-設定4-

新橋駅前、午前9時頃。体と頭は眠いと訴えているが、高揚感がキャスの足取りを軽くしていた。

昨日、終電間際で光一の部屋から自宅に戻った。泊まっていってもいい、とデリカシーの欠片も感じさせない勧めを断固拒否した結果、数時間しか眠ることはできなかった。

『明日はフラフラ打ち回るつもりだから団体行動はナシな』

今日は、自分ひとりでホールに向かう。ただ、光一と出会ったあの日とは気持ちが全然違った。あの時は魔窟に単身乗り込むような不安と恐怖に必死に立ち向かっていた。でも、今日は違う。何かいいことがあるかも知れない、という心躍る感覚。昨晩ベッドに溶け込むように突っ伏した体は悲鳴を挙げていたが、これから自分の力でホールを立ち回るという盛り上がりが止まらない。大学の一限目に出席するのと同じくらいの時間に家を出たが、ときに義務感で憂鬱になる朝とはまるで違っていた。

(私、スロプロになっちゃおうかな♪)

そんな妄想を浮かべながら電車に乗り、気付けば新橋。通勤ラッシュを少し過ぎた時間帯でも改札を出てビジネス街へと向かう大人たちは多かったが、キャスはその流れに乗ったり外れたりしながらきびきびと歩く。

ホールの開店まで1時間弱。光一の言葉が頭をよぎる。

『もう一度言っておくけど、〝見〟だぞ。その方が絶対に役立つし、打たなければ負けることはない』

『でも光一さんは打って稼ぐんでしょ?』

『昨日は特別も特別、博打を打って幸運に恵まれただけだよ。明日は周辺に強いイベントも見当たらないし、ゴールデン6も設定が見込めない。天井やゾーンを拾い歩くよ』

『天井? ゾーン?』

『ま、そのうち分かるさ。お前の記憶力や洞察力を打つこと以外に使ってみろ』

それでも打ちたくなったら俺は知らん、自己責任って奴だ。と、光一は締めた。キャスは自分なりに自信があった。単純だが確実なのは、出ている台が空いたら打てばいい。それまでの出玉率の高さが高設定である確率を高めてくれているのだから、負けるリスクは少ない。今日は言われたとおり見てまわるだけのつもりだが、機会があれば打ってみたいと考えている。

自宅を出る前に、インターネットで新橋駅周辺のホールの位置は調べておいた。まずはそれぞれのホールの前まで行き、行列の様子を観察して回る。

一軒目、パーラー弘樹。2~3人しかいない。並んでいるのは爺ちゃん婆ちゃんの仲良しグループのようだ。たぶんパチンコだろう。打つ店としては?な感じ、ただ早い時間から常連さんが楽しげに並んでいるのは好感が持てた。

「私もいつかは、おばあちゃんになるんだよなー」

自分があんな感じになったら、何をしているのだろう? 家族と一緒にいるのかな? 孫が遊びに来て、嫌がってるのにどんどん食べ物を出したりするのかな? それとも旦那さんとボケーッと日がな一日縁側でお茶飲んでるのかな? それとも、こんな感じにパチンコ打ちに来てるのかしら?

次、KING。店の前のノボリの多さがやたら目立つ一方、並び客らしき人影はない。駅から近く、確か一昨日に店の前を通りがかった時には客の数も多かった覚えがある。これは何のだろう? 朝から並ぶ店ではない、プロの来る店ではないということなのかしら?

次、GENES。思わず「おっ」と声が漏れた。そこそこ並んでいる。行列を横目に見ながら歩いて様子をうかがうと、圧倒的に若者ばかりだった。昨日打ったゴールデン6の時と同じ感じ。店の正面に廻ると新台入替のポスターが張ってあった。見ると、ずばりバイオハザード16台導入と書いてある。日付は昨日だからゴールデン6と同じ状況だった。

気になってゴールデン6に向かった。ただし、ちょっと遠目に警戒しながら。すると驚きの光景に出会った。さっきの店とは比較にならない物すごい人数。まるで店をぐるっと取り囲むような列の長さだった。

(あ、渡辺さん!)

行列を整理している店員の中に、昨日いろいろと、とってもいろいろとお世話になった渡辺がいた。

(またお近づきになりたいな……でも)

さすがに、昨日顔見知りの男達に絡まれたばかりの店に近づく気にはなれない。それに自分が7000枚出したばかり、昨日の男達だけでなくても他の客に顔を覚えられているとしたら嫌な感じがする。とにかく今日はゴールデン6には出入しないようにしよう。それにしても……これって一日で何が変わったのだろう? まさか、私のせい? みんな7000枚出ると思って来てるのかしら? だとしたら

(私って罪な女?)

ツッこむ者がいないだけに妄想を気持ちよく広げ放題。キャスは鼻歌交じりに通りを挟んだ向こうに見えるゴールデン6を離れた。

(昨日は出来過ぎだとしても、1日に千枚、2万円勝てば月収60万でしょ! まあたまには負けることがあったとしても40万くらいはいけるかな。やばいなー、もうこれで一生食べていけるじゃない。結婚して主婦しながらってのもいいかも。旦那さんが会社行ってる間に、私は副業で稼いじゃうってのもアリね)

―― ガッ!

「……あ、ごめんなさい、ごめんなさい!」

つま先をぶつけてうずくまるキャス。上の空で歩いていたら人にぶつかってしまった、かに見えた。

「お怪我は……って、あ」

つま先で蹴飛ばしたにしては脚応えの無い先を見ると、それは等身大の発泡スチロールで作られた立て看板だった。間違えてしまったのも多少は無理も無い。文字通り等身大、人の形をしていたからだった。限りなく水着、というか半裸に近いコンパニオン姿の女性が営業スマイル全開で微笑んでいた。

「出るぞ☆ガール、来店?」

人の立て看板というものは、傾いてしまうと途端に滑稽になってしまう。靴で汚してしまった綺麗に無駄毛処理されたコンパニオンの脛を手で払うと、周りの目を気にしつつ立て看板を元に戻した。

「お姉さんが出るぞで何に来店なのよ一体?」

見上げた先には、行列もまばらなパーラー弘樹が軒を構えていた。


◇ ◇ ◇  


「ふーん。新しい台が無いとこんなもんか」

1階のパチンコフロアは閑散としていた。新台入替も無い平日の午前、主婦かサボりを決め込んだ学生、そしてプロと思わしき連中くらいしか見当たらない。2階のパチスロフロアに上がると、一部のコーナーにだけ客が集中していた。赤い筐体が目立つ「パチスロ キン肉マン」では、液晶もろくに眺めず必死に台を回している奴らばかり。一方、そこまで血走っていない感じの落ち着いた雰囲気を醸し出しているのが「エヴァンゲリオン まごころを、君に」のコーナーだった。ただ、こちらの客は誰もがリール盤面前のスペースに小さくて四角いポケベルのような機械を置いていた。何かが揃うたびに色分けされた小さいボタンを押している。

「── 徹底してるんだな、朝から打つ人たちって」

小役カウンターの存在も、店が使用を許していることもキャスは知っている。ただ、こうやって傍から観察すると異様な風景に思えた。機械相手に機械を用意して分析行為を黙々と行う、堅気には見えない連中。やってること自体は大学の研究室の学生達と変わらないようなものなのに、その本質は異なる。ただ一点、金。

自分がハマリに悔しくなって夢中になり頭が沸騰してしまう時(自覚は一応ある)、他の人から見るとあんな感じなのだろうか。悔しくて他の客の台も気になってしまって、何が起こっているか、当たっているか外れたかを全部覚えてしまう。脳がグルングルン回転しニューロンに電気が走りまくり熱暴走してしまいそうな感覚。もしかしたら少し違うかもしれないけど、自分も他の人から見れば彼らみたいに滑稽な姿なのかもしれない。

今は、まだ光一に言われていたこともあり打つ気は無い。その前提で眺めていると、それぞれの台で起こっていること、そして打っている人間が何を気にしていて反応しているかがよく分かった。基本的には派手な効果音で展開があった時に、周りの人間も視線を向けるのに伴って体が動く。その大きさは人によって異なり、恥ずかしげも無く身を後ろに乗り出して覗き込む者もいれば、姿勢は変えずとも首が少しだけビクつく者もいる。

「……何だか恥ずかしくなってきた」

自分もきっとこんな感じだったのだろうか。欲望丸出しの人間の姿、というのはそうそう見られるものではない。

ふと、今までの効果音の類とは異なる歌が一つの台から流れ始めた。自分は知らないがアニメのような曲、きっとこのキン肉マンの主題歌なのだろう。すると今度の周囲の反応は大きかった。間もなく一人、また一人と席を立つ。歌が流れている当人だけが、今までにも増して打つペースを速めて目を血走らせていた。

「これって、勝負あったってこと?」

あまりにもの状況の変化の早さ、特に潔く撤収していく打ち手達の姿に驚いた。

ああ、この人たちプロなんだ。すぐに訳分かんなくなる私とは違うんだ。欲望に忠実には違いないけど、感情では動いてないんだ。すごいな。好きな台とか打ちたいとか思わないのかな。自分の打ってる台も出るかもしれないと思わないのかな。でもそれって……楽しいのかな。

光一にはこういったストイックさをあまり感じない。もっといい加減で何となく打っているように見える。ふわふわと、ぶらぶらと、漂うように。この違いは何なのだろう。

キン肉マンの島は主題歌も終わり通常状態にすぐに戻ってしまった台の客が一人、あとなぜか打ち続けている客がもう一人いるだけ。一方、エヴァンゲリオンの島は空席が無くなった。開店して1時間弱、無言の中にけたたましい店のBGMが響いて人間の心理が渦巻く空間にも、どこか一段落の落ち着きが感じられた。

他の島の様子を眺めてみる。と言ってもピエロの台ばかり、「アイムジャグラーEX」が大量に設置されている。あとは桃太郎電鉄、ブルーハーツ、爺サマー、24、シュート……申し訳程度に2~3台が置かれている程度だった。客もほとんど付いてない。閑散とした娯楽施設ほど寂しさを醸し出すものもない。特に見るものもなく、自動販売機と共に設置されている休憩スペースに腰を下ろした。

「そういえば、こんな感じで光一さんもボーっとしてたな。タカシはこういうコーナーでぼーっとしている奴ら嫌ってたっけ」

光一と違って煙草を吸うこともない。キャスは手持ち無沙汰に周囲を眺めると雑誌のラックがあり、一冊手に取った。『出るぞ☆マガジン』、入口に置いてあった立て看板と同じデザインのロゴが使われていた。スタイルのいいモデルがコンパニオン風のコスチュームで表紙を占めている。

「キャンギャルってことなんだろうな ── でも何するんだろ」

攻略雑誌というわけでもなく、店のイベント情報や実際の様子が延々と掲載されている。写真ばかりのページをぱらぱらとめくっていくと、そこかしこに出るぞ☆ガールの姿があった。キャプションには、「出るぞ☆ガールが札を指した台には!?」「ご来店の皆様にもれなくプレゼント贈呈」「出るぞ☆ガールの出る出る対決開催!」など、とりあえずそこにいる。

「うーん、キャンギャルってそんなものだろうけど、どこに意味があるのかしら」

少なくとも今このパチスロフロアにいる、もしくは去ったプロ達にとっては関心が薄いのではないだろうか。女より金、仕事というところだろう。しかし、しかしだ。

「これ、企画した人の趣味なのかな」

キャスは改めてページの写真に目を落とした。モデルには違いない。ある一定ラインをクリアした顔立ち、またはスタイルではあると思う。でも、とびっきりというわけでも無く、どこか素人らしさを残している。キャスは考えながら胸に手を当てた。そして少し不愉快な気持ちになってから腰に手を当てた。やはり不愉快な気持ちになりため息をつく。

「むー、出てる。っていうか規格外?」

玉やメダルではない、胸やお尻ががっつり出てる。明らかにモデルとして優先している箇所が異なる。アンバランスさを強調しているとしか思えない人選ぶりだ。こぼれそうだ。打ち止めにしないと危ない。何か出玉以外の何かにご利益がありそうな、拝みたくなりそうな感じだ。これは、残念ながら敵わない。何が残念なのだろう。

「プロの人とかは興味ないだろうけど、光一さんとかはパックリ釣られるんだろうな……」

出るぞ☆ガールのあふれんばかりのプロポーションと、残念な自分の貧弱なスタイル。不愉快な気持ちになり、キャスは雑誌のページを閉じた。そして何だか少し納得がいった。

タカシはキャスのことを女として見ていなかった、と思う。人より秀でているらしい記憶力を評価してくれた。それは潔くもあり、悲しくもあった。ヤリたい盛りで声を掛けてくる未成熟な男達とは違い、人間性を認めてくれていた実感がある。ただ、女扱いはしてもらえなかった。女として立ててはくれなかった。

光一は何を考えているか分からないところはあるが、何よりも先にキャスを女として認識していた(もっとも自分が最初にけしかけてしまったようなところはあったが)。だけどがっつくわけでもなくあやふやな余裕を感じさせる。そして、キャスの記憶力に関心を持ちながら、短絡的に利用しない。もっとも今後は分からないが。

こうも違うものか。機械相手のギャンブルに身を投ずる男たち。タカシのような切れ者は例外として、人として何か欠落した生き物、欠けた何か、日常生活で得ることができない渇望を満たすための代替行為に我を失う哀れな家畜。そんなダメ人間ばかりと思ってた。けど。

「男……大人……両方?」

キャスは休憩コーナーの椅子に座ったまま脚を前に投げ出し、煙草のヤニで薄汚れた天井を仰いだ。


◇ ◇ ◇  


「今日は、ダメダメな日かな」

光一は少量のメダルをジェットカウンターで店員に渡すと頭を掻いた。エヴァンゲリオンの前日の最終ゲーム数と今日のゲーム数を足して、天井までの投資が想定収支上プラスになる台を打った。そして天井発動前にREG、という考えられる中で最低の結果だった。

ジーパンのポケットからメモ帳を取り出し、今打っていた台について書かれていた箇所にチェックを入れる。その下にはまだ3つ、店名と台番号が書かれたチェックされていない記載があった。

