-設定3-

「ねえ光一」

「うん」

「私、セックスは別に好きじゃないの」

「知ってたよ。今したばかりだけど」

「むしろ、こうやって後にダラダラと肌合わせてるのが好き。光一は?」

「俺は……春香さんが好きだよ」

「きゃーっきゃーっ!」

カーペットの上にタオルケット一枚で横たわっていた春香は身悶えするように転げ回り、光一は身を覆うものを奪われて裸になってしまった。

「寒いよ……」

「ねっ、もっと言ってもっと言って! それだけで私3日間はダイエット頑張れる!」

「ダイエット対策で惚気るってのも……服、着るよ」

「ダメよ、もっとイチャイチャするの」

そう言うと春香はタオルケットで自分ごと光一を包み込み、再びカーペットの上に二人は寝転がった。

窓は開け放たれたまま。陽は落ち、光りの無い部屋には月明かりだけが差し込んでいる。夜風がカーテンを揺らし擦れる音が聞こえる。

「春香さん、工業デザインってさ、いまいち俺分かってないんだけど」

「ん……もしかして、町工場をカッコよく建て直すとか考えてた?」

「うーん、それだと建物とかでまた別なんじゃないのかな。ただのネジとか鉄骨とか、そういうのをカッコよくするようなのとは思ったけど」

春香の頭で自由を奪われた二の腕を気にしながら、光一は両手で「カッコいい」をイメージしてみせた。どうやらボルトの頭が前衛的な形状でナットと奇跡の合体をするらしく、色とりどりの鉄骨は複雑に組み合わさり倒壊寸前のジェンガのような芸術的な建築物を作り上げるらしい。

寝転がったまま天井に向けて掲げられた光一の手を春香は片手で掴んだ。

「これはこれで挑戦に値するかも知れないけど……当たらずとも遠からずかしら。昔の車ってイメージできる?」

「昔って、アメリカの白黒写真とかに載ってるフォードとかの?」

「いいね、それ。それと、今の車と比べてみればいいの。走るのは同じだけど、外見も内装も全然違うでしょう」

「それが……デザイン?」

「そう。でも、車が車であるための機能と無関係な形や色じゃないでしょう。風の抵抗を計算した車体でもあり、柔らかい安心感を与える形状でもある。アートとデザインの境目って語り始めるとキリがないし、白髪のアンディおじさんの顔が思い浮かんできちゃうけど」

「アンディ?」

「ただの缶詰をカッコよくしたおじさんが昔いたの」

「ああ、それは分かりやすいよ」

「私の話より説得力あるとは悔しいな、ウォーホールめ。ともかく、物がいっぱい作られていっぱい消費されるようになるうちに、だったらそれもカッコよくしようってなったの。商品と製品って意味で言うと、プロダクトデザインって言い方もするかな。でも、建物とかこの世に一つしかないものだって、工業デザインの対象なの」

光一は掲げていた手を下ろすと少し考え込んだ。そして二の腕に絡みつく春香の髪を弄ぶ。春香はなされるがまま、その心地を楽しんでいるようだった。

「それってさ、俺の打ってるパチスロも?」

「もちろん。機能だけ追求したら、たぶんどれも同じような色形になるでしょ。でも、実際は全然違う。台によって、会社によって、つまるところ、台をデザインする人によって変わる。私、パチスロ台好きよ。パチスロっていう決められた枠組みの中で、個性を競いあって『私を打って!』って自己主張してる」

