第6話
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クリスマスを心から祝えなくなったのは、五年前の、あの事件があった年からだ。
妹が、見合いで出会った男と結婚して二年目でもあったあの年、妹が俺に電話で助けを求めてきた。結婚式以来会っていなかったが、急いで妹のもとに駆けつけると、彼女は見るも無惨な姿になってしまっていた。痩せ細り、腹や背中は殴られた痕や生傷で覆われていた。妹の話を聞いて、ショックを受けた。あの、人を殴ることなど到底できなそうな義弟が、妹をここまで痛めつけるなんて、信じられなかった。けれど、妹はかろうじて証拠を録音・録画していた。裁判では、これが決定的証拠になるはずだった。
しかし、義弟が金にものを言わせて雇った弁護士はそれを「慰謝料をむしりとるための偽の証拠だ」と言って、さらに妹の人間的欠陥について大勢の前でまくし立てた。気の弱い妹は、それで完全に打ちのめされてしまい、こちらが体制を整える間もなく、裁判は向こうの勝ちで終わってしまった。妹はそれ以来、子供を俺に預け、療養所で病人同然の生活をしている。
俺はなんとか持ち直したけれど、それ以来、人を信じることが出来なくなってしまった。義弟のみならず、正義を為すと信じていた司法にさえ見放され、この世のすべてに裏切られたような気分だった。護身以外に使う気はなかったけれど、常に拳銃も持ち歩くようになった。
そんな気分だったせいかもしれない。遠出をして、知らない街でクリスマスのアルバイトをしていたときに出会った少女に、おぞましい提案をしてしまったのは。
クリスマスから一夜明け、俺はその街のホテルで目を覚ました。祝い事は何もしなかった。俺には祝うべきことなど何もなかった。
手元の古いラジオを付けた。いつもの音楽が流れてきたが、すぐに外からのサイレンの音に掻き消された。その音に、俺は思わず青ざめた。
まさか、あの子が表で発砲したのだろうか。
寝間着のままホテルの廊下に出ると、他の客も同じような姿で出てきていた。不安げな顔で辺りを見回したり、近くの客同士でなにやら喋ったり、怒りの形相でフロントに走っていったりと、落ち着かない様子だ。
俺は何か予感のようなものを感じ取って、廊下を進んでいった。
奥の方の部屋の前で、床にへたり込んで震えている女の清掃員がいた。その部屋は鍵が開けられて、中が露わになっていた。俺はその部屋へ、そっと足を踏み入れた。
部屋の中は、血塗れだった。
ベッドの中に、死体が二つ転がっている。一つは見知らぬ女の顔。そしてもうひとつは、忘れもしない、虫も殺せなそうな、優しい義弟の顔だった。
「……驚いた?」
その声に、思わずびくっ、と肩が震える。
振り返るとそこには、にこりと聖女のような微笑みを浮かべたあの女の子が、火の消えた暖炉の前でしゃがみこんでいた。全身は血と水に濡れ、寒さでガタガタと震えている。あっけに取られて、俺はしばらく何も声を出せなかった。
「ねえ……笑ってよ。言われたとおりにしたのよ。わざわざここまで、壁を登って。ウィリアムが泊まってたのが2階だったのが救いだったけど。寒かったのよ、とても。笑えるでしょう?」
「……どうして、泊まっていた部屋がわかったんだ?」
「わかったんじゃないの、噂に聞いただけなのよ。この街じゃ、噂はすぐに広まるの。私のお母さんが、こっそり描いてた絵本ですごい賞を取った時だって、一日でみんなに知られたわ。私はお母さんの言うとおり内緒にしてたのに、バカなお父さんがバラしたから。その次の日には、お母さんはみんなの笑いものになって、私を嫌うようになった。私のせいじゃないのにね。他の町の人はすごく褒めてくれたのに、ここじゃ、子供の本なんて書く大人は幼稚なんだって。だから私はそんな、幼稚な絵本作家の娘なの。お調子者ワイルダー。おばかなワイルダー」
俺は思わず彼女を抱き上げた。
「もういいよ。こんな下らない街は出たらいい。君は馬鹿でも不細工でもない。本当に、大したもんだ」
俺は彼女の冷たい身体を強く抱き締めた。
「君は、ただのワイルダーだ」
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それから、1年後のクリスマス。
私はまだ捕まっていない。不思議なことだが、私と寝間着姿のサンタクロースは、あの時窓から飛び降りて逃げてから、一度も警察に追われることなく、あの街を抜け出すことができた。そうしてサンタクロースの住む町にたどりついた私は、サンタクロースの姪っ子と一緒に、新しい場所で名前を変えて暮らしている。この町の人達は、無用な干渉や噂話をせず、ただ優しい目で、訳ありの私のことを受け入れてくれた。ここでは誰も裏表がなく、穏やかな空気が流れている。
私は母と同じ、絵本作家になった。あの町に置いてきてしまった母には、もう会えないかもしれないけれど、もしもう一度絵本を描きはじめているのなら、いつかはまた同じ絵本作家として出会えるかもしれない。クリスマスの今夜は、私の新作の絵本を孤児院に贈る予定になっている。
サンタクロースの幼い姪っ子は、私の作った絵本でいつも明るく笑ってくれる。彼女の病んだ母親も、時折、微笑むようになった。私にとって、それはこの上もない名誉であり、喜びなのだった。
今日はクリスマスだけれど、たとえご馳走や祝い事などなくても、私は十分すぎるほどの幸せを感じていた。だって今は、自分をファーストネームで呼んで微笑んでくれる人が、いつもすぐそばにいるのだから。
merryXmas,merryWilder 名取 @sweepblack3
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