-設定6-

「ちーっす───おう、お疲れちゃん」

光一が中華料理屋・朋来の軒をくぐると、そこにはタカシとキャスの姿があった。向かい合う形で座り、まだ来ていない料理を待っている。

「どもー」

「お疲れ様です」

タカシは隣の椅子を引いて座るよう促すと、光一は片手で手刀を切って腰を下ろした。

「どっこらしょっと」

ふうっと大きなため息を吐いて店員が持ってきたおしぼりを受け取ると、パンっと叩いてビニールを裂き、両手でごしごしと顔を拭き始めた。

「オッサンだ、ガチでオッサンだ」

「完璧ですね、光一さん」

二人がドン引きしてるのも意に介さず、光一は続けておしぼりで耳の穴を丹念に拭き続ける。

「何言ってんだお前ら、オッサンがオッサンらしくして悪いかよ」

「もういいけどね、あきらめてるから」

「いや、それって何をあきらめちゃったの!?」

光一が聞き返すと、キャスは手を払う仕草を見せると「何でしょうね~」とかわしてお冷を口にした。

夜、十時過ぎ。

光一は毎日打ち続けるスロプロだが、キャスは学生、タカシは同じ大学の研究員。光一以外の二人は打たない日もあれば、夕方や夜だけ打つ日もある。

そんな三者三様の生活がある中、特に約束しているわけでもなく三人は打ち終わった後にこの中華料理屋で顔を合わせることが多かった。その日の結果や情報交換をしたり、他愛も無いバカ話をしたり、縛られることも無くただ晩飯を共にする。自然な距離感とお互いの配慮から生まれた習慣、という感じだった。

「ハイ、カニチャーハン大盛と坦々麺ね。あと餃子」

店員が勢い良くテーブルに料理を並べると光一の前にお冷を置いた。

「コーさん、いつものネ?」

「あい、よろしく。始めちゃって二人とも」

「いっただきまーす」

「お先です」

キャスは盛りに盛られたチャーハンの大盛の牙城に早くも取り掛かっていった。タカシは控えめに坦々麺をすすり始める。そして餃子は、タカシが醤油と酢とラー油を混ぜるところまでを担当し、キャス二個、タカシ一個の割合で消費されていった。

「……太るぞ」

「死ねっ!」

キャスは躊躇無く、チャーハンに付いてきた中華スープを蓮華で掬い光一にかけた。

「うぉわちゃっ! 食べ物粗末にすんなって!」

「デリカシーの無い中年を世界から抹消するためには致し方ないのよ」

「まあ、今日は大分活躍したから……」

タカシがフォローを入れると、キャスはうんうんと頷いて見せた。

「頭を使うとお腹が減るの。体動かすだけじゃないんだから」

「ほんとそれだけは分かんねーよなー。ま、いっか。それで、どうだった弘樹のエウレカは?」

光一が話を振ることで、今日打った台や店の話題が始まった。



「伊ヶ崎さん、いかがですかね」

品川のとあるオフィスビルのワンフロア。デザイン事務所『L&Dクリエイティブ』の応接室では会議が開かれていた。そこにはL&Dの経営者である伊ヶ崎詩乃と現場のデザインリーダー、そして向かい合うのは蝶ネクタイをした恰幅の良い男性と、それに付き従う若いスーツ姿の男性だった。

「仰るとおり、辰夜書房さんとしてwebに手を広げたいのは十分に理解できます。そのパートナーに弊社を指名してくださるのも光栄です」

「ならば話が早い」

蝶ネクタイの男性、頭髪は潔いほど色が抜けた白髪のみで老眼用と思われる眼鏡を掛けている。

「森本さん自らお越しいただいてのお話ですが……今この場でご返事しないといけませんか?」

お付きのスーツの男が、わずかに驚いた表情を見せたが、詩乃が森本と呼ぶ初老の男性はニッコリと微笑んでうなずいた。

「構いません、構いません。すぐに喰い付かないのはいかにも聡明な詩乃さんらしい」

「誉めてくださっても何も出ませんよ」

詩乃はそう言いながら広げていた手元の書類をまとめ始める。ミーティングを終わらせませんかという大人のサイン。気配を察したデザインリーダーとスーツの男もそれに倣い始めたが、森本は動く気配を見せず話し続けた。

「いやいや、もう少し詩乃さんと辰夜の両者のメリットをお話したほうがいいかもしれない。先々のことも含めてじっくりとね」

「ですが私、次の約束も控えておりまして。申し訳ないのですが」

詩乃は本当に申し訳ない、と残念で仕方が無いといった困った顔を見せて頭を下げた。森本は少し思案した後に口を開いた。

「あそこがいい。東野、汐留のフォンテーヌのバー分かるか?」

スーツの男は即座にビジネスバックからタブレットPCを取り出すと、キーボードとタッチパッドを器用に操作して瞬く間にうなずいて見せた。

「二名様で予約しました」

「うむ」

森本は左手のパテックフィリップを覗き、詩乃の顔を捉えるように見つめて言った。

「今夜八時、迎えにきますがいかがですか? ここでは口にできない話もできるかもしれない」

詩乃は会議テーブルの下に隠れたハイヒールの踵を強く踏みしめつつ、手で口元を押さえて軽く笑いながら答えた。

「ずるいですわ、目の前で決めてからお誘いになるんですから───分かりました。よろしくお願いします」

「断られたらどうしようかと思いましたよ」

「森本さんのお誘いを無碍にするなんて、私みたいな小心者はできませんよ」

詩乃はこの日で何度目かの必要以上に力が込められた笑顔を見せた。

「お迎えなんて恐縮ですから、待ち合わせでお願いします。汐留ですと……」

「あとで私からご説明します」

スーツの男がそう応えると、森本は一瞬だけ鋭い眼光でにらみつけた。それに気付いた男は心底おびえた様子で黙って下を俯いてしまった。

しかし、詩乃はその様子をしっかりと見ていながら気丈な立ち振る舞いでフォローする。

「いえいえ、失礼しました。調べれば分かることですので。それでは……お時間の方はよろしいのですか?」

森本もさすがにこれ以上居座り続けるのもあざといと感じたか、ようやく席を立った。

「そうですな、あとは夜に。お待ちしてますよ」

「本日はわざわざお越しいただいてありがとうございます。申し訳ありませんが、次の約束がございまして私はこれで……」

詩乃が深々と頭を下げると、詩乃に同席していたデザインリーダーが会議室のドアを開ける。促されると森本とスーツの男は会議室を去っていった。

姿が消え、気配がなくなるまで姿勢を保ち続けた詩乃は、ようやく頭を上げた。

ふうっとため息を吐くと椅子に座り、リクライニングに身を任せて大きい身を仰け反らせる。左手で両目を覆うと、もう一度ため息をついた。

会議室のドアの前を通りがかった社員がその姿を見て、あわてて何も見ていなかったかのようにそそくさと立ち去っていく。それにも気付いてたが、詩乃は何をすることもなかった。

「あの爺さん、あれでまだまだ現役なのかしら。参ったなあ……これって枕なのかな。どうしよう、春香ならどうするかな」

ふと口をついた遠い地にいる親友の名が、詩乃の心をさらに揺らす。だが、それは同時に沈みかけた思いを持ち上げるきっかけにもなった。

「そうよね、私には今、支えなきゃいけない社員もいるんだから。ゴーフォーブローク、春香よく言ってたよね」

詩乃は椅子の手すりに両手を置くと、勢い良く立ち上がって拳を握った。



「難しいですね。2000や3000回しても高低を見切れるかどうか」

タカシは中指と人差し指で眼鏡を直しながら、正直な感想を述べた。

「それよりも朝一の設定変更判別とか、店が設定を入れてくる可能性があるか、客観的な外部からの推測の方が有効かと」

真面目に説明している横で、キャスは坦々麺を啜りながら「うんうん」と頷いていた。

「ただ上にぶれても下にぶれても、出玉はそんなに荒れない印象を受けました。何か変なことをしなければ」

そう言い終えると、タカシは人生の無情を悟ったかのように遠くを見つめた。朋来の暖簾の先に輝く見えないはずの月を眺めているかのような、悲しげなまなざしだった。

キャスが箸を止めて言った。

「それって、急にボーナスが当たりまくって白7も揃いまくって、コーラリアンが50回続いちゃうこと?」

光一もホイコーロー定食のキャベツをつまむ箸を止めて言った。

「それって、REGでなんか引いちゃって最初から違う曲が流れて閉店までARTが続いちゃうことか?」

「ええ、その通りですよ! もう、引き弱ですよ僕はもう」

「タカシ泣かないで、餃子もう1個食べていいから。光一さんもエビチリ奢ってくれるって言ってるよ?」

「言ってない! ……けど、まあそれくらいなら。今日は事故勝ちしたしな」

「やったー、店員さん、芝海老のチリソース2人前お願いしマース!」

「なぜ増えてる!?」

「まあまあ、私と光一さんが大勝ち、タカシもプラスということを祝して」

キャスがそう言って烏龍茶の入ったグラスを前に出す。

「勝てたから、いいか」

タカシも気を取り直して同じくグラスを掲げた。

「お前ら、乾杯すればOKと思ってるだろ」

光一は苦笑いしながら氷がだいぶ溶けた烏龍ハイを二人のグラスに合わせた。

「カンパーイ!」

「乾杯!」

「……乾杯」

大衆に愛されそうな店構えの中華料理屋には珍しく高い音が響いた。キャスは幸せそうに両手でグラスを抱えると、烏龍茶を一気に飲み干して「ぷはーっ」と声を漏らしている。その気はなかったが、光一も釣られて気付けば烏龍ハイを空にしてしまった。

「でも悔しいですね、おそらく高設定を掴めたのに勝ち切れなかったのは」

「考え方の問題だよ。上を掴めたから展開に左右されても負けずに済んだ、って思った方がいい」

「分かってはいるつもりですけど……」

「頭脳明晰の大学院生とは思えないな。期待値追えば数日間の収支なんて気にしないだろうに」

「僕らは毎日打てるわけでは無いから、期待値を追うというのも机上の空論な面もあるんですよ」

「タカシ、頭がいいからグルグルしちゃうんだよねー」

キャスは上機嫌でニヤニヤしながら、実際に人差し指をタカシの旋毛に当ててぐるぐると回し始めた。タカシは不服ながらもキャスが絡んでくること自体はまんざらでは無い様子で、そんないちゃつきもそのままにしていた。

「それとな、判別が難しいならむしろ好都合だろ」

光一はそう言うと、灰皿を近くに寄せて胸ポケットのセブンスターを取り出した。

「どうして?」

キャスは、タカシの頭に指を当てたまま素朴に尋ねた。

「雑誌やネットの情報に偏った設定判別主義の若い連中は、そのうち割に合わないと打たなくなってくる。素人さんは天井すら知らないで演出や展開が面白いこの台を打ってくれる。そして、店単位で長期的な設定の入れ具合を把握しながら、その日の天井具合もチェックしている俺みたいなジグマは、一番恩恵が受けられる」

キャスとタカシはお互いに顔を見合わせて、感嘆のため息を吐いた。

「まるでプロだ」

「さすがプロですね」

「おい、若干一名のリアクションが間違ってるぞ!」

光一は逃さずツッコミを入れてから煙草に火を灯した。

「まあ、これもタカシの言うような机上の空論みたいなもんだけどな。もっともらしく言うとそういうこと、ってのに過ぎないよ」

「でもそれで生きてこれたんでしょ? 光一さん」

「うん、何となくな……。あ、そうだ。お前らに一つ頼みがあったんだ」

「何ですか? 珍しい」

タカシは話題の転換に身を乗り出してきた。一方キャスは、注文したエビチリを受け取りながらメニューを眺めていた。

「───フカヒレ───北京ダック───満貫全席」

「念のため言っとくが、この店には無いからな!」

「いや、頼めば出てくるかもしれませんよ?」

「おい、お前もかよ!?」

「冗談です。それにしても改めて頼みとは?」

光一はうなずくと、ズボンの前ポケットから携帯電話を取り出した。型の古い大きめの折り畳み式のそれは、随分と使い古されているようで外面に傷も目立つ。光一は画面を開いて難しい顔をしながらボタンを操作し続けると、ようやく目当てのものに辿りつけたようで二人に画面を見せた。

「このホールのメール会員になってみてくれないか?」

「どこ?」

「……HOPSですか。自分はもう入ってますよ」

「私、こういうの全然入ってないよ? ほら、変なメールとか来ちゃうからやらないようにしてるの」

そのキャスの言葉に光一は目を光らせた。

「すばらしい、キャス頼めるか?」

「う、うん。いいけど、それで何があるの?」

「そうですよ。自分も会員でメール届きますけど、特に情報も無い無駄なメールに過ぎなかった覚えがあります」

「とりあえずなってみてくれよ。もしかしたら釣れるかもしれない」

「?」

「?」

二人の怪訝な表情にも負けず、光一は嬉しそうに追加で届いたエビチリに箸を付けようとすると、取り出したままだった携帯電話の画面が光りメールの着信を知らせていた。



ゆりかもめに乗る気にはなれず、品川から新橋まで電車に乗ると海の方向へ歩いた。森本が指定したホテル・フォンテーヌは、世界的に有名なリゾートグループがウォーターフロントに進出した、まだオープンして数年のデザインコンセプト系のホテル。特に迷うことも無く、浜離宮を脇に眺める都心にありながら喧騒とは一線を画した場所にあった。

(趣味はいいのよね)

詩乃は涼しい風が頬をくすぐる夜の空気を心地よく感じながら、どこかホテルへと向かう足取りに重さを感じていた。それでも、その足を止めない限り目的の場所には行き着く。

車を使わず徒歩でエントランスに向かう客はむしろ珍しい。ベルマンに声を掛けてバーの所在を確かめると、メイクを整えようと化粧室に立ち寄った。中には老女が一人。シックなグレー基調のフォーマルスーツに身を包んだ、詩乃よりも身丈の小さい少し背中を丸めた女性だった。

詩乃は洗面台の脇にコンパクトを置くと、鏡に映った自分の姿を鋭く見つめる。自らの顔立ち、目元や唇を確かめながら、軽く息を吐いた。

(今さら歳を隠すのも……求められるだけマシっていうことなのかしら)

ファンデーションで整え直すかどうか戸惑っていると、鏡越しに先客の老人が詩乃のことをしげしげと眺めていた。包み込む柔らかい表情で、まるで孫娘をいとおしむかのようだった。

「あの……何か」

詩乃はパフを持つ手を止めて振り向いた。

老女は驚く様子も無く、鏡から本物の詩乃に視線を移すと頬を緩めた。

「ごめんなさいね。お綺麗な方がずいぶんと張り詰めていらっしゃったから」

言葉の端々に抑揚を含み、ゆっくりとした話し方はどこか余裕を感じさせるものだった。

詩乃は老女の言葉に気付かされるものを感じ、メイクの手を止めた。

「そんなに私……張り詰めてなんて見えましたか」

「それはもう、試験を受ける前の学生さんのようでしたよ」

老女は近付くと下から見上げるように詩乃の顔を見上げた。見上げているのに、詩乃はむしろ上から見守られているような感覚を覚えた。

「人がくつろいで安らぎを得るはずの場所で、そんな思いつめた顔をして。綺麗なお顔も、ハイカラなお召し物も、まるで出征する兵隊さんみたいに緊張してしまってもったいないわ」

詩乃は温かい老女の言葉に息を飲んで思いを巡らせた。

私は何をしようとしているのだろう。

私は何を欲しているのだろう。

これは、私が望んだこと? それとも望まれたこと?