「今から行ってもなあ、メンドくせー」

覇気が感じられない、いや、出す気も無い。目当ても無く天井を拾い歩く一日は苦痛極まりない。日々満員電車に乗り、上司にいびられ、女子社員に疎まれ、同僚に出世され、家に帰れば妻に邪険にされ、娘には汚物呼ばわりされ洗濯物は分けて現れてしまう、そんな中年サラリーマンの朝というのはこんな気持ちなのだろうか。いや、そんな絵に描いたような奴はいないだろうが、それよりも最底辺の生活を送る俺よりはマシなのじゃないだろうか。少なくとも社会とか家族とか、自分以外の何かに役は立っているだろう。俺は、何の役にも立ってない。日々の糧を他人から掠め取って生きているようなものだ。

「ああ、ダメだダメダメ。これ考えちまうと地獄の底まで落ち込んじまう」

三十過ぎると道は変えられない。がむしゃらに立ち回っていた二十代の中頃、どこかの誰かが飲み屋で話しているのを脇で聞いた。他愛も無い酔っ払いのグダ巻きだったと思うが、なぜかそれが常に頭の片隅にこびりつき、実際にその歳になってからは体中に行き渡って腹を渦巻くようになった。最近はそれが胃と小腸の間辺りに、固形化して内臓の一部となってしまった気がする。もう戻ることはできない、決して取り除くことのできない腫瘍。でも、これがあるから迷いが無い。生きるためにはこの腫瘍も自分の一部と割り切って、むしろ自分を生かしてくれる覚悟として受け入れられる。悪性か良性かなんて、気の持ちよう次第だ。光一は落胆を意気込みに変えるように、己を叱咤するかのように大きく息を吐いてレシートの交換に向かった。

次の店では、目当ての台にはすでに先客がいた。明らかに宵越し天井を狙えば期待収支がプラスになることを分かって打っている輩だ。

「ま、二軒目で残っているほど甘くは無い、と」

ここからは時間との勝負になる。すぐに店を出て次へ向かった。

「空いてる、って生娘じゃないし」

すでにボーナスを引かれた台に別れを告げて、次へ。

「ああ、何も分かってなさそうな婆さんが……待ってらんないな」

のどかに老後の楽しみをホールで過ごすおばあちゃんが、約束された幸運を掴むことを祈って、次へ。

「だー、もう焼け野原だな」

1・2。0・1。1・0。どの台のカウンターもボーナス回数に数字が刻まれている。開店して1時間も過ぎれば、どの店も同じようなものだ。こうなってしまったら、夜の下見以外は比較的客のレベルが低く稼動がそこそこな店を覗いて、ゲーム回数が育った台を拾うしかない。良くて数台、悪ければ0。ゴールデン6の中間設定を掘り当てるのも少し考えたが、昨日バイオで出し過ぎた。明らかに店の想定を越えた暴発があった場合、ゴールデン6はきっちり翌日絞ってくる。魚が限りなく少ないと分かっている池で釣りをするには餌代が高くつく。

「俺はともかく、別に食ってる訳じゃないなら家に帰るとか勉強するとかすりゃあいいのになあ」

そう光一がぼやくのは、自分と同じく打つべき台にあぶれてホール内を徘徊する若者達を眺めてのことだった。店全体で見れば、店が儲けるように設定は配分されている。ただ運がよければ小遣いにありつけるよう見せ台を用意しないと、夢を感じられないホールから客は離れる。そんな台にありつければ本筋、店の意図と関係しない天井などの台固有のスペックから小銭を稼ぐのが保険だ。ただ、そんな生き方を若いうちから選ぶ必要ないのではないか。

「うーんエヴァでREG後400、まだだよなー」

軽くチェックして通り過ぎると、同じ台に気付いてカウンターを見つめている若者がいた。そして携帯電話を取り出して何かしら打ち込むとその場を離れた。その様子に気付いた別の男がカウンターを少し眺めるとすぐに椅子に座ってしまった。

「若いのは、いや、素人さんは夢見ちゃうからね。しっかりしてる奴もいるようだけど……ん?」

ホールで台を見て回っているときは、人間の個体認識にまで気を回すことは無い。台上のカウンターと詰まれているドル箱を瞬時に眺めながら、ゆっくりと歩みを進める。だから、本来ならば自分の横を通り過ぎていった人間など気に留めるまでも無いはずだったが、視界に入った横顔が記憶していたシーンと重なった。

(昨日バイオ島でノリ打ち仕切ってたメガネ、だよな)

着ている服も違えば髪型も変わっている気がする。それに何よりメガネが変わっている。昨日は剥き出しのレンズに横から銀色のフレームがくっ付いているような縁なしメガネだったが、今日は細い黒縁の普通のメガネをしている。だが、その奥に見えていた冷めた眼、鉄火場では少数派とも言える冷静に計算しているような目付きは印象深かった。

(あれがキャスの男、もしくは元カレって奴か?)

露骨過ぎるのもどうかと思ったが、島の間を歩いていく男の後を歩いた。同じような目的を持つ人間が同じルートを辿ることは、特に珍しくも無い。傾向が分かれるとすれば、今打てる台を探しているのか、明日打てる台を探しているのか、これから喰っていくための台を探しているのか。答えは、全部。少なくとも光一はそうであり、前を歩く男もそう見える。ただ、光一が違っているかもしれないのは、気分で動いているか、理詰めで動いているか。百パーセントの効率的な立ち回りをするスロプロだったら、昼過ぎから痩身眼鏡イケメンを尾行したりしない。

赤ドン、哲也、スーパービンゴ、戦国無双、2027、餓狼伝説スペシャル、そしてアイムジャグラーEX。それぞれに天井までのゲーム数や気になるボーナス回数の台はある。今は中途半端な時間帯だ。即時的に天井を拾うには、より期待値の高い台を捜し出す時間をロスする。その台を見つけ出せる可能性は一刻一刻と失われていく。一方、余計な英世さんや諭吉さんを家出させないよう情報収集に徹底するには、まだ陽が高すぎる。今なら行方不明捜索中の偉人達を発見回収できるかもしれない。そんな時間帯だからこそ、

(ようは暇なんだよね)

男は気になる台を見つけて時にデータカウンターのボタンを押し、携帯に何かをメモをするように打鍵するとまた歩き始め、そしてホールの出口へと向かう。光一は躊躇わずに後を追い続けた。

ホールの中と違って街中となると勝手は違う。探偵でも警察官でもないただのスロット打ちに、尾行のノウハウなんてものは無い。ただ、そこそこの人通りがあるビジネス街と歓楽街の交じり合ったこの一介で、目的が同じなら見当も付く。

(その方向だと次は弘樹だろ。ってことはそこの角を……お、ビンゴ)

角を曲がった先には、この界隈では良くも悪くも無い、サラリーマンから適度に金を吸い時折夢を与える一般的なホール、パーラー弘樹があった。

「この時間じゃ堅気のみなさんが宝探し用の穴をまだ掘ってくれているわけでも無いしなあ。まあ、何があるか分からないのが鉄火場……ってアレ、今日だったっけ?」

パーラー弘樹の店の前には水着姿のモデルの立て看板が飾られ、この時間にしては出入りする客の多さが目立つ。

「平日の昼日向にパニオン系イベントとは、ズレてるというか、この業界もまだまだ間抜けなくらい平和なのかねえ。けしからんな、まったく以ってけしからん」

光一は先程より早足で、いや軽い足取りでパーラー弘樹へと向かった。


◇ ◇ ◇  


「イヤだって言ってるでしょ! 聞いてないわよ、こんな仕事」

「そんなこと言わないでよ~。スポットでもいいって話で、アンナちゃんもOKしてくれたじゃない。事務所の方にも了解もらってるんだし、ね、アンナちゃん、ね?」

「私はパーラーって聞いたから受けたのよ。パチンコ屋だなんてひっとことも言ってないじゃない」

「そんなこと言われてもね……。嘘言ってないし最近のパチンコ屋さんはカッコイイ横文字が当たり前なんだよ」

「ぜったいイヤですからね。ギャンブル狂の男達がエロい目でジロジロ睨む中、タバコ臭い所を半裸で歩き回るなんてあり得ない、ぜったいにあっり得ない!」

「大丈夫だってアンナちゃん、結構こういうところのお客さんって、ショーとかの追っかけやカメラ小僧より大人しいし、最近は空気清浄機とかエアカーテンとか備え付けていたりして臭いも気にならないから……ああ、モロミちゃんも何とか言ってあげてよ」

パーラー弘樹の裏口に付けられたスモークガラスのワゴン車。その中ではふくらはぎの締まりとウェストのくびれが自慢の女性をマネージャーらしき男が必死になだめていた。そして車内にはもう一人、170cmはありそうなアンナの身長に対して頭一つは小さい女性が、座席に座ったまま二人のやりあう様子を眺めていた。童顔と言うほどではないが、いわゆるキツネ顔のアンナという女性と比べると、垂れ目も手伝い柔和で常に微笑んでいるような印象を与える。

「モロミちゃん、ほらこの仕事の先輩としてさ、アンナちゃんの方が年上かもしれないけど」

「何ですって!」

キツネ顔の女性はさらに1オクターブ高い声で叫ぶと、マネージャーの髪の毛を掴んで眉を吊り上げた。

「こればっかりは真実ですって、嘘ついてないですってって! あ、ダメ、頭はダメだって抜けちゃうから、貴重な資源が枯れちゃうから!」

「マネージャーさん、かつらやめて植毛になさったんですよね」

「そうなんだよモロミちゃん……って、それ言っちゃったらオシマイだから! おじさんこれで結構傷付くから! しかもフォローして欲しいのそこじゃないから」

モロミは少し首をかしげてしばし熟考し、ようやく納得がいってから口を開いた。

「スキンヘッドが似合うと思います」

「ちっがーう!」

涙目で助けを求めるマネージャーの悲痛な叫びが、出るぞ☆ガールの出張手配と営業を役目とするワゴン車に響いた。

イベント会場や多目的ホールなど、誰かしら舞台に立つのを前提とした施設ならば楽屋や控え室がある。しかし、駅前立地型の中規模パチンコ店となれば、従業員用の更衣室兼休憩室くらいしかない。そんなスペースでコンパニオンを着替えさせるわけにもいかず、着替えた状態で電車でみんな仲良くご出勤というわけにもいかない。TV番組の製作会社が出演者を乗せてロケハンに出向くのと同じスタイルを取らざるを得ない仕事だった。

すでに予定では店に入り、店内マイクでの自己紹介を始めているはずの時刻だった。しかしコンパニオンのうち一人がごねて車から出ようとしない、というこの業界ではよく見られる風景である。

「頼むよ、お店の人に怒られちゃうよ」

「……降りさせてもらうわ。私、事務所変えるから」

怒りが収まらないアンナは、荒々しい手付きで傍らの上着とハンドバッグを手に取るとワゴン車の扉を開けた。

「アンナちゃん!」

「今日のギャラはいらないから。交通費は振り込んでおきなさいよ。あと、社長には今日の件言っておくから覚悟しときなさい」

「アンナさん」

「何よ、文句あるの?」

ワゴン車のドアに手を掛けて振り返るアンナ。モロミは、その体躯には不似合いな容積を占める胸部を気にしながらうつむき加減に投げかけた。

「―― 仕事なめんなよ、ババア」

「っ!」

モロミは座り続けていたワゴン車の座席を立つと、ヒールを履いてない素足のままアンナのくびれたウェストに足の裏を当てがった。何をされるであろうか分かりつつ、まさかしないであろうと顔を引きつらせるアンナの淡い期待は、やがて裏切られる。

「お疲れ様でした」

硬化した皮膚が強固な骨格を包み込む踵、柔らかな皮膚がたわやかな曲線を描く土踏まず。白い肌にパープル系ベリーカラーのペディキュアはラメが二重に散らされている。アンシンメトリーに歪んだ親指がくの字に曲げられるとアンナの腹部に食い込むと、アンナの体はつの字になるほど折れ曲がり、臀部を先頭に車外へと勢いよく放り出された。

即座にワゴン車の扉は閉められ、呪詛を吐き車体を蹴り飛ばし続けるアンナの叫びはシャットアウトされた。

「ああーーーモロミちゃん、過激だよ」

「貴方もお好きなくせに」

モロミは蹴り出して伸ばしたままの足を、マネージャーに向けた。マネージャーはその爪先を見つめて生唾を飲み込み、踵に左手を添えると右手で座席の隅に置かれていた白い箱からパールホワイトのサンダルを取り出した。

「そりゃあまあ、僕がMっぽいのは認めるけどね……これじゃこの仕事、モロミちゃんのパートナーがいないままなんだよね。今までもこんなんばかだったし」

踵から足首、脹脛の始まりの辺りに左手が移されると、サンダルが爪先から優しく添えられる。わずかに震えて縮こまる指先は見て見ぬ振りをされて姿を隠していく。

「ありがとうございます、それに、ごめんなさい」

諦めて去ってしまったのか、車外から伝わってくる喧騒が止んだ。

モロミはコンパクトの鏡でメイクをチェックし、マネージャーはサンダルを履かせると続けて水着の際を確認する。文字通り際どいと見えるラインに指を挟み込み水着の布を引っ張って調整する。モロミはわずかに息を止めることはあったが、それに対し声を上げることも反抗することも無かった。

「腰周りにストール、使う?」

「隠すほどでもないですが、パレオ風にしたらどうでしょう?」

「ああ、いいね~。胸の方に意識集められるかもね」

「そうですね……やはりホールのお客さんは見える見えないの楽しみより、分かりやすいセックスシンボルがお好みかもしれませんね」

「分かってるねー、モロミちゃん」

「いいえ、マネージャーさんほどいやらしくないですよ」

「ちがうよー、僕はいやらしくプロなマネージャーなだけだよ。モロミちゃんが自分のマニアックなスタイルを十分に自覚しているいやらしいモデルなように」

「あら、嬉しいです。モデルって言ってくれる」

「僕はそう思ってるよ。このアンバランスな魅力は持って生まれたものだしねー。分かってないんだよなー、偉い人とか一般ピーポーは」

「やっぱり、マネージャーさんは化けの皮を被ったマゾっ気たっぷりの変態ですね」

「そういう人を、世の中ではフツーって言うんだよ」

モロミは言葉ではなく含みのない微笑で応えた。


◇ ◇ ◇  


「うーん、難しい……」

キャスは、パチスロを打っていた。

光一に「やめとけ」と言われていたのに打っていた。

打ちたくて打ちたくて我慢できなくて大好きなジャンルの台に座ってしまった、というわけではない。そもそもそんなに台の種類やジャンル、タイアップしている作品などに詳しいわけではない。好きな台を打てれば多少負けても構わない、というタイプでは、自分は、無い。