光一は春香の頭を抱え込んだ。

「どうしたの?」

抱き寄せられる形になった春香は、そのまま体を光一に預けた。

「聞こえるの、春香さんにも?」

「聞こえる? いいね、それ。聞こえる気がするよ。『私、機嫌が悪いの』とか、『今ならサービスしちゃうのになー』とか。男の子、女の子もあるよね」

「すごいな、そんなリアルに聞こえるのか。俺はなんとなく機嫌をうかがうと言うか、結局出そうか出ないかを探ってるだけなんだけど」

「あーもう、これだから男は。しょせんギャンブルなのね」

「そういう意味じゃなくて……そういう意味か。たぶん、だから春香さんはヒキが強いんだな。邪な気持ちが無いから」

「そうね、邪な気持ちが……無くも無いけどね」

「ん?」

「何でもない」

「痛っつ!」

春香は口元にあった光一の右肩に、甘いというには強く噛み付いた。光一からタオルケットを取り上げると立ち上がり、肩からマントを羽織るようにしてようやく火照りの冷めつつある体をおおった。一七〇cmを超える背にぎりぎりで膝下がタオルケットで隠れる。皮膚の下に筋肉の在処をほのかに感じさせる柔らかなふくら脛。足首に至るに連れうっすらと青く伝う血管が浮き彫りになり、甲に広がっていく。

「!」

寝転がったままの光一が春香の甲に口付ける。

「いいね、それ」

「春香さん、何しても変わらないよ。そばにいて欲しい」

「もっと言って……。光一!」

「ふぎゃっ!」

「……スケベ」

顔を上げようとする光一の頭は、春香の足の裏によって元にあった床に戻された。


◇ ◇ ◇  


戻ってこない。

かれこれ1回目のビッグボーナスで幸運にもタイラントを倒すことはできず、ARTは継続しコインは増える一方だった。タイラントとの死闘が継続する、という解釈らしくラスボスであるタイラントを倒せない方がいいという少し不思議な仕組みだった。こうなると頭を使うことはない。どこまで続くかは分からないが、この連チャンが終わればアガリを決め込むに限る。設定判別の情報を持たない今は、これでもう十分だった。

二人とも戻ってこない。

(うーん、そろそろいいかな)

ART中の小役が揃い、コインの払い出しを確認すると光一は席を立った。

リプレイが揃ったままで放置すると、ベッドされた状態が維持されて台からの音声が途切れなくなる。ただでさえ目立つ状況で音を垂れ流しにするのは、光一にとっては露出狂としか思えない行為だ。新台だけに席を立つだけで台が空いたかどうか確認しにくる客もいたが、上棚にコインが詰め込まれた箱、いわゆるドル箱の存在に気付いた時点で去っていく。

バイオの島を離れ、軽く店内をうろついてみる。キャスの姿も、左隣に座っていた眼鏡の男の姿も無い。一階か店外に出てしまったのだろうか。気付かれないように探してみようかと上り階段に向かうと、店員の渡辺が降りてきた。今度はためらわずに光一から近づいていく。渡辺もそれに気付き、視線を合わせてこちらに向かってきた。

「悪いね」

光一はバツが悪いのを照れ隠すように、ポケットからタバコを取り出した。

「設定を教えろ、と脅迫されているわけではありませんので」

普段のあまり感情を表には出さない渡辺にしては珍しく、少し表情を緩めて発した言葉だった。光一の頼みごと、極端に言えば光一の弱みを握ることができるのは、やぶさかではないらしい。

「ありゃ、どこに……」

「どうぞ」

光一がライターを探す仕草を始めて間もなく、目前に百円ライターの火が灯されていた。光一はタバコをくわえたまま軽く頭を下げ、その火を吸う。タバコに炎が移るのを確かめると、渡辺は淀みの無い動作でストン、とライターを胸ポケットに収めた。