思い込んでいるだけではないの?

背負ってるのではなくて、気負ってるだけではないの?

このまま森本と会って、

それらしく仕事の話を交わして、

条件の提示を受けて、

私が受け入れる。

いっそのこと、酒に身を委ねて何もかも流されてしまおうかしら。

きっと森本のことだ、それに対することなど造作も無い。

そんな自分の心の揺らぎを、この老女は見透かしているかのように思えた。

「どんなご用事なのか分からないけど、気張らないのが一番ですよ」

老女は詩乃の手を両手で握った。肌は詩乃のそれよりも乾き、細かく皺が刻まれていたが、その柔らかい感覚は詩乃の心を溶かしていくようだった。

詩乃は握られた手をそのままに、膝を折ってしゃがみ込むと頬にその手を寄せた。

「温かい。ありがとう、おばあちゃん」

詩乃は意を決して立ち上がると、老女に頭を下げて化粧室を出た。

ロビーを歩きながらハンドバックから携帯電話を取り出すと、エントランスへと向かう。

約束の時間まではまだ余裕がある。

外に出て浜離宮の木々が立ち並ぶ通りのベンチに腰掛けると、携帯電話を開いて電話帳を選んだ。

目的のあて先を見つけて『通話』を選びかけたが、少し考えてから『メール』を選び直した。


「代理店を挟まないのですか?」

「ええ、地道に行こうと思ってるのですよ、伊ヶ崎さん」

テーブルの上には何種類ものタパスとワイングラスが並ぶ。窓際の席は全面がガラス張りで、浜離宮だけでなく東京湾やレインボーブリッジも臨むことができる。

「web単独では、すぐに効果を望むのは難しいと思いますが……」

「いいんですよ、うちの誌上で告知しつつまずは電子書籍への土台を作りたい。出版単体では右肩下がりなのは明白なのでね」

「それは分かりますが。それでは森本さん自ら動かれるほどのことでもないのでは?」

ワインボトルはすでに二本空けられていた。詩乃のグラスには三分の一ほど赤ワインが残り、グラスの縁にはルージュの跡が見える。詩乃はオリーブのマリネと鱈子のディップに少し口を付けただけで、むしろ森本のほうがタパスのほとんどを平らげていた。

「いえいえ、下の者に任せてばかりでは伊ヶ崎さんにも失礼というものですよ」

「相変わらずお上手ですわ」

詩乃は間をもたせるために、ついグラスに手を伸ばしてしまっていた。すでに三杯は飲み干している。しかしそれ以上に食が進まない。心なしか頬が火照っている気がする。

ウェイターが通りがかると空いたグラスに気付いて「お注ぎいたしましょうか」と声をかけてきた。森本が先にうなずいて促すと、詩乃も断ることができずウェイターがボトルを手にするのを眺めていた。

「伊ヶ崎さんもすごい。まだ会社を作られて五年もしていないのに、もう立派なオフィスを構えて社員も三十人を超えている。女性の、いや失礼。お若いのにここまでビジネスができる方というのは希少です」

「いいんですよ。私も女だてらに、とは思っています。働き始めてしばらくは自ら手を動かしてたのですが……気付いたんです。私はデザイナーとしては一流になれないと」

「ほう」

森本は注がれたばかりの赤ワインを口にすると、両手の指を組み合わせてテーブルの上に置いた。

「気付けたのはそう、本当の『才能』に出会ったからです。圧倒的に自分より秀でた、いえ、自分が基準ではなく客観的に見ても輝きを抑えることができない神様からの『ギフト』を与えられた人間を目にすると、呆気ないほど潔くあきらめることができました」

「それは興味深いですね。その『ギフト』は、今も伊ヶ崎さんの会社に?」

「いいえ、もう世界に旅立っちゃいました」

「それはすごい、夢のある話ではないですか。今では私はこうやって仕事を回しながら時折、こうやって個人の嗜好を満たすことくらいしか楽しみはないですよ」

「まあ。森本さんって、正直者なんですね」

「私はいつも正直ですよ。単に語ることと語らないことを選んでいるだけです。それにしても、伊ヶ崎さんがこれほど飲める方だとは思わなかった。また是非ともこういった場所でなくてもご一緒したいものです」

森本の表情からは精気がみなぎって見えた。歳は五十を越えているだろうか、しかしながら老いを感じさせるどころか落ち着きと威圧感を伴い、柔和な表情の奥底に鋭い牙を隠し持っているような印象を受ける。

「少し飲みすぎたかもしれません。お付き合いで口にすることはよくあるのですが、今日は森本さんとご一緒のせいでしょうか……」

「無理はなさらないでくださいよ」

心にも無いことを。それでも詩乃はこの席に座り、森本の様子を伺うことしかできない。

左手首の腕時計を見ることもしない。外の景色を眺めて気だるさを感じさせることも無い。間違っても自らの髪を触ったり、手元のナプキンを悪戯に折ったりしない。そして、ハンドバックに入れたままの携帯電話を気にすることも───



緩やかなクラシックが流れるバーラウンジに、電子音が響く。

「申し訳ありません」

詩乃は足下に置かれたハンドバックを手にすると、膝の上に置いて携帯電話を取り出す。背面に表示された発信者名を確かめ、少し躊躇いを見せてから開いて着信ボタンを押した。

「はい、伊ヶ崎です………はい………今はお客様と………掛け直すので………はい、待っていてください」

詩乃は手短に会話を済ますと携帯電話を閉じて机上に置いた。

「いかがされましたか?」

「お食事中に本当にすみません。会社の方から至急の懸案があったようでして……」

詩乃は困惑した表情を見せて森本に頭を下げた。

「普段でしたら私個人に業務時間外で連絡をすることは止めるよう言い伝えてあるのですが。どうしても私の決済が必要らしく」

森本は一瞬だけ表情を曇らせて視線を脇に逸らしたが、すぐに先ほどまでの酒と食、そして女性とのひと時を楽しむ満ち足りた男の顔に戻った。

「それはいけませんな、会社の方も大変でしょう。向かわれた方がよろしいのでは?」

「森本さんがせっかくご招待してくださったのに……あの、お時間さえいただければもう一度話してきますので」

「そういった後顧の憂いがあっては時間を楽しむこともできない。落ち着かないでしょう」

「いえ、その……」

森本は困り果てている様子の詩乃の肩に手を伸ばすと優しくさすった。詩乃はその手に反応することなくうなずくと立ち上がった。森本の手は自然と詩乃の肩から離れていった。

「申し訳ありません、そうしましたらこれで……」

「送りましょう。結構すでに飲んでらっしゃる」

「そんな、私の都合で森本さんをそこまで……」

詩乃は〝本当に〟困ったかのように森本の見送りを断ろうとした。

「いや、下までお送りします。エントランスで車を捕まえればここから品川まではそうかからない」

(まずいわ、これじゃ最後まで付いてきちゃう)

「そうですか、ではお言葉に甘えて下まで」

詩乃が頭を下げると、森本はウェイターを呼んで財布からクレジットカードを取り出して手渡した。詩乃はその隙にハンドバックに携帯電話をしまうように見せてリダイヤルを選び、通話ボタンを押したまま自らのスーツのポケットに忍ばせた。

(お願い、察して!)

詩乃は自らの体の火照りがワインのせいだけではないことに気付いていた。

森本がウェイターが持ってきた明細にサインを済ますと立ち上がり、待っていた詩乃をバーラウンジの出口に促す。詩乃は導かれるまま森本の後を付いていった。

「下まで送ってくだされば、後は私、自分で会社に戻りますので」

「いけませんよ。気のせいか足取りもおぼつかないじゃないですか。社の車は使えませんが、タクシーでオフィスまでご一緒しますよ」

「そんな、本当に申し訳ないです」

二人がエレベーターに乗ると、一階にたどり着くまでに何組かの別の客が乗り込むに連れて会話は一時中断した。詩乃は森本に気付かれないようにポケットの中の携帯電話に視線を落とす。通話中を示す青いランプは付いたままだった。

エレベーターの扉が開くと、開けた一階のラウンジからエントランスは目の前だった。出口の前には常駐しているであろうタクシーがロータリーで待機している。

「良かった、呼び出すまでも無いですな」

森本が安心した様子で、詩乃の肩を抱きかかえた。詩乃はすがる思いで前方のエントランスに目を向ける。だが、期待する者の姿は無い。

「あ」

詩乃はひっそりと歯を噛みしめると、体の力をふっと抜いて森本に寄りかかった。森本はあわてて詩乃の体を支える。

「すみません、私」

「やはり酔ってらっしゃる。普段からお忙しいのでしょう? 無理をしない方がいいかもしれない」

森本の手が肩だけでなく腰にも添えられて、詩乃の体を歩きながら支える。

「会社に行くにしても一度部屋を取って休んで行ったほうが」

森本の詩乃に触る手に汗がにじみ始めた時、

「社長、お待ちしてましたよ!」

二人に声をかけながらエントランスから駆け込んでくる男。

それは、カジュアルスーツに身を包み眼鏡をかけた光一の姿だった。その手には、通話中のままの携帯電話が握られていた。



どこにするか迷った。

いや、第一の方針では迷っていない。飯屋でもない、飲み屋でもない、喫茶店でもない、カラオケでもない。散歩は少し考えたが、社長は酔ってらっしゃる、気がする。ホテルってわけでも無い雰囲気、のはずである。

勝手知ったる場所で、社長の気を紛らわすことができるポイント。

「って、スロ屋に女連れ込む男がどこにおるんかい!」

「詩乃さん、何か壊れてますよ~」

「もう許せないわ、あの爺さん結構イイ感じにまさぐってたわ。ああいう強制するわけでもないし、逃すわけでもない、絶対に自分のポジションを壊さないようにしながら女を追い込むってのは……ああ、もう最低」

「あ、チェリー止まってますよ社長、チャンスチャンス」

「社長って呼ばないで、光一さん」

迷った挙句に選んだのは、HOPSの奥のジャグラーコーナー。時間が十時近いこともあり、ほとんど周囲に客は見当たらない。そもそも、この店自体の客が壊滅的に少ない。

「まあまあ。あれで良かったのかな、詩乃さん」

「グッドタイミングよ。時間稼ぎしようと思ったら、今度はあのジジイ、部屋に連れ込もうと方針転換しようとしたんだから。あ、これどうすればいいの?」

詩乃が光一に言われるままに第2、第3リールを止めると、左下のGOGOランプが点灯した。単独チェリーでは無い。この機種、アイムジャグラーSPから採用されたチェリー重複のボーナスだ。

「詩乃さん、目押しできます?」

「目押しって……狙えばいいの?」

「そう、赤くて大きい7があるでしょ。それを狙えば揃うから」

「うーん、春香は簡単だって言ってたけど……えいっ!」

詩乃はリール回転のリズムを計ることなく、目前の上中下段を7が通過する瞬間に第1ボタンを押した。すると、7は枠下へと姿を消したところで第1リールは止まった。

「ああ、失敗しちゃった」

残念がる詩乃だったが、光一は驚いた様子で口を開いた。

「次、第2も狙ってみて」

「もう揃わないのでしょ?」

「いや、練習だと思って。それに成立したボーナスフラグは消えないから安心して」

「……うん、分かった」

酔いのせいか、普段は光一の前で毅然とした態度を崩さない詩乃もどこか子供っぽい、ガードを解いたかのような無邪気な態度だった。詩乃が改めて第2リールにも7を狙うと、今度は下段に止まった。

「次も」

「うん」

そして第3リール。今度は7とBARの固まりが枠内に収まった。光一は自分の予想が正しいのに確信を持つと、詩乃に笑顔でその事実を伝えた。

「詩乃さん、直視できるんですね。とても初めてとは思えない」

「直視?」

「そう。リールを走る絵柄が見えているってこと。単にボタンを押すのが見えているものに対して遅いだけで、しっかりと見えている」

「普通ではないの? 踏切で走っている電車とか、行き先掲示とか乗っている人の洋服とか見えるでしょう?」

詩乃は不思議そうに光一を見つめて、もう一度挑戦しようとメダルを3枚投入しようとする。すると、光一はその手を抑えて1BETボタンを押してみせた。

「それって普通じゃないですよ。かなり珍しい、というか能力者です。今度は見えたら気持ち早めに押すような感じで。それと、リールが一周して絵柄が戻ってくるタイミングを覚えると押しやすいですよ」

「なるほど……すごいわね、プロの人はこうやってお金を稼ぐのね」

「いや、これだけじゃ無理なんですがね」

「私も今の会社つぶれたら光一さんみたいになれるかしら……えいっ! あら、できた」

詩乃は一回転0・75秒のリズムを理解したらしく、今度はわけもなく7を止めることができた。そして楽しくなったのか間を置かずに第2・第3リールも止めてしまい、当たり前のようにBIGを揃えてファンファーレを鳴らした。