では金の亡者かと言えば、もちろんお金は欲しいしお金に困ったときは本当に追い詰められた気持ちになったが……でも、それとも違う気がする。

キャスの座っている台は上部の液晶画面が大きく、目前のリールがやや小さめでなぜか両脇にスロットルレバーらしきものが付いていた。そして今、液晶画面では映像として擬似的に演出されたスロットが映され、何やら赤い絵柄が3倍の速さで周回しているような。下部のパネルに描かれているのは「機動戦士ガンダム㈼ 哀戦士編」。

「これ、揃えるといいことあるのかな」

難しいというのは液晶リールの目押しであって、状況や出玉というわけではない。むしろ今は青7を揃えたあとのボーナス消化中である。むしろ状況はいい、はず。ボーナス合算の確率は153分の1。たまたま休憩スペースから見える位置にあって過程を観察していた。ボーナスの比率は払い出し枚数が多い青7ビッグが少なく、赤7やREGが多くてあきらめて打っていた人間が手放した台だ。この台の解析データは知っている。青7ビッグにはほぼ設定差は無く、赤7とREGの出現率が設定差に結びついている。合算ボーナス確率も設定5~6はある。強いて言えば……ガンダムは見たことが無い。

「ふふ、私はできる子、私はできる子、やればできる子」

光一に認められたい気持ちもあり、自分なりに店内を見て回った結果あきらかに設定が高いと思える挙動を示していたのがこの台だけだった。

ボーナスを消化しRTに入る。プォーンという音と共にレーダーが光って小役を揃えたり、ピュルピュルリーンという脳天を走るようなどこかで聞いたことがある音と共に液晶画面にアニメが流れたりする。そんな状況が70ゲームほど続くと連続してアニメが流れ始めた。敵役らしき兵隊が戦艦みたいなものに乗り込んで通路を走っていく。すると、黄色いおカッパ頭の女性が現れて何か叫んだ。

「見つかっちゃったのかな?」

ストーリーとして残念な展開に思えたのだが演出やBGMは盛り上がりを見せており、脳内の「?」を抱えたままレバーを倒すと、ボーナス確定の画面が液晶に現れた。

「チャンスらしき出目が3回あったから、ありなのかな」

降って沸いたような幸運に、喜びが徐々にこみ上げてくる。昨日は突然打たされて訳が分からないままメダルが溢れそうなほど出てきた。困った。正直、自分の力で何かをしたような気がまるでしなかった。さらにタカシの取り巻きらしき男達に囲まれて怖い思いもした。でも、今日のこれは違う。自分で探して自分で打って、当たっている。何だろう、この胸に湧き上がる感情は。人に誉められたり、いい成績を取れたりした時とは似ているようで違う。これは、とても直接的だ。もし原始の時代ならば石斧でマンモスを打ち倒して生きる糧を勝ち取ったような。あのマンガで描いたような肉を両手に勝利の雄叫びを上げているような。いや、少し頭が悪い喩えかもしれない。とにかく胸がカッと熱くなって、達成感や勝利感に心が激しく高揚する。

「ああ、これなのかな」

ちょっと分かった気がする。なんで定められた抽選を繰り返すだけの機械に人が熱中するのか。今日の朝たくさん見かけたプロらしき人間だけではないのだろう。こういった喜びを得たいがために多くの人間が店にやってくる。会社勤めの人も学生さんも主婦も年金をもらっているおじいさんおばあさんも。それにプロの人間達も同じなのではないだろうか。むしろ日々の生活を支える金を、銀行振り込みでも給料袋でもなくその場で即座に獲得する。それはまるで狩人のような。

だから欲望も丸出しになる。客観的に見て痛々しい風景も多い。なんで自分だけ不幸なんだと泣きそうな顔で恨めしく席を立つ人。思いのままにならず台を拳で殴りつける人。隣りで当たりを引かれて舌打ちをする人。どれも見苦しい姿だ。でも、これが人間の生の姿なのかもしれない。勝つ者もいれば、負ける者もいる。そういうことなんだ。

「不公平だから、公平なんだ。こい、こい、熱いのこい!」

キャスは得心がいってレバーを軽く叩いた。

この台を打ち始めてしばらくが経ったのだろうか、昼も過ぎてまばらだった客も数が目立ってきた。そして開店後は二人しかいなかった店員も四、五人に増えている。フロアがざわめき立ち始めた気配を感じた頃合に、店内放送が流れ始めた。

『本日はお忙しい中パーラー弘樹にご指名ご来店いただき、まことにありがとうございます。今日はなんと、なんっと、パチンコパチスロファンなら誰もがご存知のラッキー&キュートな勝利のゴッデス、出るぞ☆ガールのみなさ……出るぞ☆ガールの赤星モロミさんにご来店いただいております!』

テンションの高い男性店員のアナウンスが、ユーロビート調にアレンジされたパチスロタイアップ曲をバックに繰り返される。それに呼応するかのようにフロアには客が増え始めていた。

「出るぞ☆ガール、人気ある?」

空台がみるみるうちに埋まっていく。通路を徘徊する客も目星を付けると席に座り始める。そして座った客は一斉に台を打ち始め……ない。周囲を見渡したり煙草を吸い始めたりして、何かを待っている様子だった。

キャスの左隣の台にも若者の二人組が座った。椅子の背に肘をかけたまま横を向き、向かい合って話し始める。

「出遅れたなー」

「いやいやいや、まだあるっしょマジで。どこに札刺さるか分からないから」

「でもさ、これRTあるけどAタイプみたいなもんだし」

「だから設定6でも割がそんなに高くない方が、店も入れやすいんだって」

「そんなもんかな。お、出てきたみたいだぜ」

二人の会話が終わると、交換カウンターの前には派手な服装のコンパニオン、黄色のビキニで頭にはハイビスカスの髪飾り、腰には南国をイメージするようなパラオを纏っている。ただでさえ場違いな明るさだったが、それにもまして小さくて、大きい。ホールへの入場を断られそうなほど背は小さく、お嬢さんビーチバレーのボールが挟まってますよ、と優しく忠告してあげたくなるほど胸が大きい。

「パチンコファン、パチスロファンのみなさんこんにちは! ラッキー&キュートな勝利のゴッデス、出るぞ☆ガールの赤星モロミですっ♪」

マイクを持ったコンパニオンは必要以上に明るい声で話し始めた。

「本日は新橋でもトップの出玉を誇るパーラー弘樹さんにお招きいただきありがとうございます。ふつつかながら出るぞ☆ガールの私達もみなさんの勝利を願って『出るぞ、ハイっ!』と応援させていただきます」

言葉の中で『出るぞ、ハイっ!』の部分が特にキメ台詞めいた可愛らしい声で強調されていた。明るい。問答無用で明るい。そしてかわいい。でも、

「な、何? このシュールな風景は!?」

キラキラと輝きを振りまく愛らしい出るぞ☆ガールが挨拶をする前に、観客はゼロ。誰もが台に座り横目で軽く見やるか、打つのに夢中で無視している。それでも怯むことなく今日のイベントの案内を続ける出るぞ☆ガール。気にしてる客は、出るぞ☆ガールではなくこれから始まるらしいイベントを待っているだけのようだった。ヒーローショーのお姉さんの呼び掛けに誰も反応しない空気が凍る瞬間、が近いだろうか。それが大人のための大人の場で大人たちが繰り広げられているから、痛いのを通り越して神秘的ですらある。

「それではみなさんのお席を順番に周らせていただきます。今日はごゆっくりパーラー弘樹で最後までお楽しみください。出るぞ、ハイっ!」

キャスには見えていた。最後のキメ台詞の瞬間、出るぞ☆ガールの隣りでフォローしていた店員が顔を伏せて垂らしていた手の拳をぐっと握りしめていた。耐えていた、大人として会社の人間としていろんなものに耐えているようだった。

出るぞ☆ガールは最初にジャグラー島へと向かっていった。手にはプレゼントが入った籠と案内の紙を携えている。その後ろには台上にセットするらしい「出るぞ☆おススメ台」と書かれたプレートを持っていた。

こちらの島に回ってくるにはまだ時間が掛かりそうに見えるので、キャスは自分の台と改めて向かい合う。

「これがオトナの世界ってワケか」

「そ。そういうことなのよ」

「うわっ!?」

聞き覚えのある声に振り向くと、空席だったはずの右隣の席に光一が座っていた。


◇ ◇ ◇  


「んふー、キャスってばちゃっかり打っちゃってるじゃない。しかもそこそこ出ちゃってるじゃない」

光一はしたり顔でキャスを眺めながら続けた。

「知らないよー、この後ガツンってハマって泣き見ても知らないわよー」

「だ、大丈夫です今のところ。それと変なおネエ言葉やめてください」

キャスは見つかってしまった恥ずかしさを誤魔化すために光一は見ずあくまで台の正面を向いたままだった。光一はサンドに千円札を流し込み、吐き出されるメダルを手に握っていた。

「光一さんこそ狙い台なんですか、それ。それともあのコンパニオンさんの札狙いですか?」

言葉の端々に棘を刺して反抗するキャスだった。

「うーん、どっちでも無いかな」

「じゃあなんでメダル借りちゃってるんですか? 千円無駄にしちゃうなんてとてもプロとは思えない」

「おお、何かイッパシのスロプロみたいな感じだねえ」

「そんなことないです、ただ私だって自力で勝てることを証明したいんです。それに少し分かった気がするんです」

「ん、何を?」

横を向いて話していた光一も台に向き合ってメダルをクレジットに入れ始めた。キャスはベッドボタン、レバー、停止ボタンの順をこなしながら言葉を続けた。

「台の挙動を観察して、高設定の期待値が高い台に座って打つ。打ち始めてからもボーナス合算や成立契機役、小役出現率を計算して現在の設定期待度を計算し続ける。そういうことです」

「それはすごいねえ。思いっきりプロの立ち回りそのものだ。雑誌とか読んだの?」

「はい、現行機種の設定判別要素は覚えてきたし、ネットで小役カウンターも注文しました。届くまでは自分で覚えることにしましたけど」

キャスの台にレバーオンと共に予告音が鳴り、順押しで止めていくと白BAR絵柄枠下スベリからスイカ不揃いのチャンス目が停止した。

「これはボーナス期待度16~24%のチャンス目です。設定差があるのでボーナス当選していれば高設定が高まるんです」

「勉強してるねぇ。もしかして通常時のベル確率とかも数えちゃってる?」

キャスは次ゲームのベッドボタンを押そうとする手を止めて目をつぶった。計算をしているの口元が細かく動いている。

「およそ9・9分の1。今のところ中間くらいです」

「ほう、すげえなやっぱり」

光一は肩をすくめながらキャスの台の液晶画面をチラ見していた。

「お前さんは正しいよ。そういった理詰めの推測を覚えきってしまうのはすごい。そして理屈が分かっていても、それを完璧に実行するのはなかなか難しいもんだ。そりゃあ人間だものな、希望が無くちゃ生きていけない。ま、ギャンブルというものばかりは希望的観測ってものは持っちゃいけないと相場が決まってる」

キャスがベッドボタンを押すと黒い背景に白文字で番組タイトルらしきものが液晶画面に表示された。

「お、アツいねぇ黒い三連星だけどタイトル入るといいね」

「そうなんですか?」

そう言って冷静を装いつつ、レバーを叩く手に力が入ってしまった。

「ただねー、それだけで勝てるなら苦労しないっていうか、おじさんは今頃干上がってると思うよ」

「何言ってるんです? 確率に基づいている機械なんだから、そのデータから期待値を得るのは論理的に間違いの無い事実ですよ」

キャスは光一の言葉に反抗するかのように停止ボタンをペシ、ペシ、ペシと勢いよく止めていく。敵のバズーカ攻撃を避けて演出は次ゲームに持ち越された。続いてベッドボタンからレバーを叩くと、今度は3人の敵役の顔が同時に液晶画面内に表示された。

「はうっ」

次こそ主人公がやられてしまいそうな演出にキャスは思わず息を漏らす。

「違うよ、この演出はドムのジェットストリームアタックが出た方がアッツいの」

「そうなの!?」

「ふっふー、声裏返っちゃってるよキャス」

「そんなことありません!」

良い方に期待を裏切られて胸の鼓動が急激に高まり、さらなる期待を寄せて続けて停止ボタンを押した。すると再び敵機のバズーカが主人公の機体を襲い……被弾して画面の色調が暗くなってしまった。さすがにキャスにもこれが失敗演出であることは分かる。

「……ウソつき」

「嘘じゃないって、アツいけど別に確定じゃないんだから。でも次のレバーオンでニュータイプ音と共に復活することもあるよ」

沈みきった気持ちにわずかな光が差し、キャスのレバーを叩こうとする手が震えた。いつもよりレバーから距離を置いて拳に念を込める。光一もさすがに自分の台を止めて運命の一瞬を見守ろうと身を乗り出していた。

「お願いしま……」

「来い、ピュルピュルリーン来い!」

キャスは拳を振り下ろしーー

「って無理、怖くて無理!」

ーー寸前でその手を止めた。

「禁止、寸止め禁止だよまったく!」

先程まで余裕を持って話していた光一も声を荒げてしまった。

「たかがボーナス一個当たるかどうかだけだろう、期待しつつもサクっといっちゃえよ」

「それはそうですけど……あ」

キャスは左後方に人の気配を感じて振り向くと、フロアを巡回していた出るぞ☆ガールのコンパニオンがこちらの様子をうかがっていた。客のプレイを妨げないように声を掛けるタイミングをうかがっていたらしい。気が付くと左に座っていたはずの若者の二人連れはすでに姿を消していた。頭上を見上げたが札は刺さっていない。さっさと見切りを付けて立ち去ったというわけだ。

「こんにちわ、出るぞ☆ガールです。よろしければこちらをどうぞ♪」

コンパニオンはビニールに包まれた小さい飴玉をキャスに差し出した。キャスは言われるままに受け取るとそれを見つめる。マンガ絵で描かれた女性が二人、出るぞ☆ガールをモチーフにしたオリジナルのイラストが印刷された特注品のようだ。

「かわいいアメちゃん。お姉さん、ありがとう!」

キャスは本当に嬉しそうにして隅々まで袋を見つめてから、食べてしまうのがもったいないらしく台のリール前の張り出しにちょこんと優しくお供えした。そしてコンパニオンの方に向き直ると顔と胸をじーっと眺めた。