「なあ渡辺、聞きたいこと3つあるんだけど」

「どうぞ」

「お前さ、水商売やってた?」

「過去は語りたくありません。強いて言えば、この仕事も水商売かと」

間違いなく経験済みだろう。そこそこ昇りつめてすらいたのではないだろうか。

「ライター、いつも持ってるの?」

「はい。自分は喫煙しませんが。強いて言えば、コウさんのライターは席に置かれたままかと」

「よく見てんなー」

火をつけた後、「よろしければお持ちください」と言わなかったところまで織り込み済みなのか。

しかし、まさかパチ屋でクラブの客扱いされるとは思わなかった。申し訳なくなるほどだが、そこにいやらしさを感じさせないのが、渡辺に秘められた接客能力なのだろうか。

「んで……どうだった?」

ようやく本題を切り出す。渡辺はにこやかな表情ながら常に周囲を気にしつつ答えた。

「外に出てすぐのところで立ち話していましたよ。雰囲気としては……倦怠期のカップルと言ったところですかね。別れ話の一歩手前くらいでしょうか」

「そいういうの、分かる?」

「保証はいたしかねますが、間違いなく」

こいつは将来バーテンダーあたりになるといいのではないだろうか。

「でもそうだよな。あの年頃の女が思いつめて男に付いていくなんて、色恋か金の話くらいだよな……。ところでさ、渡辺」

「はい……3Bの115番台コイン補給、3Bの115番台コイン補給。高確からのビッグなので2杯でお願いします……失礼しました」

胸元に付けられたインカムのマイクを口元に寄せて呟くと、間もなくアルバイトの店員があわただしくコイン補給用のカップを持って通り過ぎていった。光一との会話の間も、店内の呼び出しランプやインカムからの音声に隙を見せていない。それが自分にとって失礼、と光一は捉えていない。こうやって立ち話をするためにも、仕事をおろそかにしている姿を他人に見せるわけにはいかない。

「大丈夫?」

「ええ、お気遣いなく」

「あの娘のこと、聞かないの?」

「昨日、コウさんが優先入場券を譲られた方ですよね。強いて言えば、一日で口説かれるとは尊敬に値します」

それは聞いてほしいのでしょう? と含んだ笑みで渡辺は答える。

「口説いてねえよ、それこそ強いて言えば、口説かれたようなもんか」

「それはそれは、少々妬けますね」

「へ?」

「冗談です。コウさん、あなたは自分が自分で思っている以上に、いい感じの中年男性ですよ。恋に恋するのを卒業した辺りの乙女が引っかかりそうな」

「いい感じとか、引っかかるとか。単なるいい歳した博打打ち捕まえて言う台詞じゃないな」

「まあ、ホールの店員風情がお客様のプライベートに立ち入るわけがありません……コウさん、戻ってきましたよ」

渡辺はそう呟くと、耳のインカムに手を当ててこの場を離れていった。光一は動かずにその場でタバコを吸い続ける。周りの様子を伺う仕草は見せず、気配にだけ感覚を尖らせていた。

間もなく眼鏡の男が光一の前を通り過ぎていった。表情が荒れている様子はなく、冷静な物腰でバイオの島へと戻っていく。

キャスの姿は見えない。

眼鏡の男が席に付くのを見計らって、光一はその後を追うように自分の台に戻った。

自分が席に付くのに対し、眼鏡の男の反応は希薄だった。

(バラして……ない?)

光一は頭上に置かれた空き箱を手に取ると、下皿のコインを移し始めた。思ったよりARTでのコイン増加スピードが早い。ビッグボーナスの払い出しも5号機にしては300枚越えと多い方だ。これはやはり爆発力型なのだろうか。

他の席では、ドル箱を使っているのが2台。だがボーナス回数を見ると1台は大量投資からの揺り戻しでおそらくチャラかマイナス、もう1台はボーナスとART回数(今はキャスがいないので正確な数は分からないが)から設定の伴った出方に見えた。ドツボにはまった台もある。1200ゲームまで連れてかれた挙句にレギュラー引かされ、台を派手にどついて去っていく客もいた。懐かしい風景……爆発もノマレも、そして客の熱くなる姿も、4号機時代を感じさせる。もしかしたら、冬の時代が終わろうとしているのかもしれない。

下皿半分くらいのコインを残したまま、眼鏡の男が席を立った。ボーナス後の高確率状態を抜けたらしい。バイオの島を周回し、ノリ打ちの仲間に何か話している。間もなく、話しかけられた若者のうち二人が席を立った。ドル箱を一箱積んでいる一人だけが残る。眼鏡の男も席に戻ると下皿のコインを箱に移し、一切の未練なく席を空けた。

一度に新台八台のうち三台が空席になる。光一と眼鏡の男の指示で残った一人以外、光一が特に顔を知らない新台目当てでやってきたらしい他の客は動揺して周囲を見渡していた。

