#5 殺せと言われても動けない

一 支給された赤ペンキーホルダーは常に身に付けなければならない。

二 特別な事情が無い限りは、登校しなければならない。

三 本プログラムの内容を部外者に口外してはならない。

四 殺人が許されるのはクラスメイトのみで、ひとりにつき三人まで。

五 教職員への攻撃は禁止。

六 校舎及び設備の破壊は禁止。

七 ルールを破った場合、生命の保証はできない。

「…………どう思う?」

 それからしばらく赤ペン先生からの説明を受けたのちの、五百蔵くんの弁だ。

「どう思うって………………」

 狂ってるとしか、思えなかった。

「つうかこれ、日常にあっていいことなのかよ。マジで分かんねえ」

 五百蔵くんは頭を抱えてしまった。僕は五百蔵くんの言葉から、あの時の彼女の台詞を思い出していた。

「『これから始まるのは、異常』か…………」

 まさにその通りだったのかもしれない。赤ペン先生が去り際に後ろの黒板に書いていったルールを見てあらためてそう思ったし、思わざるを得なかった。

 隣の席を見る。その彼女はいなかった。鞄が机の横に掛かっているからまだ帰ったわけではなさそうだ。

 ほとんどの生徒が、赤ペン先生の説明で頭に一撃を食らったらしい。しばらくしても、席を立つ者はほとんどいない。今日は入学式だからここまでと言われているけど、このまま謎だらけで帰っていいのか、みんな悩んでいるんだろう。

 席にいないのは隣にいたあの人を除けば、遊馬くんとその後ろに座っていた女子生徒くらいか。どこ行ったんだろう。

「……あたしとしては、すごい怖いんだけど」

 鴨脚さんがそう呟く。興味とか好奇心とか興奮とか、『義務殺人』の内容を聞く前にあったそれらのものはすっかり鴨脚さんから失われていた。

「特に…………一年間何もしなくても特にペナルティが無いって言うのが、余計に怖い」

 ペナルティについては、赤ペン先生が去る前に説明していた。後ろの黒板に書かれているようなルールを破った場合は、ペナルティが待っているらしい。ルール七に『生命の保証ができない』と書かれている以上、それなりのものを覚悟した方が良さそうだ。

 一方で意外なことに、一年間で殺人をしなかったとしてもペナルティは無いようだ。赤ペン先生曰く「そういうのを付け足しちゃったら『自発的』じゃなくなるでしょ」とのこと。なるほど、ペナルティを付けるとそれは『脅し』になって、殺人が『自発的』ではなく『強制的』になるからか。それなりに考えてある。

 その、考えてあるのが問題なんだろうけどね。荒唐無稽で冗談にしか思えない話なのにところどころに正当性というか、理論を感じる。ちゃんと考えて、大真面目にこの『義務殺人』を運営しようという腹だ。

「少なくとも今は、バトルロワイヤル状態にならないのを不幸中の幸いと捉えるくらいしかできないか……」

「そうだな無花果。なにせルール四で、ひとりの生徒が殺害できる人数に制約がある」

 逆に言えばそれくらいしか、プラスに解釈できることが今は無い。それだけ現在の状況がどん底なのだ。

「それに実際問題、今の話を聞いてどれだけのやつが殺人を企むってんだ? 荒唐無稽もいいとこだ。一流の冗談と思った方がまだしっくりくる」

「…………鴨脚さんは興味を持ってたみたいだけど、そこまで『環境の整備』が魅力的だった?」

「それは…………」

 鴨脚さんは目を伏せて、極まりが悪そうにしていた。自分が一瞬にせよこんな馬鹿げた話に乗ってしまったことが恥ずかしいのかもしれない。

「あたしは……ある程度聞いてたから。一年間であることをすれば、だいたいのことは望み通りになるって。でも、まさかそれが『殺人』だったなんて思わなくて……」

「え、紅葉、お前知ってたのか?」

 鴨脚さんはおそらく、僕と同様に関係者からある程度の情報を与えられていたようだ。逆に五百蔵くんは、何も知らずにここまで来てしまったと見るべきか。このプログラム、実質は生徒自身の承認が無くても保護者の承認があれば生徒を強制的に参加させることができる。ここへきてその意味が、大きく変わっていた。

