#16 終業ベル

「…………はい、お疲れでしたー。多数決の結果、選ばれた犯人は五百蔵くんでした。そしてなんとご名答! 手縄くんを殺した残虐非道の殺人犯は、五百蔵くんだったのでしたー!」

 全てが終わった空間で、場違いな合成音声が結果を告げる。大人なのか子供なのか、男なのか女なのかも分からない赤いペンギンは、ケタケタと笑い続けていた。

部屋の扉が、豪快に開かれる音がした。驚いて振り返ると、黒いスーツを着た男が数人、こちらへ向かって歩いてくる。根廻さんのような、プログラムの工作員だ。五百蔵くんを捕まえるために、部屋の外で待機していたらしい。

「………………行くぞ」

 男はそれだけ言うと、五百蔵くんを掴んで引っ張っていく。五百蔵くんは体から力が抜けていて、だらしなく引きずられるだけだった。僕たちはそれを、黙って見ているしかない。

 誰も何も言わない。これが最後の別れになるかもしれないのに、さよならも言えない。

 言葉が出ない。

 部屋から、五百蔵くんが連れ出される。そこでやっと、ひとりの生徒が動き出した。抱さんだ。

「……………………!」

 抱さんは、真っ直ぐ部屋の出口を目指す。僕も無言のうちに、抱さんの背中を追いかけ始めていた。

「ま、待ってよ!」

「ふたりとも、待ちなさい!」

 ようやく声を出せたのは、鴨脚さんと阿比留さんのふたりだけだ。二人の足音が僕の後ろからついてくるのを聞きながら、僕は部屋の外へ出る。

 部屋の外、緊急HRが始まる前の待機スペースには、五百蔵くんの姿も抱さんの姿も見えない。少し辺りを見渡して、屋上に繋がる錆びついた扉が開いているのを見つけた。その扉に飛び込んで屋上に身を躍らせると、やっと抱さんの姿を視界に捉えることができた。

「なんでっ…………! なんで明さんを殺したんですか!?」

「抱さん………………」

 抱さんの叫びに、五百蔵くんが反応する。引きずられていた体を立て直して、しっかりと地面に足をつけた。連行していた男たちを振り払って、こっちに迫ってくる。その目は多少、怒りを含んでいる。どうして彼は、怒っているんだ…………?

 男たちは逃げ出さないと判断したのか、その場でただ見ているだけだった。男たちの後ろには黒いヘリコプターが見える。…………ヘリコプター? 空路で運ぶの?

 僕たちの目の前に五百蔵くんが来るころに、屋上には阿比留さんや鴨脚さんの他にも、御手洗くんや遊馬くん、雲母さんや肉丸くんがいた。

「…………お前たちには、分からないさ」

 それが五百蔵くんの、一言目だった。

「俺は、どうしても人生をやり直したかったんだ! そのためには、この『義務殺人』を利用するしかない。一年間何もしないでいられるか! 俺は、お前たちみたいに悠長なことを言ってる暇は無かったんだ」

「………………君も、手縄くんと同じなのか」

 …………いや、手縄くんとは大きく一線を画す。手縄くんは殺人を『悪いこと』だと理解して、殺人をしないと誓っていた。でも、五百蔵くんは違う。君は…………人殺しを許容してしまった。

 人を殺すリスクを、考えなかった。

「無花果、お前には分からないさ。自分のせいでも何でもない事件で白い目を向けられて、学校に通えなくなった俺の気持ちなんてな! 俺の親父が起こした暴力沙汰のせいで俺まで悪者扱いだ。俺が、一体何をしたっていうんだよ!!」

 さすがに僕も、その気持ちは分からない。僕の場合は、自業自得だったという側面もある。五百蔵くんは事件のことを詳しく話さないからどうにも想像しがたいけど、彼の言い分を十割信じるなら、彼はただ巻き込まれただけ。