(ほー、こんな感じで見切る……設定判別が見えてない以上、すぐには引けず微妙になっちまったんじゃないか)

光一も今のART連チャンが終われば営業終了の予定だ。この出玉なら席を立った瞬間に誰かのタバコが下皿に放り込まれるだろう。夜にでもその後の様子を眺めにくればいい。

問題は……キャスか。

一旦打つ手を止め、胸ポケットから携帯電話を取り出す。先程から着信は無く、液晶画面を開けたがメール受信の表示も無い。昼のマクドナルドでようやくお互いの番号とアドレスを教え合ったばかりだったが、メールくらい送ってもいいかもしれない。

「こればっかりはなー」

思わず声が出る。パチスロを打つ時とは打って変わり、目を見開いておっかなびっくりに新規メール作成を選ぶ。どうにも携帯電話の文字入力方法には慣れることができない。

(め、が、の……行き過ぎた。削除……うわ、全部消えた。め、が、ね……眼鏡、さる……猿? 去る。ああ、じれったい! き、て、来て。だ、い、じ、よ、う、ぶ……大事腰部、あー、もう)

こめかみを震わせながらようやく本文を打ち終わり、アドレスを選ぶ際に間違えて作成中のメールを消してしまい「くわっ!」と声を出してしまった。左隣りに新しく座った小汚い服装の若者に、じとっとした眼で睨まれる。

(「眼鏡、去る。来て、大丈夫。だと、思う。」)

電報のようなぶっきらぼうな文章になってしまったが、直すのも面倒なので光一はそのまま送信する。一仕事終えたように息を大きく吐いて携帯電話を閉じようとしたが、ふと受信メールのボックスを開いた。リストに並ぶのは会員登録したパチンコ店からのメールばかり。下へとスクロールさせて件名を流していくと、他のメールと異なる書き出しに止まる。

(「手続き必要のため」……詩乃さんか。ほったらかしにしちゃってたな)

日付は4日前。そろそろ行かないと本気で懇切丁寧に優しく、怒られてしまう。昨日の夜にでも行けばよかったが、キャスを家に連れて行きタイミングを逃してしまった。事務所自体は深夜でも開いているのだろうが、彼女がいるとは限らない。彼女がいないと、訪問しても「また胡散臭い中年がやってきた」と可哀想なヒモを見るような視線で社員に対応されるだけだ。もっとも彼女がいたところで、そう思われているのは変りないが。

どうしたものだろう。このARTを終わらせるまで、いくら何でも席を空けることはできない。

「あの……」

考えごとをしていると、後ろからか細いキャスの声がした。

「おう、おかえり」

光一は携帯電話を閉じると、座ったまま振り返った。バツが悪そうに視線をそらしたまま立っている。

「その、さっきの男なんですけど……」

それでも話そうとしているところは、真面目なのか正直なのだろうか。光一は続きをしゃべろうとするキャスを遮った。

「そうだな。お前、代われ」

「へっ?」

反応できないキャスをよそに、光一は台のクレジットボタンを押した。音を鳴らして50枚のコインが吐き出される。ドル箱に下皿の分のコインを移すと、キャスに向けて手を出した。

「ほれ、それ貸しな」

手はキャスが握っている赤い携帯電話に向けられていた。キャスは黙って差し出すと、光一は受け取ってすぐに下皿に置いた。

「千円くらい持ってるよな」

「え、ええ」

「この店、台移動やコイン共有は禁止だが全部流して他人に譲る分には全然問題ない。今、ART中だから終わるまで打ってくれ。終わったら……まあ、基本ヤメだけど打っていて何かしら好材料な情報があったら続けても構わない」

「私、この台のこと全然知りませんよ!」

きまり悪く戻ってきた上の突然のムチャぶりで、キャスは露骨におろおろしていた。

「お前、目押しできるだろ。分からないことはそこに置かれてる小冊子読めばいい。焦んなくていいぞ、出玉は気にしなくていいから好きなだけゆっくり打って構わない。それでも分かんなかったら店員とか周りの奴に聞け。スロ屋の客なんて女相手なら喜んでホイホイ教えてくれるぞ。半分くらいは童貞で、半分くらいはナンパしてくるくらいで済む」

