夢使い

@masibakei

第1話・覚醒

プロローグ


救世主の救う世とはとりもなおさずこの世、つまりこの星、地球のことである。

彼ら“神”と呼ばれる者は、この星を滅ぼそうとするものを滅ぼす。

それがこの星で膨大に増殖し暴徒と化している人類に対し、“神”が企てる絶滅作戦計画となり歴史の中で何度も試みられてきた。

知られているところではユダヤ教、キリスト教の聖典でありイスラム教の敬典でもある「創世記」にあるバベルの塔、ソドムとゴモラ、ノアの箱舟など。

そのほか知られているところでは、アトランティス伝説やムー大陸水没伝説。

古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」に書かれている、まるで核兵器を思わせる「インドラ神の雷」。

インダス文明「モヘンジョダロ遺跡」に残っている核戦争の跡と伝えられる「オーパーツ」。

世界遺跡にも登録されているトルコの「カッパドギア」の巨大地下都市での古代核戦争と思われる様々な痕跡の発見。

地球の歴史の中にその証拠と思われるものは多く残されている。

だがそれら神が企てた人類滅亡の試みはなぜか達成されることはなかった。

到底、“神”の力に及ぶべきもない人類がなぜかその手をすり抜けて現代までふてぶてしく生き抜き増殖を続けている。そこには“神”の英知に匹敵する何らかの力が介在したとみるのが当然の憶測だ。

その“神”に匹敵する者こそが、この星に存在するすべての生物エネルギーを吸収し続け、膨大に膨れ上がった人類のエネルギーの内に住むという“夢人(ゆめびと)”の存在ではといわれているのだ。


彼らは太古の昔から邪、鬼、悪魔、夢魔(むま)などと“神”の神々しさとは真逆のイメージで人々の間で語り継がれ、普段は表の世界に現れることもない。だが“神”が再び地球の危機を感じ、人類滅亡計画のスイッチに手をかけた時に何らかの力を露(あらわ)にするのだ。

彼らにしてみれば、この星に渦巻く人類の巨大なエネルギーは彼らの命の海なのだから。

北欧神話「エッダ」の最終戦争「ラグナログ」や「ヨハネの黙示録」の「ハルマゲドン」の予言通り、この星で、人間同士による“神”と“魔”の代理戦争がまた始まろうとしている。


はじまりのはじまり


中学2年の夏休みに入っていた。入学の時からほとんど友達という友達がいない田中雅夢(まさむ)は母の仕事場を兼ねたアパートの一室で勉強をするか一人でゲームで遊ぶか、近所の図書館で読書三昧の日々を過ごすしか選択はなかったが、クラスの中での自分だけが浮いたような気分の教室で過ごす日々に比べればはるかに気楽だった。

夏休みも残り数日になる、そんな夜に、いつもはおっとり調子の母が遅い買い物から帰宅するなりかなり慌てた様子で雅夢に告げたことは彼にとってもかなりショックな出来事だった。

母の買い物帰りの道の途中の市営アパートにパトカーや救急車の物々しい赤色灯やサイレンの音が集まっていた。母は驚いて周りに集まっていた住人に話を聞いてみたそうだ。

それによると、3階建ての建物の屋上から中学生の男の子が落ちたようだということだった。

突然、女性の叫ぶような悲痛な声に振り返ると、救急隊員の運ぶ白い布をかけられたタンカーに縋(すが)りつくような女性の姿が見えた。その取り乱した横顔は友田一郎君のお母さんだったそうだ。


雅夢は驚いて部屋を飛び出し、市営アパートへの夜道を自転車で走った。救急車はもういなかったが、夏の夜の野次馬たちはまだ多く残っており、市営アパートの周りには警察が事故の検証のため規制線を張り、アパートには近づくことはできなかった。

あきらめかけて帰ろうとした時、道路の反対側の電柱の防犯灯の下に、知っているクラスの男子の顔が浮かび上がった。彼らはクラスの中心人物で夏休み前から一郎といつも一緒にいた三人の峰岸、中根、金森だ。彼らは青白い明かりの下で薄ら笑いを浮かべているように雅夢には見えた。


幼い頃から、無口で目立たない、どちらかと言えばひ弱なタイプの雅夢は、まわりから一歩離れた存在だったので、当然クラスの中では、いじめの対象になりやすかったようだ。だがどういう訳か、多少そのような兆候がみえたとしてもいつの間にか治まっているのだ。というよりそのようないじめっ子たちが雅夢を避けているように思えたのだ。

こんな現象は彼が小学生になった頃から中学生の現在に至るまで、環境の変化、つまりクラス変えや転校のたびに起こった。

雅夢が相手のいじめと思える行為に不愉快さを越えた怒りを覚えた相手は、2、3日もすると雅夢をまるで気味悪いものでも見るように避けはじめるのだ。


一郎と雅夢が出会ったのは中学校2年生になった時のことだった。

クラスに東京から男の子が転校してきた。友田一郎という雅夢とよく似て無口で、ちょっとオドオドした素振りの小柄でひ弱そうな少年だった。

最初は登下校の道が一緒ということで軽く挨拶をかわすだけだったが、クラスの中で馴染めない二人は自然、どちらからともなく話をするようになっていった。

性格がよく似ている二人は、母子家庭という家庭環境も同じということもあってか、妙に気が合ったようだ。

しばらくするとお互いの家に行き来するようになり、一緒に宿題やテスト勉強をしたり、ゲームで遊んだり、時には相手の家で食事をご馳走になったり・・・まるで幼いころからの友達のような二人だった。

そして雅夢にしてみれば生まれて初めての友達だった。


そんなフレンドリーな関係が2か月も続いたある日突然、一郎が雅夢を明らかに避け始めたのだ。登下校も時間をずらしてくるし、教室でも顔を合わせようとしない。

どうやらクラスの仲間と打ち解けた様子だった。

クラスの連中といつもワイワイ楽しそうにしている一郎の姿を横目で見ながら、雅夢はいつものように一人でほう杖をつきながら、窓の外を眺めているしかなかった。

ひとりには慣れてはいたが心に大きな穴を開けられたような気がした。でも一郎に仲間がいっぱいできたことは良いことだと納得するしかなかった。

そんな一郎と特に仲良くしていたのが、あの夜の三人、峰岸、金森、中根だったのだ。


一郎の安否すら確認できず、帰ってきた雅夢は訳の分からない苛立ちを感じていた。その日は夕食も取らずベッドに横になったがなかなか眠りにつけず朝まで一郎のことをあれこれと考えるだけで、その思いは一つにまとまることもなく、拡散して消えていくだけだった。


翌日、一郎が運ばれた病院へ行ってみたが、面会謝絶で病室すら教えてもらえなかった。かなりの重体で意識もないとのことだった。

そうこうしているうちに新学期が始まった。

暗く沈んだ気持ちで教室のドアを開けると、一郎を除いて、そこは何事もなかったかのようにいつものクラスの連中の青く屈託のない笑い声と底抜けに明るい喧騒が渦巻いていた。

そしてまるで最初からこのクラスには友田一郎がいなかったかのように、誰一人彼の落下事故について語ろうとするものはいなかった。

新学期の朝礼の時、校長が一郎の不幸な事故について少し触れただけで、いつもと変わらない学校生活が始まっていった。


何とも言えない気が滅入った日々が続いたある日の夜、一郎の母親が雅夢のアパートに突然訪れてきた。

一郎は命は取り止めたものの、身体と精神が深く傷つき、一生をベッドで過ごさなければならないとのこと。それから明日、息子を連れて自分の両親の実家に帰るとのことだった。

「実は・・・」お母さんが言いにくそうに雅夢を見つめた。

「一郎が今の中学に転校してきたのは、前の学校でひどいいじめがあったからなの、それが原因で以前自殺未遂をはかって・・・」

彼女は嗚咽(おえつ)を押し殺して雅夢にすがるように尋ねた。

「雅夢君、教えて。あなたが息子とは一番仲が良かったのでしょう。クラスでいじめはなかったのかしら」

雅夢はあの事故の前ころから、一郎が自分を避け、クラスの仲間と仲良くしていたこと、自殺未遂については一郎から話を聞いていたことを正直に話した。

「先生方もいじめはなかったとはっきりおっしゃっていたんだけれども、夏休みに入るころから妙に息子のおどおどした様子が気になっていて・・・私の思い過ごしだったとは思えないのだけれど。ああ、そうそう、息子があなたに出すつもりで忘れていた手紙が、昨日部屋を整理していると出てきてね、あなたにお渡ししておくわ」