「ちょ、ちょっとこんなに音出してどうなっちゃうの? メダル止まらなくなっちゃうの!?」

詩乃は絵柄を揃えてから初めて動揺を隠せずに光一の腕を掴んで説明を求めた。

「大丈夫ですよ。あとはしばらく何も狙わなくてもブドウ絵柄が揃ってしばらくメダルが出続けます。約300枚で六千円分です」

「六千円! 私今、千円分しかメダル交換してないわよ?」

「そう、だからもしこのボーナスが終わって即ヤメしたら五千円のプラスですね」

「何これ、すごいじゃない? こんなのだったらいくらでもお金稼ぐことができるわ!」

詩乃は興奮した様子でボーナスを消化するたびに払い出されるメダルに目を輝かせていた。タクシーで森本という男から連れ出した直後にはぐったりしていたが、今はだいぶ元気を取り戻している。光一は安心しつつも一つだけ気になったことがあり、あえて隠さずに詩乃に告げた。

「詩乃さん」

「何、光一さん」

「詩乃さんは直視もできるようですごいけど、パチスロ、いやギャンブルはやらない方がいい」

光一の言葉に、先ほどまではしゃいでいた詩乃はジャグラーを打つ手を止めた。そして、にこやかにうなずいてみせた。

「分かってます」

「え?」

「分かってますよ、自分のことくらい。私はこういう勝負事とかゲームとかには熱くなってしまうから……子供の頃から親にはきつく言われていたんです。初詣の時におみくじとかあっても、絶対に引かないようにしてます。私ったら大吉が出るまで引き続けるって、泣きわめいていたらしくって」

詩乃は恥ずかしそうに自分の過去を語り続けた。

「大学ではスポーツ向いてないのにテニスサークルとか入って。負けるのが嫌いだから勝つまでやるってしつこくて、周りが嫌がって気付いたら一緒に練習してくれる友達もいなくなっちゃいまた。一人だと寂しいからサークル続けられなくて。それ以来、もう勝ち負けの付くことはしないようにしているんです。でも、今日は、光一さんがどうしてもっていうから……」

「俺、本当に使えない男だな」

光一は肩を落としてうなだれる。だが詩乃は嬉しそうに言葉を続けた。

「いいんですよ。光一さんに原稿をお願いしているから、一度は実際に試してみたかったんです。ちょうど良かった、私一人だったら怖くて入れないし、見ての通り一人で打ち始めたらどうなっちゃうか分からないし。それにね、春香に光一さんのこと聞いていたから。実際に光一さんがどうやっているのか見てみたいと思っていました」

「そうだったんですか……春香が詩乃さんにも俺のことを」

「ええ。仕事の間にね、楽しそうに光一さんのことを話すんですよ。『私は、凄腕ギャンブラーの卵を育成中だ』って」

「なんだそりゃ」

「育成していたかまでは分からないけど、うらやましかったな……あっ!」

ボーナスを消化し終わって12ゲーム、今度は呆気なくボーナス絵柄が一直線上に揃ってランプが再び点灯した。もはや光一が何も言わずとも、詩乃は瞬く間にボーナスを揃えてみせた。揃ったのは7が3つ。詩乃はまだ、人生史上でREGの存在を知らない。光一はその様子を見て、自分が3本目の千円札をサンドに投入しようとした手を止めた。

「今日はもう、詩乃さんの日だ」

「ビギナーズラック?」

「そうとも言いますが……こうなった時、女性の引きにかなう者はいない。ただ、言っておきますよ。今日だけですからね」

「分かってます。光一さんってギャンブラーのくせに、随分と心配性なんですね」

「ギャンブラーだからですよ」

「?」

詩乃は光一の言葉を理解できずにいたが、次々と勢いよく吐き出されるメダルに気を良くして打ち続けた。光一は隣で楽しそうにパチスロを打つ詩乃を眺めていると、会話の端々に自然と春香出てくることが嬉しかった。

ジャグラーのボーナス終了のBGMが流れ終わると、わずかの間に詩乃の台の下皿は溢れる寸前にまで満たされていた。詩乃は満足そうに頭上のドル箱を取ろうとすると、バランスを崩しかけて椅子に座りなおすことになってしまった。光一は初めに詩乃の台のクレジットボタンを押して残りのメダルを払い出してから、代わりにドル箱を取ると詩乃に手渡した。メダルをドル箱に移す方法を詩乃に教えようとしたが、詩乃の綺麗に折り目が入ったパンツに気付くと席を替わる。足を広げて下皿と両足で箱を挟むと、両手で一気にメダルを箱の中に移しかえる。

「春香にもそんなことしてたんですか?」

詩乃の質問に、光一は苦笑いしながら答えた。

「いや、春香は普通に自分でやってました」

「あら……」

光一はメダルを移し変えると、頭上の呼び出しランプを押した。

詩乃はメダルのジェットカウンター、景品カウンターでの特殊景品、そして少し離れた場所での景品交換所、一つ一つに新鮮な反応を示した。意図せず得た一万円の臨時収入に戸惑いはしたが、光一が用意した常識外れのデートコースが嬉しくて仕方ないようだった。

そして、誰もが経験する〝こと〟が終わったあとの空白の間。次にどうするという思案を巡らす時間。光一はただ詩乃の帰路だけを考えていたが、相手の考えることは違っていた。

「光一さん」

「はい」

「話、もっとしたい」

「えっ?」

「光一さんの……春香と暮らした部屋で」


◇ ◇ ◇


「亜夜」

タカシは黙ったままふて腐れているキャスの前で、なすべき説明と語るべき言い訳をすべて尽くした上で途方に暮れていた。

新橋駅から少し離れたオープンテラスの喫茶店。キャスの前に置かれたアイスのカフェモカは、トッピングされた生クリームが溶けて甘いカフェオレができあがっていた。タカシのアメリカンは、熱こそ奪われていたが同時に香ばしい香りも姿を消してしまっていた。

「だから……これは光一さんにあの時貸したジャケットで」

キャスは足を組んでそっぽを向いたままで姿勢を変えないでいる。

「今朝受け取ってこうして着ているわけで」

タカシは無駄かもしれない言い訳をもう一度繰り返すことにした。

「正確には眼鏡もかな。むしろ、眼鏡の方が大切だったのだけど」

カフェモカの氷が溶け、グラスと氷が軽くぶつかり合う音が響く。

「クリーニングに出すと言ってくれたけど、そんなことは気にしないにそれよりも早く返してもらったほうがありがたかったわけで」

それでも黙ったままのキャスに対してタカシは成す術を失い、ただ唯一の解決策、光一との待ち合わせをこの喫茶店で試みている最中だった。

昨日、三人で食事をしている最中に、光一の携帯電話にメールが着信した。光一はそのメールの内容を確かめると、タカシに頼みごとをした。「ジャケットと眼鏡を貸してほしい」と。それ以上の説明はなかったが、いつになく真剣な眼差しの光一に気圧されて断ることなくジャケットを脱ぎ、眼鏡を机上に置いた。光一は財布から五千円札を抜き取るとキャスに手渡し、まだほとんど手付かずだったエビチリもそのままに店を飛び出していった。

そして深夜、光一に連絡を取ると翌日は朝からホールに並ぶという。タカシは大学に行かねばならなかったので、翌朝に引き取りに行くと申し出た。もちろん光一は借りた手前、取りに着てもらうなど申し訳ないと言ったが、眼鏡がないのは心許ない。予備の眼鏡も持ってはいたが、視力が今よりもまだ良かった頃の物であまり効果がない。なぜか光一は、執拗にできればタカシの大学が終わった後の新橋でと食い下がったが、その理由は分からなかった。むしろタカシの方が頼み倒すような形で、今朝、光一の住むマンションを訪問した。

そして、ジャケットと眼鏡を受け取ることができた。玄関越しに立った、初対面の綺麗な女性の手から。

(これ以上は俺の口からは言えないだろう。頼むよ光一さん、早くきてくれないと亜夜がヘソ曲げて帰っちゃう……)

タカシは途方に暮れ、うららかな午後の日差しが差す心地よい屋外で、ただひたすら気まずい時間を耐え続けていた。

「おう、お待たせ諸君!」

そして、十分後。光一がようやく待ち合わせの場に現れた。心なしか気分良さそうに鼻歌交じりで手にしたホットのカフェモカを手に席に座ろうとする。対面式のテーブルでキャスとタカシが向かい合って座っていたところ、光一はタカシの隣に座ろうとした。すると、キャスは光一の手を引いて自分の隣に座らせた。

「なんだよ、同じカフェモカ仲間だってか。疲れてると甘いもんが取りたくなるんだよ。お前は頭を使うと腹が減るって言ってたな」

「ちょっとこっち」

キャスはそう言って光一をそばに招き寄せると、いきなり襟首を掴んで首元に顔を近づけた。

「な、なんだ!? まだ昼間ですよお嬢さん」

「黙ってて」

キャスは光一の首から鎖骨にかけて鼻を近づけ、そしてしばらく観察してからようやく手を解いた。タカシは呆気に取られてただ目を見開いている。

「………ふーん」

「いやー、いきなり何だろうなキャスさん、あははは……」

キャスはしばらく考えていたが、やがて納得がいった様子でずっと組んだままだった足を解いて反対向きに組み直した。束縛から解放された光一は目を逸らしながら掴まれていた襟を整えて席に座りなおした。

「クロエ─── 大人向けって感じよね。タバコの匂いに混じるのも意外に悪くないんだ。いい趣味してるな」

「クロ?」

聞きなれないブランド名にきょとんとする光一。

「タカシ、あなたはシロよ。疑ってごめんなさい。そして、この男がクロよ。真っ黒」

「よかった……」

キャスは素直にタカシに向かって頭を下げてから、一転してすぐそばにいる光一に面と向かって指を差した。

「さあ、光一さん。昨日はどんな素敵な方とお楽しみになって素敵な香りをいただいてきたか、洗いざらい吐いてもらいましょうか? うちの男の服にまで移り香残すような濃厚な一夜だったんですかね、え?」

「いや、そんな、いやー」

光一は困っていながらどこかにやけた顔で、外の景色をのどかに眺めるかのごとく視線を合わせない。間をもたせようとコーヒーカップに手を伸ばそうとすると、キャスにその手をはたかれた。

「ステイ!」

「犬か俺は!?」

はたかれた手を擦りながら、光一はタカシに無言で視線を向けた。

(もしかして話したの?)

光一が怪しむような目で語りかける。

(何も言ってませんよ。そういうものじゃないでしょう)

タカシは強い眼差しで応える。

(そうだよなー。お前さん、そういうところは義理堅いよなー)

光一はうなづくと、口を開いた。

「まあ、何だ。わざわざ言いふらすものでもないし、聞かれて隠すことでもないというか」

「だーっ、まどろっこしい。光一さん、全然女っ気が無かったからタカシが他の子連れてたんじゃないかって思って。タカシもそんなことない、って言うけど大学じゃ教養学部の女の子からは優しい研究室の助手さんって人気あるんですよ。それに頭いいから、その気になれば二股、三股、四股くらい平気でこなせると思うし」

「人をコンセントみたいに……」

タカシは苦笑いでただ黙っているしかなかった。

「ま、それはいいとして。光一さんに彼女がいるのなら教えてくれたっていいじゃないですか、この際」

キャスは隣に座る光一に距離を近づけてにじり寄る。それは近すぎて、ある意味恋人の距離と言ってもおかしくなかった。光一は恨めしそうに間近で睨み付けるキャスの両肩を持つと、丁重に押し返した。

「キャスは純情だよなー。さすが処女だよな……っていうか、お前らまだヤッてないの」

「──ちょっ!?」

「えっ、いや、それは」

光一の思わぬ返しにキャスとタカシは言葉を詰まらせた。キャスは先ほどまでの勢いが一気に無くなってしまい、頭から湯気が出そうなほど顔を赤くしてうつむいてしまった。タカシも決して開けっぴろげな性格ではなく、キャスを目の前にしてイエスもノーも答えることができない。

「その調子だとまだなんだな。まあ、そのな。仮に昨日キャスが思っているような楽しいことがあったとしてもだ。それが彼女とは限らないだろう」

「え?」

キャスは顔を上げて思わず聞き返した。

「専門家の方とか、プロフェッショナルの方とか、訪問販売される方とか、いろんな方面で活躍される女性がいるわけで」

間が空くこと数秒。

何を指すか理解したキャスは身体を震わせるとバッと席を立ち、光一に張り手をしようとしたが立ってしまったがゆえに目の前には頭しか見えず、強く握りしめた拳で後頭部を殴りつけた。

「ばかっ!」

テーブルに置かれたカフェモカもそのまま、そしてタカシがいるのも頭に入らなくなってしまったまま、キャスはオープンテラスの席を離れ、通りの向こうへ駆け出して行ってしまった。

「おい、亜夜」

「帰る!」

「どうしたんだよ」

「来ないで、一人で帰る」

タカシは追いかけようとしたが、拒否するキャスを無理に引き止めることができなかった。引き下がったタカシは仕方なくカフェの席に戻ってくると、殴られた頭を擦りながらまだ口をつけていなかったコーヒーカップを手にしていた。

タカシはそれでもキャスのことを追うかどうか、まだ後ろ髪引かれていたが光一はそんな気をよそに口を開いた。

「大丈夫だよ、次の日にはアッケラカンとしているもんだよ女の子って」

「光一さん、ちゃんとフォローしてくださいよ」

「わりぃわりぃ、タカシありがとな。別に話されても構わなかったけど、まあ面倒くさいっちゃ面倒くさい」

「………で、プロの方だったんですか、今朝の女性は?」

「ちがーう!」



タクシーの中で、詩乃は今日の一日で疲れたのか光一に寄りかかって眠ってしまっていた。

光一の部屋に着いて起こすと、酔いと眠気の残りでまだ心ここにあらずといった表情だった。おぼつかない足取りに肩を貸しながら部屋まで連れて行くと、ダイニングのソファーに導かれるまま横になった。

光一はキッチンに引っ込み、湯を沸かしながらインスタントコーヒーの瓶の蓋を開ける。カップを用意しようと食器棚を開けると、ふと手が止まった。そして少し考えてから、蝶と小鳥が描かれたコーヒーカップとソーサーを二組取り出した。