「あの……」

ほとんどの無愛想な客と一転して嬉しいまでのリアクションを見せるキャスにコンパニオンは少しだけ怯んだ様子を見せたが、プロらしく笑顔は崩さなかった。

「雑誌に載ってましたよね、モロミさんっていうお名前で。すごい、本物の人だ」

「はい、本物ですよ♪ 覚えてくれてありがとうございます」

「だってスゴかったもん。優しくて綺麗な大和顔なのにバストはリアルアメリカンじゃない! 私なんてブラも色々選んで、寄せて上げて何とか余計なお肉も頂点を支える貴重な礎にして誤魔化してるけど、モロミさんのは紛れもない実力だし」

キャスは憧れの視線をモロミの胸部に向け、同時に自分の胸に手を当てて切ないため息をついた。

「うーん。女の子に誉められちゃうと、ちょっと嬉しいかな」

そうモロミは独り言のようにつぶやくと、先程までの営業スマイルか自然な笑顔に変わってキャスの耳元に顔を近づけた。驚いて見上げたキャスだったが、モロミが手を添えてきたのでことを把握して自ら顔を寄せる。

「……………………………………なんですよ」

「えっ、それって………………………………製の?」

「はい、それを使って…………を…………して」

「でも、それだと……の時とか………………だったりしない?」

「そんな時は……………………………しちゃうんですよ」

「うっそ、モロミさん大胆すぎる!」

「大丈夫、すぐに慣れますよ。それに最近少しクセになっちゃって」

「いやーん」

「おじさんもその会話に混ぜてくれるかな?」

キャッキャうふふのガールズトークを静観していた光一だったが、辛抱たまらなくなり会話に入り込んできた。そんな中年男性をじっとりとした目でキャスは見返す。

「エロじじいはすっこんでいてください。モロミさんに手を出したらレバー玉をケツの穴にぶち込みますよ」

「お下品なんだからもう。あなた……あの、よろしければお名前をお聞きしても?」

モロミの問いにキャスは即答できずにしばし考えたが、意を決して返した。

「キャスって呼んでください。あだ名です」

「まあ、外人さんみたいでかわいいお名前ね」

「ほら、案外悪くないだろ」

「だからハイパーエロじじいは黙っててください」

「何かビッグ枚数が増えた感じだな」

「じゃあミドルエロじじいで」

「一気にショボくなったな、おい」

「しかもART無しのタネなしREGで」

「タネはある、まだ枯れてない!」

「ふん、どうせガセ前兆で終わっちゃうくせに」

「てめえ、俺の本前兆見せてやろうか!」

「キシャー」

「ガルー」

「あの、とても仲がよろしいところ申し訳ないのですが……」

キャスと光一の掛け合い漫才を楽しんでいたモロミだったが、自分の仕事を放置するわけにもいかず間に入った。携えていた紙をキャスと光一に差し出す。そこには「入会申込書」と書かれていた。

「こちらのホールの会員募集のご案内をさせていただいているんです」

「会員? 何かいいことあるんですか? あとお金とか」

「新台導入時のご案内とか、会員優先入場、貯玉サービス、来店ポイントなどお得ですよ。入会金も年会費もありません」

先程までかみ付き合っていた相手だが、こういった場合はこの道の先輩である。キャスは光一に意見を求めるように顔を向けると、説明するモロミに合わせるように言葉を挿んだ。

「持ってないなら入って損は無いと思うぜ。端玉とかいちいち菓子やジュースに替えなくて済む。それにな、このお姉さんの点数も上がるってもんだよ」

見透かしたような言い方をする光一に対してプロの笑顔を保つには苦しく、文字通り苦笑いでモロミは答えた。

「まあ……その通りでもありますが」

「ギャラは変わらんかもしれないけど、また呼んでもらえることもあるっしょ」

「そういうものなの?」

キャスはいまいちピンと来ていなかったようだったが、コメントに窮するモロミを他所に光一は説明を続けた。

「そんなもんなの。こういうイベントってのは数じゃ効果が測りにくいから、分かりやすい結果が一番なの。他にあるとすれば他の日と比較して台の稼動が上がってるか、要は客がイベント目当てで店に来てくれてるかだよな。店としては、とにかく客に来てもらって稼動を上げるのが全てなんだよ。その為だったら無料で会員募集するし、ポイントサービスもする。常連になってくれれば万々歳だ」

「稼動を上げる?」

「そう、メダルを借りてもらって台をバンバン回してもらった方がいい」

「でもそれだとプロの人が高設定の台だけを選んで出しまくっちゃえば、お店が損しちゃうこともあるんじゃないの? それに高設定じゃなくても短期的にお客さんのプラスになることもあるだろうし」

「うーん。お前は頭いいに違いないんだけど、どっか抜けてるっていうかお人好しなんだよな。そういった客のプラスになっているように見えるのは全体のごく一部で、一日×店全体の台数の収支で計算すると十分に店のプラスになってるの。そうじゃなきゃ店潰れちゃうだろ。このお姉さんのギャラだって客の負け分から出てるんだから」

「そうなの?」

「―― そうです。突き詰めれば当然そうなります。今日のお店の利益が高ければ私達を呼んでよかったということになって、お連れ様が言うとおりまたの機会もあるかと」

キャスの素朴な投げ掛けにとまどったが、光一の開けっぴろげな物言いに自分も意を決してモロミは真実を述べた。

「お仕事なんです、キャスさん。私が胸をチラチラさせて男の方に優しく声を掛けて気分良くなってもらう。異性に興味が無さそうな人でもイベントということで出玉に期待される方も多い。でも、キャスさんみたいにカワイイ女の子だとサービスしたくもなりますよ」

「うーん、何だかちょっと複雑……」

「カワイイんだから、もう」

モロミはそう言うと後ろを振り返り、背後で待っていた店員にうなずいてみせた。店を巡回するには話が長すぎたことは十分に理解している。店員はモロミに何かをつぶやくと持っていた札を手渡した。

「お?」

光一はそれを見逃さず、その意味も十分に理解していた。

「お客様、出るぞ☆ガールのオススメ台です。頑張って出してくださいね」

「当り引いたな、キャス」

モロミはキャスの頭を通り越して受け取った札を差そうと背伸びをする。キャスは光一の反応を見てから何が起ころうとしているのか気付いた。

「うっそ!?」

キャスは驚きのあまりに立ち上がってしまい、爪先立ちのモロミと体が当ってしまった。

「きゃっ」

体勢を崩すモロミ。

「モロミさん!」

小さい体が前のめりに突っ込み、位置的に上半身が台の操作周りにぶつかりそうになる。何とか台枠の上部を手で掴み体を支えたが、いざという時のナチュラルボーンエアバッグとしても十分に機能しそうなその豊満な胸の突端が、レバーに触れてしまった。

「あん♪」


ピュルピュルリーン


アムロは現代人類の至宝とも呼べる女神の乳首によってニュータイプ覚醒を果たした。

その瞬間、光一が思わず口にした言葉は必然だったのかもしれない。

「―― 時が、見える」


◇ ◇ ◇  


「ちっ、アレ設定入ってたのかよ」

「まさかガンダムに入れるとは思わなかったですっ」

「イベントガール出てくるの間に合わないとはな、クソっ」

「しょうがないですよ、今日はタカシさんの情報も無しで見の指示だったし」

「だからって打たないってアリえねえだろ」

そう言うと、黒のパンク風の皮ジャンに鎖を腰下まで垂らした男は室内にもかかわらず床に唾を吐いた。一方、話し相手のベースボールキャップを被った男はでっぷりと腹と胸に肉をたくわえ、来ているTシャツには露骨に汗染みが見える。

「ノリが無い日は何しても個人の自由ですが……だからってよりによって」

「ああ、あの女とはな。胸糞悪いぜ」

二人はスロットフロアの目立たない片隅で、イベント札の刺さった台を恨みがましく見つめていた。

「やっぱ、昨日ヤっちまった方が良かったんじゃねえか」

「さすがに警察沙汰はまずいですよ……僕だってお母様には小遣いの使い道までは秘密にしてるし」

「いいご身分だよ。何だっけ、ゲーム作ってる会社の社長だっけ? お前の親って」

「昔はゲーム機本体も作ってたんですよっ! 今は止めちゃってソフトだけだけど……とにかく、これも社会勉強の一つなんですっ」

パンク男は、汗をだらだら流しながら喋るベースボールキャップをじとっと眺めて言った。

「まあなんだ、金に困らねえってのはいいことだけどよ。……やっぱお前、男の俺から見ても外見も話し方もキモいわ」

「うひっ、ひどい……」

体液のたっぷり染み込んだGパンのポケットからハンドタオルを取り出すと、ベースボールキャップは顔を覆うようにして汗を拭きそのまま鼻をかんだ。

「でも、それを隠さないで言う君は貴重な友人ですっ。傷付くけど」

鼻水を拭き切れてない顔のまま、脂ぎった体でパンクににじり寄った。

「分かった、分かったからこれ以上近づくなってーの。しっかしなぁ、あの女適当にあきらめて台空けないかな」

「無理ですかね……タカシさんと一緒にいた時に、そこそこ知識も得ていたようでしたし……あ」

「空けた……いや、下皿メダルでパンパンのままだろ。席なんて取れねえ」

「ですよね、飲み物でも買いにいったんでしょ。そうですね……ちょっと痛い目に合わせてみます?」

ベースボールキャップは世界から受ける毎日の蔑みを咀嚼するかのような笑みを浮かべて、肩から提げるキャラクタープリントが施された鞄に手を突っ込んだ。


◇ ◇ ◇  


「俺は適当にぷらぷらしてっから、まあ頑張れや」

そう言って光一は行ってしまった……と思ったら、景品カウンターで受付嬢、そして先程のイベントガール・モロミを交えて何やら談笑している。何でこう、あの人は肩の力が抜けているのだろう? それ以前に女好きにも違いないだろうが。

キャスは光一が自分の様子を見に来てくれたかと少し嬉しかった気持ちと、あっけなく離れていった喪失感がないまぜになったまま、イベント札が刺さり挙動もいい台と向かい合っていた。今は、先程大当たりしたビッグボーナスを消化し終えて再びRTに突入している。

「一応増えてるのかしら。もし内部的にボーナスに当選していたら、小役が外れているときに狙えば揃えられるのかな」

慣れない台のRTを消化しながら勝手なことを想像していく。仮に閉店間際で残り時間が限られているならば、それもありかもしれない。ボーナスフラグに当選していない間は、その抽選を受けながらメダルもわずかに増えるという利点があるが、もしボーナス当選済みならばゲーム数消化に掛かる時間に対して増えるメダルを考えると効率は落ちる。それでも通常時と比べればメダルが現状維持プラスαできるのは大きい。ただ、RT後の当選したボーナスを消化する時間も危ないようだったら? そんなことを頭の中でシミュレーションしていた。残り時間に対するメダル増加の期待値、それもこの台自体のボーナス当選確率も考慮しながらの損益分岐点を見つけ出せるような気がする。

「なんか、余裕あるな」

今日この席にたどり着くまで、いや今日に限らず今までにホールの風景を見てきて、全地球の不幸がすべて自分ひとりに降り注いでいるかのように苦渋を噛みしめた顔をして打ち続ける人がいて気がかりでもあり、疑問でもあった。なんでそんな思いをしてまでわざわざお金を使って打っているのだろう、と。

今の自分は、それとは少し違う気がする。当っても当らなくても気にならない。自分で探して、予想して、その結果を確かめる。その中で確率的なブレはある。それをそういうものだと思えるなら、自分がラッキーガールでも薄幸の少女(!)かなんて、状況を楽しむネタ程度で済ませることができる ―― ような気がする。

光一に話したら、かなりの確率でバカにされそうな気がするが。

そんな時だった。

タカシだ。

あのメガネと服装は、どちらかと言えば普段着の時。大学の研究室の白衣を着ている時はあんな感じだった気がする。

キャスは昨日のことも、今のことも忘れて席を立った。


◇ ◇ ◇  


打っている人間がいない空台ならデータカウンタを調べても至って普通の行為だ。打っている最中なら通りがかりに軽く見るくらいがマナー、後ろに張り付いてじっくり見るとなると感じ悪いマナー違反といったところだろう。

では、空台ではないが打ち手が離席している場合は? しょせんホールは無法地帯、一線を越えないグレーゾーンな行為は駆け引きのうち。打ち手に見つからず長時間でもなくポチポチとデータカウンターのボタンを押してその場を去るならば、周囲の打ち手も気に止めないだろう。もし近くに店員がいたら? 「お客様、そちらは他のお客様が」くらいの声は掛けるかもしれない。

所持品の窃盗、はあるかもしれないがそれは最初から犯罪行為、起こったら防犯カメラを掘り起こして警察にご協力。メダルも同様、ジェットカウンターで差枚ズレは一発でホールコンピュータが察知して「お客様お待ちください」となる。生で現金が動くホールで、そうそう簡単に悪事は働けない、はずである。

「イベントやってるって聞いたんですけどね」

肩に掛けた鞄に手を突っ込んだまま、ベースボールキャップはよさげな台を探している仕草で周りをキョロキョロしていた。

「いい台ないもんかなー」

皮ジャンは、ベースボールキャップの横から離れずに歩いていた。うつむいていたが、時折フロアの上の方をチラッと見やる。やがて何かを確信するとベースボールキャップにだけ聞こえるようにつぶやいた。

(いいぞ、見つけた)

(分かりました、このまま向かいましょう)

二人はそのまま島の間を歩き続けて店員の様子を探りながらフロアを周回し、やがて一台の前に立ち止まった。

「なあ、これどうだ?」

「ああ、札刺さってますね」

「ほんとに設定入ってんのかよ、履歴見てみろよ」

「そうですね、ちょっと待ってください」

皮ジャンは座席の背後に立ち、周囲に鋭い視線を向けながら背筋を伸ばしてその場から動かなかった。一方、ベースボールキャップは履歴を表示できる頭上のデータカウンターを操作してから台のリール盤面両脇から伸びているレバーに手を掛けた。『機動戦士ガンダム 哀戦士編』、この台の特徴の一つに、液晶演出やデータ確認のために操作できるコックピットを模したレバーがある。

「ああ、いいかもしれませんね確かに……あ」

「どうした?」

「この台、先客がいますよ。下皿のメダル少ないからあるの気が付きませんでした」

「何だよ、先に言えよ打ってた奴にどやされるぞ」

「すみません、他探しましょう」

「行こうぜ」

二人は残念そうに台の前を離れた。ベースボールキャップは両手を振って皮ジャンの後ろについていった。


◇ ◇ ◇  


タカシ、さっきまでいたのに。

島を横切っていったあの姿は、たしかにタカシのはずだった。昨日ホールで目が合ってしまったときは……まともに話せなかった。別に口論をしたわけでもない。ホールで会ったこと、お互いがホールで出会ったこともありえない話でもない。数週間前まではいっしょに打ちに来ることもあった。私は横に座っているか、タカシに聞かれたことに答えていただけだったが。