深い憔悴(しょうすい)の匂いを残してお母さんは帰っていった。雅夢の手に、切手の張ってない自分あての白い封筒だけが残っていた。


契約


-ごめんなさい雅夢くん-

一郎の悲しくも懐かしい丸っこい字が開けた封筒から飛び出してきた。そしてそれらの手紙の文字たちが気付かせてくれたことは、少年の狂おしいまでの嘆きの心と雅夢にも関わる、クラスの峰岸、中根、金森が仕組んだ、少年にしてみればあまりにもおぞましく、老獪(ろうかい)な企てのことだったのだ。

一郎は雅夢に事の詳細を書き綴(つづ)り手紙にして、本棚の本の間に挟んで隠しておいたのだった。

その手紙の最後には、三人の口車に乗って雅夢を裏切ろうとした自分への後悔と、彼らが次の狩りの標的として雅夢を狙っているらしいことを危惧して終わっていた。


友田君の手紙を読んだ後、雅夢は朝方まで眠ることができなかった。

どうやら友田君の自殺未遂が自分にも関わりがあったというどうにも不可解な気持ちと、その原因が同じクラスのあの三人にあったのではという疑惑が雅夢の思考を強く締めつけて、彼の眠りを妨げていた。

頭の中で繰り返し繰り返し思いをめぐらす、その一瞬の思考の隙間をついて雅夢は唐突に深い眠りへ落ちていた。


・・・・・初めてなのに妙に懐かしいどこかの町の通りに人々が溢れている。

僕はその雑踏の中に一人立っている。すれ違う人々の顔はあるのだけけれども、なぜか僕には見えない。すべての風景がまるで色彩を失った写真のように無機質に僕の前を通り過ぎていく。

そんな通りに突然現れた色付きの一人の男。

彼はそんなモノクロの雑踏の中で僕のすぐ目の前を通り過ぎて行く。

僕は咄嗟にその男の後を追いかけていた。

ずいぶん長い間だったのか、すぐだったのか、息を切らしながら僕はその男の前に立っていた。

男の唇が笑みの表情になる。

(やっと私に気が付いたのですね。この時を待っていましたよ)

頭の中に染み込んでくる声にならない声。

「ああ・・・」

自分の言葉なのに自分の意思をすり抜けて答える。

二人の周りには相変わらず無機質な通りの風景が取り巻いている。

(お目覚めになりましたね)

「そのようだね」

自分にもわからない会話を交わし僕はさらに不安になる。

「・・・」

男は僕の心を感じとったのか、柔らかな静かな声で囁く。

(あなたは“夢使い”になるお方です)

「夢使い?」

(もうお判りでしょう)

「ユメツカイ?ユメ使い?夢使い?夢使い!・・・」

僕は必死に“夢使い”であるとことを認識しようとする。

(ずいぶん長い間お待ちしておりました)

男は僕の前に跪いていた。

(あなたは我々“夢人”と人間との間に生まれたお方で、人の夢をすべて司り、“夢人”と人間の存続の危機を防ぐために現れたわれわれの守護神なのです)

僕の頭の中に真っ白に輝く深い霧がどっと流れ込んでくる。

“夢人”だと名乗る男の思考が、映像となって雅夢の眼球の中へ流れ込み始める。


“夢人”とは眠りを必要とする全ての動物たちの眠りの中に住む生物の一種類のこと。太古の昔、それらの動物の発祥と共に生まれ、そして現代まで動物たちの夢の中で共に生き続け、しかし時空間は全く別にする異次元の者だ。

その中でも特に人間の夢に住む彼らは、“夢人”または“夢魔”とも呼ばれ、夢の中の時空間を自由に行き来することができる者たちのことなのだ。

どれだけの“夢人”がどこに生存しているのか彼らすら知らない。彼らは一人の夢の中に一人しか入ることができないからだ。

人間たちは彼らの存在を意識することもなく生涯を終えるのが普通だ。

彼らが存在する意味は誰も分からない。

人間やその他の生物の存在の本当の意味すら誰も分からないのだから。

全ての存在は存続するためだけに存在するとしか言いようがないのだ。“夢人”もその限りではない。


その“夢人”と夢を見た人間との間に偶然生まれるといわれる、いわゆる異種混合の者が時折誕生する。受胎機能を有する個体、つまり人間の雌と“夢人”の雄とが夢の中でまぐわい受胎し生まれた者が“夢使い”と呼ばれるものになる。

彼らは“夢人”と“人間”との間に位置するものだ。

夢人とまぐわった人間の雌は想像妊娠という形で出産にいたるものはほとんどいないがごく稀に、数百年に一度くらいの割合で受胎し、生まれてくる赤子は成人して“夢使い”となるといわれている。

何のためにそのような者が偶然生れるのかはっきりとした理由(わけ)はわからないが、人間の夢に住む彼ら“夢人”の存続が危ぶまれた時に、つまり人類の存続の危機が訪れた時に“夢使い”はこの人間の世界に現れ、危機を回避しようとすることが目的の一つであるらしい。

ちなみに“夢人”の雌と人間の雄が交わったときには夢精という現象が起きるだけだ。


キリスト、仏陀なども実は“夢使い”の一人で、“夢人”の能力を使い予言や奇跡を行い、“神”の計画を阻止したのだといわれている。


薄い闇の中で、何かの喘ぎ声が聞こえてくる。その声の方に目が奪われる。

逞しく浅黒い男の背中に、ほの白く細い女の腕が蠢(うごめ)いている。

どうやら男女のセックスの現場にいるようだ。

妙な性的興奮はない。

むしろ、何か神聖な行事を見ているような気分だ。

がっしりとした男の肩から女の顔がのぞく。

切ない表情の若い女の顔、・・・母だ!

まぎれもない若いころの母の顔だった。


田中留美が雅夢の母の名前。

小学校の教師である父と優しい母の一人娘としてかわいがられ、おとなしいごく普通の女の子として育った。

そんな彼女が高校3年の時に身籠る。

相手は不明だったが、彼女の性的経験は皆無だった。

あるとすれば夢の中で出会った男との一度の性交だけだ。

留美の父親と母は一人娘の出産にむろん断固反対だった。

今まで両親に一度も逆らったりすることもなかった従順だった娘が、今度ばかりは頑なに拒否し、取り付くしまもなかった。

驚き嘆く両親をしり目に彼女は高校を中退して出産する。

雅夢と名付けられた息子が3歳になった時、彼女は両親の悲しみだけを残して家を出た。

どこかに就職するでもなく、親からの仕送りを当てにするわけでもなかった。

彼女はネットでの通販を使い、自分で作った“夢枕”というものを販売して生計を立てていたのだ。

この“夢枕”は布袋にブレンドしたスパイスやハーブなどを入れただけのお守りみたいなものだったが、安眠と夢のなかでの願い事をかなえられるお守りとして、枕の下に敷いて眠ると不思議にいい夢を見、安らかな眠りにつけるというのが口コミで広がり、贅沢さえしなければ親子二人が生活するに十分の糧を得ることができたのだ。

この“夢枕”は彼女が夢の中で出会った男、つまり雅夢の父と思しき男が子供を育てるための糧として教えてくれたものだった。


今自分の前で跪く男こそが、“夢人”であり、自分の“父”であり、そして“夢使い”になる自分の従者であることを僕は悟った。


‘’夢使い’’になるための“夢人”との契約はいたってシンプルなものだった。

9つの願いを叶える代わりに、そのあとの夢の中での僕の命を差し出すことだった。夢の中の命とは、夢の中の自分の存在そのものであり、それを差し出すことで夢の中に入ることができなくなるということらしい。つまり夢を見なくなることなのだという。

そんな漠然としたことよりも9つの夢が叶えられるというとほうもない好奇心が躊躇(ちゅうちょ)なく僕を契約に駆り立てた。

古く分厚い百科事典のようなノートの真ん中ほどのページに僕は渡された太く黒いアンティックな万年筆でサインをし、これまた凝った彫刻を施したインド風のナイフで左手の親指の腹を傷つけ、その血で拇印を押した。