春香が買った、アンディ・ウォーホールのコーヒーカップ。ドイツのローゼンタールという有名なブランドの物らしかったが、春香は「道具ってのは使ってナンボなのよ」と100円ショップで買ってきたかのように普段使いをしていた。そして、光一は今でも好きこのんで使い続け、取っ手に描かれた蝶は少し霞んできている。

コーヒーをダイニングに持って来る頃には、詩乃はソファから腰を下ろして正座でテーブルの前に座っていた。光一は二組のコーヒーカップを置くと、詩乃と対面する形で腰を下ろした。

詩乃はコーヒーカップを両手に抱えながら、部屋の様子を眺めていた。

「何となく、感じます」

詩乃はミルクも砂糖も用意されていないブラックコーヒーを当たり前のように口にし、その苦味を心地よく感じながら思いにふけっているようだった。

「変わってませんよ。俺はインテリアとかそういうのはこだわらないから。でも、春香もデザイナー志望のくせにこざっぱりしたのが好きだったかな。こんな感じの、物の少ない生活感が薄い感じは俺も好きだったから」

「ええ、春香はどちらかと言えば機能美から生まれる感覚、にじみ出るような美しさが性に合ってました───このコーヒーカップ、会社でも春香使ってましたよ」

「そうですか。詩乃さんはやっぱり春香のことよく知ってるな」

「そうですよ、大学では光一さんより早く知り合ってますし、短い間でしたが仕事もいっしょにやりましたし」

光一も自分の分のコーヒーに口を付けてから黙ってうなずくと、立ち上がってベランダに通じる窓を開けた。外気が差し込み、詩乃の髪が風に揺れた。

もう日付が変わろうとしている深夜。街の喧騒も無く、静か過ぎる空気が二人の間を流れていく。

「もう五年は過ぎたかな」

「ええ、それくらいは経つかと思います」

テレビを付けることもできた。早々に布団を用意して床にうながすこともできた。ただ、光一は詩乃の意図を汲み取りきれないこともありながら、同時に自分から切り出すことも迷っていた。詩乃は光一が何を望んでいるのか分かっているはずだが。

もし詩乃が光一に春香のことをくわしく語らない理由があるならば、それは春香が口止めでもしているのだろうか。胸が高まっているのが分かる。パチスロを打っているときとは別の、腹の底からじわじわと滲み出てくるような感覚。これが光一を迷わせて、そして言葉をせき止める。

「ずるいですよね、ここで私が黙っているのは」

詩乃はコーヒーカップをテーブルに置かれたソーサーに戻すと、両脚を横に崩して軽く息を吐いた。

「春香は、ドイツでデザイナーとして自立して生活しています。最初は私とつながりのあったデザイン事務所で働いていましたが、今はフリーで活躍中です。実は……時折ですが私も仕事を依頼することがあります」

光一は詩乃の言葉が終わるのを待てないかのように立ち上がると、自室に駆け込んでいった。そして数枚の絵葉書を手にして戻ってきた。

絵葉書は外国の街並みが写った写真ばかりで、それが何という都市かは分からなかったがドイツ語圏のものであることは光一にも分かっていた。詩乃は光一から絵葉書を受け取ると写真を見定めてから裏返して宛名の書かれた面を読んだ。


『元気にスロ打ってる? Haruka』


「これだけなんですね」

「それは別に構わない。春香が俺のこと忘れないで生きてくれてる、ってだけで正直、嬉しい」

光一の真っ直ぐな言葉に詩乃は唇を噛んだ。

「この街はフライブルグ。写ってる路面電車で分かります。それでこの交通標識、ドイツではユニバーサルデザインが進んでるのだけど、このプロジェクトに春香は参加しています」

「すごいな、この写真自体にも意味があったのか」

光一が上気しているのが詩乃から見てはっきりと分かる。絵葉書の写真に心を奪われ、そしてその先に春香の姿を映し出している。

「それで、その………今、春香は」

言葉を詰まらせながら光一は絵葉書を手にする詩乃を見つめた。

その視線に気付いている詩乃。少し考えている素振りを見せつけてから、すっと立ち上がった。迷うことなくテーブルを周り込み、光一の背後に座る。そして──光一の肩を包み込むように両手を伸ばすと、絵葉書を持つ光一の手に触れた。

「私と今晩一緒にいてくれたら、教えてあげる」

詩乃の吐息が、光一の耳元を熱く撫でた。



「知りませんでした、光一さんがそんな副業をしていたなんて。自分もあそこの雑誌は読んでいるけど、あのコラムが光一さんのだなんて。すごいな何だか」

「まあ縁があって、としか言いようがないけどな。ついでに幽霊社員というか、税金とか保険とか面倒くさいことも世話になってる。偶然と幸運が重なった結果、こうして今も何とか生き延びているって感じだな」

「ある意味あこがれの立場ですよ、若いスロッターの奴らから見れば」

「そんなことないって! 風が吹けば空まで吹っ飛んでく、明日も知れない世の中の何にも役に立ってない中年だよ」

光一とタカシは二人だけになってからも、新橋駅前のオープンカフェで会話を続けていた。

「伊ヶ崎さんか……綺麗な方でしたね」

「ひどいよな、客が来たら普通は家の主を起こすだろう。あれは詩乃さんの確信犯だよ。お前、年上が好みなの?」

「いや、俺はそういう好き嫌いは無いっていうか」

女の好みでジャブを打ち合う男同士の下世話な会話は、もう少し続く。

「まあそうだよなあ、パチスロというかギャンブル好きは女に過度な関心を持たないというか、女っ気が少ない世界だからな」

「それ、かなり他人事のような言い方なんですが」

「いやー、ま、その、一般論としてな。ただな、だからこそこっちの世界に入ってくる女には、それだけで惹かれるのも確かかな」

「それは同感です。そこら辺に転がってる安い女とは違う」

タカシは眼鏡のフレームに手を当てて位置を直しながら、すっかり冷め切ったコーヒーに口をつけた。

「ふーん、お前さんもキラーな感じでしっかりと屈折してるな。学者の卵のくせに鉄火場に出入りしているだけはあるな」

「亜夜が特別なだけ、と言い換えてもいいかもしれません」

「お前がキャスにパチスロ教えたんだろう?」

「前にも女性を連れてきたことはありましたが、そもそも嫌がって拒否されるか、五分も持たずに出ていこうとしちゃいましたね」

「それが普通だろ。およそ女が嫌がる条件の集合体だぜ、パチ屋なんて。っていうか、お前本当にもてるんだな。そう言えば女に限らず野郎どもも連れてたよな。この前の手を出してきた奴らと言い、人望あるよな」

「その……方法論として組織として統率できれば、情報が最大の武器になるこのジャンルは集団が最大の力になります。だから、現場で実戦的な経験を持っている奴をホールで、実戦は無くとも分析や情報収集の結果答えを見出せる奴、そんなのに声を掛けてグループのようなものを形成していったんですよ。僕にとっては収支よりも、その取り組み自体が研究というか実験というか。彼らにとっては『勝てる上手い話』が転がってくるわけだから、嫌がる方が少ない」

「俺でも少し引くわ、それは。モルモットの一喜一憂を眺めて、自分の仮説を実証してニヤニヤしてたわけだ」

「ギブ&テイクですよ。人が動くのに無償というわけにはいかない。一日十三時間、提供情報だけで僕の理論を実証するために生の人間が働いてくれるわけですよ。まともに雇ったりしたらシャレにならない経費が必要になります。それでも僕は利益を出すためにやっていたわけではないから、まだ良心的だと思いますよ。世の中のマーケティングなんて、そうやって消費者を気付かせないまま宣伝者に仕立て上げている手法が今や主流になりつつある」

「まあ踊らされている、と気付けないのは哀れだな。いや、気付かずに楽しめているのはむしろ幸せか。で、お前もうやめちゃったの、それ?」

「ええ、この前の騒動できっぱり切り捨てました。やはり集団を形成して能力のある人材の確保は難しい。それに……」

「キャスはかわいいもんなあ」

「……はい」

「お前もかわいいな」

光一はケタケタと笑いながら、通りがかったウェイトレスに二杯目のカフェモカをと、タカシの分のブレンドを注文した。

「気を悪くするなよ。キャスは特別だよ、間違いなく。お前がいなかったら、手は出さなかったろうけどもう少しスロのこと教えながら一緒に打つことがあったと思う。あの驚異的な記憶力と洞察力は、他に見たことが無い」

「亜夜には怒られまして。利用するのは構わない、でもお姫様みたいに扱って打たせないのは嫌だと。道具として扱うのは気にしないから、隣に座らせろ、いっしょに打たせろと」

「だからあの時、目を真っ赤にしながらリンかけ一人で打ってたのか」

「あの時?」

「ああ、聞いてないの? いずれキャスから聞いてよ」

「なんですかそれ? 教えてくださいよ」

「よせよ、そういうのは言わぬがフラワー、当人から聞くのが一番だよ」

「そう言われると、これ以上聞けないじゃないですか。ずるいよな、大人って奴は」

「君も元気に歳を取り続けることだ。嫌でもその時はくるぜ」

温かく心地の良い香りと外気がまじりあったコーヒーをウェイターが運んできて、二人の会話は一旦小休止を迎えた。

新橋駅前は、そろそろ夕方になろうとしている。五時を過ぎれば一気に会社帰りのサラリーマンでこの界隈は賑やかになるが、今はその喧騒を前にした静かな街並み。パチスロに限れば、今のうちに良い台を掴まないと立ち回りが厳しくなって天井やゾーン狙いしかできなくなる。それでも、打たなければならないという選択を取らなければ、いわば自由業の光一にとってこの時間は自分の立場だからこそ堪能できる贅沢な時間の過ごし方だった。このカフェもすっかり店員とは顔馴染みだし、そこの角にある立ち飲み屋、通り一つ向こうのコンビニ、地元に根付く商店街の定食屋や中華料理店、駅前のホール、すべてが光一にとって心地よい生活の場であり仕事場でもある。ゴールデン6も、中華式整体院・青龍も、そうやって関わりを持つことができたかけがえのない場所だ。

そして自分と同じ生き方では無いが、自分と同じ匂いを持った若者とバカ話を交えながら時間を過ごすことができる。

悪くない。

そんな夕暮れ近いオープンカフェに、遠方から駆け足で近付いてくる人影。

それはアスファルトを蹴る音と荒れた息を伴って、まっしぐらに光一とタカシを目指していた。

「きたーっ!」

その声は間違いようも無いキャスの姿。携帯電話を掲げながら、怒って帰ったはずのお姫様が猛烈な勢いで二人のもとにたどり着くと、ハァハァと落ち着かない息を整えることも無く自分の携帯電話の液晶画面を見せ付けてきた。

「どうしたの、亜夜」

タカシはとにかく隣の椅子を引いて座らせようとしたが、立ったままキャスは二人にもう一度液晶画面に映るメールを掲げた。

「来たよ、サクラ募集のメール!」

光一とタカシ、そしてキャスの三人は目を合わせると互いにうなずき合った。


◇ ◇ ◇


「新台入替『新鬼武者』12台導入! 3/22」

ゴールデン6の店内には来週の新台入替のポスターが貼られていた。この店にしては導入台数が多い。光一は地下フロアに並ぶスロット台を眺め、どの台が撤去されていくかなどを考えながらあてども無くフラフラと彷徨う。

タカシとキャスから、キャスの元に届いたスパムメール今日は打つつもりは無い。いや、よほど理由のある台を見かけたら擦るかもしれないが、今のところその予定は無い。ホールを巡回するのは日頃のルーティンとして、今日は一つだけ確認したいことがあってゴールデン6を訪れていた。

そして苦労することなく目的にたどり着いた。

「うぃーっす。114%らしいロデオ期待の新作の設定6は、初日に何台仕込みますか店員さん?」

「どうやら本気で出禁になりたいようですね、光一さん」

フロアマネージャーの渡辺は、今日も凛々しくユニフォームを着こなしながらインカムでときおり指示を出しつつ業務をこなしていた。そうは言いつつも、今は平日の昼過ぎ。まだ客もまばらで忙しそうではなかった。

「大丈夫なの? 一気に12台も入れて」

「相変わらずですね……まあ、光一さんなら他のお客様も怪しみませんか。うちの店は危ない橋は渡りませんよ」

「鉄火場なのにギャンブルしないってのもな」

「ここは遊技場です。公営ギャンブルじゃないのでお間違いなく」

「そうでしたそうでした。で、そんなにいいのかい新鬼は?」

「6の機械割が程よいのがいいですね。コンテンツとしてもタイアップ系の中ではゲーム原作でソースもしっかりしていて質が高い。実際の稼動と出玉率を見ないと何とも言えないところはありますが……コントロールはしやすそうです」

「ふーん、評価高いねー。エウレカの導入台数絞っちゃったこと後悔してるんじゃない?」

「あれはそれこそギャンブルでしたから。あまりにサミーのプロモーションが強すぎたので、むしろ怪しかった。アニメ原作だと年配客が付いてくるか心配でしたから。結果として、革命的な台でしたけどね」

「あの台はしばらく続くな。出玉や設定を探るには難しいが、台として面白いのは間違いない。キャスが夢中になるのも分かるよ」

「ああ、見ましたよ弘樹で。あのタカシ君と一緒に仲良く打ってましたね。よく弘樹が設定を入れてくるクセを分かっている」

「ああ、タカシは本物だよ。少なくとも今の時点ではな」

「思わせぶりですね」

「続けるのは何だかんだで大変だし運もいるからなー。本人なりにプランはあるみたいだけど」

「この熾烈を極めるパチンコ・パチスロ業界を生き残った歴戦の生き証人はやはりいうことが違いますね」

「そういう大げさなもんでも無いと思うけどな………でな、ちょっと聞きたいことあってな」

「何でしょう?」

渡辺は周囲を少し気にしながら、特に呼び出しランプが点灯することも無いのを確認してから光一に耳を傾けた。光一は渡辺の横で、あえて渡辺の方は見ずに声を細めて切り出した。

「HOPS、怪しいことこの上ないな」

「ほう」

渡辺も光一には関心の無さそうな仕草で、何も聞こえてこない耳に当てたインカムのスピーカーに指を当てていた。

「メール会員になった途端に、スパムメールが大量に届く。その中にお前さんが言っていた打ち子募集のメールが紛れ込んでいたよ。HOPSってさ、一応10・20・30日がイベント日だよな」