 僕の両親は、知ってたのか? 知らなかったのか? この更生プログラムが、生徒に殺人を要求するものだということを。

 確認のしようは、ないな。部外者への口外は禁止されている。部外者には、保護者も含まれている。

 当事者は教職員やプログラムの関係者を除いて、この教室にいる生徒だけだ。

「……お前ら、少し話をさせてもらってもいいか?」

 いつの間にか隣に、背の高い男子生徒が現れていた。体格は細身だが、遊馬くんのように病弱そうには見えない。凛々しい顔つきから、彼の聡明さが分かる。

御手洗みたらいくん、でいいんだよね?」

「そうだ。念のためもう一度自己紹介をしようか? 御手洗清司だ」

 あの後、赤ペン先生は一応出席を取ったから、彼の名前は分かっていた。御手洗清司。

「他の連中は見ての通りノックダウンって感じだ。お前らがどうも、今のところまともに話ができそうだと思ってな」

「それはどうも」

 少なくとも、御手洗くんはノックダウンという印象を受けないけど。それに僕たちは比較的早い段階で親しくなったから話しているだけであって、決してノックダウンから遠い精神状態にあるわけじゃない。特に鴨脚さんは参ってるみたいだ。

「そういうお前はどう思うんだ?」

 五百蔵くんの問いに、少しだけ考えるように御手洗君は沈黙する。

「普通じゃない、だろうな。それに疑問も多く残る。例えば、実際に殺人が起きたとして、本当にこのプログラムを仕組んだ連中は約束通り『環境の整備』を行うと思うか?」

 つまり御手洗くんは、この胡散臭い話がどこまで真実なのか気にしているということだ。

「このプログラムを裏で指揮している連中の度量が分からん。規模も、思想も、信頼度もだ。あまりにも不確かすぎる。そこがはっきりしない以上、何も行動はおこすべきじゃないだろう。幸い、一年間何もしなくてもペナルティはない」

「結局、穏便に学校生活を送るのが一番ってことだろ?」

「そうなるな、武」

 そうだ。御手洗くんの言うとおり、今のところ『義務殺人』は得体が知れない。それを裏で指揮する組織の本気度もよく分からない。それでも、僕たちは一年間何もしなくたって問題はないというルールを知っている。今できることはこの話がどこまで本気のことなのかを慎重に考えつつ、普通に学校生活を送ることだけだ。

「……そりゃ、あたしは殺人なんてする気ないよ。たぶん、それは九くんも五百蔵くんも御手洗くんも同じだと思う。でも、他の人は………………?」

 鴨脚さんが、ぼそりとそんなことを言った。

「鴨脚さん……?」

「だって、あたしたちって今日会ったばかりだよ? 誰が何考えてるか、分からない」

「それは、俺も危惧してたんだ」

 御手洗くんは、鴨脚さんの言葉を引き取って話を続ける。

「殺人の報酬が『環境の整備』だと赤ペン先生は言っていた。そして不登校から脱却――――更生するための手段だとも。裏を返せば一度殺人を行ったやつは、もうこのプログラムに参加する理由は無いということにならないか?」

「御手洗くん、それって…………」

「殺人を行った人物は更生プログラムから撤退、あるいは卒業になる可能性がある。それは要するに、一年を待たずにこんな命の危険と隣り合わせの教室から脱出できるということだ。『環境の整備』自体に魅力は感じなくても、保身に走って殺人を行うやつがいても不思議はない」

 まるで考えられる可能性のひとつのように御手洗くんは話すけど、たぶんそれは現状最も考えられる殺人の動機だ。そもそも、ここにいる生徒は全員が例外なく不登校児。不登校に至る経緯は人それぞれだとしても、その状況を何はともあれ甘んじて受け入れてしまっているという点においては共通している。