(これで契約が成立しました。この契約は今後いかなることがあっても破棄はできません。ただ夢の中での死を免れたければ願いは8つで止めておくことです。これは“夢人”ではなくあなたの父親としての忠告です)・・・・・



永遠とも一瞬ともとれる夢の時空間を通り抜け、カーテンから漏れるまぶしい夏の光の中と、母の朝食を知らせる声で雅夢は目が覚めた。


雅夢は夢とも現実ともつかぬ残滓を引きずりながら、母子二人のいつもの食卓につく。椀を持つ左手の指に鈍い痛みが走った。親指の腹にまだ乾ききれない血痕が・・・

(契約・・・)雅夢に先ほどの夢の記憶が蘇る。

母が雅夢の指と顔を交互に見据える。しばらくして怖いような笑っているような表情で口を開いた。

「会ったんだね、お父さん、いや“夢人”と。そうだね!そして契約したんだね」

小声だったが強い母の口調が、先ほどの夢が空言(そらごと)ではないことを雅夢に確信させた。改めて覚醒と夢を共有している自分の姿がぼんやりと見えてきたような気がした。


そのあとはいつもと変わらない朝食を済ませ、母は台所へ、雅夢は自分の部屋で登校の準備を。

学校へ出かける雅夢にいつもの母の柔らかい視線はなく、むしろ緊張したようなぎこちなさが感じられた。そして母の態度はこの朝を境に変わったように思えた。


ひとつめの願い


クラスは長かった夏休みの奔放な気だるさを引きずりながら、何もなかったかのように今日も始まっていく。変わったのは昨日まであった一郎の机がなくなったことだけだった。

担任の山元は昨日、友田一郎の転校届があったとだけクラスのみんなに告げ、皆はそんな一郎の話題どころか彼の存在すらなかったかのように振る舞った。

そしてまた雅夢もこのクラスの中では存在を否定され続けている一人だった。

しかし彼らは雅夢にはなぜか決して手を出したりはしない。遠くから時々こちらを冷ややかな目で見ながら嘲笑するかシカトウするだけだ。

誰がこのクラスの空気をコントロールしているのかは明らかだった。

雅夢はそんな汚染された空間の中で一人違和感を感じながら、今日も一日耐えて過ごさなければならない自分にイラついた。


その日もいつものように学校の帰り図書館で過ごし、アパートの古いドアをきしませながら開ける。

「おかえりなさい」母の口調が妙に畏(かしこ)まって聞こえた。

食卓のテーブルの上の大皿には雅夢が好きな3丁目の園寿司のすしが並んでいる。

「どうしたの、なにかあったの」

めったにない贅沢にびっくりして尋ねてみる。

「“夢使い”になったのでしょう」

母はまるで普段にかわす会話のようにサラリと答える。

雅夢の頭の中に昨夜の夢での契約の光景が津波のように押し寄せてきた。

左手の親指がまだ疼く。

「すべてがわかったでしょう。私があなたを生んだ意味やこれからあなたのなすべきことが。私はあなたの母であり、同時にこちらでのあなたを守るための従者」

片膝をついて語る母の姿におろおろしながらも尋ねてみる。

「なすべきことって?」

「あなたが心でやらなければと感じたことをやっていればわかるはず。むこうのあなたの父であり“夢人”に相談して行えばいいことよ」

少しばかりの贅沢な食事をしながら、雅夢は母との距離が離れていったように感じていた。

部屋に入るとベッドの夜具がすべて新しいものに変わっていた。

いつ眠りに落ちたのか覚えていない。


・・・・・見覚えのあるいつものどこかの町のモノクロの雑踏の中に僕は立っている。

(お待ちいたしておりました)

足元から声が。

父であり“夢人”でもある男が片膝をついて僕を迎えた。

そんな父の腕をつかんで立たせながら尋ねてみた。

「僕はなにをしたらいいのですか」

小柄だが力強い筋肉を包んだ青いシャツを着ている父、否、“夢人”は答える。

(まずはあなたの心を覆っている黒い霧を取り除くことから始めたらいかがでしょう)

男の薄い唇は動くことなく、僕の心に話しかける。まるで心の中を読みとったかのように・・・

「・・・僕は友田君の自殺の本当の訳を知り、追い込んだ者を同じ目に合わせてやりたい」

(承知いたしました、それがあなた様のひとつめの願い事になります・・・)

男の声が無機質な表情の人々の渦の中にじんわりと溶け込んで消えていった。・・・・・・


何もないまま2,3日が経った。

その間、こちら(・・・)では母は相変わらずパソコンに向き合うか、“夢枕”を作り、発送の準備に忙しそうで、息子に対しては何も以前と変わらない様子を装っている。

学校のクラスでは相変わらず意図的に雅夢を無視しようとする排他的な空気が淀んでおり、彼は心のドアをしっかり閉ざして、汚された風が入り込むのを防ぐしかなかった。


・・・・・いつもの町のモノクロの雑踏の中を父と歩いている。

(あちら(・・・)の世界にいる・・・)

僕はぼんやりと自覚する。

父が“夢人”として僕の心に語り掛けた。

(これが友田という少年が自殺にまで追い込まれた真相です)

男の言葉が僕の心の中に波紋のように広がっていき、やがて映像となって夢の中で物語が始まった。


まず峰岸、中根、金森の三人の少年たちの映像が現れる。


この地方都市の有力者を祖父や父に持つ彼ら三少年はもともと幼馴染であった。中学でクラスが一緒になると、自分たちがほかの子供たちに比べ、特別な存在であることを余計に意識するようになった。


峰岸伸介は祖父を国会議員に持ち、その中央権力と結びついて、伸介の父は若き市長としてこの街では絶対的な人気を誇っている。この国によくある、地方に代々巣食う政治屋の家系だ。


中根保宏は新聞社の社主の一族で、現在父が引き継ぎ、同時にテレビ局の大株主としてもこの地方のマスコミに大きな支配力を持っていた。そのマスコミの力を十二分に利用して彼の母は教育家として、この地方では知らぬ者はいないほどの著名人であった。


金森芳郎は、祖父が土木建設業を生業(なりわい)として財を成し、いまや病院経営のほか化学薬品会社など中央の大手企業と手を結び、ありとあらゆる事業に手を染めている企業コンツェルンの総帥の父を持つ資産家の一人息子だ。行政やマスコミと深いかかわりを持ち、裏社会にも通じているといわれている。


彼らは中学までをこの地方都市で過ごし、高校からは都会の有名私立高校から大学、あるいは海外への留学を経てそれぞれの家を引き継ぐという黄金の道が整えられているのだ。


そんな彼らにとって、同級生だけではなく一般の人間ですら同等の人間とは思えないのは、彼らの持つ性格というより育った環境や家庭での教育によるところだというのは明らかだ。

周りの大人たちまでも彼らに対して1歩も2歩もへりくだった態度で接し、彼らも幼いころからそれを当たり前のこととして受け止めた。

それらの大人たちの態度はその子供たちにも大きな影響を及ぼし、上級生や教師、街のヤンキーたちまで、彼らを知る全ての者はこの地方都市の権力をバックボーンに持つ彼らを決して逆らうことのできない存在として意識した。


しかしそんなまわりの者たちの思惑だけではなく、三人はそれぞれ勉強面では常に学年のトップクラスで、スポーツや部活にも華やかな経歴があり、ほかの生徒たちにも人気がありクラスのまとめ役でもあった。

明るく、優しく、礼儀正しく頼りがいがあるというのが評判の、いわばできすぎた(・・・・・)少年たちだ。

だが彼らの尊大な寛容さはあくまでも彼らに対して従順であるという前提のもとに成り立っていた。


中学に入った三人はそれぞれの家の強い繋がりで、幼い頃よりお互いに見知っており、似た者同士すぐに仲間意識を持った。周りの生徒や先生たちもそれを知っており彼らを特別に意識した。


そんなクラスに県外から転居し、入学してきた雅夢がいた。なんとなくボーとして存在感が薄く、無口で、さえない少年。勉強もスポーツも容姿も目立ったところのない雅夢はクラスの者にとっても彼らにとっても気に留めるほどの存在でもなかったはずだった。