「ええ、はっきり言って何の実績も根拠も無い、メールと店内ポスターで告知しているだけのガセイベントですがね。頭取りには一応行きますが、事情を知らない一見客が騙されて帰っていくだけ。ただ数台だけ露骨に出ている台があって、その台の客は一日中粘っているようです」

「打ってる奴は同じじゃないんだよな。あそこの店長って知ってる?」

「くわしくは……あそこはチェーン店なので店長も入れ替わりが激しいので。ただ言えるのは、今の店長になってからですからね」

「そうか、ありがとな渡辺。もう少し探ってみるわ」

「光一さん」

「何だよ」

「仮にHOPSが黒だとして、どうするんですか?」

渡辺はいつにない鋭い眼光で去ろうとする光一を呼び止めた。

「たぶん、何もしない」

「うん、何も」

「晒すとか騙し討ちするとかではなく?」

「ああ、俺は一介の打ち手に過ぎないよ。ただな……何だかキナ臭い話だから正体だけは突き止めたい」

「ならいいのですが。いや、それなら光一さんらしい」

光一は後ろ姿のまま手を振って一階フロアへの階段を上がっていった。


詩乃はマットレスに顔を押し付けると、何回か呼吸をしてから顔を上げた。自分の首に置かれた光一の腕をたどり、胸板に頬を寄せる。

「ちゃんとお日様で干してます? 男の人の匂いが染み込んでる」

「うーん、そう言われると」

「これだから、やもめ暮らしの男性は。春香がいた時はちゃんとしてたでしょう」

「しかし……女性はすごいな。こうしている間に他の女の話ができるなんて」

光一はそう言いつつ胸元に収まる詩乃の頭を抱き寄せ、黒髪に唇を当てた。香水とコンディショナーと、そして汗の匂いがする。

「春香は特別よ。今こうしていても、春香の男を寝取ったとか、二人の恋路を邪魔したとか思わない。ただ、光一さんが私の望みを叶えてくれただけ」

「望み?」

「言わせないで、女なんて皮を剥いだら下品な生き物なんだから」

「すみません、詩乃さん」

許すとも許さないとも言わない代わりに、詩乃の艶やかな感触のする脚が光一のそれに絡んできた。久しく忘れていた、でも自分の体に刻まれた記憶とは異なる別の心地良さ。

「春香はね」

「はい?」

「春香はね、私が知っている限り独身よ。結婚もしてないし子供もいない。こっそりドイツ男と付き合ってるとしたら、それは私にも分からないけど」

「詩乃さん……」

「春香はね、光一さんを捨てたんじゃない」

「いっ!」

光一の二の腕に鋭い痛みが走る。

詩乃の爪が揺れ動かない男の心を抉ろうとしているようだった。

「話さないのはずるいよね。春香には口止めされていたけど」

「口止め?」

「そう、でも話すわ」


春香はね、責任を感じてた。

光一さんが自分を守ろうとして、

自分を庇って大怪我をしてしまった。

それもよりによって、

光一さんが本気でプロとして食っていこうとしたホールで

あんな大騒ぎになってしまって。

光一さんが入院している間、

その費用も家賃も春香が代わりに払ってくれたでしょう?

後で返してくれればいい、って嘘を言って。

あれ、春香が私の会社の仕事を手伝って

貯めていたお金なの。

そう言えば、病院じゃなかったのよね。

保険も無くてあの時に

助けてくれた人にお世話になったという話だけど。

だからね、春香は

光一さんが治ってまたお仕事ができるまで

と決めたの。

自分がいると光一が生きていく妨げになるから、

「別れたい」って。

好きなのに別れたい、だなんて。

泣けるじゃない?

放っておけないじゃない?

光一さんが戻ってきたら

普通にまた暮らせばいい、って止めたけど

自分が許せない、って。

あの子、あんなに元気で姉御肌で

弱いところなんか全然見せない感じだけど

裏返しなのよ。

本当の自分は弱いから

力いっぱい強がって見せて、

無理して自分をそれに追い付かせていたの。

でも、本当に大切な人を巻き込んでしまって

さすがの春香も、耐えられなかったのよ。

だから、私がちょっとだけ橋渡しをしてあげた。

ドイツを紹介してあげたのも私。

でも、そこから先は春香の実力よ。

だってやれると思ったもの。

春香は明らかに私とは、

普通のデザインを志す人間とは

モノが違った。

あれが本物の才能なのね。

それでね春香とは約束したの。

必ず光一さんに連絡はしなさい、って。

それはちゃんと守ってたみたいね。

そして私も春香から約束させられてたの。

一つは、今こうして話しているから破っちゃった。

でも、もう一つはちゃんと守った。


「それは?」

詩乃の心臓から鼓動と共に体に行き渡る血が熱と代わり皮膚を温め、光一に伝わってくる。女性の滑らかな肌と柔らかい筋肉、そして程よいふくよかな脂肪が男の体を包み込む。光一の問いに詩乃は答えず、先ほど爪を立てた傷跡に火照った唇を当てた。


◇ ◇ ◇


時刻は夜八時過ぎ。

客は───三人。この時間にしておそるべき死に体だった。

正確にはパチスロコーナーでドル箱を使って打ち続けているのが三人、そのうち一人はジャグラーで運良くBIGが連チャンしたサラリーマン。他の二人は、あまりこの近辺では見かけない顔だった。一人はジャージを着た、残念ながら昼間に堅気の仕事をしているようには見えない若い男。ニット帽を深く被って黙々とARTを消化している。打っているのは『緑ドン』。もう一人はオタクっぽいとでも言うのだろうか、セーターにジーパンで白いスニーカー。太い足を無理矢理組ませながら打っているのは、『ツインエンジェル2』。

あとは時折入ってくる客が数千円使っては、何も起こらず不貞腐れながら席を離れていく。

パチンココーナーは、パチスロよりは客が付いている。しかし果たしてどれほど回るのだろうか、釘は読めないが見る限り芳しいとは思えないし、他の店で見かけるようなパチプロの姿を見かけることはない。

光一は一度店を出ると、携帯電話でタカシに電話をした。キャスは連れてこないように釘を刺しつつ、今から来て欲しいと頼む。

電話が済むと再びホールに入った。今度は台の様子ではなくホール設備に注目しつつフロアを流し歩いた。

『誠心誠意 出玉でご奉仕』

『当ホールは地球に優しいエコ紙おしぼりを使用しています』

『夕方からが面白い! 激ヤバパチンコ&激スゴパチスロ』

『お得な情報、勝利の道しるべ、メール会員募集中!』

空気のような、いや空気以下のゴミ告知が至る箇所に掲示されている中で一つだけ、景品カウンターの脇に置かれた大きめのパネルの内容が気になった。

『新鬼武者 地域最速導入決定! 3月21日、「店長極秘指令」発動! HOPSに何かが起こる!?』

(一日早い───卸業者から優先された? それとも警察の事前立ち入りがうまい時間に取れた?)

光一は少しだけパネルの前で立ち止まって考えたが、すぐにホール内の巡回に戻った。

下見もついでにと、スロットコーナーのゲーム数カウンターをチェックして回る。普通のホールならばまだ早い時間だが、すでに客まばらないこのホールならばもう稼動は無いに等しい。その場で打てるような台も無く、ゲーム数のメモも終えると外に出た。

待つこと三十分。

タカシが現れると、光一は簡単にホールの状況を説明した。

タカシは状況を理解すると、一度ホールの中に入って数分で戻ってきた。

そして二人はHOPSの入口を通過し、店構えをなぞるようにして歩いていく。

道を挟んだ雑居ビルの一階、分かる者ならばそのサイズと雰囲気ですぐに分かる特殊景品の交換所があった。

「どうする?」

「じゃあ俺はジャージで」

「うい、その方がありがたいや」

二人はそれを最後に分かれると、完全に別行動を取った。

それからは二手に分かれての尾行。

素人のやることだったが、ホールに出入りするような人間の行動は予想しやすい。

二人とも気配を悟られることなく尾行は続いた。

駅、電車、徒歩、タクシー。

そして最後に合流した。

二人は連絡を取り合うこともなく、互いのターゲットを追い続けた。

そして待ち合わせをしたわけでもないのに、二人は同じ場所に行き着いた。

あまりにも自然すぎる流れで気持ち悪いほどに。

場所は新橋から山手線でほぼ反対側。

目白駅から徒歩5分ほどのチェーン店系列の居酒屋の前だった。

「お前はジャージをそのまま付けたんだよな」

「はい、タカシさんは?」

「付けてた奴がある男と喫茶店で待ち合わせしていて、金を渡してた。そんで今度は金もらった方に乗り換えて付いてったら、お前さんがあからさまな不審人物っぽく店の前でウロウロしてた」

「そんなに怪しく見えました?」

「ああ、勉強になったわ。やっぱ分かって見てるとモロバレだな、こういうのは」

光一は店の前から少し離れたバス停のベンチにタカシを呼び寄せ、胸元からセブンスターを取り出した。人を追うというのは、自分のペースが一切存在しない重労働だと悟った次第である。

「どうします?」

「お前、帽子とか持ってる?」

「マスクならありますけど」

「あ、それでいいや。お前はたぶん面割れてないから大丈夫だろ。マスクちょうだい」

「じゃあ中に入りましょう」

光一とタカシが相談していると───いきなり背後から声が掛かった。

「あ、あ、あやしいですね………コーさんとお若い方」

思わず会話を止めて振り向く二人。人の気配はまるで感じなかった。

何者かとその姿を確かめようとすると、目の前には誰もいない。

いや、少し視線を下げると声の主が確かにいた。

「お前」

「───どこかで見たような」

光一ははっきりとそれが誰か覚えており、タカシはすぐに記憶がつながらなかった。

「ふ、二人とも、わ、悪いことには向いてないですよ、へへへ……」

「牧!」

それは以前客に絡まれていたのを光一が助けたこともあるHOPSの店員、牧だった。

ホールの制服やハッピを着た姿ならば見覚えがあったが、私服姿をみたのは初めてだった。ダークグリーンのジャンパーに青のジーパンと至って普通の地味な姿で、たとえ視野に入ったとしても印象に残りにくい。

「なんで、こんな所……いや、お前もしかして俺達のこと?」

「へへへ、気付かなかったでしょ」

「光一さん、こいつ!?」

タカシは警戒して、光一と反対側の牧を挟みこむような位置に立った。

「お、お若い方、こ、こ、怖いな」

「大丈夫だよ。牧は悪い奴じゃない。事情は知らないけどな」

光一はタカシを制しつつ、牧に説明を求める。

すると牧はホールで働いている時とは、少しだけ異なる人懐っこい笑顔で答えた。

「田中光一さん」

これまでにあった牧の特徴である吃音が消えた。

「俺は悪い奴ですよ。だが、俺は貴方の敵ではない。会わせたい方がいます。付いてきてくれませんか」

過去に見た媚びるような視線ではなく、意思を持った眼光が明らかに違った。



「こんばんわー」

中華料理店『朋来』の暖簾をくぐったキャスは店内を眺めたが、知っている顔はいなかった。仕方なく空いたテーブルに着くと、携帯電話を取り出して着信を確かめた。新しい着信は無い。液晶画面に映るのは、ここに来る理由だったタカシからのメールだけ。

今日は、タカシとは別行動で大学の講義が終わった後に一人でホールを彷徨った。

エウレカに美味しい台が無いか探したが、どうにも良いか悪いか分からない。ボーナス合算確率くらいしか参考になるものがなく、それも怪しいことこの上ない。正直なところ設定など関係無しに打ち散らかしたい気持ちもあった。むしろ大いにその欲求に執りつかれていたが、何とか我慢した。

最近覚えたジャグラーのREG回数が300分の1を切る台を試しに打ってみたところ、確かにポコポコとランプが光ったが、ますますREGが先行するばかりでメダルが増えない。

どうも自分は、タカシが日頃から立ち回りの根拠にする合理的な打ち方は向いていないのかもしれない。そんなことを言うとタカシには優しくも厳しく怒られるし、光一は「お前にはまだ早い」と馬鹿にされる。じゃあ私はどうすればいいのよ? と愚痴も言いたくなるものだった。

そう言えば、いつもなら店に入ってすぐにお冷を持って注文を取りにくるようなものだが、今日は誰も来ない。不思議に思いカウンターに目をやると、厨房の料理人、おそらく店主であろういかつい顔をした男がこっちを見ていた。目が合うと無言で視線を横に向ける。その方向はカウンターの奥の通路、トイレがある方向だった。


「おう、来たなヒキ強処女」

「その口に拳突っ込んでレバーオンしてあげようかしら!」

「亜夜、そんな言い方はあんまり……」

「ほっほっほ、元気なお嬢さんじゃのう」

光一、キャス、タカシ、整体治療院の医師・劉。そして口を開くことは無かったが、HOPSの店員・牧。

朋来の奥の一室。トイレの入口の横にあったもう一つの扉は『店員専用』と書かれていた。キャスは言われるままに中に入ると、その先はまた廊下。だが通路は短く目の前にはもう一つの入口。そこにはすぐに気付く監視カメラが頭上に設置されていて、扉は鉄製の見るからに頑強な作りだった。ノックすると室内からわずかに物音。そして扉が開いた先には、朋来の通常メニューでは見られない豪華な中華料理を囲んで先ほどの面々が並んでいた。

「キャス、まあ座れよ。これがVIPルームって奴だ」

光一はわざとらしく空けてある、自分とタカシの間の席を指差した。

「すごいわね───まるで映画に出てくる隠れ部屋みたい」

「僕も驚いたよ。この店にこんな部屋があるなんて。光一さんは知ってたんですか?」

タカシはキャスのハンドバッグを受け取りながら光一に問いかける。

「うんにゃ。初めてだよ」

「その割には随分余裕じゃない!?」

「まあな。六彩号を仕切ってる店だし、こんなことがあってもおかしくは無いと思っただけ」

「六彩号?」

「香港の宝くじみたいなものでね、この店がここいらの華僑系の奴らの代行で売り買いしている。中華系の人達も、ギャンブル好きは多いんだよ」

「この国の賭博の種類の多さにも驚くがな」

劉は光一、キャス、タカシの会話を楽しみながら円卓に並んだ点心に箸を伸ばしていた。

「あ、私思い出した!」

キャスはそう言い出すとハンドバッグから財布を取り出し始めた。

「何だ突然?」

「光一さん、お金返すよ」

そう言うとキャスは、小銭入れの付いた薄紫色の長財布から一万円札を取り出し始める。

「亜夜、光一さんにお金借りてたの?」

「くれたってことになってたけど、さすがに申し訳ないから」

「ああ、六彩号の当たりくじの分か」

光一とキャスが出会って間もない頃、キャスの軍資金代わりに渡したのが六彩号の当たり券だった。劉に勧められて適当に買ったものが当たったらしく、換金の手間も面倒だったのでキャスに渡したのだ。キャスはこの時に初めて朋来を訪れた。