最初に連れて来られた時は、大人専用の遊戯施設くらいにしか感じなかった。ゲームセンターの延長、メダルゲームのコーナーのようなもの。自分が打つつもりが最初から無かったこともあるが、ビジター、お客様の気持ちだった。

ここ数日、光一に出会って変わった。知ったのだ。ホールやそこにいる人間を見て、本当の姿を知ったのだ。そして思い知った。身銭を切って瞬く間に溶かし、胸が燃えるように焼きついた。頭が泥の渦に巻き込まれるかのごとく揺れ、己が立っている場所が分からなくなった。今までの人生で経験したことの無いような絶望感だった。だが、光が差した。自らが神に選ばれたかのごとく幸運に恵まれ、全人類の頂点に立ったかのような勝利と恍惚がめぐり続ける終わりなき時間。やはり、今まで生きてきて感じたことの無い気持ちよさ。人間という生き物がここまで快感を受容できる生き物だったなんて。そして、浅はかな生き物を大波で翻弄する天国と地獄、その縁で生きる道を探る暗闇の中でぎらついた目を鈍く光らせる狩人たち。彼らの存在が、この世界に引きつけられる愚かな人間達の目を覚まさせない使者のように見える。それは天使か、悪魔か。

だから分かったこともある。タカシはきっと知っていたのだ。ここがそういう場所だということを。タカシは最初から決めていたのだ。私をこの世界の中まで巻き込まないことを。

昨日、二人で言葉を交わしたときは自分の気持ちが浮ついていたのだろうか、まともな言葉を返せなかった。

「お前、打ってるのか」

「いいでしょ、私が打ちたいと思って打ってるんだから」

「分かってるのか?」

「何を?」

「やめとけ。お前には向いてない」

「何言ってるのよ、私をさんざん店に連れてきておいて今さら」

「お前には打たせなかったし打たせる気もなかった」

「それが……イヤだったんだよ」

それが気に入らなかった。私だけ仲間はずれ、私だけお呼ばれの招待客。

それも分かる。でも、私の気持ちもある。知ってしまったのだから。気付いてしまったのだから。今日は伝えたい。昨日は言えなかったけど、タカシにはっきりと伝えたい。

フロアを早足で歩き回ったが、タカシの姿は見当たらなかった。きっと今日は下見の日なのだろう。前もよく言っていた。勝負になるときしか打たない、それ以外は分析して、流れを見て、限られた時間を有効に使うと。もしすでにホールを出てしまっていたのならば、街中ではもう見つけることもできない。今度のゼミの日、研究室に寄ってしっかりと話をしよう。私が決めた覚悟を。

今はなすべきことをしよう。先程まで打っていた席に戻り、台の前に腰を下ろした。モロミさんの胸がボーナスを引き当て、さすがに次のRT間ではボーナスを引かず通常時に戻って数ゲームが経過した状態だった。もう少しで満杯になる下皿からコインを手に取り、投入口に右手を差し出した。その時、違和感に気付いた。

「何、これ?」

思わず口にしたキャスは、投入口をふさぐようにプラスチックの小さいプレートが差し込まれている。何だろう、打ち止めのサインとか、お店のサービスとかの仕掛けだろうか。こういう時は……そうだ。キャスは、頭上の呼び出しランプを迷わずに押して点灯させた。


「んでさ、そのじいちゃんが白目むいて逝きかけてるわけよ」

「うっそ、イヤだ~」

「おじいちゃんって反応が新鮮でかわいいですよね」

「げっ、老け専!?」

「光一さん、エロモード全開じゃん」

「じゃあさ、俺なんかも全然射程圏内だったりして」

「撃ち殺しますわよ」

「うっは直球、こわっ」

交換カウンターでは光一とカウンター嬢、巡回を終えて次のイベントまで待機しているモロミが会話を続けていた。

「モロミさんいいですよ、こんなパチンコ屋でうだ巻いてるおじさん撃ち殺したほうがエコですよ、日本のためですよ」

「まあ日本経済や地球環境に貢献してないことは認めてやってもいいが、それ客に向かって言うセリフか?」

「いーえー、お客様は神様……ん?」

「どしたん?」

「どうしました?」

カウンター嬢が耳のインカムに手を当てた。店員間で情報をやり取りする無線で何かが話されているらしい。聞いている時間が長い。ちょっとした通常連絡ならすぐに終わるはずだ。

光一は周囲に目を向けた。すると他の店員も同じように手を止めてインカムからの無線を聞いている。様子がおかしい。

モロミはイベントガールとして来店しているだけなので、インカムは付けていない。だが、ただならぬ様子は同じ職場の者として感じているようだ。営業用のスマイルが消え、光一と同じく周囲に気を配らせている。

やがて連絡が終わったのか、カウンター嬢は耳のインカムから手を離した。

「……何かあった? っていうか聞いていいことなのかな」

「差し支えなければ私にも」

「うーんモロミさんはいいけど、タダの入りびたってるオッサンはなー」

「お前、さっき神様って言いかけてなかったか?」

「冗談ですよ。でも言いふらさないでくださいね」

「もちろん」

「はい、必ず」

カウンター嬢は二人を近くに招き寄せて声を潜めて話し始めた。

「ゴトですよ、ゴト」

「ほー」

「今の時代に? 裏ROMとか」

光一はともかく、モロミも特段の驚きは表情に出さなかった。

「結構モロミちゃんも知ってるねえ。表出てないだけで今でもあるぜ。むしろ現代のほうが原始的だったりしてな。パチだけど下からソレノイドと差し込んでアタッカー開けるとか、人で囲んで合鍵で台開けるとか。大陸系の人たちが大胆にかましてくれたりする」

「でも騒ぎになってないですね」

「そうだな、囲まれてボコられたりとか、逃げ出して大捕り物とかあってもよさそうなんだが」

「もう捕まったみたいです」

「へ?」

光一は間の抜けた顔をして、しかもそれを隠そうともしなかった。

「お客様が店員を呼んで『メダルがうまく入らない』と言っているので調べたらクレマンを使ってたみたいで」

「それは……アホだな」

「クレマンって?」

「ああ、そこまでは知らないか。種類はいろいろあるけど、まあ機械にプラスチックのプレートみたいなの差し込んで操作すると、一瞬でクレジットが満タンになるんだわ」

「お詳しいんですね。そこまでは兄からも聞いたことは……」

「お兄さん?」

「え? ああ、兄も似たような仕事を」

モロミは今までに無い照れくさそうな表情を見せた。

「ふーん。ま、いっか。最近、台のレバーとかメダル投入口に不自然なプロテクトカバーみたいなの付いてるの見ないか?」

「ああ見たことあります。お客さんが打ちにくいって文句を……光一さん、よく知ってますねそんなこと」

「蛇の道は、ってな」

「お詳しいんですね」

「うわ二回言った。この仕事長いと、打ち手側にもそんな話は流れてくるんだよ」

説明する光一をじっとりとした眼で見つめるモロミの元に、慌てた様子で一人の男が駆け寄ってきた。ホールの店員とは異なる雰囲気のスーツを着た男だった。

「モロミちゃん、モロミちゃん! 大変よ、さっきバックヤードに捕まったゴト師が!」

「マネージャー、ホールでそんな大声で! もう話は聞いてます」

光一はモロミとマネージャーの間に遠慮なく入ってきた。

「それ、どんな奴? もうボコられてサツに突き出される感じ?」

「いや、そういう雰囲気ではないんですが大騒ぎと言えば大騒ぎで……」

「どういうことそれ?」

モロミが聞き返すと、マネージャーは答えづらそうに受付のカウンター嬢の方をちらちらと見やった。カウンター嬢はそんなやり取りは聞きもせず、インカムでのやり取りに集中していた。

『そんな、困りますよ。私そういうの苦手というか経験もないし……でも……他の店員とか婦警さんに来てもらうとか』

「?」

聞き耳を立てる光一。

「?」

キーワードに首をかしげるモロミ。

「……」

「……」

そして、ほぼ同時だった。

「ぬわっ!」

「まさか!?」

光一とモロミが駆け出して向かった先、ガンダムの台の2本のスロットルレバーに引っ掛けるようにドル箱が被され、電源も落とされている。頭上の札も取り外されそこに座っているはずの打ち手もいない。

「あっちゃー」

頭を抱える光一の方を振り向くと、モロミは眼を吊り上げて躊躇無く光一の襟首を掴み、一気に壁際まで叩きつけるかのように押し込んで顔を突きつけた。とてもハイヒールを履いてるとは思えない怒涛の一瞬だった。

「あんた、ゴト師の親玉だったの?」

「え? えーっ!?」

「あんな可愛い娘を手下に使うなんて、胡散臭いオヤジと思ったけど本当に悪者だったなんて」

「いや、悪者とか親玉とかってそんなVシネじゃないんだから」

「突き出す、絶対に許さないんだから。キャスちゃん騙されてるのよ、うん。優しい顔してさんざん利用して薬漬けにして大陸に売り飛ばすんだわ。今までもそうやってホールに来た若い女の子たぶらかして、汚い金じゃぶじゃぶ溜め込んでるんでしょ」

握りつぶされ皺の寄ったシャツを気にもせず、モロミは拳をぐいぐい顎に押し付けてきた。

「その想像力たるやコンパニオンの範疇を越えて感服に値するけど、お嬢さんちょっと勘違いしてるような……あと、なかなか腕力もお持ちのようで」

「黙って付いてきなさい。女の敵は私の敵よ」

「はあ……まあいいか、その方が話早そうだし」

光一はモロミに半ば連行されるかのようにして、スタッフオンリーの出入口へと歩いていった。


◇ ◇ ◇  


「タカシさん!」

店の外でメガネを気にしながら携帯電話を操作する痩身の若い男は、声を掛けられてもその手を止めなかった。

「タカシさん、来てたんですか」

黒いパンク風の皮ジャンを着た男と、ベースボールキャップの太った男の二人連れが近寄ってきた。

「ああ、下見」

タカシは関心無さそうに生返事で携帯電話の液晶画面を見続けていた。

「相変わらず素っ気無いんだからタカシさんは。明日は連れ打ちアリっすか?」

「今日はもう全然ダメですっ。熱いと思ったイベントがガセで、ノーマークだったこっちの店のパニオンイベの方が実は設定入れてたみたいです……」

二人はすがるような、そして餌を求める空腹な野良犬のように鈍く濁った眼でタカシの様子をうかがっていた。

「不規則な来店系イベントは店のスタンスが読めない。ここ数ヶ月客入りが寂しい中で出玉を見せに力を入れそうな気配はあったが、それだけでは大勢を動かすほどの根拠も薄く、機種の絞り込みもできない」

「何っすかそれ、そこまで分かってたならノリじゃなくても教えてくれたっていいじゃないっすか」

「そうですよ、ピンで攻めるのは自由だったはずですっ」

「俺、お前達とそこまでする仲か?」

初めて二人に向けたタカシの視線は、そうするのですら無駄と言いたげな無感情なものだった。通り過ぎる誰かが視野に入ってきた、冷徹ささえ感じない関心の無さそうな態度だった。

だが、二人はそんなタカシに対して反抗するそぶりも見せず、相好を崩そうとしない。金と欲にフィルタリングされた心は、人としての繊細な感度を失わせる。

「まあまあ、タカシさん。俺らだって遊びでやってるわけじゃないんですよ。今後のことも考えて、なあ?」

「ええ、ライバルは少ない方がいいですからっ。稼げなくてもやれることはやる、使える男なんですよ僕らはっ」

ベースボールキャップは、塩を吹いた帽子からにじみ出る汗をハンカチで拭きながら得意げにパンク男と眼を合わせた。

「自分で自分を使えるという輩ほど……何をしたんだ?」

タカシが初めて興味を持った態度を示したことで、二人は我が意を得たと言わんがばかりに嬉しそうに話し始めた。

「昨日、新台のバイオでバカ出ししてたタカシさんの元カノですよ。初めはどっかのおっさんが打ってたのに止めて入れ替わったら途端に閉店まで出しっ放しだった」

「あの女子、タカシさんとつるまなくなって姿見かけないと思ったら、いつのまにか一人でホールに出入りするようになって今日も!」

「そうそう、ちゃっかり札台に座ってたから、なあ」

「ええ、適当に座って高設定食い荒らされては迷惑ですから、ここは罰を与えて差し上げようかと」

ベースボールキャップは実に自慢げに語った。上司に対して手柄を誉められるのを今かと待つゴマすりサラリーマン、教育ママに百点満点のテストを見せた瞬間の坊ちゃん小学生、ゴムボールをくわえて飼い主の前に戻ってきた駄犬、今の彼にふさわしい形容は何だろうか。

「何をしたんだ、貴様ら?」

タカシは携帯電話を閉じ、左手でメガネを外すと胸ポケットから丁寧にメガネケースを取り出した。


バックヤードと呼んでも単純な構造ではない。男女に分かれる従業員の更衣室、そして休憩や打ち合わせができるスペースは、スタッフオンリーと呼ばれてはいるが普通の施錠ができるドアで隔てられているに過ぎない。だが、その先は違う。管理職クラスの社員だけが持つカードキーの警備システムが設置された扉。そこには俗に言うホールコンピューターや、警備カメラシステム、マネージャー室などがある。

(はたしてキャスはどこで……)

観念してキャンペーンで来店しただけのはずのモロミに連行されたのは、バックヤードに入ってすぐの部屋、清掃道具が隅に置かれ、スタッフの出勤管理表やホワイトボードのカレンダーが壁に掛けられた従業員のパブリックスペースのようだった。

「あら、コーさんどうしたのこんな所で? どうせ何か悪いことしたんでしょ?」

女子更衣室から一人、これから勤務に入るであろう女性スタッフが出てきた。どちらかと言えばベテランに差し掛かった三十代くらいに見える綺麗な体のラインをした美女だった。

「うわー、なんでそうなっちゃうのかなー」

「この前だってお客さんの休憩スペースで長椅子占拠して寝こけてたから注意されてたじゃない?」

「ああ、あれはホントに眠くてね。気付いたらああなっちゃってたんだ」

椅子に座らされた光一の横には、見張るようにして立ったまま動かないモロミがいる。

「ずいぶん馴れ馴れしいじゃない」

モロミは光一にだけ聞こえる声でつぶやいた。

「お店の人とは仲良くするのが俺の主義でね」

「分かった! セクハラでしょ、そこのコンパニオンさんに。もういつも言ってるでしょ、言葉はセーフでタッチはアウト、最近の若い女の子はどっちもアウトだって」

女性スタッフはまるで深刻さを感じさせない明るい口調で言い放った。

「してない、してない。セクハラは和美さんだけって決めてるから」

「ごめんねコンパニオンさん。うちの店こんなギャンブル好きとか女好きとか酒好きとか、ろくなもんじゃないおっさんばっかでさ。あ、そんなことこの仕事してるから知ってるか。ま、許してあげてよ、悪い奴じゃないからさ」

「ふーん、セクハラしてるんだ」

(なんだかもう、セクハラで済むならそれでいいような気がしてきた……)

汚物を見るように眼下の光一を見下ろすモロミに、光一は深くため息をつきながらそう思わずにはいられなかった。

「ま、せいぜい絞られなさい……あら、マネージャー?」

女性スタッフが部屋を出ようとしたときに、奥の部屋からホールスタッフ用と異なる一般的なスーツを着た男性が現れた。二十台後半だろうか、光一から見ると英気溢れる若いビジネスマンそのものだ。しかし、その表情はどこか困ったような、トラブルにほとほと疲れ果てたような顔をしている。

「あの……この人がガンダムを打っていた女性のお客様のお連れの方ですが?」

「そうよ、キャスちゃんは何も悪くないのよ。この男が業界の裏を操る悪の大元締め」

「だんだん偉くなってるな、おい」

「とりあえずお話を伺いたいというか、お話できる状態にしたいのでこちらへ……」

すっかり犯罪者と警察官のような関係になっていた光一とモロミだったが、二人とも声を一つにして聞き返してしまった。

「状態?」


◇ ◇ ◇  


わだじ、わだじ、わだじぃ、わだじぃ、わだじい、わだじい! わだじい! わだじば! わだじば! わだじば! ! わだじば! !