 それを思えば、いったいこの中の何人が『環境の整備』とかいう殺人の報酬を魅力的に感じているのか分からなくもない。鴨脚さんみたいな例はごく少数で、だいたいが『環境の整備』を欲してなどいないだろうし、不登校からの更生すら望んでいないかもしれない。

 だからこそ、一番注意すべきなのは保身による殺人だ。

「本当は、誰も何もせずに一年間じっとしているのがベストなんだけどね……」

「無花果は分かるようだな。それがどれだけ難しいのか」

「まあ、ね」

 御手洗くんも分かっているようだった。僕がこんな状況下で『何もしない』ことの難易度を理解できるのは、いつ誰がどんな理由で人を殺すか分からないという歴然とした事実を知っているからだ。あの口ぶりからすると、御手洗くんも知っているのかもしれない。

 人を殺さない難しさとか、人に殺されない難しさとかを。

「ま、難しく考えても埒が明かねえだろ?」

 五百蔵くんは明るく前向きに、事態を捉えようとしているみたいだった。

「今んとこ手に余る疑問が多すぎるんだ。ただ大人しく、じっとしてるしかない」

 その難易度を理解できているとは、とても思えないけど。

「そりゃお笑い草だ! こんな美味しい状況に気付いてない馬鹿がたくさんいるとはな」

 突然上がった笑い声に驚いて声のした方を向くと、立ち上がって鞄を手に持った少年の姿が見えた。手縄明。赤ペン先生にあの時質問されていた少年だった。思えば彼は、鴨脚さん以上に赤ペン先生の話に興味を持っていた。

 そして不穏なことに、その興味は鴨脚さんと違って一切失われていないようだ。野性的な目を殊更鋭くして、手縄くんは僕たちに食って掛かった。

「お前らは分かってねえよ! 人ひとりさえ殺せば良いんだぞ。それで保身どころの話じゃねえ。散々怠けてたオレたちでも、どんな名門校にだって行ける。学校に行きたくねえんならどっかに就職を斡旋してもらえる。こんな美味しい話はねえよ!」

「その代わり、人を殺すんだぞ?」

 御手洗くんは静かに問いかけた。人を殺すリスク。それを彼はどのくらい問題にしているのか。

 そして彼は知っているのだろうか。人を殺すことの重大さを。

「そんなたいした問題じゃねえよ。『人を殺せ』って言っておいて、まさか殺したら牢屋行きってのはあり得ないだろ? ルール上許可された正当な行為だ」

 違う。問題はそこじゃない。たとえ正当な行いだったとしても、殺人をすることの重大さは変わらない。

 それが誰か、大切な人を守るための行為だったとしても、『人を殺した』という事実だけは変わることが無い。

 変わることなく、立ちはだかる。

 御手洗くんは肩を大げさに竦めてみせた。降参、というか、取りつく島が無いと諦めたみたいだ。

「そうか。それだけ、お前は勝ち上がることに執念を燃やしているんだな。なるほど分かった。それなら草霞野球団の一件も納得だ」

 ほとんど最後の方は独り言だったが、手縄くんは聞き逃さなかった。『草霞野球団の一件』というのが彼にとってキーワードだったのか、手縄くんは急に狼狽えるような態度を見せた。

 狼狽えるというか、痛いところを突かれたみたいな。

「て、てめえ! どうしてそれを!」

「どうした、たいしたことじゃないんだろ? 俺は学校を休んでる間に、ただ無益に時間を潰していたわけじゃないってだけの話だ。俺は古今東西の、実際に起きた事件を調査するのが趣味なんだ。ま、趣味が高じて学校を休んでた大馬鹿者だがな」

「…………ふん。ハイエナみてえな真似しやがる」

 それだけ言い残して、手縄くんは去って行った。まあ、要するに捨て台詞を吐いて消えたって認識で間違いなさそうだ。

 それにしても御手洗くんにそういう趣味があるとは驚きだ。いや、逆に納得できた。それだけ現実の事件に精通していれば、人を殺さない難しさを十分知っていてもおかしくない。