「最初、怖くて……。私が『交換してください!』ってお願いしたら、いきなり口押さえられて襲われそうになったから。事情話したら呆気なく分かってもらえたけど、あの料理人の男の人、見た目怖いんだもん。話したら優しかったけど」

「大声で言うもんじゃないってくらい分かって欲しかったもんだが。いやー、でも分かんないぞ。もし本当に危険人物だと思われたら奥に連れてかれて……」

「やめてよ、今まさにその奥の部屋にいるんだから」

そう反論しながら、キャスは光一に向けて一万円札を差し出した。

「そうか。まあ、お前が大丈夫なら………って、何だこれ!?」

光一は受け取ると予想外の分厚さに驚いた。数枚と思っていたが、二十万以上はある。

「ちょっと何だよこれ、劉さん?」

「等が低くても当たればそこそこでかいのが六彩号、話してなかったかの?」

「ああ、全然聞いてない。また悪徳中華整体士に騙されるところだった」

「そうか、じゃあ今度からは手数料をいただこう。それにしてもお嬢さん、黙ってれば丸儲けだったろうに」

劉は手馴れた手付きで北京ダックを巻いて小皿ごと差し出すと、キャスは有り難く頭を下げて頂戴した。

「こんなに額が大きいと怖いです。それにやっぱり嘘ついてるみたいで気持ち悪いし」

「日本人は分からんのう。こんな気立ての良い娘さんが博徒なのか」

「見た目じゃないよ、劉さん。ただ日本人は真面目なのが多いから、その分ギャンブルに嵌りやすい。適度に遊んで適度に金使ってる方が、この道には入りにくいからな」

「それは同意見ですね。しかも負けるタイプに多い」

劉の問いに光一とタカシはそれぞれの意見を述べつつ、自分達も点心に手を伸ばす。それは和やかに見える食宴のひと時のよう。それ故に奥まった部屋の円卓に並ぶ中華料理が場違いで怪しいことこの上ない。

「で、話って何なの?」

キャスが切り出そうとすると、それを制するように鉄の扉が開いた。

現れたのはフカヒレの姿煮が盛り付けられた皿を手にした、カウンターにいた男の料理人だった。何も言わず皿を円卓に置くと、扉の手前で待っているらしいもう一人を呼び寄せる。

その姿は───ゴールデン6の渡辺だった。

部屋の中にいる面々を確認しつつ、状況を理解しようとしているのか周囲を見渡していた。

「これはこれは……」

渡辺は誰ということも無く一礼すると、料理人に促されるまま牧の隣に座った。

「渡辺、お前も今回の話に噛んでるの?」

「今回の話? 想像は付かなくも無いですが、そこの劉先生に呼ばれただけで僕も驚いているくらいですよ」

「渡辺さん、あの、この前は……」

渡辺が部屋に入ってきた時、一人だけ驚きと緊張で姿勢を正したのがキャスだった。

「ああ、バイオで出していたお嬢さんですよね。お体の具合は大丈夫ですか」

「はい、もう大丈夫です。ありがとうございました、あの時は本当に訳分からないし怖いし眩暈がするしで……」

「お気になさらず。仕事ですので」

そのやり取りを傍から見ていた光一は、意地の悪い笑みを浮かべながらわざとキャスに聞こえるような囁き声でタカシに話しかけた。

「こいつ、結構惚れっぽいから気を付けた方がいい。イケメンだと大体オッケーっぽいからな。お前も渡辺もタイプ似てるし。『パチンコ屋さんにあんな素敵な人がいるなんて』って目キラキラさせてたからな」

「な、そんな!」

「黙りなさい、ド外道が!」

光一に煽られて思わず困惑するタカシだったが、それをフォローするかのようにものすごいスピードで光一の眼前にキャスの手の甲が迫った。避けることも敵わず加減を知らない裏拳が光一の顔面を痛打した。

「ふごっ!」

至近距離で隣に座る人間から攻撃され顔を抑えてうずくまる光一をよそに、渡辺はホールで見せるような爽やかな笑顔で応えた。

「ご心配なく、お若い方の邪魔はしません。光一さん、女性の方の嗜好は一通りでは無いし、好きと好み、大事と大切は、それぞれ異なってしかも両立するということを覚えておくといいですよ……一途な光一さんには難しいかもしれませんが」

「おい、余計なこと言うなよ、渡辺」

「失礼しました」

光一と渡辺の間の会話にキャスは少し色めき立っていたが、タカシが目で諭すと口を尖らせてうなずいて引き下がった。

朋来の奥の一室に集まったのは、光一、キャス、タカシ、劉、牧、渡辺、そして店主の料理人。

この中で全ての人間とつながりがある者が、この宴席を設けたことになる。

それは果たして誰なのか。

当事者以外が持つ疑問に答えるべく、箸を置いて話を切り出したのは───劉だった。

「この男は……わしらが身元を預かっていてな。大陸から渡るのをわしらが手配した」

そう言われて黙したまま首を縦に振る牧。劉の言う「わしら」は朋来の店主と劉を指していることは、この場にいる誰もがすぐに理解できた。

「牧、中国語では『ムー』と言うが……牧にはあのパチンコ屋に潜ってもらうことにした。もう何年になるかのう」

「三年と八月です、大人」

牧は恐ろしいほど流暢な日本語で質問に答えた。

「当時からHOPSは危ないという話が多くてのう……いつ倒れてもおかしくないとは思って、牧に探ってもらおうと考えてな。もっとも、当時は単に傾きかけているというだけで、黒い話はなかった。赤字続きなのは分かっておったが、他にも店舗を持つ中堅チェーンでもあり、そうそう駅前の一等地を手放すとも思えん。まあ、様子見程度に考えておった」

劉は食後に振舞われたジャスミン茶を手にし、香りを楽しんでから喉を潤して話を続けた。

「それが俄かに煙たくなってきたのが、ここ数ヶ月ほど……。牧の話によると経営の立て直しを義務として、新しい店長が就任してきたらしい。何やら半年で黒字にせんといかんとか。世知辛いものよのう、日本の会社勤めというものは」

「まず従業員が半分に削られた。次に釘が12回転ベースに全台調整され、設定はすべて1、ストックを飛ばす以外にリセットは一切行わなくなった」

これまで一切口を開かなかった牧が、劉の続きを話し始めた。牧は劉と店主に目を向け、了解を得てから説明を続ける。

「それまでは客を集めるとも利益を出すとも考えていない、方針など何もないような経営だった。それでもHOPSは場所がいい。一見客が時に出玉を見せてくれるだけで、まだ店の空気は成り立っていた」

「店の空気、ね。牧、日本語の話し方だけでなく使い方もうまいな。すっかり騙されたよ」

客に迫られてはおどおどし、タマを運ぶのもメダルを補給するのもおぼつかない様子を見せていた牧は、どうやらすべて演技の賜物だったらしい。光一は敬意と皮肉を込めてそう告げたのだった。

「こ、こ、光一さん……ゴメンナサイ。わ、わる、悪気はあり───ました」

「だよな!」

二人のやり取りに他の面々から笑いがこぼれ、わずかに場が和む。しかし、それも束の間、牧は話を続けた。

「店は変わった。少しでも顔を出していた常連が一切来なくなった。それでも最初の一ヶ月は跳ね返るように黒字に変わった。ただ、それも保たなかった。次からは前よりも酷くなった。これまではいい加減だったのが、はっきりと搾り取る意思に変わったのが、客にばれた。誰もいない店で、電気と店員にかかるお金だけ、時間が経てば経つほど損していくのがはっきりと分かった」

ここまで牧が話して、渡辺が手を挙げた。

「いいかな」

「黄金六のリーダーさん、どうぞ」

牧は渡辺のことも知っているのだろう。特に表情を変えることも無く答えた。

「貴方はどこまでHOPSの情報を持ってるのですか? 一介の店員が経営状況まで把握しているとも思えないのですが」

「あ、それは俺も思った。怖くて聞かなかったんだけどな。渡辺ちゃんが気になるなら仕方ないけど」

「………相変わらず光一さんは意地が悪い」

光一の横からの茶々に渡辺は苦笑いをしたが、その疑問はキャスやタカシも同様に抱いていたものだったらしく、誰もが牧の様子をうかがった。

「店長が変わると隙ができる。店で長く働いている人間の方が詳しくなるし、店長に店員が教えることも多くなる。それを繰り返した。繰り返すうちに、ホールの仕組みを覚えた。どこに釘帳があるか、コンピューターの使い方、鍵の保管場所、番号鍵の番号、全部頭の中に入っている。悪いことをしようとすれば、いくらでもできる。日本はいい国」

「ほら言ったろ、怖い話だって」

「善意を前提にしたセキュリティはあり得ないと言いますが……否定はしませんよ」

光一とタカシは聞いた手前の感想を口にしておどけていたが、タカシは踏み込んではいけない領域を感じて表情を硬くしていた。一方、キャスは場をわきまえて騒ぎはしなかったが興味津々に目を輝かせている。

「牧の名誉のために言っておくが、不正は一切させておらん。ただ知っている、それだけじゃ」

「いつでも刀は抜ける。殺し方も簡単。でも抜かない。ただ、抜くときが来たのかもしれない───大人」

牧はそこまで語ると口を閉じた。自分の役割はここまで、余計なことは口にしないということだろうか。劉はうなずくとそれを受けて話を続けた。

「わしらの………グループとでも言っておくかの。回りまわって話が飛び込んできた。もちろん限られた世界の、限られた人間だけの中で伝わってきたものだが」

「金?」

「そうじゃ」

光一の問いに劉は間髪入れずに答えた。

「融資を求めている者がおると。それも帳簿に付かないもので大きな額を必要としていると。この国で金融機関を使わずに金を工面するなど、また難しいことを言っている奴がいるらしいとな。まあ、話だけでもということで聞いてやった。それが、こやつじゃ」

劉は懐から一枚の写真を取り出した。遠目から撮ったのか、紙に対して写っている大きさは小さいが、はっきりと顔は識別できる。

「ああ!」

同時に声を挙げたのは光一とタカシ。

「さっきのサクラ仲介業者じゃん」

「というか、サクラは確定なんですか?」

その男は、二人がサクラと思わしき客を尾行した結果にたどり着いた同一人物。サクラから金を受け取っているのを目撃したばかりだった。

「そうよ、その話はどうなったの?」

ここでキャスが話に割り込んできた。まだキャスは、自分のメールアドレスを犠牲にしてHOPSのサクラ使用説を確かめる手伝いをしたに過ぎない。

ここからはすべて憶測、光一が中心となって渡辺とタカシが話を補う形になった。

「最初は渡辺だよな」

「そういう噂は自然と入ってきますから。朝からHOPSに入った客が、躊躇わずに狙い台に座ってほぼ一日中打ちっぱなしで勝って帰っていくのをよく見かけると。この手の話は僻み半分、希望半分、あてにならないものですが。ただそんな出し方をしている怪しい人を見かけましてね」

「誰?」

キャスがもったいぶる渡辺の説明に喰いた。

「うちのホールにもよく来ては金を掠め取っていく中年男性でして、噂によると今ガード下の中華料理屋の奥で暢気に煙草を吸ってますね」

「変な言い方すんなよ!」

光一は吸いかけのセブンスターを渋々と灰皿でもみ消すと両手を挙げた。

「まあ光一さんがサクラであるはずも無いのですが、見解は一致した。ならば確かめてみるのもいいだろういう話になったのです。今日何があったかまでは存じませんでしたが」



詩乃が光一の部屋に泊まった翌朝。

詩乃は自分の仕事絡みの話を光一にしてくれた。

それは光一にも関連があるかもしれないと思ってのことだった。

ホールがイベントをPRして集客し、その模様をwebでアピールするというもの。主体は光一がコラムを寄稿する出版社で、誌上ではイベントの前告知をして可能ならばホールの広告も掲載する。一方、その速報的な結果はwebで行う。もちろん、出版社に対してホール側が広告料として出資を行う。ホールは集客による利益率アップを狙うというもの。

取り立てて画期的な企画とは思えなかったが、気になることはあった。

それは、すでに第一弾の対象ホールが決まっていて場所が新橋だという。そしてwebでのアピールについては、出版社側がスタッフを動員してホールの稼動をサポートするらしい。

詩乃はパチンコ・パチスロ業界や新橋のホール事情に関して詳しくはない、むしろ素人と言っていい。だからこそ予想や思惑が交ざっていない分、話の内容に信憑性が持てた。

なぜ?