 同情の余地は十分にある、しかし……………………。

「……僕にはそれでも、理解できないよ。人を殺そうだなんて気持ちは」

「だろうな。のうのうと引きこもってたお前には、分からん」

 彼は別れを惜しむような様子もなく、くるりと背を向けて歩いていく。最後に、一言残して。

 これが俗にいう、捨て台詞。

「精々頑張って殺しあえよ。明の野郎みたいに、死んでから『早く殺しておけば……』なんて後悔する前になあ!」

 その言葉も、僕には届かない。それでも後ろにいた何人かは、五百蔵くんの言葉を深刻に受け取らずにはいられなかったみたいだ。振り返ると、みんな、一様に青い顔をしている。

 再び正面を見ると、五百蔵くんがヘリコプターの中へと消えていた。プロペラが、回転を始めた。抱さんは、駆けだすように数歩足を出して、途中で止まる、その歩みは、彼女の心の中を表しているようで、見ていて辛い…………。

「違います。明さんは決して、そんなことは思わなかったはずです………………」

 ヘリコプターの爆音に紛れて、抱さんの呟きが聞こえる。次いで、押し殺したうめき声も。

「本当に羨ましいよ。そんな風に、誰かの死を悲しめて」

 僕はこの『義務殺人』を通して、抱さんのようになれるのかな。

 ヘリコプターの強風が、僕の心に波を立てていくみたいだ。五百蔵くんを追い詰めた時には何も感じなかったのに、今更になって罪悪感が、僕の心を時化させる。

空高く昇っていた太陽にヘリコプターは重なって、眩しさで見えなくなる。ヘリコプターが飛ぶ音も聞こえなくなって、僕たちは学校に取り残された。

「結局なんで、五百蔵くんは手縄くんを殺したのかな……?」

 僕の隣で、鴨脚さんが言った。

「動機、言ってるようでほとんど言わなかった」

「…………それも、そうだったね。動機を言ったようで言わない犯人っていうのは、ミステリー的に珍しいのかな?」

 それはとどのつまり、彼は僕たちに一切心を開いていなかったということだ。心を開く余地もなかったから、あんな、中途半端な説明しかできなかった。

 踏み込まれたくないエリアが、多くなり過ぎた。一週間ほどとはいえ、五百蔵くんとは仲良くなったつもりだったのに、彼にはそんな気がなかったんだ。

 それは少し、悲しい。

「…………あの~」

 不自然な合成音声が、聞こえた。後ろを振り返ると、赤ペン先生が控えていた。居辛そうに、腕を(羽を)後ろに回してもじもじしている。先生がそんな態度をするとは思えないから、大方僕たちを弄ぶための演技だろう。

 そして赤ペン先生の後ろから、四月朔日くんと御巫さんが追ってきた。ふたりとも、屋上に入ったところで赤ペン先生の様子を不審な目で見つつ、僕たちの方へ来た。

「何よ? 用が無いなら帰ってほしいんだけど」

 阿比留さんが容赦なく、赤ペン先生に向かっていった。阿比留さんの一言で、赤ペン先生はより萎縮する。それも演技だ。

「用があるから、こうしているんですよ。君たちクラスメイトとの感動のお別れで忘れてるよ。緊急HRのMVP!」

「MVP? ああ、そういえばあったな」

 遊馬くんが思い出すように言った。心底どうでも良さそうだ。その言葉にさらに赤ペン先生は傷ついた(これも演技)のか、テンションが落ちていく。仮にもMVPを発表しようという人間(?)の態度じゃない。

「発表しまーす……。今回のMVPは見事、殺害と磔の順番誤認トリックを看破した無花果くんでーす。ご褒美をお受け取りくださーい…………」

 赤ペン先生は後ろに回していた羽を前に出して、僕に向かって棒状の何かを投げてきた。赤ペン先生が何を投げたのかちゃんと見えなかったけど、反射的にキャッチする。掴んだ瞬間、ずっしりと重みが両腕にかかった。