「どうしたんだ? 手縄くん、やけにさっさと帰ったみたいだけど……?」

 手縄くんが去るのと入れ違いに教室に入ってきたのは、遊馬くんだった。手縄くんのことを聞く割には、あまり興味が無いという風でもあった。興味が無いというよりかは、ろくな答えが返ってこないと予想しているって感じかもしれない。

「急用を思い出したらしい」

 それに対して御手洗くんも適当に答える。この場合「手縄くんの痛いところを突いて帰らせた」では説明にならないと判断したんだろう。彼は彼で少々勝手である。

 あれ以上手縄くんに喋られると教室の空気が一層不穏になりかねないから、帰ってくれたのはありがたかった。

「で、お前は何してたんだ?」

「僕は職員室に行ってみたんだ。阿比留あびるさんと一緒にね」

 遊馬くんがそう言うのと同時に、教室前方の扉から女子生徒が入ってきた。遊馬くんと一緒に消えていた女子で間違いない。太めの眉と、手縄くんとはタイプの違う目の鋭さが印象に残る。肌が少し日焼けしているのは、手縄くんと似ている。だからといって野球ということはまずないだろうけど。たぶんテニスとかその辺だ。高校生ならともかく、中学生の女子で日焼けするスポーツはテニスと相場が決まっている。水泳部じゃないのはすぐに分かった。日焼けによってできるゴーグルの跡が全くないからだ。変な跡だから隠したいし消そうとも思うのは分かるけど、あれはさっぱり消せるものじゃない。

 阿比留乙女というのがフルネームだった気がする。とにかく気の強そうな女子だ。そして僕はそんな女子が苦手だ。

 一目散に逃げたいくらいだ。

「手縄のやつ追っかけてみたけど、やっぱ無理だった。なんなのあいつ? どういう性格してんの? 男子なんだからもっとしっかりしてほしいよね」

「放っておこう阿比留さん。彼は集団行動が苦手なんだろう」

 僕も遊馬くんみたいに簡単に流せるとうれしいんだけどね。

「…………で、遊馬くん」

 とりあえず僕は阿比留さんをどうするかを保留して、遊馬くんに肝心なところを聞くこととした。職員室に行ったという話だった。

「職員室に行ったんだよね? どうだった? 赤ペン先生以外の先生はいた?」

 この際赤ペン先生はいてもいなくても同じことだ。他の教職員の存在が重要になってくる。

「いや、いなかった。職員室は鍵がかかっていて入ることができなかったが、それでも扉についているのぞき窓から中の様子は見れたんだ。見た感じ、赤ペン先生すらいなかった」

「無人、ってことで合ってるのかな?」

「さすがにそれはないだろう。僕たちの課せられている行為の重大さを思えば、人こそいなくても隠しカメラで様子を常に監視するくらいのことはするはずだ」

 だよね。そこまで僕たちを放し飼いにするはずがなかった。

「他の教室はどうだったんだ?」

 横合いから話に参加してきたのは御手洗くんだった。遊馬くんは冷静にその質問に答える。外見だけじゃなく立ち振る舞いからも、彼はとても中学生には思えなかった。

 本当に高校生くらいの年齢なんじゃないだろうか。

「今は全ての教室を確認したわけじゃないが、ほとんど普通の学校という印象を受けるな。僕たちのクラス以外は誰もいないくせに、他の一般教室も机や椅子が並んでいた」

「他には?」

「他には…………学校の大体の構造を把握したくらいか」

 遊馬くんは学校の構造、造りについて話し始めた。まとめると、この学校は三つの昇降口を基準に考えると分かりやすい構造をしているとのことだ。

 三つの昇降口。それは僕が校舎に入る前に見たそれで間違いないみたいだ。僕たちが校舎に入るときに使った西側昇降口のほかに、昇降口が二つあると遊馬くんは言った。

「ひとつは校舎の反対側にある東側昇降口。そしてもうひとつは西側と東側のちょうど真ん中に位置する、中央昇降口。校舎自体がそれこそ上空から見ると漢数字の『一』みたいに一直線だ。昇降口を基準にすると校舎のイメージが掴みやすい。あくまで僕と阿比留さんが職員室を探す過程で見たものを総合して考えると、この校舎は中央昇降口を基準にしてふたつに分かれる。ひとつは西側昇降口から中央昇降口までで、つまり僕たちが今いるところなんだが、一般教室が並んでいる」