だが彼ら三人は雅夢に何か違うものを感じ取っていたのだ。それは権力者に対し決して心からまつらおうとしないような、彼らにとって何か不快な雰囲気だった。

彼らは雅夢に対して、最初はたわいもない意地悪を仕掛けてみた。

黒板の消し方や掃除の仕方、服装の乱れなど何かと注意や指導をする。雅夢は彼らに何も逆らうこともなく黙って従う。

だがそのたびに彼らの不安はなぜだか膨らんでいく。まるで自分たちの心の奥底まで見透かされているような雅夢の視線に逆に怯えてしまうのだ。そんな怯えは彼らの怒りに代わっていき、その怒りは苛立ちとしてクラスや学校に伝染していった。生徒たちはむろん、先生ですら雅夢に対してシカトウしたり、ツッケンドンな態度をとるようになる。

そんな彼らの意図的な心の動きを知ってか知らずか、雅夢はいつもと変わらず普通に登校してくるのだ。

三人の心はますますいらだっていった。

街の顔見知りのヤンキーにいくらかの金を渡し、雅夢に脅しをかけさせたことがあった。

だが彼ら三人は翌朝それぞれ自分が脅されているようなかってない強い恐怖の悪夢から目覚めることになり、そのヤンキーも数日後なぜかこの町から姿が消えていた。

そして相変わらずいつも通り何もなかったように、教室でぼんやりと窓の外を眺めている雅夢の姿に、得体のしれない、心底から震え上がるような怯えを感じる彼らだった。


彼らは心のうちに生まれて初めて感じる屈辱と恐れを隠し持ちながら、もはや雅夢に関わらない、否、関われないことを暗黙の中で認め屈服するしかなかった。


今は懐かしい一郎の気弱そうな笑顔が現れた。


中学2年になり、現れたのが友田一郎であった。彼は東京から引っ越してきて夏休みに入る3か月ほど前にこのクラスに編入してきた。

いつも暗い表情で、オドオドしたひ弱そうな少年だった。

この二人の少年、雅夢と一郎が似た者同士というのか、馬が合ったというのか、教室でも学校以外でも仲良く一緒にいるのを見かけるようになった。

そんな二人の姿を横目で冷ややかに見やりながら、三人の悪だくみが徐々に発酵していったのは当然の成り行きだった。


雅夢に関われないのであれば、一郎に関わり、一郎を痛めつけることで、雅夢を間接的に痛めつけることができるのでは、というのが彼ら三人の同じ意見であった。


三人組の一人中根は母親がPTA会長をやっているのを利用して、学校を通して友田一郎の情報を集めた。


東京に住んでいた母子家庭の一人息子で、父親とは10歳の時死別。中学に入ってからいじめに合い、1年の3学期にリストカットにより自殺未遂。学校側はいじめの実態を認めず、本人の精神障害と主張。教育委員会と一緒になって母親の訴えを強引に抑え込んだ。

母は息子を転校させることを決意、親子は泣く泣く東京を離れ、母親の故郷の田舎に近いこの町に引っ越してきた。

彼女は現在医療法人金森会「赤い羽病院」に看護師として勤務。


三人の話はまとまった。

まず金森が母親の勤務先を餌に一郎を誘う。そこにほかの二人が参加し、四人のグループを作り、雅夢から一郎を引き離す計画だ。

クラスの人気グループから誘いを受け、しかも母の勤務先のオーナーの息子であれば断れる訳などない。

そんな彼らのたくらみを知ることもなく、彼らの誘いに一郎はすっかり有頂天になっていた。そして彼らに言われるがままに雅夢を避け、三人は一郎と雅夢を引き離すことに成功した。


夏休みに入った。

金森は母親の宿直日を調べ、母親不在の一郎の市営アパートへ三人で上がり込むようになった。当初はゲームなどして友達を装おっていたが、少しずつ彼らは変貌していった。雅夢に関われない苛立ち、何かわからない恐怖心が彼らの苛立ちを加速させ、それが歪んだ一郎への間接的復讐を急がせた。


最初は一郎も親しくなった故の冗談だと思い込もうとしていた。

ぞんざいな言葉遣い、アパート内での傍若無人なふるまい、徐々にひどくなる悪戯。

最後には母親のしまっておいたお金を盗み出させたり、口にも出せないくらいの恥ずかしい肉体的な悪戯など、彼らの行動はエスカレートしていくだけであった。

そしてそのことを他のものに告げると、母親の仕事が明日から無くなるという脅し。

これは一郎が前の学校で受けていたいじめそのもの、否それ以上の苦痛であった。

そんな日々の中で、彼らの話を近くで聞きながら一郎は少しずつ気付き始めたのだ。これは自分だけへのいじめでは無く雅夢への何かわからない根深い恨みと復讐ではないかと。

雅夢に知らせたい、しかしそんな思いは彼らに対する恐怖心が抑え込んでしまう。

彼らは一郎と会うたびに、必ず彼の携帯電話のメールや発信履歴を確認するという周到さで一郎と雅夢との連絡手段を絶ったのだった。


雅夢も見覚えのある一郎の部屋に峰岸、中根、金森の顔が見える。友田君は部屋の隅で困ったような観念したような顔で一人離れている。


夏休みに入ったある日、いつものように一郎の部屋に集まっていた三人の中でもボス格の峰岸がせわしく手を動かしてゲームをしながら口を切った。

「お前、以前自殺未遂したことがあるんだってな」

「!・・・」

「おい!ちゃんと答えろ」

金森が恫喝(どうかつ)した。

「うん・・・」

「どんな気分だった」

「えー、どんな気分かって・・・」

「ほらほら、答えられないと、この間みたいに、マジックでおチンチンに落書きしちゃうぞ。ほんと、中2にもなってチン毛も生えてないなんて、おまえ未熟児か」

金森の言葉に他の二人が腹を抱えて爆笑する。

「あ、なんというか頭の中がボーっとして、もういいかって思ったらやってたんだ」

「なんだぁそんな単純な感じだったんだ。それにしても友田って勇気あるな。なあ、みんな」

峰岸がゲームの手を止めて二人の顔を見ながら同意を促した。

「いやいや、ほんと、お前すごいことやったんだな」

「俺、お前のこと見直したわ」

「これが本当のことだったら、友田、お前は俺たちの本当の仲間になる資格が十分ある」

峰岸がみんなを煽(あお)る。

「そうだそうだ」中根

「それが本当ならな!」

金森は一郎の左の手首にいつもつけている青いリストバンドを外させ、生々しい色の傷をみんなの前に晒すことを強要した。

一郎の腕の傷を見ながら金森が言った。

「あれー友田君、この周りにある3本の小さな傷はなにかなぁ。これってもしかしてためらい(・・・・)傷(・)ってやつか?」

「ためらい傷?」

中根が突っ込む。

「リストカットで自殺未遂した女子高生を診たうちの病院の医者が言ってたんだけど、思いっきりがつかなくて何度も何度も手首を浅く切ってみる、その時の傷をためらい傷というんだって」

金森が説明する。

「なんだ、友田お前は3回も自殺ためらったのか?」攻める口調の峰岸。

「女みたいなやつだな、お前」

中根が峰岸の口調に合わせる。

「俺が推測するに・・・」

金森が得意げに続ける。

「こいつは自殺なんてする意志も勇気もなく、自殺未遂はただ周りに自分の存在を認めさせたかっただけのパフォーマンスだったってわけさ」

「金森、お前スゲー」

峰岸が相槌を打つ。

「えへっ!これもウチの医者の受け売りだけどね」

「それにしても友田くーん、君の言っていることやったことと矛盾してない。このことってみんな知ってることなの」

中根が矛先を一郎に向ける。

「!・・・」

三人の言葉による狩りで、いつものように罠に追い込まれていく情けない自分に一郎の心は震える。

「そうだ!友田くーん。俺、君の名誉回復を思いついたんだけど」

峰岸の声が弾む。二人がそれに乗っかる。

「どんな、どんな!」

「君は前の学校でいじめにあったのが原因で自殺を図ったって言ったよね。でも今は君に対するいじめなどないわけだ。そこで今度は自分の意志で自殺を図るっていうのはどうだろう」

「!・・・」

峰岸の言葉に一郎は絶句した。

「いやいや、本気で自殺するんじゃなくて、自殺するという意思があったってことをクラスや学校のみんなに見せさえすればいいんだよ」

峰岸は言葉をつなぐ。

「そうすることによって、君は女の腐ったような臆病者ではなく、勇気ある一人前の男としてみんなが認めることになるんだよ。むろん僕ら三人は改めて親友として喜んで君を迎えいれることを約束するよ」

