、いつの間にか忘れてしまったみたいね」
抗い難い抱擁感のある、母性に溢れた声。真剣を構える男を前にして動揺はおろか、くつろいでいるとさえ思える彼女の振る舞いにつられて警戒を解きそうになる。
しかし、細めた目の奥の瞳はあまりに虚ろだ。僅かな光を呑み込み、暗闇にあってなお絶大な存在感を持つ闇が顔を覗かせていた。
「怪異に名乗る名前は無いですね。用がないなら斬りますが」
ハッタリだ。術式の気配すら感じられず、打つべき手がわからない。
一陣の風が吹き付ける。
「無いものを斬ることは、今のあなたにはできない。自分が一番よくわかっているのではなくて?」
後ろから声がする。
落ち着いて振り向き、ゆっくり距離をとる。
「私から一つ、提案があるの。承服していもらえれば一切の危害を加えないし、街にいるお仲間の安全も保証する」
「受け入れなかったら?」
「そのときは出直すわ」
彼女はわざとらしくタメをつくる。
身体から力が抜けていく。刀を下ろしてしまいたい。
「貴方には、刀を置いて日常生活へ戻って欲しいの」
ゆっくりと脳内で反芻する。刀を置いて日常生活へ戻る。
『――て――――さ――』
同時にどこからともなく、聞き慣れた声が聞こえてくる。誰だろう。
「もちろん危害は加えないし、一緒に住んでいる二人の安全も保証するわよ」
再び、彼女の姿が消える。
振り向こうとすると、後ろからそっと抱き
「あなたには、私と暮らしてもらいます。設定は……そうですね、姉と弟はどうでしょう?」
『――きて――くだ――』
遠くから声がする。
耳を撫でる吐息は温かく、僕の頬をやさしくなぞる手はなめらかで気持ちが良い。
「それとも……恋人がいいですか?あの人が怒りそうだけど」
あの人……? そうだ、あの声は……
『おき――――くださ――』
妖しい声は耳元で意地悪く笑う。
「さて、どうする?あなたは……」
「起きてください!」
頭の中に怒号がこだまする。
いつの間にか地面にうつぶせに倒れ込んでいた。
身体を起こすと、白羽さんが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫ですか!?いつものユウくんですか? 洗脳されてませんか? 記憶はありますか? わたしがだれかわかりますか?」
少しだけ頭が痛い。手脚の感覚に異常がないか確認しながら、そっと立ち上がる。
「とりあえず帰りましょう」
彼女は僕の手をとり、無理矢理引っ張って歩きだす。ひどく落ち着かないその様子は初めて見るものだった。
「ちょっ、ちょっと」
呼びかけるが、応じる様子はない。着物が乱れるのも気にせず、一心不乱に坂を下っていく。
「ちょっと!」
手を振りほどく。
「何をそんなにカリカリしてるの? らしくもない」
白羽さんは立ち止まり、振り向く。
「おおかた、あの尼に言い寄られたとかそんなところですよね?」
「まぁ……間違っちゃいないな」
「あの女は屍の中でも随一のくせ者です。幻術系の呪術を得意とし、相手を洗脳して支配してしまう」
「いや、待ってくれ。洗脳して支配って、呪術の三大奇跡じゃないか」
呪術の三大奇跡。呪術での達成が困難とされる三つの事象。
複雑な因果の溯行である人体回復、無数の選択肢の吟味である未来予知。そして人間の不定型な自我を我が物とする、洗脳支配。
これらを呪術で達成するのは実質不可能とされており、数多の呪術師が難題に魅せられ発狂したらしい。
委員長から聞いただけだが。
「ええ、だから呪術師は皆『洗脳など有り得ない』と思ってます。彼女はそこにつけ込むのが上手い。幻術で相手を惑わせ、呪術ではなく心理的に洗脳していく。気がついたときには使い捨ての駒か、性奴隷か、呪術開発の実験台か……いずれにせよ、心身共にめちゃくちゃに破壊されていることは間違いないでしょう」
彼女は滔々と喋る。
「本当に危険なんです。自分以外をただの玩具としか捉えていない。いや、自分すらも玩具の一つなのかもしれません。ともかく、幻術をかけて接触を図るような屍の言葉など耳に入れないで下さい」
まくし立てるように言い切ると、再び僕の手を強く引いて歩きだした。
細い指は不安げに僕の手首を何度も握りなおす。まるで、そこにあることを確かめるかのように。
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