ば、ば、ば、ば、ば、ば、ばるく、ばるく、ばるく、ばるくない、ばるくない! ばるくない!ばるくない! ばるくない! !


なにも、なにも、なにもじで、なじもじで、なにもじでええ!


「キャスちゃん……」

モロミは駆け寄ってキャスを抱きしめる。キャスはモロミの胸に顔を押し付けるが嗚咽は止まらない。

「おーい、ここは保育園じゃないぞー」

少し羨ましげにその様子を眺めながら光一はつぶやいた。


ヴぁあああああああ!!!!


「保育所でもないぞー」


だっでだっでだっでだっでだっでだでだでだで……だああああああああああ! !


「何か継続するのか確定するのか分からん演出のようだな、オイ」

大騒ぎ、というには一方的だった。マネージャーは途方にくれた様子で両手を広げて見せた。

「話を聞きたい、ということでお呼びしただけなんですけどね……お知り合いの方ですか?」

「まあ、そんなところなんだけど……。ただなー、ゴトとかできる玉じゃないんだけどね、この娘さんは」

光一がそう話すと、キャスを抱きしめたままモロミがきっと睨みつけてきた。

「大陸の人間使って地域を変えては仕込みゴトしているくせに!」

「どこが大陸だよオイ! つうか半端にリアルな妄想をこの状況で垂れ流すな!」

「大陸ですか、それはスケールが大きいですね……」

「店を預かるマネージャークラスのあんたも真に受けるなよっ! どうにかならんかな本当に……」

光一はあきらめ気味に近くの椅子に座ると胸ポケットからタバコを取り出した。

「いい?」

「どうぞ、ここはパチ屋、今のご時世で数少ないスモーカーパラダイスですよ」

そう言うとマネージャーは別の机に置かれていた灰皿を手に取って光一の前に置いた。キャスもモロミの体温を肌で感じて、知っている人間が来てくれたこともあり少しずつ落ち着いてきたようだった。モロミに促されて机に添えられた椅子とは別に室内に置かれたソファーに腰掛ける。モロミは横に座ってキャスの肩を抱えながら頭を撫でていた。

「うーんと ―― すんません、先にお店の方から何があったか聞かせてもらっていいですか?」

光一は少し先程までとはトーンが異なる口調で話し始めた。マネージャーは頷くと、光一の対面の椅子に座り、机に手を置いた。特に取り乱す様子も無く、問答無用で警察に突き出す気も、痛い目に合わせて出禁にする気もないらしい。まだ三十代に見えるが腰の据わった管理職の感がある。

「悪いね、あんたに何の得があるわけでもないのに」

「いえ、お客様あっての我々ですから」

「言うねー」

「失礼ですね、本心ですよ。トラブルの先にはえてしてチャンスがあるものです」

そこまでで光一とのキャッチボールを止めると、マネージャーは淡々と語り始めた。


コンパニオン来店イベントで、平日ながらそこそこの稼動が見られる店内。カウンターもホール担当も忙しく、設定発表した台も出玉が伴い始めておおよそ想定どおりの動きを見せているホール。マネージャーはホールコンピューターを管理しながら店内カメラでその様子を眺めていた。

そんな最中、呼び出しランプを付けた女性の台に店員が近づく。すると女性は、店員に話しかけてメダル投入口を指差す。ホッパーエラーでは無さそうなので、セレクターエラーかメダル詰まりだろうか。特に大きなトラブルとは思えず他のカメラ映像に目を向けようとすると、インカムからの内線が掛かった。

『緊急お願いします』

『こちら管理室どうぞ。現況送ってください』

『372番台、呼び出しでお客様アリです』

『ほい、見えてるよ。フロアのホール担当で空いてる人、出入り口立ってくれる?』

インカムは基本的にすべての店員が装着して会話を聞き、自ら話すことができる

『了解しました』

『了解です』

『階段、トイレ、自動ドア塞ぎました』

複数の返答を確認してマネージャーは続けた。

『ほーい、ありがとね。372番台、詳細送って』

『それが……』

『何だよ、緊急って言ってたじゃない』

『お客様が……「これは何ですか?」ってメダル投入口に差さったクレマンを思いっきり見せ付けてくるんですが』

『ぶっ』

『はぁ?』

『マジっすか!?』

思わず声を上げた店員たち。

『……ねえ、その人、カメラから見る限り若い女性に見えるけど、どう?』

『はい、無邪気に「直して欲しい」と相談されまして』

マネージャーはインカムを一度外してマイクを手で握って音声を抑えると、近くの電話機に手を掛けた。しかし、少し躊躇して後に手を戻してインカムを装着し直す。

『えっとね「機械を点検する」って言って、こっちに来て待ってもらうように丁重に伝えてもらえるかな』

『は、はぁ』


「ということで、これについて話をお聞きしましたら……」

マネージャーは話を一通り終えて軽いため息をつくと、スーツの胸ポケットからハンカチを取り出し、机に置かれた茶封筒から30センチメートルほどの長さの白いプラスチックを取り出した。微妙に湾曲した細長い板状の形をして、片方の端には押さえとなるストッパーが付き、もう片方の端にはコネクター上の端子が付いている。

「へー、クレマンってこうなってるんだ。実物は初めてみたけど」

「嘘つき、フィッシングとかワンクリック詐欺を利用して、裏サイトでさんざん売り捌いてるくせに」

まだ疑いの視線でモロミが光一に詰め寄る。

「ここまで来ると逆に尊敬するよ……俺は世の中で言うジグマだぜ。ここら辺で長い間食わせてもらってるんだ。ゴトってのは何のどんなタイプにしたって一所でやるもんじゃないの」

「やっぱり詳しいし」

「だからもう……助けてよマネージャーさん」

そう言う光一の目は、もう分かってるだろ? という懇願の意図が含まれていた。その眼光のパスを受け取ったマネージャーは、わずかに笑みを携えて口を開いた。

「すべては推測ですが、状況証拠は限りなく完璧に残ってましてね」

「俺はシロだよ、人生は灰色だけどな。キャスは真っ白、純白すぎてむしろ扱いに困るって……ん?」

互いの確信と種明かしを続けようとした会話をさえぎるように、光一のズボンのポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴り始めた。時間があれば友達や彼氏彼女と話したい若者でも無ければ、一分一秒に追われるビジネスマンでも無い。めったに掛かってくる携帯電話ではなかった。

「悪い、出させてもらうよ」

光一は携帯電話を手に取ると液晶画面を一度見つめてからすぐにボタンを押して耳に当てた。

「どしたの? 珍しいじゃない」

フランクな語りで話し始める光一。マネージャーとモロミ、そしてまだグズりながらも黙って話を聞いていたキャスは携帯で話す光一を見守っていた。すると光一の話すトーンが少し高くなる。

「そんでどうしたの? やるねー、そして大当りだよ渡辺ちゃん」

モロミが一瞬だけピクンと反応する。

「どうしよっかな……弘樹って、頭取りとかで顔知れてる? あ、もうこっちのこと知ってるんだよな。じゃあ、来てもらった方が話早いわ」

光一は話しながらマネージャーを見つめていた。限られたキーワードで、関係の無い話ではないことをマネージャーも分かっているようだった。

「大丈夫なの、渡辺ちゃん自体は? そう、分かったわ準備しとく、っつうかしてもらうようお願いしとくわ」

光一は携帯電話を切ると、キャスに向かってニンマリ笑って見せた。キャスは涙で溶けたマスカラで黒くした目元を隠している。

「光一さん……」

「未来明るいはずの青年期に鉄火場に出入りする若人なんてろくなもんじゃ無いって思ったけど、案外骨のある奴もいるんだな」

「?」

キャスは勿体ぶって会話の中身を話さない光一にただ疑問の視線を向けるだけだった。

「マネージャーさん、悪いんだけど救急箱用意してくんないかな。あとさ、話通してくれると有り難いんだけど」

光一はマネージャーに耳打ちすると、マネージャーは納得した様子で店内用のインカムを装着した。


◇ ◇ ◇  


ゴールデン6のホール主任、渡辺は非番の日にも関わらず新橋のホール界隈を歩いていた。独身で彼女も無し、特に親しく遊ぶ友人がいるわけでもなし。力を入れている趣味も無く、連休でもないたった一日の休日で遠出する気にもなれない。かと言って面白みの無い日々ということも無く、仕事を中心とした生活は刺激もあり充実感を覚える。異性は……学生の頃に恋愛じみたこともしたが、働き始めてからは縁が無い。

「今日は通常営業の店しか無いか。約束の時間にはまだ……」

時折仕事の日の休憩時間などに立ち寄るオープンテラスのある喫茶店に入ると、なすことも無く流れゆく街の風景を眺めていた。フレームレスの眼鏡に手を当て、黒のスラックスに包まれた細長い脚を交差し直す。白のカラー付きのシャツはノータイで襟元を広げ、シルバーのチョーカーが垣間見える。

注文を取りに来たウェイトレスは、半ば常連である渡辺に気がある素振りを見せていたが、渡辺はあえて気に留めず今日の過ごし方を考えていた。

「仕事姿を見られるのはイヤだと言っていたけど」

そして注文したエスプレッソを残したまま店を出る。仕事が嫌いなわけではないが、ふだん仕事場にしている街をあてどもなく歩くというのは、奇妙な新鮮さと悪さをしているわけでもないのに微妙な罪悪感が生まれる。目的地をとりあえず見定めておこうとゆっくりと歩みを進めてしばらくしてからだった。平日のビジネス街には相応しくない喧騒がわずかに聞こえてきた。

「裏路地のコインパーキングあたり?」

すれ違う人が背後を見ながら怪訝そうな顔をして足早に離れていく。間もなくたどり着いた先には、三人の男が立っていた。一人が二人と対面して、一触即発の雰囲気を醸し出している。そして、渡辺は三人ともそれが誰かを知っていた。お客様の顔はそう簡単に忘れない。ここはすぐ近くに一件のホールがあり、渡辺も向かおうとしているところだった。少し考えて後、渡辺は近くに駐車されているハイエースの陰に隠れて、繰り広げられている口論のに耳を傾けていた。


◇ ◇ ◇  


「……という訳で、今のホールってのは台ごとの大当り回数や差枚数は全部コンピューターで把握してるんだ。本来の挙動と異なる出方をしていれば大概はすぐに気付く」

「詳しくは言えませんが、お客様がおそらく考えている以上にいろんなデータが分かるようになっているんですよ」

スタッフルーム奥のマネージャー室ではパチスロ基礎講座が広げられていた。

「じゃあ誰がどれくらい勝ってるとか、あの人は強運の持ち主だとか、あの人はいつも負けているとかも?」

キャスも落ち着きを取り戻し、自分が疑われているわけではないと分かると会話に参加していた。モロミはまだ光一に対する疑いを払拭したわけではなかったが、マネージャーからコンパニオンの仕事に戻って欲しいと告げられ、

「キャスちゃんの身に何かあったら、ケツにレバー玉突っ込んで前と後ろからアメリカンクラッカー三連星状態で乱れ打つまで蹴り上げてやるわよ!」

と想像力豊かな拷問法を披露してホール内に戻っていった。

「人となるとカメラで分かる範囲ですけどね。まあこちらも人間ですから、常連さんの顔は覚えますし、プロか暇つぶしか素人か、そしてゴト師かなんてのはたいがい見当が付きます」

マネージャーは店員に持ってこさせた缶コーヒーに口をつけながら優しくキャスに説明してあげていた。

「これってさ、メダル投入口に差すんだろ。これの対策で防止カバーが最近付いてる台ってKPEの台じゃなかったっけ?」

「ん……そうらしいですね」

光一の振りに対して、すべてを曝すわけではないとでも風にマネージャーは言葉を留めた。

「山佐じゃないよな。その時点ですでに間違ってるわけで、悪意があったとしても素人だな」

「何を話してるの?」

キャスは光一とマネージャーとの会話についていけずキョトンとしていた。

「お前さんは悪くないって話だよ」

「だってそうだよ。何もしてないもん」

マネージャー室の内線電話が鳴った。間を置かず受話器を取ると、マネージャーは何かしらの報告を受けているようで数回うなずいく。やがて電話を終わらせて光一とキャスの元に戻った。

「裏が取れましたよ。台の差枚数誤差は微小、ホッパーとサンドのメダルをすべて取り出して検分しましたが他店メダルは数枚のみです」

「つまり?」

「実害はゼロってことだよ。ま、窃盗は無いにしても、道具ぶっ刺した時点で器物損壊は残るんじゃないの?」

「その気になれば、ですがね。いかがしますか? 先程の件、まだ見えないようですがお引取りいただいても大丈夫ですよ。店内カメラで大体の目星も付きましたから。もうお客様をお引き止めする店側の理由は何もありません」