「そうだ、そうだ」

二人の少年が無邪気に相槌を打つ。

「僕らの仲間になるということは、クラスや学校の連中も君を認めるということなんだよ。わかるよね友田くーん」

中根が妙な猫なで声で一郎を嬲(なぶ)る。

「・・・で、僕は何をすればいいの」

かすれた声で一郎はたずねた。

金森が考えるふりをしながらおもむろに答える。

「そうだねー。前と同じリストカットじゃ見え見えだしー。首吊りなんかどうだろう」

「バカバカ、それじゃ友田が本当に死んじゃうだろう」

中根がたしなめ三人は大笑い。

「これでどうだろう」

峰岸が小声で語る。

「このアパートの屋上から飛び降りるのさ」

「そんな!」

一郎は半泣きの声だ。

「よく聞け。この市営アパートは古い建物で3階建てだろう。絶対に落ちて死ぬような高さではない。しかもアパートの前にはトタン屋根の自転車小屋があるだろう。あそこを狙って飛び降りればケガもしないこと請け合いだ」

峰岸の冷静な声に金森が

「スゲー!峰岸、お前の計画スゲー!」

「そういえば以前3歳の女の子が落ちたけどケガもしなかったってニュース見たことあったよ」

中根が後押しをする。

「どうだ友田。お前の男をみんなに見せるチャンスだぞ」

「そうだ、やらなきゃ男じゃねぇ。俺らの仲間に入りたくはないのか」

二人が煽(あお)る。

「ちょっと待てよ」

冷静な峰岸が熱くなった二人を制する。

「これは友田が決断することだ。俺たちがどうこう言うことじゃないだろう。なあ友田」

「・・・」

困惑する一郎。

「やるやらないは、友田が決めることだ。やれば俺たちは友田を認め親友として仲間にする。やらなければ友田は一生負け犬として人生を過ごすしかないだろう。むろん友田と母親がこの街で暮らすことはできなくなるだろう。たとえ俺たちがいくら友田を庇(かば)おうが、周りの者たちは卑怯者の友田を認めはしないだろうから」

峰岸の巧妙な言葉の裏には理不尽な脅しの刃(やいば)が潜んでいた。


「じゃあ今日はこれで俺たちは帰るよ。これから三人とも塾なんで」

中根。

「決心がついたらメールくれよ。」

ゲームのスイッチを切って峰岸。

「それじゃ友田君。ハイ1万円」

金森が手を差し出す。

「え!」

「え!じゃないだろう。今日のコンサルティング料だよ。三人であんだけお前のことを考えて、相談に乗ってやったろ」

「そんなお金もってな・・・」

一郎の言葉を遮って金森が続ける。

「おかーちゃんのお部屋にあるだろう。どうせうちの病院からもらった金だろう。今度、事務局長に友田のおかーちゃんの給料上げるように言っとくからさ」


三人が帰った部屋には追い詰められた絶望感と一郎の抜け殻が転がっているだけだった。


後日、自分の携帯電話のメールを見ている一郎の悲痛な表情の映像。


<決心ついたか。連絡待つ>

<男になろうぜ>

<友田君の勇気に!>

最初は一郎をおだてて決行を促すような内容だったが、一郎の決心がつかない様子にいら立ったのか、徐々に過激な文字が目立ってきた。

またメールのなかにはクラスの連中と思われる者も入ってきた。

<友達になろうと思ってたのに残念だね>

<以外、見かけと違いズルーイ奴>

<お前のニセ自殺で傷ついた人間がいること忘れんじゃねえぞ>

<なんだ無視かよ、コイツ>

<もう一回やったら信じてやるよ>

<度胸ねぇって>

<新学期が始まっても絶対見たくない顔>

<もう来るな!>

<ホント シネ シネ シネ シネ>

<キエテシマエ>


メールの内容は一郎を脅したり、ヘイトな内容に変わっていき、その数は膨大な量になった。


精神的に徐々に追い詰められていった一郎の部屋の四人の映像。

その日は一郎の母親が病院の夜勤の日。


「友田くーん、今日は君の決心聞きに来たんだよ」

「過去の自作自演の自殺についてクラスの連中みんなもう知ってるみたいだし。もちろん、僕らがバラしたわけじゃないよ、なあ金森、中根」

「俺ら友田の友達だよそんなことやるわけないじゃん。それにメルアドなんて誰にも教えてないし。友田、お前のメルアド知ってるやつで、俺ら以外腕の傷のこと誰かに話してないか。」

一郎は頭を横に振りながら、雅夢のことを思い浮かべていた。

「もしかして、お前と以前仲良しだった田中が犯人だったりして」

「奴だったら素知らぬ顔して、そんなことやりかねない」

「ともかく、どういう訳か友田くんの過去がクラスの連中にもばれちまったことは確かなことだ」

「こうなったら、やっぱやるしかないよぉ友田くーん」

「これは儀式なんだよ。以前の惨めで嘘つきの友田一郎をリセットして新しい友田一郎になるための」

峰岸と金森が一郎を言葉では説得、精神面では恐喝している間に中根はいつものように一郎の携帯電話を勝手にチェックしながら、この2、3日の大量のメールの履歴を消し去った。

「テメーどうするんだよ!」

突然、金森が強面(こわおもて)に豹変し、一郎の腹に蹴りを一発入れた。

一郎はうずくまり恐怖に震え始めた。

「金森抑えて押さえて。お前の気持ちわからないでもないけど、暴力はやばいよ。友田、お前決心ついたんだろ」

峰岸はあくまでも冷静を装いながら、一郎を促す。

三人の冷ややかに笑ったような目が一郎を見下ろしている。

一郎は痛む腹を抑えながらうなずくしかすべを知らなかった。

「さすが友田君。度胸あるねぇ。男だねぇ。俺尊敬しちゃいます」

中根がすかさず一郎をほめちぎる。

金森は手を差し伸べて一郎を引き起こし

「ごめんごめん、友田くーん。痛かった。俺つい自分の事のようでカッとなって手が出て・・いや足だっけアッハッハ・・・」

軽口をたたく。

「それじゃ善は急げって言うじゃない。早速今夜決行というのは」

峰岸が一郎の迷いを断ち切る。

「いいね、いいね」

二人が一郎を追い詰める。

「本当に大丈夫かな・・・」

「おいおい、今更なんだよ。先日峰岸が言った通りにすればノープロブラムたよ。赤ん坊だって擦り傷一つなかったんだぞ」

一郎の言葉を中根が軽くかわす。

「まあ、多少の擦り傷とか、打ち身くらいはあるかもしれないが、それは友田が新しく生まれ変わるための勲章なのだから、むしろ友田の誇りになるさ」

峰岸が付け加える。

「ところで本当に自殺するってことをアピールするにはやっぱ遺書なんかいるんじゃない」

中根がはしゃぐ。

「遺書か!かっこいい」

金森の目が輝く。

「実は、そんなこともあろうかと遺書の文章を考えてきてあるんだ」

中根が塾のカバンの中から1枚の紙を取りす。


遺書


僕は今日まで自分をごまかして生きてきました。

ズルい、卑怯な生き方で他の人に迷惑かけてきた情けない自分にはもう耐えられない。

今度は本気で決着をつけようと思う。


お母さんごめんなさい。

クラスのみんな短い間だったけどありがとう。


友田一郎


「これいける。かっこいいじゃないか」

金森が一郎に相づちを求める。

「うん、これだと今回は本気だとみんな思ってくれるよ」

「これ、やっぱ友田の直筆の方がいいんじゃ」

「だ・ね」

三人の話は一郎そっちのけでどんどん盛り上がっていく。


「じゃあ今夜9時に決まりだね。ちょうどお母さんも夜勤のようだし」峰岸。

「俺たち塾があるので友田の雄姿は見られないけど、塾が終わったらすぐに来るから」金森が念を押す。

「9時ジャストにメール入れるよ。“新学期が楽しみだね”が暗号だよ」中根が一郎の携帯電話を返す。

「俺らの苦労を無駄にするんじゃないぞ。吉報を待ってる。そうだ今日のコンサルティング料は友田の勇気に免じてサービスしとくよ。みんないいだろう」

金森がダメを押す。


市営アパートの1階に住む、年金暮らしの老夫婦はいつものように、閉店時間前のスーパーで買っておいた半額弁当の半分を食べながら、何も話すこともなくうつろな目でテレビを眺めていた。