 一般教室と遊馬くんが表現する教室は、つまり今まさに僕たちがいるような教室のことだ。机と椅子が人数分並んだ、学校生活を送るうえで基本となる場所だ。

「もうひとつが反対側、中央昇降口から東側昇降口までのエリアだ。こっちは特別教室――理科室や音楽室が並んでいた。職員室はそっち側にあったんだ。僕の説明は間違ってない、よな? 阿比留さん」

「え、うん。遊馬の説明で合ってる。後は東側昇降口を出て正面のところに体育館とプール、中央昇降口の前に花壇を見つけたくらいだよね」

 たぶんもっと詳しい調査は必要だろうけど、僕たちがノックアウトしていた間にそれだけ調べていたのは遊馬くんのお手柄かもしれない。

 一通りの説明が終わると、阿比留が僕――じゃなくて僕の隣を指差して怒ったように言った。たぶん、怒ってるんだろうなあ。

「で、それより、ここにいた子はどうしたの? なんで気づかない間にいなくなってるの?」

 自分たちのことは棚上げか。僕達からすれば、遊馬くんも阿比留さんもいつの間にかいなくなってた人たちなんだけども。それをわざわざ指摘する理由は無い。それは諺なら『火に油を注ぐ』というやつである。ついでに風も送る結果になるかもしれない。

「ちょっと、九だっけ? あんた、知らないの」

 飛び火かよ。火の諺を思い出してたら飛び火かよ。

 笑えない。

「えっと、なんで僕が知ってると思ったのかな?」

「隣にいたでしょ?」

「隣にいたというか、偶然隣にいただけで、僕はあの人のことをまったく知らない。だから当然彼女がどこに行ったかなんて知るはずもないだろ?」

「何? キレてる?」

 話にならないって、こういうことを言うんだろうか。僕の苦手なタイプが彼女であるのと同様に、もしかしたら彼女にとって苦手なタイプは僕なのかもしれない。お互いの出方というか、話し方にイライラしている。しかもお互いにその話し方は生まれつきというのが決定的だ。人類みな兄弟とは言うけども、最初から相容れないタイプの人っているんだよなあ。

 そういうタイプの人とは、極力お近づきにならないのがお互いのためになるのだけど、向こうはそう思っていないみたいだ。

「キレてはないけど…………『キレる十代』と言われたことなら多々あるけど…………」

「え、何か言った?」

 言った僕ですらどうでもいい呟きを聞き返された。これだから会話がかみ合わない。

「むしろ僕の方が知りたいくらいだよ。この、隣に座っていた人の行先ってのは」

「わたしの行先が、どうかしたの?」

 その声が、喧騒を切り裂いた。

「…………は?」

 見るといつの間にか、冷たい目をした彼女がそこにいた。

「え、ええ?」

 阿比留さんも驚いていた。え、いや、なんで阿比留さんが驚くんだよ。僕は阿比留さんと会話していたから隣の席は視界の外だったし、思いのほかイライラしていたから彼女が入ってくる物音にまったく気づかなかったのは仕方ないにしても(全然仕方なくないのだけど)、ちゃんと彼女の座る席を視界に収めていた阿比留さんが驚くのは問題だ。