光一は聞かずにはいられなかった。

詩乃はすぐには答えなかった。

唯一、口にしたこと。それは

「私も何かをするのに、理由がいる女なの」



「ちょっと別口でHOPSにコンサルっぽいのが関わっている話を聞いてな。いよいよ怪しいと思って、今日動いてみた」

「それで?」

キャスは不貞腐れた顔で質問を続ける。ここまで蚊帳の外だったのが気に食わないらしい。光一はキャスの怒りを収めるべく説明を続けた。

「分かりやすかった。そのまんまサクラだったよ。むしろ純粋なサクラだったことに驚いたくらいだ。この手の話は詐欺がほとんどで、保証金で先に金を預けろとか言われて架空会社はすぐにトンズラ、っていうものだと思ってたが。下手すると金だけじゃ済まなくなるかもしれないから、お前には黙ってた。メールがスパムだらけになる犠牲を払ってもらっただけで、お前さんの協力は十分だったよ」

「うう………分かった」

キャスはタカシにも少しだけ恨めしく視線を向けると、タカシは両手を合わせて頭を下げた。のけ者にされるのが何より嫌いなキャスだったが、自分を思ってのことと分かり引き下がった。

「まあ、これはこれで話は終わりのはずだった。別にHOPSがサクラを雇っていると分かったところで、じゃあ騙されないように気を付けましょうというだけだ。HOPSに恨みがある訳でもないし、そこらじゅうに言い触らす気も無い。強いて言えば───好奇心くらいか。ところがな、ここでこの男が噛んできた」

そう言って光一は牧の方向を見た。

牧は悪びれることなくうなずくと再び口を開く。

「都合よく裏を取ろうとしてくれていたのに気付きましたので。店の中のことは分かっても、外の動きは追いきれない。特に客一人一人は難しい。ありがたくお二人の動きを追わせてもらいました。おかげで、つながった。この男は───店長とつながってる。堂々と裏から入って店長と会っている」


牧は、このコンサルタントを称する男と店長が店の奥、ホールコンピューターが置かれた部屋で密会するのに気付いていたらしい。

そして牧いわく「悪いこと」。

その部屋には当然のように牧の手によって盗聴マイクが仕掛けられていた。

店長は非常に生真面目な男らしい。故にこれまで順調に社内で業績を残して今の地位にまでたどり着いたそうだ。そして今の店に配属になった。この店を再建できれば店長から地域マネージャーに昇進させると、ただし失敗すれば一ホールの店員に落とすと。

彼はまず運転資金を捻出させるために、一時的に出玉を絞った。その後に新台と釘開けや設定で一気に客を呼び、以降はゆるやかに絞っていき半年で黒字ベースに持っていくつもりだった。今まで彼が担当した店舗ではそれで成功したらしい。

だが、新橋では計算が狂ったらしい。絞って一週間も経たないうちに客が完全に飛んだ。激戦区での営業というものが分かっていなかった。まず最初に無理にでも開けるべきだった。

客が飛び、手持ちの営業収支も先が見えない状況に追い込まれた時に、悪魔が囁いたらしい。

店に毎日のように届くFAXの中にあったコンサルタント会社が目に入り、電話をかけた。

そのコンサルタントは連絡をするとその日のうちに店を訪れた。

今の店の問題点を次から次へと並べ立てた。店長はそんなことは分かっていたが、それを改善すべき手段が無い。早い話がてこ入れするための資金が無いことを訴えた。社内で追加の予算をこれ以上申請することはできない。

そこでコンサルタントは金の工面方法を提案した。新台の経費を手形の分割で請け負ってくれる仲介業者を紹介する。一時的な運転資金なら、キャッシュで融資してくれる伝手を持っている。全ては後払いでいい。

まずは打ち子を使って見せ掛けだけでも集客を外にアピールしよう。店とコンサルタントと打ち子の裏三店方式。当面のコンサルタント側の経費は、ここからのマージンで構わない。立て直しが成功したらコンサルタント料を請求する。

そして店長は───首を縦に振った。追い詰められた時、真っ正直に生きてきた人間ほど揺さぶりに脆い。彼は、コンサルタントが持ってきた二枚写しの融資契約に、個人名義で判を押した。

その金の出元が劉たち華僑グループのものであるとも知らずに。

「一ついい?」

キャスは誰に対してということもなく、むしろここにいる自分以外の全員に問いかけた。

「それってさ、法律違反なの?」

キャスの素朴な質問にその場は一瞬静まった。誰が答える? とお互いを確かめ合う空気だったが、それは自分の役目だろうと悟ったのか渡辺が答えた。

「強いて言えば貸金業は登録制なので、それを怠っていれば『ヤミ金』になりますね。ただこういった話だと貸した方も合法的に元金や利息を請求する手段が無いから、もはやどっちもどっちとは思いますが。あとサクラについては昔からある話で、そこに直接的な詐欺や窃盗が発生しない限り法を犯すものではない。ただ、一般客への裏切り行為ではありますがね」

渡辺は話しながら劉や店主の様子をうかがっていた。この話はつまり、彼ら中国人グループが裏でヤミ金に近い活動をしていることを暴露している。そのリスクをも侵してここに至る理由まで、渡辺には分からない。

「まあ気の毒な話だよな、店長さんは。そのコンサルってのは怪しくない?」

光一は劉に向けて話を振った。

「詐欺師か………頃合を見て姿を消すのでは、と考えておる。契約をしたのは店長。そいつが返すことさえできれば、特に問題は無い。だが、このまま回収できないとなると、同士達が出資して運営しているファンドに穴が開いてしまう」

「じゃあ店長でもその推定詐欺師のコンサルでもふん捕まえて取り立てればいいじゃない」

突き放した光一の返事に、再び場が静まり返った。

光一の言葉は完全に正論なのだ。

当事者間の問題に口出しする気も無ければ、巻き込まれる義理も無い。

当事者も、それを聞くゲストも、それが分かっている故に次の言葉をためらっているのが分かった。

全員の前に置かれたジャスミン茶はすでに冷めてしまっていた。

広くない朋来の一室に設置されたエアコンの機械音だけが無機質に部屋を漂う。

光一もそれ以上は語らずに誰かが何かを言うのを待っている。

静寂を断ち切ったのは、これまで何も喋らず座っていた朋来の店主だった。その場で立ち上がると、大きい音をさせて両手をテーブルに置く。キャスは思わず隣のタカシにしがみついてしまった。

店主は手を置いたまま、頭を下げた。

「コーさん」

その声はいかつい体と顔つきに相応しい野太い声だったが、それだけに訴える力も大きく感じられた。

「お願いだ、力を貸して欲しい」

店主は頭を下げたまま動かない。これまで余裕を見せていた劉、そして牧さえ、表情をこわばらせていた。この店主、何者なのだろうか。

「理由を聞かせてください」

光一はこれまでと声のトーンこそ変えなかったが、丁寧な物言いで答えた。

「理由が欲しいんですよ。金だけじゃないでしょう。金は大事だが、金だけじゃない」

その言葉に店主は顔を上げて立ったままうなずくと口を開いた。

「この街に生きる者として、店が潰れ、人が去り、街が荒んでいくのを見過ごすわけにはいかない。我々は大陸からこの地に居を構え、図らずも温かく日本人は迎えてくれた。無論、全員が諸手を挙げてとは言わん。だがこうして日々の糧を得ることはできるのはこの国の、この街の人たちのおかげだ。だから、我々の助けを求める者がいたら拒まない。そうしてここまで互いにうまくやってきた。時にはトラブルもあったが………荒事は避けてきた、つもりだ。牧の話の限り、HOPSの店長に他意はない。その間に入った男が仲介者であることに気付くのが少し遅かった。事情が分かっていれば別の形で協力することもできただろう。ただ、我々の世界では不文律がある。契約は必ず履行されなければならない。そして、契約の仲介者はその契約の保証人である、と」

店主はそこまで話すと周りの見上げるような視線に気付き、どっかりと腰を下ろして続けた。

「このままでは、我々はコーさんのいう通り、手を挙げなければならなくなる。嫌なのだよ、この街でそういった荒事を起こすのは。できれば……日本では『穏便』とでもいうのか、この世界なりのやり方で解決できないだろうか。我々の望みはただ一つ、金が回収できればいい」

そして店主は、最後に一つ加えた。

「コーさん、あなたなら力になってくれると、劉を初め、牧もこの街に住む我々の仲間達の誰もが勧めてくれた。あなたの知恵と力を貸してくれないか」

「光一さんが動かないと、店長が吊るされますよ」

渡辺が最初に言葉を挟んだ。

「そういうのを脅迫って言うんだよ」

光一は渡辺の厳しい冗談に口を曲げる。

「助けて欲しい。あの店を」

そう言ったのは意外にも牧だった。

「お前、あの店で酷い目に合ってきたろう? ちょうどいいんじゃないか、これまでのお膳立ても含めて復讐するには」

「店に罪は無い。店長も間違えたが罪は無い。それに……この仕事は嫌いではない。助けて欲しい。HOPSを助けて欲しい」

牧の言葉は光一だけでなく、聞いていた他の面々も感じ入るところがあったのだろう。しばらく無言が続いて、口を開いたのはタカシだった。

「店が無くなるのは嫌ですよ。立ち回りの幅が狭まる。あの店だって以前は今ほど酷くなかった」

「タカシはやっぱりひねくれ者だよ」

そう言い返したのはキャス。

「いやじゃん、お店が困っちゃってサクラとかばっかり出入りして、誰も不幸なままなんでしょう。タカシを治してくれた劉さんや、いつも美味しい料理出してくれる朋来のおじさんが頼んでる。だったら何とかしてあげようよ。何ができるか私にはさっぱり分からないけど、やってみようよ」

キャスはそう言いながら光一の肩をゆすった。光一は揺らされるまま、腕を組んで黙っている。キャスは容赦なく揺らし続けたが、タカシがそっとキャスの腕に手を置いて制すと、あきらめて

光一の肩から手を離した。

目をつぶり黙したままの光一。

考えを巡らし、深く何回か呼吸を繰り返すと両目を開いた。

「牧」

「はい、コーさん」

「HOPSの朝は並び順だったよな」

「はい」

「新台の導入日も変わらないか?」

「その予定はありません」

「分かった」

光一は牧とのやり取りを終えると、テーブルに置かれた朋来の店主の手を握った。

「ここで断ったら俺はここにいる全員に、今日の食事代を請求されそうだ。悪者にされるのは嫌いじゃないが、動くには理由が欲しかった」

「コーさん」

「御大、引き受けますよ。だから貴方の力も貸して欲しい」

店主は光一の手を強く握り返した。


◇ ◇ ◇


あなたには設定6を打ってもらいます。

あのーせっていろくってーすごいでるんですかー。

ええ、半日も打ってもらえば確実にプラスになります。

すごーい! パチンコうってお金がふえちゃうなんてすごーい。

スロットをお願いしたいのですが、大丈夫ですか?

うん、スロットもたのしいよねー。777ってそろっちゃうもんねー。

はい………それでですね、責任持って勝ち分を持ってきていただくための保証金をお預かりしたいんです。これはお仕事をお辞めになりたい時に、いつでもお返しいたします。

そうですよねー、勝ったぶんそのままもってかえったらヤクソクぶっちだもんねー。

ええ、なので保証金を。

うん、もってきたよー。はい、十まんえん。


「みたいなやり取りをしてきました隊長!」

「ご苦労、キャス伍長!」

「ちゃんとバカっぽく十万を能天気に渡しちゃいました!」

「たぶん戻ってこないだろうけど、それはそれでオッケー!」

「サーイエッサー………ってマジ!?」

「保証金詐欺はしてないみたいだけどな。ま、それは気にしなくていいから」

光一は自室でHOPSの島配置図を眺めながら、キャスと携帯電話で話していた。島図は、牧が店の資料を拝借してコピーを取った物だ。これ自体にそれほどの機密性は無いが、新台の導入台数と配置の裏は取れる。

「怖い目には合わなかったか?」

「うん、大丈夫。タカシが前もって喫茶店に入って見守ってくれてた」

「すまないな、やっぱり少し気が引けてた」

「ダメよ、光一さん。私がやりたいって言ったんだから」

「そうだった、すまない」

「謝ってばかりいないで、ちゃんと明日は頼むよ」

「分かってるよ。依頼日は三月二十二日だった?」

「うん。予想的中だよ、すごいね。HOPSの場所も丁寧に教えてくれたし。顔写真どおりの人に会うって何か緊張した」

「まあ普通に生活していてそうそう経験することでは無いな」

「こいつが悪の総元締めかと思ったら、何だか無性に殴りたくなっちゃった!」

「殴ってないよな、オイ!?」

「うん、タカシに後で『気持ち悪いくらいニコニコして話してたから、手を出すんじゃないかって冷や冷やした』って怒られた」

「怒ってはいないと思うが……心中穏やかではなかったと思うぞ」

「そうだよね。逆にタカシがあんなことしてたら私きっと我慢できないもん。それで、私はどうすればいい?」

「台番号は教えてもらった?」

「うん。252番だって。機種は教えてもらえなかった」

「情報は最小限にか……それはエヴァだな。まあきっと、本当に設定入れてくるんだろう」

「じゃあ私はそれを打てばいいのね?」

「いや、キャスはそれ以外の台なら何を打ってもいい。何なら新鬼武者でも打てば? お前新台は大好物だろう」

「ええっ!? いいの? 悪の総元締めの言うこと聞かないで」

「ああ。台を取るのは無理だった、ってことにしておいてくれ」

「うーん、気持ち悪いな。光一さん、何かまだ隠してない?」

「隠してるよ」

「何よその直球!」

「明日になれば分かる。キャスは好きな台を打ってくれればいいよ」

「ヒドいなー。タカシにも同じこと言ってるの?」

「そこにタカシいないのか?」

「いないよ。今日は劉先生のところで怪我の跡を見てもらわないといけないから、途中で分かれたの」

「お前は付いていかなかったんだ」

「うん、今日は一人にして欲しいって」

「……ああ、昂ぶっちゃってるんだな」

「何それ?」

「もし今日、お前がタカシの部屋とか行ってたら、きっとヤラれてたぞ」

「な、何よ、なにバカなこと言ってんのよ!?」

「あいつ本当にストイックだよなー。今の時代に貴重だぞ、キャス。大事にした方がいいぞ」

「大事にしてるよ! もう何言ってるのよ、このエロスケベハレンチ外道オヤジ」

「最近お前には何言われても大丈夫な感じになってきたわ。電話なら手も出ないしな」

「明日覚えてなさいよ!」

「あい、お待ちしております」

「まったくもう………集合時間は打ち合わせ通り?」

「ああ、ちとキツイけどよろしく頼むよ」

「分かった、じゃあ切るね」

「うい、早く休んでくれ」

「おやすみー」

キャスとの通話を終えると、光一はテーブルの上に置いた島図をじっくりと見つめていた。

正確な機種配置を頭に叩き込み、ついでに無駄と分かってはいるが設定配分を自分なりに予想する。これはこれで結構楽しい作業だ。何よりも打つ前は負けていない。頭の中でいくらでも勝つことができる。朝の並び待ちの心境もこれに近いが、直前になるとよりリアルな立ち回りをシミュレートするのでそれほど楽観的にはなれない。