お笑い芸人のいつもの馬鹿笑いが、狭いアパートの部屋に充満しているときだった。

いつもは静かなこの時間に、爆発音のような音が響き、無機質な老人の表情に突然恐怖が張り付き、思わず二人は悲鳴を上げ抱きついていた。

しばらくして二人は音がした玄関側のドアを恐る恐る開けて覗いてみる。通路にはすでにお隣のお兄さんがタトゥーを入れた上半身むき出しの姿で飛び出してきており、何やら叫んでいる。

老人夫婦は何があったのかわからずキョロキョロしていると、二階の通路から中年の女性のしゃがれた声が。

「そこそこ!自転車置き場の前に人が倒れている・・・」

騒ぎを聞きつけて、アパートの人々が出てきた。

自転車置き場の前に確かに男が倒れていた。

「救急車、救急車!」誰かが叫ぶ。

「この子3階の友田さんちの子じゃない。誰か知らせてきて!」

「死んでるのか?」

「管理人さんに知らせてきて」

「110番に電話して」

「友田さんちには誰もいないぞ」

「救急車まだ」

大変な騒ぎになっていた。この騒ぎに別の棟からも野次馬が集まりだし、収拾がつかなくなった頃、ようやく救急車のサイレン音が近づいてきた。

管理人さんがパジャマ姿で現れた。

「お母さんには職場に電話したので、すぐに帰ってくるそうです」

タンカーを持って応急処置を始めた救急隊員に説明している。

パトカーも到着して警察官が野次馬の整理を始めた。


お母さんが用事の帰りに通りかかったのがちょうどこの時間だった。詳細は分からなかったが、怪我をしているのが息子の友達の一郎だと聞いて慌てて帰ってそのことを僕に告げたのだった。


そんな騒ぎの現場から少し離れた防犯灯の下に塾帰りの峰岸、金森、中根がいた。

「あいつ、本当にやったんだ。バッカじゃないの」金森が舌打ちする。

「死んだりはしないよね」中根

「死んだりするもんか、あれくらいで。でもたとえ死んでも俺たちのせいじゃないし。友田が自分の意志でやったことだろう」と峰岸。

「そりゃそうだ、それに俺たちが関わっていたっていう証拠はないわけだし」

中根が続ける。

「まあ誰のせいかといえば、もともとあの田中の野郎が原因なんだから」

「ホント、薄気味悪い奴だよねアイツ」中根。

「これで田中の野郎、少しはショック受けるだろう」峰岸。

「奴に手を出さず、奴を懲らしめる。峰岸あったまイイ」金森。

三人は防犯灯の明かりの下で、騒ぎの現場を見ながら歪んだ笑みを浮かべていた。

少し離れた場所から、その三人の様子を自転車で駆け付け息を切らしながらなぜかわからない不快な気分で眺めている僕がいた。


長い時間だったのか一瞬だったのか、頭の中に流れ込んだ映像の後、僕は怒りに震えていた。

「やっぱりあの三人か・・・」

僕の中で今までの不快だった思惑の原因の訳がはっきりした確信に変わった。

「でも、どうして彼らは僕を狙わなかったのか、いや狙えなかったのだろうか」

(あなたは、こちら(・・・)の世界ではわれら“夢人”に守られた存在なのです。あちら(・・・)の世界で受けた不快なことや悲しいこと危険なことなどは、それを行った相手を夢の中で同じ思いをさせてあちら(・・・)での出来事を回避させているのです)

突然、”夢人”が言葉と同時に雑踏の中から現れた。


子供の頃から、いじめられそうな雰囲気になると、いつの間にか相手は僕にそれ以上関わってこなくなったり、避けるようになったりしたのは“夢人”のおかげだったのかと納得した。

「でもあの三人を友田君と同じ目に合わせられるのは結局夢の中だけなんだ・・・」

気抜けした僕の思いに“夢人”は答える。

(もちろんあちら(・・・)では我々は直接手を出すことはできません。でも二つの世界は一般的に考えられているより深く結びついている、というよりあちら(・・・)とこちら(・・・)は同じ世界なのです。現世(うつつ)と呼ばれるあちら(・・・)では、人は魂と肉体が一緒に存在しています。こちら(・・・)ではその人の魂のみが遊離して暮らしています。

それは本来の人間の本能を取り戻したピュアな魂なのです。生まれた後に身につけさせられた道徳観、社会観、宗教観などの常識をすべて洗い落とした丸裸の無垢な魂なのです。人間の魂はあちら(・・・)での社会の苦しみや悲しみ、怒り、憎しみなどすべての汚れをこちら(・・・)で洗い流し、またあちら(・・・)に帰っていくのです。

あちら(・・・)で罪を犯したものを罰したければ夢の中での浄化作用をできなくすれば、それが悪夢となり現世に帰った魂に住みつき、やがて肉体ともども滅びの道に導いていくのです。

つまり我々“夢人”は人間の魂を操ることができるのです。しかも赤子のような無抵抗な魂を。

“夢使い”のあなたが願いさえすればね)・・・・・


復讐

・・・・・金森芳郎は父が経営する病院の一室にいる。壁や天井の真っ白な空間の中の真っ白なベッドの真っ白なシーツに包まれている。どうやら何かの病気で入院しているらしいと芳郎は感じて不安になる。

白い部屋のドアが開いて、マスクをつけた白衣の医者と看護師たちが入ってくる。芳郎のベッドを囲んで何か話している。

突然、芳郎が横たわっているベッドを押して、ドアの外に。

(手術なんだ・・・)

芳郎の不安はますます大きくなる。

エレベーターのドアが開き、ベッドごと乗せられる。

上に上がっているようだ。

チーン ドアが開く音。11階屋上のランプが見えた。

(屋上!?)

白いシーツがめくられ、パジャマ姿の芳郎は驚いて体を起こそうとする。

(!動けない)

芳郎の体は看護師たちの白衣から出ている無数の腕に押さえつけられている。

(お前ら俺はここの・・・)

声が無声トーキーのようで口がパクパク動くだけだ。

突然、芳郎の体がふわりと宙に浮く。数人の看護師たちの頭上に持ち上げられたのだ。頭の下の方から医者の声がする。

「大丈夫、大丈夫。これは儀式なんだから。金森君が今まで傲慢だったという罪を償(つぐな)い、新しい人生をやり直すための」

驚いた芳郎が首を捩って医者を見る。

白いマスクの医者の目が友田一郎の気弱そうな目に代わっている。

看護師たちは芳郎を担いだまま、屋上のフェンスのところまで進む。

さすがに何を意図しているのかを悟った芳郎は泣き叫ぶ。声にならない悲鳴は芳郎の心のうちに反響してさらに大きな悲鳴となっていく。

(イヤダ、イヤダタスケテ、オネガイシマス、オネガイシマス、タスケテクダサイ)

言葉にならない文字の羅列が芳郎の頭の中で恐怖心をさらに増幅させ続ける。

「さあ9時なりました。新学期が楽しみだね」

一郎の声が芳郎の全身に冷水を浴びせ、一瞬彼の心が冷静に戻る。

その瞬間、屋上のフェンスの上を自分の体がふわりと飛び越えるのを感じる。

闇の中に落ちていく。

各階の病室の明かりが、すごい勢いで上昇していく。

落ちていく、落ちていく。冷たく暗い闇が芳郎の体に突き刺さっていく。

恐怖心が大きく膨らみ、脳の中で爆発しそうだ。

そう感じた瞬間、コンクリートにたたきつけられ、グシャグシャにクラッシュする自分の体の途方もない痛みが恐怖心を最高潮に盛り上げ、口からほとばしる自分の悲鳴が芳郎をさらに狂わせる。

割れた頭から飛び散った脳みそ。

奇妙な形に折れ曲がった手足。

飛び出して転がっている眼球。

べったりと血塗られたコンクリートの上のそんなおどろおどろした自分の姿を眺めて怯え佇んでいる自分がいる。


金森芳郎は父が事務局長を務める病院の一室にいる。壁や天井の真っ白な空間の中の真っ白なベッドの真っ白なシーツに包まれている。どうやら何かの病気で入院しているらしいと芳郎は感じて不安になる。

白い部屋のドアが開いて、白衣の医者と看護師たちが入ってくる。芳郎のベッドを囲んで何か話している。

突然、芳郎が横たわっているベッドを押して、ドアの外に。

(手術なんだ・・・)