 周りの人たち、五百蔵くんや鴨脚さんは特に驚いた様子を見せてないから、たぶん彼女が透明マントを使ったとか、そんなことはないはずだ。

 しかしそれにしても、金色の髪を僅かに揺らす彼女は、最初からそこにいたかのようだった。

 面喰って彼女の顔を見るしかない僕に、彼女はニコリともせず言葉を発した。

「どうしたの? わたしの顔に何かついてるかしら、『キレる十代』くん」

「あ、そんな前からいたんだ」

 僕だって、気づかないとおかしいくらい結構前じゃねえか。

「ちょ、ちょっとあんた、今までどこ行ってたのよ!」

 阿比留さんが怒って(これはもう完全に怒っている)、僕の隣に澄まして座る彼女へ尋ねる。

雲母きららカリカ」

 それに対する彼女の答えは、予想以上にかみ合わないものだった。第一、答えになっていない。阿比留さんの話など聞いていなかったかのようだ。

「わたしは誰になんと言われようとも気にする性質じゃないけど、『名前を知らないから』という理由であんた呼ばわりは頂けないわ」

「え、あっ、名前…………?」

 阿比留さんが混乱している間に、彼女はこちらを向き直る。相変わらず表情に変化が無い。それでいて表情には冷たさとか無機質さが感じられないのも不思議だ。冷たさを感じるのはその瞳だけ。その変化の無い表情が彼女のスタンダードらしい。

「わたしは校舎を調べてたのよ。得体の知れないまま学校生活を送るほど、わたしの頭はおめでたく出来てないの」

「あ、ちょ、なんで九の方見て話してんの!? 質問してるのはあたし!」

 それもそうだ。

「もっとも、あちこちに隠しカメラや盗聴器が設置されている以外は、耕一くんの言ったとおりよ。ここは普通の学校だわ」

「…………なんで、僕の話した内容を知っている? その時君はいなかったはずだ」

「ていうか隠しカメラと盗聴器があったら十分普通の学校じゃないよっ!」

 遊馬くんと鴨脚さんの驚きも当然だ。遊馬くんの言うとおり彼女は遊馬くんの説明中にはいなかったはずだ。遊馬くんの性格を読んで、ハッタリをかましたのか? それで遊馬くんの結論が『普通の学校』じゃなかったらどうする気だ?

 そして鴨脚さんの言ったとおり、得体の知れない学校で生活を送るのを警戒し調査した割には、思いっきり警戒するべき隠しカメラと盗聴器の存在をスルーする。それくらいは予想の範疇ということなのか?

 分からなくなる。もとより分かるとは思ってなかったけど、余計に彼女の存在が掴めなくなる。

 雲を掴もうと悪戦苦闘しているみたいだ。雲は届かないし、届いても掴めない。

「隠しカメラと盗聴器は別に問題じゃないわ。赤ペン先生に隠れて何かをするならともかく、直接命の危機に陥るようなものじゃないもの。今は放っておくしかないわね」

「命の危機が無ければいいのか…………?」

「問題はそれよりも――――――」

 と、ここで雲母さんは話を切って、自分の机の横に引っかけていた鞄を手に取る。そういえば手縄くんの鞄は野球少年らしいスポーツバックっぽいデザインだったような。雲母さんの鞄は、まさに普通の通学鞄だった。

「…………問題は?」

「言わなくても分かるでしょ? 一から十まで何でも喋るのはわたしの趣味じゃないわ」

 そう言い残して彼女は、すたすたと、それが当然だとでも言うように教室を後にした。

「あ、ちょっと!」

 阿比留さんが慌てて後を追う。雲母さんは他人の性格に得意不得意などなさそうに見えるけど、阿比留さんはあからさまに彼女のような性格は苦手だろう。僕なんかよりもずっと。

「…………ああ」

 思えば、どうして僕の名前を知っていたのか聞きそびれてしまったな。これからいくらでも顔を合わせるのだから、いつでも聞ける質問ではあるんだけど、早めに聞くに越したことはない。

 なにせ明日に彼女が死んでいてもおかしくない。僕たちはそういう空間に身を置いているのだから。

 監視カメラと盗聴器がある以外、特に変わったところのない普通の学校、らしい。

雲母さんの調査結果なので、自分の目で確かめる必要がありそうだ。

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