「う、おう…………?」

 この重さは、ただの棒じゃない。僕はキャッチした物を目線の高さに持ち上げて、それが何か確認する。

 日本刀だった。

 ジャパニーズサムライブレードだった。

「……………………っ!!」

 体中に寒気が走って、反射的に投げ返した。赤ペン先生はそれを丁寧にキャッチする。高性能な着ぐるみだ。

「危ないわ! 日本刀なんか投げんな! 鞘走って抜き身になったらどうする気だ! そして要らんわ!」

「ちゃんと紐で鞘は固定してあるから大丈夫ですよー! せっかくのご褒美投げないでよ! 普通じゃ手に入らない凶器だよ!」

「ますます要らないから!」

 赤ペン先生はすっかり元のテンションに戻っていた。ああ、今になっても心臓の鼓動が早いままだ。ほんと、心臓に悪い。あんなもの、投げるかよ普通。

 それに、あんな凶器使ったら僕が犯人だって一発でバレるじゃないか。

「本気にしちゃってー。冗談だよ冗談。ご褒美は鴻巣先生が持ってくるからねー」

「え…………?」

 噂をすれば何とやらで、鴻巣先生がちょうど屋上に来た。手に持っているのは、デバイス? しかも白い文字で『4』と書かれている。あれは、僕のだ。

「はい、あなたのデバイス、アップデートしておいたから」

「あ、アップデート?」

 それが、ご褒美?

「そうです。部屋に残っている生徒たちにはもう説明しましたが、MVPに選ばれた生徒のデバイスは強化されまーす! 具体的にはデータ容量が二十パーセント増加するのと、『真実の書』が追加されることです」

「『真実の書』?」

 電源を入れて、メニュー画面を表示させる。『フォルダ』の下に、『真実の書』という項目が追加されていた。

「『真実の書』はプログラムの開発者が書いた企画書みたいなものだよ。そこには、『義務殺人』に関わる重要事項が書かれているんだ。目指せコンプリート!」

 ………………いや、コンプリートするってことは、あと何回も緊急HRを実施しないといけないってことだ。もうこんなこと、何度もやってられるか。

 それに『真実の書』を集めたところで、『義務殺人』の重要事項を知ったところで、僕たちにそれがどう関わってくるんだ。

 僕の内心を表情から読み取ったのか、赤ペン先生が笑う。

「ケタケタ…………。そんな顔しないでよ。『真実の書』を君たちに渡すのには理由があるんだからさ。そろそろ話してもいいかな? 『義務殺人』の抜け道について」

「抜け道…………? おい、それは何だよ。早く教えろ!」

 四月朔日くんが先生に食って掛かる。その焦り様を見て、赤ペン先生はいよいよ愉快そうな笑い声をあげる。

 抜け道。文字通りに解釈するなら、『義務殺人』を一年待たずに終わらせることのできる特別な方法のことを、赤ペン先生は言っている。愉快痛快と言った感じで笑っているが、僕たちをからかうために嘘をついているという様子はなさそうだった。

「そんなに焦らないでよ……。発表しまーす! 君たちがこのプログラムを抜け出すためには、基本的にはクラスメイトを殺して緊急HRでみんなを騙し通す以外にありません! しかし先生は同時に、クラスのみんなには仲良くしてほしいとも思っているのです。そこで、『あること』をすれば、殺人なんかしなくたって今すぐみんなをこのプログラムから卒業させてあげます」

「卒業…………それはつまり」

 御手洗くんは、その言葉が気がかりだったみたいだ。それは僕も同じ。卒業というワードをあえて赤ペン先生が使ったのには理由がある。それはきっと………………。

「うんうん。御手洗くんの予想通りだよ! ズバリ、『赤ペン先生の正体を見破ること』! それができたら、今すぐにでも君たち全員を卒業させて、本来なら殺人の報酬である『環境の整備』ってやつもあげちゃうよ!」

 全員揃って、大団円。一年を待たず『義務殺人』を終了させ、なおかつみんなが再出発のチャンスを手に入れる。まさにこの場の全員が求めていたハッピーエンドを、赤ペン先生は提示した。

 赤ペン先生の正体を探るという、答えの見つかりそうにない難題と共に。

「…………難しいが、やるしかない。これ以上犠牲者を出さないためには、その条件のクリアを目指してクラスで団結するしかない」

「さっすが遊馬くん。話が分かるんだからー。それじゃ、先生たちは帰るよ。今日はこれでお開きだからみんな帰ってよし。月曜日に元気な顔を見せてね」

 言うだけ言うと、赤ペン先生と鴻巣先生は屋上を去った。後に残されたのは、『選択肢』を示された僕たちだけ。

 一年間何もせず、のらりくらりと『義務殺人』をやり過ごすか?

