第17話 裕子の言葉、真司の苦悩
真司は裕子が入院してから、毎日のように彼女の見舞いに行った。彼女が入っている療養所は森の奥にあって、そこへ行くのは容易ではなかった。特に、あともう少しで到着する、というところで道は横に傾く。そうなると慎重な足取りで進まなければならない。
ある日、療養所に着くと、手前の窓に裕子の顔があった。ベッドに腰掛けながら、こちらを眺めている。彼女は真司と目が合うと、優しく微笑んだ。かと思ったら、ちょっと不愉快なことに、とつぜんゲラゲラと爆笑し始めた。何について?療養所に入ってから問い詰めてやる。彼は顔を緩めた。
「裕子!せっかくお見舞いに来たってのに、なんで笑うんだよ!」
真司は冗談っぽく憤怒してみせた。
「いや、ごめんなさいね」
そう言いながら、裕子はまた爆笑している。
何がそんなにおかしいんだよ?真司はさすがにちょっとムッとして、強めの口調で聞いた。
「いやね、あなたが斜めになって歩いてくると、ほんとに『コッコ』って感じするなあって」
「?」
真司がきょとんとしていると、裕子は窓の外を指さした。
「ここに来るまでの道、斜めになっていたでしょう?そこを通ってくるときのあなた、体がじゃっかん、横に傾いてるのよね。そうするとね……あなた、ニワトリみたいにかわいく見えるのよ。それを見ていたら、わたし、ちょっと変な情景が思い浮かんじゃって」
「変な情景?」
「ええ。そこではあなたが、さっきみたいに上半身を傾かせながら調理をするの」
「こんな風にか?」
真司は大げさに上半身を傾けた。
「そう!まさにそんな感じに」
裕子は勢いよくこちらを指さし、満足そうだった。
「そしたらちょっと話題になりそうじゃない?」
「まあ、話題にはなるかもな」
「料理中は周りの失笑を買うだろうけど、あなたの料理で黙らせるの。」
「料理人コッコ、斜めになって復活!料理人グランプリ優勝!ああ!私、そんな記事が見たいなあ♪」
真司は顔をしかめた。
「だから料理は……」
「私、またあなたが作った料理を食べたいの。もしあなたが、心から料理を嫌いになってしまったとしたなら、私なんにも言わないわ。でもね、あなた、いまでも料理大好きでしょ?」
「それは……」
自問してみた。答えは出ない。裕子が続ける。
「料理をやめてからのあなた、明らかに変わったもの。一緒に街を歩いていたって、調理器具屋さんの近くを通ると、必ず反応するのよね。寂しそうな顔でそちらを眺めるの。私が気付いていないと思った?気付くわよ。毎回歩くスピードが落ちるし。」
それは、真司自身が裕子に言われるまで気づいていないことだった。顕在していない意識によるものだった。しかし彼の潜在意識は、料理を強く欲していたようだった。それは、料理こそが「世界の中での自分の役割」だと知っていたのだ。潜在意識は、自分では気づかなくても、ときに他人には見えているのかもしれない。「行動」という媒体を通じて。
「確かに、そうかもしれない」と真司は言った。
「最近、何を食べても楽しくないんだ。おいしいんだが、楽しくない。今までは、料理を食べると、その料理を作った人の工夫なんかが垣間見えた。自分の食べるすべての料理が、自分が調理するときのヒントをくれた。それは……ほんとうに、僕の人生に張りを与えてくれた……」
裕子はじっと黙って、真司の話に耳を傾けていた。
「でも、料理人をやめてからは、ただ食べるだけになってしまった。いや、純粋に食事を楽しむのは決して悪いことじゃない。ただ、最近は料理人の工夫に気付くのが怖くなってしまったんだ。いくら気が付いても、もう自分の料理に活かすことはできない……。この考えが浮かぶ時が、ものすごく苦しいんだ……。すまない。せっかくお見舞いに来たのにこんな話を」
真司が謝ると、裕子はしっとりと涙を流していた。正直に話してくれてありがとう、と彼女は言った。
そのとき真司はふいに「また料理をしたい」と思った。それは彼がかなり久しぶりに感じたことだった。
次の日、お見舞いの際に真司はガーベラの種を持って行った。花屋で聞いたら、「お見舞いにはガーベラの花がいい。縁起がいいから。」と言われたためだ。
花の色ごとにさまざまな花言葉があるのだが、ガーベラ全般としては「常に前進」が花言葉らしい。真司はそれが気に入った。そして種を買うことにした。この種が花をつけるのが先か、裕子が退院するのが先か、それとも僕が料理人として復帰するのが先か。そんなことを裕子に言ったら、勝負好きの裕子にはいい影響を与えられるんじゃないか。そう思った。
病院に着くと、裕子が歩いてもいいということだったので、彼女と一緒に森のいちばん深いところにガーベラの種を植えに行った。彼女はガーベラのことをとても喜んでくれた。そして、「その勝負、ずるくない?真司のが一番かんたんじゃない?復帰なんて、今日だってできるんだもの」と言った。
しかし、いざ厨房を目にするとなかなか料理する気分にはなれなかった。
裕子の病状が悪化したのは、そんな時だった。
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