マネージャーは席を立つと、キャスに向かって深く頭を下げた。

「このたびは誠に申し訳ありませんでした。ご協力いただき感謝いたします」

「いえ、あの、そんなつもりじゃないと言うか、分かってもらえれば、というか……」

改まって極端なまでの丁重なお詫びに恐縮するキャスは、同じように起立してお辞儀をした。一方、光一は座ったままだった。

再び、マネージャー室の電話が鳴った。


◇ ◇ ◇  


「タカシさん、あんた正気か?」

皮ジャンの男は、コインパーキングにまで連れてこられて告げられたタカシの言葉に反発した。

「正気じゃないのはお前らだ。自分がやったことの意味分かってんのか?」

「分かってますよ、あの女が捕まってひどい目に会って、ここら辺はもう出入りできなくなるんです。僕たちはああいうぽっと出の勘違いしたプロまがいの迷惑を受けずに済むということです」

ベースボールキャップの男も、皮ジャンに同調する。

「あんたの元カノだろ? 勝手にここら辺ウロウロしてて面倒臭いのを追い払ってやろうとしただけじゃねえか」

「前々からバカだとは思ってたが、パチスロ打つのだけはまともだから連れでやってたけどな……」

タカシはメガネ越しに感情を伴った眼光で彼らを睨み付けた。

「おい、ちょっと待てよ。その上から目線はなんだよ」

「ぼ、僕たち、立場は同等で稼ぎも均等割りだったじゃないですか。タカシさんは参謀役だから打たない時でも割を受け取っていただけですよね」

「ああ、悪かったよ。俺がバカだった。お前らみたいなのを使った俺が大バカだったよ。せめて人間並みの品性を持った奴らと組むべきだった」

「てめえ、さんざん人を利用しておいて!」

皮ジャンが声を荒げてタカシに詰め寄った。だが、タカシは怯むことなく見下げるような冷たい視線を投げ返した。

「下見して設定師のクセ見抜いて、週・月・年単位での店の収支都合を想定しながら勝負する日と場所を絞り、限りなく勝てる確率を高める。理論的にぎりぎりまで可能性を高めて残された数パーセントだけ技術と運で勝負する。お前らはその数パーセントであり、実行者が多ければ期待収支も大きくなる。そういう打つだけの役割の人間と、根本的な勝率の左右を握る人間の違いが分からないのか? それでもお前らのモチベーションや依存性を考慮して、俺の取り分はあえてお前らと同じにしてきた。しょせん趣味レベルの金額だしな」

「趣味レベルって、こっちは今月だってヤベえんだよ。サラ金の枠も使い切っちまったし」

「ぼ、ぼくもお小遣いお父さんに前借して……」

「今まで月間ベースで収支がマイナスになったことは一度も無かったはずだが。お前らの感情に任せた無駄打ちまで尻拭いする義務は無い。自己管理のできない人間は、とことんまで落ちていく。水も、人も、低きに流れるってな」

冷静さの中に怒気を含んだタカシの言葉に、彼らを許す選択は無かった。そして、必然的にそれを受けた二人にも中間的な妥協や落し所は見つけられない。

「店に自首なんて今さらそんなことできるわけ無いっての」

「一線越えたんだよ、お前らは。ゴト打つってのはそういうことなんだ」

「じ、自分の付き合ってた女だったから未練あるんですよ、どうせ。いやらしいよな、これだからリア充は。タカシさんには失望しました。僕たちの側にいる人だと思ったのに……」

ベースボールキャップも彼なりに敵対心を表に出す。

「たかが悪戯みたいなもんじゃねえか。おしまいだよ、あんたとはもう組んでられねえ。サヨナラだ」

「逃げるな」

タカシは、その場を離れようとした皮ジャンの肩に手を掛けた。

「あー、そっちこそ一線越えちゃったね、タカシさん」

「っつ!」

皮ジャンはタカシの行動を予見していたかのように肩に乗せられた手を強く掴み、ベースボールキャップに向けて叫んだ。

「おい、しがみついて離すな。こっちは二人だ、どうってことねえ」

「わ、わ、分かったよ。俺できるよ、ぜったいできるよ」

ベースボールキャップは、まともに前も見ないでタカシに向かって両手を広げて突っ込んできた。転げ込むように低い姿勢で掴みかかる姿勢は、結果的にアマレスのタックルのように下半身へと向かった。

「お前ら!」

叫んだ時にはマグレのような低空タックルが決まり、タカシはアスファルトに腰を打ち付けられていた。そして、決して身体能力に優れては見えないベースボールキャップも体重だけはタカシをはるかに上回る。

「うわあああああ! 離さないぞ、は、離さないぞ!」

ただ叫んで上に乗っているだけだったが、タカシは体躯の自由を奪うのには十分だった。

「アタマだけじゃね、世の中やってけないんですよ……このインテリ小僧が!」

皮ジャンの拳がタカシの視野に迫り、一瞬のホワイトアウト。そして骨に響く濁った打撃音と鈍痛がタカシの顔面に響き、続けて地面に叩き付けられた後頭部に激痛が走った。

「死んじゃう? いっそ死んじゃいます?」

パンチを一発打ち下ろしたあとは、タカシを見下ろしたまま無造作に靴の爪先をこめかみに打ち付けてきた。タカシの顔からメガネが弾け飛ぶ。軽く小突く程度に見える蹴りも、喰らう側にとっては一方的に体を傷つけられる精神的な圧力が押し寄せてくる。

「どうした? 声も出ないか、勝率10割の作戦参謀さんよ」

蹴りの軌道を大きくして、攻撃対象を腹部へと移す。すると押さえつけていたベースボールキャップにも蹴りが当った。

「って、痛いよ! 当ってるって。痛いよ、すごく痛いよ!」

「わりーわりー、もう終わらせるから。これがまさに打ち止めって奴? ぜんぜん出玉ねえけどな」

皮ジャンは腰に下げていた鎖を手に取った。財布を取り外し、鎖を拳に巻きつける。

「……許さないぞ……お前ら……」

顔面の皮膚は擦れ破け、口から胃液と血が混じったような液体を垂らしながら啖呵を切るタカシだった。

「台詞が違うよタカシさん。『許してください』だろ」

皮ジャンは鎖のメリケンサックを振り上げた。そして、その拳はタカシの鼻先に……は届かなかった。

「お客さん、揉め事は困ります。まずは話し合いましょうよ」

そう言って皮ジャンの手首を掴むと、その痩身からは予想し得ない力で皮ジャンの体を引き起こす男が、横たわり空を見上げるタカシの視野に現れた。そして、それを最後にタカシの目に写る映像は再びホワイトアウトしていった。


◇ ◇ ◇  


もう五年だろうか。和美がこのホールでパートを始めたのは、子供が全寮制の私立中学に進学して自分の時間は増えたが家計は苦しくなった、というのが理由だった。若い頃は体育会で陸上部に入っていたが、子育てですっかり外に出ることも少なくなっていた。そこで見つけたのがこの仕事。平日の昼間で時給も良く、働いてみたら意外に居心地がいい。働く仲間達のほとんどは自分より年下の若い子ばかり。挨拶して運んで掃除して、とにかく体を動かすホール勤務は自分に合っていた。激務ゆえに働き手の出入りが激しい職場だったが、気付けばマネージャークラスを除けば最古参、社員もグループ内をローテーションされることが多く実質的なこの店の最多勤務年数記録者になっていた。

思えばいろんなことがあった。パチンコのドル箱をぶちまけた客が、その玉で滑って転ぶという都市伝説的瞬間を本当に目撃できた。イベント日に予想外の出玉を記録してしまった次の日、店長が失踪した。今もその店長は行方不明のままだ。

その筋の方、というか明らかに本職のシノギを削る方が来店されたことがあった。若い女性店員が絡まれていたので、怖かったが、いや非常に怖かったが「ここはそういうお店ではありません。そんなに溜まっているなら私で我慢しなさい。お触りは一日一回まで」と諭した。さすがに本当に手を出すことは無いだろうという目算もあったが、なぜか気に入られてしまい今では普通の常連客となっている。強いて困ったことがあるとすれば「俺の情婦にならないか」とよく口説かれることだろうか。そっち方面で姐さんデビューする気はない。

とにかく、この仕事は刺激にあふれる毎日だった。

が。

今、目の前にする光景は三十年ほど人生を過ごしてきて初めてだった。

副マネージャーに突然呼び出されて、裏手にある従業員出入り口に向かった。

そこに立っていたのは、顔面から血を流して服もボロボロに破けた男を背負う、長身のメガネの男性だった。

私服だったのですぐには分からなかったが、よく見るとこの男の子は店に頭取りに来るゴールデン6のイケメン君だった。

「とにかく入って」

「駄目です」

「じゃあ何しにきたの!」

「この子を中に」

「あなたが連れてきたんでしょ!」

「僕がこの敷居を跨ぐことはできません」

「私に運べっていうの?」

「あなたならできます」

「何を根拠に!?」

「客がドン引きするくらいにドル箱を運びまくる姿、いつも見ていますから」

「誉めてるの? けなしてるの?」

「特にそのカモシカのような足首からの脚線美が素晴らしい」

「頭取りに来て店員の脚見てんのか!」

「男性は歳を経るごとに、女性の体の部位に対する嗜好が上部から下部へと移行すると言われています」

「だとしたらあなたは相当な上級者ね」

「まだ爪先の境地には至ってません」

「私の爪先はすごいわよ」

「いま拝見できないのが人生最大の痛恨の極みです」

「そんなこと言うと……惚れるわよ」

「こちらこそ」

「分かったわ、その子を貸して。ほら、背中に」

良き主婦、良き店員を演じ続けてきた三十過ぎの女・和美に不倫フラグが立った瞬間だった。


◇ ◇ ◇  



マネージャー室に現れたのは、女性店員に担がれて気を失っているタカシ。


またたく間に血相を変えるキャス。


光一はタカシの身を預かりソファに横たえる。


マネージャーに何事かを話す女性店員。


光一がキャスの肩を強く掴み激しく揺さぶり声を掛けると、キャスの表情に生気が戻った。


キャスはソファーの前に座り込み、タカシの血と埃で汚れた顔を抱きしめたまま離さなかった。


キャスは自分の服の裾でこめかみにごびりついた固まった血を拭った。


女性店員が救急箱を持ち出して駆け寄る。


光一はマネージャーに声を掛けると、部屋を出て行った。



◇ ◇ ◇  


ホールに戻ると、店の様子は何ごとも無かったのように盛況だった。イベントに釣られてやって来た客が、他に出ている台があるにも関わらず何となく空台に座って打ち始めてしまう。そして空台が残りわずかの状態になった島では、すかさず「空台」札が差さり店内放送がかかる。差枚ではなく一時的なプラス出玉を強調すべく上げ底でドル箱タワーを作り上げる。がっつりヤラレて焦点が定まらない目付きで席を立つ客に、決して感情は含めない営業スマイルで明るく「いらっしゃいませ」と声をかけるホールスタッフ。

何も変わらない、えげつないほどに変わりなく金が吸いだされていくホールの風景だ。

さすがに色々あって、河岸は変えた方がいいだろうか。そう思いながら日頃の習性でフロアを一巡していく。素直にモロミが先程札を差して回った台が当りのようだ。他にも出している台も無くは無いが、程よく他にも設定が入っているように見えて、実はまぐれ当たりが点在しているだけのようだった。

そんな最中、レトロなファンファーレと共にデジタル回転を表現する効果音が聞こえてきた。スーパービンゴの大当り音だ。デジタル音が止まり数秒の静寂。知ってる奴なら、この世界が止まるわずかな時間にすべての念が込められていることは分かっている。

「フゥアフゥア!」

突如、男の雄叫びのような気合がかった音声が流れ、デジタル音が再始動した。

(キタねー)

チラ見くらいはいいだろう、と音の方向を見る。盤面には7が揃いデジタルセグ表示が『100』から『500』に移行する瞬間を目撃した光一は、何かに気付いた様子でその台に近づくと隣の席に座った。

『500』でデジタルは止まり、再び数秒の静寂。そして、

「フゥアフゥア!」

と『0.0.0.』へ。さらに「フゥアフゥア!」と『500』、いや次回フゥアフゥア確定の『501』へ。他の台を打つ客や、通り過ぎようとしていた客も、さすがにこの台を見つめ、足を止めるものも多かった。

「フゥアフゥア!」

今度はデジタルがさらに回転して、波打つように明るさが変化する『000』へ。隣に座った光一は、身を乗り出すようにしてその行方を凝視している。

「フゥアフゥア!」

もはや当たり前のように波打つ『555』へ。そして次の数秒後……

「ふぅあふぅあ!」

という隣りから叫ばれた生の人間の声をかき消し、豪華な鐘のチャイムが鳴り響きデジタル回転は終了した。

「なんだよー、3500枚まで持ってけよーここまで来たら」

「行儀が悪いですよ光一さん。それに光一さんの『フゥアフゥア』あんまり似てない」

「それにさ、もうちょい興奮して見せるとかさー。リアクション薄いよ、渡辺ちゃん」

スーパービンゴを派手に鳴かせていたのは渡辺だった。光一はサンドに千円札を突っ込み、隣りの同じくスーパービンゴを打ち始める。上部にカウンターの履歴を見ることもなく、サンドから吐き出されたメダルを左手から右手に移していく。右手の中でメダルを捏ねながら重ねを整え、再び右手に移して投入口に添えると流れるようにメダルを落としていく。

「── よく分かったな」

淡々と打ちながら光一は話し始めた。

「偶然ですよ。今日はこの店に来るつもりでしたので」

9枚役を軽快に揃えながら渡辺は答えた。

「店の近くの駐車場で、スロット絡みで口論しているお客様がいたんですよ。聞いてみるとゴトを仕掛けたような話をしている。新橋の店はすべて見て周った後でしたが、そんな事件が起こった気配は無かった。そこで弘樹さんにお邪魔したのですが」

「いつ頃来たの?」

「一見、いつもより賑やかなだけの様子に見えましたが、どうもホール店員もカウンターレディもみんな、インカムを気にして目が笑っていない。それで、うちにもよく来てくれている常連さんがいたので聞いてみたんですよ」