 ルールに従い、殺人を犯すのか?

 それとも、赤ペン先生の正体を見破るのか?

 どちらにせよ、勝率の圧倒的に低い三択だった。

「……………………」

 …………思えばつい一週間前まで、僕の歩くべき道は一本しかなかった。ずっと引きこもって外に出ないという一本道。道を外れることはできるけど、道なき道を進む気にはなれなかった。

 プログラムが始まって、道は二本になった。引きこもるという道は途絶え、代わりに現れた分かれ道。人を殺すか、殺さないかという選択が。

 そしてもう一本の道が、今の僕たちに示された。大きな岩で塞がれているけど、先に道が伸びているのは分かる。

 こんなに多くの道が、僕の目の前にある。選択肢の存在。これもまた、三年ぶりのことだ。

 僕はどの道へ進めばいいんだろう。正しい道の選び方を、僕は忘れてしまった。それどこか、そもそも知らないのかもしれない。だから僕は、道に迷っているのか。

 考えたってすぐには出ない答え。それを見つけようとする僕の思考は、ある音で止められた。

「………………あ」

 お腹の鳴る音だった。隣を見ると、鴨脚さんがお腹を軽く押さえていた。恥ずかしそうに顔を赤くしている。場違いな呑気さに、ようやく僕たちは釘づけにされていた足を動かせるようになった。

「……貴様は前世に緊張感を置いてきたのか?」

 御巫さんの言葉に、鴨脚さんが慌てたように答える。彼女は自分の持っているケータイを取り出して、その画面をみんなに見せる。デバイスよりも一回り小さいそれは、噂に聞いていたスマートフォンというやつか。

「ほ、ほら見てよっ! もうお昼過ぎてる! お腹だって空くよ」

 スマートフォンに映された時間は、十四時三十六分。そうか、捜査からずっと時計を見てなかったけど、もうそんなに時間が経ってるんだ。三時間の捜査の後で緊急HRをしたんだから、それくらい経過していてもおかしくなかった。現に、太陽は高く昇っていたことだし。

「…………よし! みんな、これからどっかご飯食べに行こっ!」

 鴨脚さんは思いついたように、そんな提案をした。唐突というより、性急だな。クラスメイトがひとり死んで、しかも犯人までクラスメイトだったのに。そんな状況から脱してすぐにクラスメイトと一緒に食事とは、いささか警戒心に欠ける気もした。

「お腹空いたし。ご飯食べて、今日は早く帰って寝て、土日で休んで、それからもう一回始めよう! 今度は、誰も死なないように」

「…………そうだな。鴨脚さんの意見に賛成だ。先生の言葉も考えたいが、まずは気持ちを切り替えよう」

「ふふっ。いいですね。賛成です!」

 遊馬くんをはじめ、口々に賛成を告げる。抱さんも、もう泣いていない。彼女のこの切り替えの早さはいったい、なんなんだろう。…………いや切り替えの早さを言えば、この場の全員がそうだ。

 殺人事件が起きた後とは思えないほど、いつも通りの活気を取り戻していた。

 それとも、僕が引きずり過ぎなだけなのかな。ろくに悲しめないくせに。

 みんなは屋上から次々に出ていく。僕も後を追って屋上から校舎内に戻ろうとしたけど、そこで視線に気づいて、足を止めて振り返った。雲母さんが、僕を見ていた。

 僕と同じ青い目が、こっちを見ている。

「ちょっと、聞いてもいいかしら」

「いいけど、その代わり僕も質問していいかい?」

「いいわよ」

 彼女は歩いて、僕の傍までくる。一歩を踏み出すたびに揺れる金色の髪は、輝く軌跡を残す。

 澄んだ声が、僕の耳に届く。

「どうしてあなたは、『意味』という単語を避けているの?」

「…………バレた?」

 僕が今日その言葉を使ったのは、一回ないし二回くらいだった。その時も『意味』という言葉を反射的に避けたとはいえ、そこに気付かれるとは思わなかった。

「そうね。『意味』なんて簡単な言葉を『意義』と言い直されれば、少し不自然さが残るわ。どうしてわざわざ言い直してまで、そんな難しい言葉にするのかしら。それはあなたが、『意味』という言葉を避けているから。そうでしょう? 実際、あなたが『意味』という言葉を使ったのは、わたしの言葉を引っ張ってきた時だけだった」