ただし、明日は嗜好が少し異なる。ミッションは二つ。一つは勝つこと。それはいつものことだ。そしてもう一つも上手くことが運ぶよう意識を集中しなければならない。

先ほどのキャスとの会話では無いが、意識が研ぎ澄まされ、昂ぶっているのが自分で分かる。

ふと気になることを思い出し、光一は再び携帯電話を手にした。



「この指を見て」

「はい」

劉は右手の人差し指をタカシの目の前に立てると、左右に動かす。

タカシの瞳孔が収縮し、眼球がゆっくりと動いて黒目が劉の指先を追う。

「よかろう。体を楽にして、肩の力を抜いて。痛みを感じたら素直に言うように」

「分かりました」

劉はタカシの背後に回ると頚椎から背骨、そして仙骨にかけて神経の通りを確かめるように指で指圧していく。タカシは声を出すこともなく劉の触診は終了した。

「頭を」

劉は最後にすでに塞がっているはずの傷口を確かめるべくタカシの髪をまさぐった。すでに治療時に剃った部分も生え揃い、傷跡こそ残っているが外見では分からなくなっていた。

「傷は大丈夫じゃが……別のところに十円ハゲ出来とるぞ」

「ウソ、本当ですか先生!?」

「嘘じゃよ、それとも心当たりでもあるのかのう」

「やめてくださいよ。亜夜とはうまくいってます」

「ほー、お前さんには自白癖でもあるのか」

「あ、いや、そういうことじゃなくて」

「女で悩むというのも、青年らしくて大変よろしい」

劉は掴んでいたタカシの頭をポンと軽く叩いてから離すと、診療室の奥にある流しで手を洗った。タカシはすっかり弄ばれたことを自覚していたが、それほど悪い気持ちではなかった。この先生は胡散臭いことこの上なくつかみ所も無いが、身を任せられる包容力のようなものを感じさせる。この感覚は何なのだろう、キャスと一緒にいる時とはまた異なる安心感は───父性だろうか。

そんなことを考えていると劉はタカシの元にすでに戻ってきていた。

「もう大丈夫だろう、明日は思う存分暴れてくるといい。パチスロでじゃぞ」

「はい、ありがとうございます。先生は明日どうなされるのですか?」

「わしも行くことになってしまった。一人でも多い方がいいと光一が抜かしおってな。あの電気で動くのは騙されている気がして好かんのだが……おまけにずっと目の前で座って手を動かさなければいかんとか、あんな体に酷な賭博は老人には向かん。本当に日本人は遊びまで自らをいじめぬく素養があると見える」

「先生もやってみれば面白さが分かりますよ」

「いや、やったことはあるんだがのう。あれはもう何年、五年は経ってないか。そうさのう───一つ昔話をしてやろう。お前さんのように世話をしてやった男がおってのう」

劉はそう言うと、手を拭いていた手拭を診察机の横にある籠に放り投げた。



───二○○五年。

それはストック解除方式で4号機が興隆から斜陽へと差し掛かった時代。『鬼武者3』『鬼浜爆走愚連隊』、『押忍!番長』がホールを熱くすると同時に、『新世紀エヴァンゲリオン』『サクラ大戦S2』『デビルマン3』といった5号機が市場に出回り始めた年。

光一は大学を中退し、パチスロで日銭を稼ぐ生活を送っていた。

プロダクトデザイナーを目指していた春香は、希望こそ叶わなかったが詩乃が興したデザイン事務所で働くことを選んだ。

二人で部屋を借り、二人がそれぞれの形で一日一日を共に過ごした。

成功があれば喜びを分かち合い、失敗があれば悲しみの支えとなり、ときに体を合わせ、ときに心を通じ合わせた。

世の中では就職氷河期は終わりを迎えようとしていると謳われたが、ごく普通の人生に何の面白みも未来も無いどんよりと曇った世相が漂っていた時代。自らの手で日々の糧を得ることに生き甲斐を覚える刹那な生活を送る理由としては十分だった。

光一が夕方までホールで稼動を続けている平日の場合、春香がそこに合流して共に打ったり、光一の健闘する様子を春香が眺めたりするのが、二人の間にできた自然な決まり事となっていた。

ホールには711枚獲得の全面液晶『鬼武者3』と、2G連や128G以内連チャンが連鎖する『鬼浜爆走愚連隊』が導入され、誰もがその面白さと爆発力に魅了されていた。

だが光一はその頃、別の台をメインに打ち倒していた。

『大ヤマトA』。

人気台ではなかったが、打つのには理由があった。

それはストック切れがしやすいボーナス確率が設定されていながら、ストックの有無が特定の打ち方で分かるという技術介入を超えた判別方法。ストックさえあればかなりの確率でプラスが見込めるという効果的な攻略法だった。

光一は幸運にもその情報を早めに掴み、春香も時間が自由な時は立ち回りに協力していた。

そしてある日、光一が近場のホールを巡回している時に、春香は前に打っていた人がそこそこハマってやめていった台を見つけてすぐに腰を下ろした。

中リールの枠内に青7付きの12枚役の艦長絵柄を狙う。そして中リール上段に赤7が止まれば、ハズレか8枚役のユキ絵柄揃いが確定する。この出目で、もしユキ絵柄が外れれば、ストック有りが確定する。

試してみると、わずか十数ゲームでストックがあることを判別できた。春香は数枚のメダルを下皿に残すと、席を離れた。別フロアにいた光一を見つけ出すと、早速先ほどの台へと案内する。

すると、その台は別の男性客が座って平然と打ち込んでいた。

猛然と自分が打っていた台だと抗議する春香。

そんなことは知らない、物も何も置かれていなかったとしらを切る男。

光一にはおおよその状況が理解できた。

5、6枚のメダルならば誤差の範囲で店側のホールコンピューターでも分からないし、おそらく店内カメラでも記録から見つけることはできない。

そして春香はストック有りを判別してすぐに自分を呼びに来てくれた。つまり『ストック有り目』を残したまま席を離れた。

この男は確信的に台を奪ったのだ。

相手が女であることも十分に加味した上で。

春香は依然として大声で台を奪った男に文句を言い続け、男も臆することなく反論し、そして決して椅子から離れようとしなかった。

程なくして店員が現れて仲介に入る。光一は春香に状況を伝え、ここは引いてかまわないと説得した。店員は両者の説明を聞き、インカムで管理側の確認も要請したが答えは出なかった。どちらとも結論が出ない状況で、二人の客が言い争うばかり。そして男の方が場の作り方が上手かった。普通に打っていたのに訳の分からない女に絡まれて困っている、という一般客の雰囲気を出して店員の同情を引き出している。自分がナメられていることも男が被害者を演じきっていることも春香には分かっていたので、声は一層大きくなるばかりだったが、それがむしろ仇となっていた。

埒があかない状況になり、光一は春香の前に立つ。光一が「これ以上はむしろ時間がもったいない」と春香を止める。春香は目を真っ赤にして自分の正しさを訴えたが、ようやく光一の言葉を受け入れて引き下がった。光一は頭を下げて自分達があきらめることを告げると、店員はインカムで確認を取ってから了解してその場を去っていった。

春香は台に座る男を見下ろして悔しさを噛み殺していた。光一がそんな春香の手を引こうとした時だった。

「うぜえんだよ、メス豚がピーピー喚きやがって。バカなんだよ取られる方が」

そう言って男は唾を春香のミュールに吐き捨てた。

春香が握りしめていた拳を振り上げそうになった時、すでに光一の右手が男の鼻っ面に食い込んでいた。

男は怯むことなく立ち上がると、光一の襟首を掴んだ。座っていたので分からなかったが、光一よりはるかに大きい上背だった。その時、春香は気付いていた。男の胸元から垣間見える素肌には紋様が見え隠れしている。

「やめて!」

男と光一の間に何とか割って入ろうと、がむしゃらに春香は男の腕にしがみついた。

「素人がプロに手出すって意味分かってんだろうな、コラァ!」

男は店員がいた時とうって変わったドスの利いた声を響かせると、春香と光一をまとめて押し出すように腕を振り払った。

二人は後方に弾き飛ばされ、その先には鬼武者3の島が並んでいた。

とっさに光一が春香の体を覆い包んだ時。

リール盤面の液晶が割れ、台から火花が飛び散った。

光一の背中から肩には盤面のガラスが突き刺さり、感電で皮膚が焼け焦げている。

そのままうずくまり動けなくなった光一を、春香はただ絶叫して抱きかかえることしかできなかった。



「なぜ、そんな話を知っているのですか?」

「簡単なことじゃよ……わしもそこに居合わせてたからのう。偶然じゃよ、わしもあの頃のスロットは短時間で十万、二十万勝てたからのめり込んだものじゃったわ。応急処置や、店やその男との事後交渉もわしがしてやった。あからさまに悪いのがどちらかは分かってたからな」

「分かってたら、何で助けてあげなかったんですか?」

タカシは思わず声を荒げた。今ここで伝え聞いた昔話であるにも関わらず、彼の正義感は激しく刺激されていた。

「望まれない限り、手は出さん。それが博徒同士の仁義みたいなものじゃよ」

「だからって……」

「久しぶりに気持ちのいい若いのに出会ったよ。やられちまったがな。その後も光一はここに運び込まれて、一週間近く寝たきりじゃった。何でも春香が言うには保険を使うと、家族や会社にばれて大事になってしまうと。金は出すから、ここで治療を続けて欲しいとな」

タカシは昂ぶらせた心を劉にぶつけるのは間違っていると悟った。食い縛っていた歯からは力が抜け、握りしめた拳は解かれる。

劉はそんなタカシの頭を微笑みながらポンポンと叩いた。

「あの男にも血気盛んな時期があったんじゃよ。今はいい感じに力が抜けているがな。ただあれ以来、春香は姿を消してしまった。しばらくは抜け殻のようにあの男も街を彷徨っていたがな。やがて何かを決めたかのように、傷が癒えると同時に再びスロットを打ち始めた。何と言うのかのう……そう、『漢』の顔になったな」

劉はさらに付け加えた。

「お前さんも、なかなかいい線いっとる。まだ一皮剥ける必要はありそうじゃがな。明日は、光一が何をしでかしてくれるか楽しみにするといい」



「はい、伊ヶ崎です」

「………どうも、田中です」

いざ自分から電話するとなると先ほどまでの勢いとは裏腹に戸惑いもあった。だが確認したいこともあるし、伝えたいこともある。

「遅い時間にすみません」

「男から深夜に電話というのは、女として気分がいいものですよ。若い子達がメールするのとは味わいが違います」

「詩乃さん」

「ごめんなさい、こんなこと言ってみたかっただけです。柄じゃないのは分かってるので。一度寝たくらいで何浮かれてるんだか。ありがとう、私も何だか今夜は落ち着かなくて」

「自宅ですか?」

「ええ、でも帰ってきたばかり。着替える前だったから、むしろ良かったかもしれない。私、シャワー浴びてベッドに入ったら使い物にならなくなるから」

「それは間に合ってよかった。その後、詩乃さんの方の新しい仕事の話は大丈夫ですか?」

「相変わらず森本のおじいちゃんのアタックは激しいけど、仕事は仕事。webページのグランドデザインは済んでるし、オペレーターのラインも確保してある。あとは実際のコンテンツを待つだけです。でも初めてのことだから、スムーズに行くとは思ってませんよ」

「社長なんですね」

「現場に口を出しているうちは半人前です。どうしても未練があるのが、自分でも分かっちゃうの」

「最初から組織を統べる仕事だけする人なんていないでしょう?」

「案外いるものですよ。俗に言うエリートと呼ばれる人たちが」

「そういうのは正直信用ならないな」

「それは同感ね。それで、電話をくれたのは私の仕事を心配してくれてだけ?」

「いえ、明日のことです。お話しましたが、今回の取材に関してホールと出版社をつなげてるコンサルタントは、あの元宮という写真の男に間違いはないですね?」

「ええ、光一さんに見せてもらった写真のままだったし、名刺ももらってます」

「どんな印象でした?」

「そうね───よく喋るというか、気持ちよい言葉をうまく並べ立てるというか………でもああいう職種の人間はそれが当たり前だから、特に印象に残るものはありませんでした。話半分が当たり前ですから」

「なるほど、さすが会社を動かしてる人は違う」

「こういうことだけですよ。嬉しくも何とも無い、他のことで誉めてください」

「今夜は一段と綺麗ですよ」

「電話越しに?」

「僕にはあなたの濡れた唇が見える」

「ああ、もう! 男は三十過ぎてようやく味が出てくるって春香が言ってたけど。悔しいな……」

「詩乃さん」

「ありがとう、気持ち良くしてくれるだけでも嬉しい。明日はうちのスタッフが私入れて3人、案内にその元宮というコンサルタント、あと森本さんも覗きに来るかもしれません」

「時間は?」

「朝九時に一度。これはスタッフ2人だけが開店前後の様子を取材します。私が行くのは昼過ぎから夕方にかけてです。これには元宮も付き添ってくれることになっています」

「そうですか………できれば早めに来た方が面白いですよ」

「面白い?」

「ええ、場合によっては祭りは終わってしまっているかもしれない」

「終わりって、売り切れとかあるんですか?」

「何が起きるか分からない、ということで」

「光一さんは一日中お店にいるのですか?」

「夜までいると思いますよ。トラブルがなければ」

「あったりして、トラブル」

「望んではいませんがね」

「そうかしら、トラブルは必ずしも悪いこととは限らないのでは?」

「さあ………まあ、何があっても対応できるようにしておきます」

「分かりました、楽しみにしています」

「ありがとう、詩乃さん」

「おやすみなさい。また気が向いたら口説いてください」

「頑張りますよ。味のある男を目指して」

電話の終わりはどちらが切り出すか、どちらが名残を惜しむかがはっきりとする分、心を通わす中でむずがゆさを感じる。そして切った後の余韻がもどかしい。

だが、胸の中に漂う残滓を洗いさるように携帯電話が鳴った。

着信画面には未登録で名前の表示はない。それでも光一はためらうことなく着信ボタンを押すと携帯電話を耳に当てた。

「───牧です」

それは今夜の最後を締めくくる、最も待ち望んでいた連絡だった。


(最終章へつづく)

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