芳郎の不安はますます大きくなる・・・・・


こうして、森田芳郎が眠っている間中、このおぞましい悪夢が何度も何度も繰り返されることになるのだ。


・・・・・中根保宏は見慣れた自分の部屋に母と二人でいる。母は保宏の一学期の成績表を眺めながらいつもの苦言を吐いている。

「こんな成績では、とても希望の高校には入れないわね。こんな田舎の中学でクラスで上位といってもねぇ。パパもきっと失望なさるわ。あなたはパパとママの子供なのよ。他の子たちを大きく引き離してダントツ学年トップが当たり前。あなただったらできるはずなのに、誰に似たのかしら。塾だってちゃんと行ってるのでしょう。家庭教師が悪いのかしら。・・・。あゝ!こんな成績じゃママ恥ずかしくて」

はげましとも愚痴ともつかない言葉が、母の赤く塗った唇の間からまるで毒ガスのように止まることを知らず流れ出てきて、保宏の耳から入り込み体中を腐敗させていくようだ。

こんな時の母はいつもテレビの映像や雑誌の写真ので見る、温和で知性的な笑顔とは異なり、ひどく醜悪な中年女の引きつった顔にしか見えなかった。


突然、生暖かい夜の風が、保宏の鼻をくすぐる。

下を見下ろすと、賑やかな夜のネオンの明かりと足元から湧き上がってくる車や電車の騒音や人々の喧騒。

保宏は父の新聞社の社屋の屋上の縁に立っている。

「前回約束したように、ママが希望した成績に達しなかったので罰を受けてもらうわ。いいわね」

母の声がすぐ後ろから聞こえた。

体がすくんで振り返ることもできない。

「遺書はいらないのかい」

友田一郎の声がすぐ後ろで聞こえ、体中が恐怖で震えだす。

小水がズボンを伝って流れ出す。

「そろそろ9時だよ。新学期が楽しみだね」

ママの手なのか一郎なのかわからないが、保宏の背中をポンと押す。


夜とネオンの間をすり抜けるように落下している自分の姿を感じる。夜の喧騒に向かって自分の体が一直線にスローモーションの映像のように落ちていく。

恐怖の思いはそんな時間に比例して加速して膨らんでいく。

悲鳴と嘔吐が開いた口からあふれ出す。

その瞬間、路面に叩き付けられて自分の体中の骨が砕ける音が確かに聞こえた。

路面電車が甲高い悲鳴を上げながらその体を引きちぎっていく。その引きちぎられた体をさらに数台の車がタイヤですりつぶす。

クラクションの音が夜の繁華街の通りで鳴り響く。


保宏は想像すらできないほどの苦痛と恐怖に身をよじりながら、グシャグシャのミンチになっていく、そんな自分のみじめな姿を眺めているしかなかった。


中根保宏は見慣れた自分の部屋に母と二人でいる。母は保宏の一学期の成績表を眺めながらいつもの苦言を吐いている。

「こんな成績では、とても希望の高校には入れないわね。こんな田舎の中学でクラスで上位といってもねぇ。パパもきっと失望なさるわ。あなたはパパとママの子供なのよ。他の子たちを大きく引き離してダントツ学年トップが当たり前。あなただったらできるはずなのに、誰に似たのかしら。塾だってちゃんと行ってるのでしょう。家庭教師が悪いのかしら。・・・。あゝ!こんな成績じゃママ恥ずかしくて」・・・・・・


一度見てしまって結末が分かったドラマを見るように保宏は、何度も何度も繰り返しこの夢を見ることになる。決して慣れることのない、いやそのおぞましい結末を知っているからこそ感じるさらなる恐怖に脅かされながら。


・・・・・峰岸伸介は家の応接室の瀟洒な革張りのソファの上でおじいさまの膝に抱かれている。

まだ幼い頃の伸介の体を膝の上にのせて、おじいさまの機嫌のよい声が耳をくすぐる。

いつもは不機嫌そうな表情のお母さまの普段にはあまり見せることのない屈託のない笑い顔が伸介のすぐ目の前にある。

お父さまの姿は見えない。

「どうだ洋子、伸介のこの面構え。峰岸家代々の悲願の、この家から総理を出すという夢をこの子はきっと叶えてくれるぞ」

酒とタバコの入り混じった匂いの野太い声が笑い声とともに伸介の頭の上を勢いよく通り過ぎていく。

(お父さまだっていらっしゃるよ)

伸介は振り返って老人の顔を見上げながら小声で話す。

「ハッハッハ、お前の父は無理だよ。第一、あの男は峰岸家の血を引いていないからなぁ。あれはお前を生ませるためだけの種馬だ。俺がいなければこんな田舎町の市長になるどころか議員にすらなれない俗物だよ。なあ洋子」

お母さまは口元に手を当てさも可笑しそうに体を震わせて笑う。


突然、強い衝撃とともに伸介を抱いているおじいさまのうめき声が。

お母さまの可笑しそうな表情が顔にへばりついたまま、口元から悲鳴が流れ出す。

振り返るとお父さまが、何かを握りしめ、おじいさまの背中を何度も何度も突き刺しているのが見えた。

おじいさまの体から噴き出す赤い液体がお父さまの泣き出しそうな顔を染めていく。

「クソクソ!俺を、俺をバカにしやがって。峰岸家の血だと。そんな腐った血はここで全部出し切ってやるよ」

うつ伏せに倒れたおじい様の体から泉のように流れ出す血液が、分厚い中国段通に染み込んでいく。

お父さまの真っ赤な目が、伸介とお母さまを睨んだ。

口をパクパクさせてお母さまが腰から床に落ちていく。

お父さまが真っ赤に染まった刃物のようなものを振り上げてお母さまに突進していく。

その隙に少年の姿に戻った伸介はドアを開けて外に飛び出す。開いたドアの内側でお母さまの獣のような野太いうめき声が響いた。


伸介は真っ暗な道をやみくもに走っている。今見た光景の恐ろしさのせいなのか、体がギクシャクしてうまく走れない。

小さな川にかかった橋の上まで来て立ち止まった。

橋の水銀灯の明かりに、反対側から誰かがこちらに向かってくる姿が映し出される。

(タスケテ)

声が出ない。

「あれぇ、峰岸君?伸介君だね」

近づいてきたのは、車いすに乗った友田一郎だった。

(友田君!タスケテ。お父さまが・・・)