「……………………うん、僕は確かに『意味』という言葉を避けている。深い理由は無いけどね。単に、『意味』が人の名前だから避けているだけだよ。ほら、違和感あるよね。人の名前を会話で使っちゃうっていうのは」

「本当にそれだけなら、すぐに慣れそうなものだけどね」

 完全にバレてるっぽいな、僕が避けている本当の理由も。助かることに、雲母さんはそれ以上何も聞かずに、僕の質問を促した。

「あなたが聞きたいことっていうのは?」

「それは…………雲母さんの態度だよ。緊急HR中に、君は一度、普段じゃ考えられないような態度をしたよね」

 犯人の見当がついていると言った時の、内気で弱々しいとすら思える態度だ。僕にはどうしても、それが理解できない。

「どうして君は、あんな態度をとったんだ? 雲母さんの目星は正しかったじゃないか」

「それは結果論に過ぎないわ。あの時は、本当に正しいかどうかなんて分からなかった。間違えるかもしれない。それがわたしは、怖かっただけ」

 怖い…………?

「ねえ、あなたは名探偵に必要なことって、何だと思う?」

 雲母さんが僕に尋ねる。藪から棒もこれ極まりだが、僕は考えて答えた。考えたと言っても、僕には名探偵のイメージが描けないから推測どころか憶測になったけど。

「推理力と観察力、かな?」

「それは少し違うのよ。そのふたつは、案外どうでもいいことなの。道具や人を使えば、いくらでも補えてしまう。わたしが言っているのは、もっと根幹的なところ」

 彼女は拳を握って、僕の胸を軽く叩く。三回、ノックするように。

「自分の推理したことを、正しいと信じる心。名探偵に一番必要なのは、そんな傲慢に近い心の強さ。あなたにはあるんじゃない?」

「…………僕は傲慢でもないし、心が強いわけでもない。僕は知ってただけだよ。人が人を殺さない難しさと、僕が犯人じゃないという決定的な事実を」

「…………そう。傲慢なくせして謙虚なのね。――――――――は同じなのに、そこは違う」

「え………………?」

 雲母さんの言葉は、後半がほとんど聞き取れなかった。フェードアウトして、最後は小さな呟きになる。彼女が何て言ったのか聞きたかったけど、僕が声を出すよりも先に屋上の扉が開いて人が現れる。阿比留さんと鴨脚さんだ。

「二人とも、何してるの? おいてっちゃうよー!」

「雲母ちゃん、今日は逃がさないからね! 九も早く来なさい!」

 相変わらず強引だな阿比留さんは…………。

「分かった。行くよ」

「さすがに逃げないわよ。今日ばかりは」

 ふたりを追いかけて、僕たちは屋上から校舎に入る。明るい場所から少し暗い校舎に入って、階段を下りる。

「最後にひとつ、いいかしら?」

 隣を歩く雲母さんが、僕に言う。彼女と隣り合わせに歩くのは、これがもしかしたら初めてかもしれない。

 僕たちとは別次元に生きているような彼女。同じ人間とは思えない神秘さと輝かしさを持つ彼女に、少しだけ近づいた気がした。

「またしても、わたしが入学式に名前を知っていた理由を聞かなかったわね。興味はもう無いのかしら?」

「違うよ。それは、五か月後の約束だからだ」

 僕たちは歩く。次に何が待ち受けているか分からない、この校舎の中を。

 次も誰かが死ぬかもしれないという不安と、僅かに見え始めた『義務殺人』脱出の希望を持って。

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