渡辺のスーパービンゴはもりもりと出玉を増やし、下皿がメダルで満たされていく。

「職業病だねー、非番の日くらい女と出掛けるとか無いの?」

「今日はそんな感じですよ。この後」

「おお、いいじゃない。それで、常連は何て言ってた?」

「ゴトで女の子が連れて行かれたと思ったら、続けてコーさんがしょっ引かれていった、と。前々から残念な方だとは思っていましたが、ついにボロが出たと納得しました」

「残念とか言うな。しかも真顔で言うな」

「冗談ですよ。それで話がつながりましてね。さっきの口論をしていた若者のいた駐車場に戻ったんです」

「そのタイミングで電話くれたの?」

光一はあっけなくメダルが飲まれ、二枚目の夏目漱石をサンドに奉納した。

「いえ、戻りましたら始まってました。しかも結構一方的にやられていましてね」

「タカシとかいう男?」

「勇敢なのは分かるのですが、無謀すぎる。それに相手の方も手馴れている風にも見えない。落しどころの無い喧嘩なんですよ」

「そりゃあ危ないわ」

「ええ。本業の方なら、追い払う、痛めつける、怪我をさせる、もしくは……といった感じで目的に沿ったやり方をされるのですが」

「お前、見たことあるの?」

「僕は平和主義で温厚な一般市民ですよ。以前にお客様から聞いたことがあるだけです」

「ふーん、どうだか……。それで?」

渡辺は打つ手を止めて左手でメガネの位置を直すと、笑みを浮かべて答えた。

「『話し合いましょう』と仲裁に入っただけです。スキンシップを深めることで、最後にはお相手の方も涙を流して理解してくださり、その場を立ち去ってくれました」

「痛めつけて口を割らせてから追い払ったわけね。怖えな、前も凄かったけど渡辺って何か格闘技とかスポーツとかやってたの?」

「秘密です」

「少しは教えろよな。お、モロミちゃん」

島端からコンパニオンのモロミが歩いてきた。籠を持っておしぼりを配っている。光一の姿に気付くとにこやかな笑顔のまま近付いてきた。そして丁寧におしぼりを袋から取り出して手渡すと、しなやかな手付きのまま光一の襟首を掴んでゆっくりと力強く握りしめて低音で囁いた。

「おい、キャスちゃんは無事だろうな」

「お、ご、が……だ、大丈夫、大丈夫よ。もう疑いは晴れたから。今は奥でお友達とお話しているところだから……離して、ね、離しましょう」

「ホントに?」

よりいっそう頚動脈の血液供給を押さえ込むように手を振るわせるモロミ。

「ほ、本当だから……あいつは嵌められただけで……あ、何か気持ちよく……」

「なら、いいけど」

キャスが手を離すと光一はスーパービンゴの台に突っ伏して咳き込んだ。

「うげっ、ごほっ……渡辺、お前の店でコンパニオン呼ぶ時はちゃんと女の子選ぶんだぞ……」

渡辺は何も答えなかった。打つ手を止めているのだろうか、台から流れる音楽も音量が下がっている。

「ん?」

光一が喉を押さえながら振り向くと、渡辺とモロミが顔を向かわせたまま黙っていた。渡辺はモロミを見つめているだけだったが、モロミは顔を手で覆い体をぷるぷると震わせている。光一は受け取ったおしぼりで顔を満遍なく拭き、最後にもう一度目元を拭いてから渡辺とモロミを見た。

「どったの?」

渡辺は左手をモロミに向けると口を開いた。

「妹の聡子です」

「イヤ―――ッ」

モロミは胸とスカートの裾をそれぞれの手で押さえて叫ぶ。

「見ちゃダメ―――っ!」

物凄い勢いで島通路を駆け抜けてバックヤードへ飛び込んでいった。

光一はおしぼりを手にしたまま、渡辺は左手を差し出したままだった。

「妹……さん?」

「ええ、コーさんはすでにお知り合いで?」

「まあ、今日初めて見かけて声掛けただけ……だけど」

「今日は妹と待ち合わせしていましてね。仕事が終わったら食事でもしようと約束してまして」

渡辺は左手を元に戻すと、スーパービンゴのクレジットボタンを長押しした。台からクレジットに溜まったメダルが払い出される。頭上からドル箱を取ると両足と下皿の縁で固定し、左手で下皿に溜まったメダルをかき入れ始めた。

「この台、お譲りします」

「え?」

「やっぱり妹は僕が仕事場に来るの嫌そうですし、どうやらそろそろ限界でして」

メダルを入れ終わったドル箱を左手に持って席を立つと、渡辺は何も持たない右手に目を向けた。

「限界って?」

「何だか、脱臼してるみたいです。僕も無理をしたみたいで」


◇ ◇ ◇  


駅の対面にある大型雑居ビル。その二階のおくてにひっそりと店を構える『七龍 中華式整体院』は珍しく盛況だった。

初めにやって来たのは恋人どうしか夫婦の二人連れに見えたが、話を聞くと兄妹だった。光一の紹介ということで何も聞かず院の中に入れたが、兄は右肩を亜脱臼していた。表情をほとんど変えないでいたが、相当な激痛のはずだ。劉が肩を入れ直してやった時にだけさすがに声を漏らしたが、徹頭徹尾、妹の前で平静を保っていた。妹の方はただただ兄が心配な様子で可愛らしい顔立ちだったが、ときおり見せる劉を見る目付きが厳しい。兄に何かをしでかしたらタダではおかない、とでも言いたげなきつい眼差しだった。さすがに治療を終えて固定するための包帯を巻き終わった後は礼儀正しく頭を下げてきたが。

「いい筋肉を付けているようじゃが……それでもなお無理な力をかけたようだな。一体何をしたのやら」

劉が何とは無しに尋ねると渡辺は答えた。

「人一人、いや一・五人分はありましたか。さすがに片手では初めてでした」

「何したのお兄ちゃん?」

「聡子は気にしなくていいよ」

コンパニオンのモロミこと渡辺聡子は、それ以上は聞くことができず兄の左手をそっと握るだけだった。


兄妹が去った後、次に院にやって来たのは光一とキャス、それにタカシだった。タカシは自力で歩けたが、包帯に包まれた頭をベレー帽のような形をした女物の帽子で隠していた。

「大丈夫だよ、劉先生は見るからに胡散臭いが腕は確かだ」

「いちいちこの男は一言多い」

奥に入るのをためらっているキャスとタカシを、光一は招き入れた。

「まずは見てもらえ。話はそれからだ」

タカシは黙って頷き、劉が待つ白いカーテンで仕切られた奥のベッドに向かった。待合室代わりに置かれたソファに、光一とキャスは座った。キャスの手には、先程までタカシに被らせていたキャスケットが握られている。

「……」

キャスはカーテンの向こうのタカシが気にかかり落ち着かない。光一は勝手知ったると言わんがばかりに、レジの近くに置かれた灰皿を手元に持ってきた。落ち着かないことに、代わりは無い。タバコで紛らわそうとしているだけだった。

「ここは整体院だが、劉先生は大体のことは面倒見てくれる。心配するな」

「……うん」

「外傷だけじゃなくて、頭とか内臓とかやってたらまずいからな。この場で治すことはできないだろうが、ヤバいかどうかは分かるそうだ」

光一はセブンスターに火を灯して最初の一息を大きく吸ってから天井に向かって煙を吐いた。奥からは劉の動きを指図する声と、タカシのうめき声のようなものがときおり聞こえてくる。間を持たせるような話をすることもできた。だが、光一もキャスもそれ以上は口を開かなかった。店の外からは、めったに通らない客をつかまえては呼び込むタイ式マッサージの女性達の声が聞こえてくる。ここに来る頃は昼を過ぎて夕方に差し掛かろうかという時間だった。キャスはまだ、ことの詳細までは分かっていない。ただ、キャスを庇うためにタカシが動いた結果だということだけは理解している。

どれくらい時が過ぎただろうか。奥のカーテンを開けて劉が出てきた。自分の肩に手を当てて揉みほぐし、首を曲げてポキポキ鳴らしている。

「おそらく大丈夫じゃろう……。心配だったら頭はCTスキャンでも受けるしかない。脳内出血が少しずつ進行していて突然バッタリ、というのも無くはないが。見る限り打撲と擦過傷がほとんど、頭だけ一箇所縫っておいたぞ」

単語だけ聞くと恐ろしくなりキャスは最初は顔を引きつらせたが、少しも動じることなく淡々と語る劉を見て心を落ち着けた。

「ちょいと買い出しに行ってくる。留守番頼んだぞ」

劉は、それ以上説明することはない、とばかりに無造作に自分の院から出て行ってしまった。客が来たらどうする、など言づても一切無し。光一は劉が去ったのを確かめると、ドアの取っ手に『休診中』の札を掛けて入り口を閉めた。

「いいの? そんなことして」

キャスは呆気に取られて尋ねたが、光一はくわえタバコのままうなずいた。

「外してくれたんだよ。訳アリなのは見え見えだからな」

「あ、そうなんだ……」

光一はソファから立ち上がるとカーテンへと歩みを進めた。キャスもあわててそれに続く。

「邪魔するよ」

布一枚隔てただけの空間だったが、光一はそう告げて中に入った。そこには上半身は裸のまま、右肩と腹部に包帯を巻き、頭部はこめかみの辺りにカットガーゼが医療用テープで止められていた。目に見える箇所は大げさに見せないよう、劉なりに気を遣ってくれたのだろう。

「── ありがとうございます」

タカシは光一の目を真っ直ぐに見つめてから頭を下げた。

「一応、初対面だよな」

「はい……店でよくお見かけしますが」

「俺も見てるよ。ノリ打ちしてるとやっぱ分かっちゃうからな」

「プロの方から見れば、邪魔なだけでしょう?」

「お前らだって、俺のことうざかったろ?」

「いえ、他の奴らはグチこぼしてましたが、別に不正をしているわけでも無いですし」

タカシと光一の会話はよどみなく成立し、どうなることかと心配していたキャスは胸をなで下ろしていたが、一方で二人の間に入ることができなくなっていた。

「俺のこと、キャ……この子から聞いてるか?」

「亜夜からは何も。ただ、一緒に話してるのは気付いてましたから、知り合いができたのだろうと」

光一はタバコを口から離すと、灰皿に押し付けた。余韻のような紫煙が糸を引き、やがて途絶える。光一はいやらしく片口を引き上げて言い放った。

「この娘、金で一晩買ったんだよ」

七龍の中で動いていた三人の間の空気が止まる。タカシはしばし目を見開いた後、キャスに顔を向けた。

そして。キャスは口を半開きにして顔を横に振った。

「うそ、うそうそうそ! 私そんなことされてないから! !」

キャスはみるみるうちに顔を真っ赤にして激しく否定した。

「だって買ってくださいって言ってたじゃん」

「それはどうしてもお金が欲しかったから……」

「お前、それそのまんまだぞ」

光一が弄ぶようにしてキャスに畳みかける。タカシはさすがに黙っていられず口を開いた。

「亜夜、お前……」

「してないったら、してない! 確かにお金無くて助けてもらったけど、エッチなことも変なこともしてないから! !」

キャスはじょじょに動揺から怒りへと感情がシフトしているようだった。

「光一さん! ひどいよ、お金貸してくれたり、パチスロ教えてくれたり、タカシを助けてくれたり、何だかヒーローみたいなかっこいいオジサンだと思ったのに」

「ははは、ヒーローね。そいつはまた」

光一は手を首の後ろに当てて苦笑いを浮かべながら答えた。

「悪かったよキャス。お前、亜夜っていうのな。いい名前じゃない」

「キャス?」

タカシはキャスの顔を見て思わずオウム返しで口にしてしまった。

「ああ、なんだったっけ ── そうだ、その帽子がキャスケットっていうらしいから、あだ名な。おいおい、まるで付き合ってた彼女が実はキャバクラで呼ばれている源氏名を知ったような顔つきだな」

「いや、その……結構、そんな感じです」

タカシは気恥ずかしくなり顔を伏せてしまった。キャスもかける言葉が無く、黙りこくったままだった。

「何だかなあ。かたや少し情緒不安定ながら超絶記憶力を持つ女子、かたや冷静に設定を読んでグループを仕切りながら女のために無謀なまでの拳を握る男子、ね。いやはやいやはや。おまけにどうやらどちらも相当なねんねと来てる」

光一はそれまでに決して見せなかった顔を、それは情愛に満ちながらどこか寂しさを漂わせる父親のような顔をして、言った。

「おまえら、パチスロやめろ」


春香は「退院祝いを用意して部屋で待ってる」と嬉しそうに笑ってくれた。

だったら荷物運ぶのを手伝って欲しい、と言うと「最後は自分だけでカッコつけて出てきなさい」とわざと痛む右肩を叩いてオヤジ笑いをして見せた。

タクシーを使う余裕もなく、電車を乗り継いだ。病院という閉鎖空間で過ごした日々は、春香がほぼ毎日と言っていいほど見舞いに来てくれたおかげで苦痛ではなかった。だが、一ヶ月ぶりに外の社会に触れると、いかに自分の世界が極度に狭められていたかに気付いた。

駅を歩くだけで、横断歩道を渡るだけで気持ちが軽くなる。

そして、いかに春香がこころのささえになていたかに気付く。

言葉にすると陳腐になってしまうが、懐かしき我が家(我が部屋か)が見えると心が弾んだ。戻るべき場所があり、待つ人がいるというのは、こんなにも幸せだとは。左肩に掛けたスポーツバックは歩くたびに右肩に痛みを響かせるが、それも今となっては気にならない。

さらに。明日からまた打てる。いや、打たなければならない。この一ヶ月を取り戻すために、打って、打って、稼ぎまくってやる。

エレベーターを降りると、見慣れているのになぜか新鮮な感覚を覚えながら廊下を歩き、ドアに手を掛けた。

ロックが掛かっていた。

頭の中の何かが揺れた気がした。

鍵を開け、靴も脱がずに駆け込む。

部屋は入院前と変わらなかった。家具も、絨毯も、カーテンも、以前のまま。散らかしたままだったような気もしたが、綺麗に掃除されている。

だけど。温もりが、人がいた空気が感じられない。

荷物を置き、玄関に戻って靴を脱いだ。

そして、気付いた。

ドアの郵便受けに、鍵が入っていた。それはバナナの形をしたキーチェーンがつながれた、見慣れた合い鍵。

「かわいいでしょ? アンディの作品なのよ」

そう言って目の前でぷらぷらさせて無邪気な笑顔で見せつけた。

そんな君は、もういなかった。


(設定5へつづく)

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