誰にでもいいからすがりつきたかった。

「ああ、でも無理だよ。君のお父さんはもうそこにいるもの」

橋のたもとの水銀灯の下で帰り血で真っ赤に染まった顔のお父さまが立っている。

「もうここから飛び降りるしかないね。なにたいした高さではないし、下は川だから大丈夫だよ。それに峰岸君は水泳部で泳ぎは得意でしょう」

橋の手すりから水銀灯の明かりだけがチラチラ揺れている暗い水面を覗く。

「さあちょうど9時だよ。新学期が楽しみだね」

一郎の言葉と同時に水銀灯の下のお父さまが動いた。

何も考える余裕もなく伸介は慌てて橋の手すりを乗り越えて真っ暗な空間に身を投げる。

長い時間だったのか短い時間だったのか、どんな風に落ちて行っているのかわからない。

突然、鈍い何かが潰れるような音をさせて、落下が終わる。伸介の腹部に何か太いものがヌルリと突き刺さった。

目を凝らすと川の中から突き出ている木の杭が、自分の腹にズブズブと突き刺さっていくのが見える。裂けた腹部から、腸が踊るように飛び出してくる。

腹の中が煮えたぎるように熱くなる。

どっしりとした痛みが全身に押し寄せ、狂わんばかりの恐怖に襲われる。

狂った方がどんなに楽か、死んだ方がどれほど幸せか、そんな思いを巡らせながら伸介はすぐ目の前でそんな自分のおぞましい姿を眺めていなければならなかった。


峰岸伸介は家の応接室の瀟洒な革張りのソファの上でおじいさまの膝に抱かれている。

まだ幼い頃の伸介の体を膝の上にのせて、おじいさまの機嫌のよい声が耳をくすぐる。

いつもは不機嫌そうな表情のお母さまの普段にはあまり見せることのない屈託のない笑い顔が伸介のすぐ目の前にある。

お父さまの姿は見えない・・・・・


またこの夢が始まろうとしている。

血まみれでのたうち回るおじい様、お母さまの恐ろしいうめき声、そして血に飢えた獣のようなお父さまの赤い眼。

それにもまして自分の腹を突き破っていくあの杭の感触と飛び出していく腸のおぞましい光景を伸介は永遠に繰り返し見なければならないのだ。


夢を見始めてから3日目の夜だった。

三人は打合せした訳ではなかったのに、それぞれ塾に行くといって出かけ、偶然に友田母子が住んでいた市営アパートの友田一郎が飛び降りた屋上に集まっていた。

「皆も・・・」

峰岸伸介のつぶやきに、金森芳郎、仲根保宏が頷(うなず)く。

「もう嫌だ、耐えられないオレ」

保宏の涙声。

「眠るのが恐ろしい・・・」

あの夢の中での惨事を思い出したのか、芳郎のがっしりした肩が震えだす。

「どうすれば、どうすればいい峰岸。あんなこと考え付いたのはお前だろう」

「そうだ、峰岸お前のせいだ、何とかしろ!」

保宏と芳郎が泣き声で伸介をなじる。

「なんだと、お前らだって賛成してやったこと・・・」

伸介は涙で言葉を詰まらせた。

泣きじゃくる少年たちの頭上には涼しげに初秋の巨大な満月が出ている。

そんな真昼のように明るい屋上にもう一人の少年が立っていた。

「こんばんわ。良い月ですね」

三人はギョッとしてその声の方を振り返る。

田中雅夢が言葉を続ける。

「あなたたちは夢の中で、犯した罪の報いを受け続けなければならない。永遠にね」

「田中君、知っているんだね。教えてくれよ、あの夢を見なくなる方法を。俺たちはただ峰岸に言われたままやっただけなんだから、ねえ中根」

芳郎が保宏の方に振り向いて相づちを求める。

「そうだよ、悪いのは峰岸だよ」

「なにいってんだよ、面白がって田中をさんざん虐(いじ)めたり、金を巻き上げていたのは金森だろう。それにメールで田中を追い詰めたり、遺書まで書かせたのは中根だったろう」

三人の内輪もめを黙って見ていた雅夢が口を開いた。

「もうこの夢の呪いは誰も解くことはできないよ」

少年たちは雅夢の声を聴いて茫然と立ち尽くした。

「ただ一つだけ方法があるとしたら、君たちが一郎君を追い込んだのと同じ方法でここから飛び降りること。それによって君らの夢の呪縛が解けるかもね」

少年たちのギョッとした表情を見ながら雅夢の口から出てきた言葉。

「ちょうど9時だね。新学期が楽しみだね」

それは雅夢の口を借りた友田一郎のゾッとするような声だった。

その言葉を耳にすると6個の少年たちの眼は大量の月光を吸い込んで正気を無くしたかのようにトパーズ色に怪しく輝き始めた。

金森芳郎は無表情な数人の看護師たちに持ち上げられ、中根保宏は後ろから母の非情な手で押され、そして峰岸伸介は父親の狂気から逃れるために、市営アパートの屋上でそれぞれ同時に雅夢の視界から消えていった。


市営アパートの1階に住む、年金暮らしの老夫婦はいつものように、昨夜買っておいた弁当の残りの半分を食べながら、何も話すこともなくうつろな目でテレビを眺めていた。

お笑い芸人のいつもの馬鹿笑いが、狭いアパートの部屋に充満しているときだった。

いつもは静かなこの時間に、前の時よりもっと凄まじい爆発音のような音が響き、無機質な老人の表情に突然恐怖が張り付き、思わず二人は悲鳴を上げながら抱き合った。

しばらくして、老夫婦は音がした玄関側のドアを恐る恐る開けて覗いてみる。通路にはすでにお隣のお兄さんがタトゥーを入れた上半身むき出しの姿で飛び出してきており、何やら叫んでいる。

彼らは何があったのかわからずキョロキョロしていると、二階の通路から中年の女性のしゃがれた声が。

「そこそこ!自転車置き場の前にまた人が・・・」

先日の事件の後、新しく張り替えたばかりの自転車小屋のトタン屋根がグシャグシャに潰れ、その下に、月の明かりに照らし出された三人の少年の姿が転がっていた。


エピローグ


翌朝、学校中が騒然とした雰囲気に包まれていた。

雅夢のクラスでは少人数のグループに分かれ、昨晩の事件の話でもちきりだった。興奮して大声を上げる男子や泣き出している女子たちも・・・。

そんな中でも雅夢はそんなグループの輪から一人ポツリと離れ、椅子に腰かけ、人気のない朝の校庭をいつものようにぼんやりと眺めているだけだった。

授業の始まりのチャイムが鳴っても、担任の山元も現れない。他のクラスでも同様のようだ。

そんなざわついた中で、校内放送が始まる。

「教頭の大渕です」

おばさん教頭の甲高い声がスピーカーから流れ始める。

「昨晩の本校生徒の事故のため、急遽、職員会議と保護者会を開催することになりました。そのため本日、学校は臨時休校とします。皆さんは家庭学習ということになります。必ず自宅待機していてください」

校内放送が終わると事件の当事者たちがいたこの教室内ではしばらくの沈黙の後、悲痛なうめき声と悲鳴が同時に湧き上がり、生徒たちの声はここを爆心地として学校中に波及していった。

昨晩の事件がうわさ話なんかではなくやっぱり本当のことだったと改めて確認した生徒たちの動揺の咆哮だった。

一人校門を出て、雅夢はいつもと変わらず図書館に向かいながら、不快な怒りにとらわれていた。つい一月ほど前の友田一郎君の同様の事件の時は、学校も父兄たちも、そして生徒たちですらなんの関心すら示さず、話題にも上がらず、社会のごみ箱に放り込まれてしまったのに・・・

この国の社会という組織に隠されている理不尽さを雅夢ははっきり目撃したのだった。


翌朝の新聞には、2日前の夜、塾帰りの三人の中学生が、少し前、精神的に落ち込んで自殺を図った同じクラスの友人ためにその現場に集まって彼をしのんでいた時に誤って屋上から落ちてしまったという小さな美談の記事になっていた。幸い彼らに命には別状ないということだった。


「お疲れさまでした」

朝食の味噌汁を啜る雅夢に母が畏(かしこ)まった表情で声をかける。

この事件から4~5日もすると驚くほど簡単に学校は落ち着きを取り戻していた。

雅夢のクラスでも事件以前と変わらず生徒たちの明るい喧騒が帰ってきていた。

いや、あの三人がいなくなったことで、なにかつっかえ棒が外れたようで、もっと自由な明るさが差し込んでいるようだ。まるで彼らの存在が最初からなかったかのように。

クラスの担任山元と校長は、あの事件の責任を取って強引に辞職させられたという噂がたち、生徒たちの前に二度と現れることはなかった。

峰岸伸介、仲根保宏、金森芳郎の3人はそれぞれ体が治り次第、別の中学に転校するということになったようだ。


・・・・・いつもの雑踏の中で佇んでいる。

(お疲れさまでした)

頭の中に響いた声に思わず振り返ると片膝をついた父、“夢人”が控えている。

「これで良かったのかい」

少しの戸惑いを含んだ声。

(三人ともあなたの望み通り、一生半身不随の身になりました。彼らは今後、社会の中に組み込まれることはないでしょう。これによってこの国の未来に巣くうはずの憂(うれ)いの幼虫の3匹をあなたは駆除したのです)

心地よい風が二人の頭上をサッと通りすぎ、気が付くとススキが揺れる秋の草原に僕は一人で立っている。そのススキをかき分けて誰かの顔がのぞく。

「一郎くん!」

友田一郎の懐かしいはにかんだ笑顔。

(ありがとう雅夢くん。僕が生きてきた意味は雅夢くんを“夢使い”として覚醒させることだったんだね)

それだけを伝えると一郎くんはまたススキ野原の中に帰っていった。

「待って」

ススキの中を追いかける。

どこからか愉快な音楽が聞こえてくる。その音楽のする方向に進む。ススキを両手で押し開けると広場になっていて、そこで一郎くんはキツネたちに取り囲まれて音楽に合わせて、さも可笑しそうに一緒に踊っている。

そして、それを眺めている穏やかな笑いを浮かべた雅夢がいた・・・・・


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夢使い @masibakei

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