第18話 灯った炎



療養所から電話がかかってきて、真司はすぐにかけつけた。しかし、裕子の意識はすでになかった。






「今日、裕子さんのお姉さんが亡くなられて、それが相当こたえたのだと思います。」


看護師さんは涙ながらにそう言った。






真司は裕子に語りかけた。絶対治るからな。あきらめないでくれ。真司は来る日も来る日も、何度も何度も裕子にそう語りかけた。無論、返事はただの一回もない。






裕子のために何か出来ることはないか、彼は毎日それを考えた。今まではいくらでも思いつけたのに……。彼女の病状が悪化してからというもの、毎日森を抜けてきてこうして彼女に語りかけること以外には、なかなか思いつけなくなっていた。




真司は面白かった話、腹が立った話、裕子が退院したらやりたいと思ってることなどを喋りまくった。これまで裕子にはあらゆることを話したと思っていたのに、こうして意識を失った裕子に語りかけていると、まだ話していない大切なことが沢山あることに思い当たり、ちょっぴり悲しかった。






そんなある日のこと、深い深い森の中を歩いているとき、真司は自分の影を見た。そこには、かつて裕子が言っていた「斜めのコッコ」がいた。その体はきれいな曲線を描いて傾いていた。




真司は裕子の言葉を思い出した。




「料理人コッコ、斜めになって復活!料理人グランプリ優勝!わたしこんな記事を見てみたいわ。」




これだ、とコッコは思った。もし裕子が目覚めたら、開口一番、このことを裕子に話してあげるんだ。新聞記事を見せたら、彼女どんな顔をするだろう。すごいサプライズじゃないか、これは。」




彼のなかでこれほど熱い情熱の炎がともったのは、はたしていつぶりなのか、わからなかった。真司が斜めのコックになることを宣言すると、裕子は少し笑顔になった。少なくとも彼にはそう見えた。






その日彼は、以前どうしても捨てられなかった調理道具たちを、倉庫から引っ張り出した。そして沸騰し続ける血に身を任せるようにして、厨房に向かった。




しかし、なかなかうまくいかない。1年間ケガをしていたスポーツ選手のように、コッコは料理するときにやりにくさを感じた。毎日つづけることの大切さを痛感する。しかしやるしかない。






裕子の病気はもう回復しないのではないか。そんな不安を、料理をしている時だけは忘れることができた。自分は裕子が回復した時のために、彼女を喜ばせる「何か」をしている。そう思うと、コッコは救われた気分になるのだった。人は、途轍もない不安や恐怖があったとしても、意味ある何かに没頭できるのならなんとか生きていけるのかもしれない。




コッコは毎日、裕子がいる森の奥の療養所に行った。そして今日あった出来事や、料理のレシピを話しまくった。不思議なことに、毎日森の傾いた道を通っていると、彼の体は自然に斜めになっていった。この姿勢は体にあまりよくないかもしれないが、ずっと寝ている裕子よりは恐らくましだろう。彼女が回復したら、一緒に「リハビリ」をすればいい。そう考えるとコッコはむしろ楽しい気持ちになれた。




斜めの男になることはできた。あとは料理の腕を上げるだけだ。




狂ったように料理をした。裕子のところへ行くとき以外、頭の中には料理のことしかなかった。料理人グランプリは一か月後に迫っていた。



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