「童貞キモい! ナンパ禁止!」

光一は席を立つと一箱半分のコインを手に持った。キャスは促されるまま代わりに席に座る。

「一週間は見、じゃなかったんですか!?」

光一はもっともらしい顔をしてキャスの肩を叩いた。

「今日は大勢が決してるしな。めったにない何しても大丈夫な状況だから、打つのに慣れるといい。ついでに、昨日みたいに打ちながら周りの挙動をできる限り観察して覚えておいてくれ」

「ちょっと、あの!」

光一は振り返らずジェットカウンターへと向かっていく。その様子を見て空き台を探りに来る客もいたが、キャスが座っているのを見ると舌打ちして去っていった。キャスの両隣りに座る男共も、関心無さそうに見せて突然現れた女代打ちに興味津々のようだった。

カウンターにドル箱を置くと、計ったように店員の渡辺が目の前にいた。相変わらず卒が無い。光一はドル箱を持とうとする渡辺に耳打ちした。

「何かあったら頼むわ」

その言葉を受け取ると、渡辺にしては珍しくしたり顔で耳打ちを返してきた。

「強いて言えば……妬けますね」


◇ ◇ ◇  


改札を出て、アトレを通り過ぎて品川駅東口を外へ。すでに時刻も夕方にさしかかり、駅に向かう人間のほうが多い。その流れに逆らい高浜運河方向へ歩く。品川インターシティやNTT品川ツインズ、ソニー本社と比べるとそれほど大きくないオフィスビルが立ち並ぶ一画。

コンビニエンスストアが一階のテナントに入っているビルのエントランスへ光一は向かった。ガラス張りのエレベーターロビーには、自動ドアとセキュリティのインターホンが設置されている光一は携帯電話を開き部屋番号を確かめてからインターホンのテンキーを押そうとしたが、思いとどまって開いたままの携帯電話のボタンを押してそのまま耳に当てた。

一回目の呼び出し音が鳴り終わるより前に、電話はつながった。

「お電話ありがとうございます、L&Dクリエイティブです」

機械的な女性社員の声。

「ライターの種田ですが、伊ヶ崎社長いらっしゃいますか?」

「種田様……ああ、はい。しばらくお待ちください」

ああ、というにはあまり感嘆した雰囲気ではない。単にどこの誰だか思い当たった、というだけのようだ。一応、社員の人間にも覚えられているらしい。あれこれ詮索されると面倒臭い話になるが、どうやらそこまで関心を持たれる存在でも無いらしい。電話の保留メロディを聞きながらそんなことを考えていると、自分の失敗に気付いた。部屋番号を知るために携帯電話の会社のアドレスを開いたが、会社ではなく詩乃の携帯電話に掛ければよかった。まあ、掛けてしまったものは仕方がない。

「お待たせしました、伊ヶ崎です」

女性の、低く落ち着いたトーンの声だった。

「あの、光一ですけど……」

すぐに返事は無く、その代わりに電話越しでもはっきりと分かる溜息が聞こえてきた。

「……光一さん、会社の方に掛けてくるなんて珍しいから違う人かもと警戒しましたよ」

「すみません、詩乃さん。ご連絡もらって伺おうとしたのですが色々と」

「どうせ朝から晩までお勤めでお忙しいのでしょう……今は大丈夫なんですか?」

「はい、今、下の入口にいます」

「! 来るなら来るで前もって電話もらえれば」

「すみません、思いついたまま来てしまいまして」

電話向こうの詩乃という女性は少し考え込んでから切り出した。

「今は事務所が立て込んでるので、私の方がそちらに伺います。申し訳ないのですが10分ほど……向かいのプロントで待っていただいても」

立て込んでる……過去に何回か訪問しているが、中に入らないで用件を済ませるというのは初めてだった。だが、逆らう理由も必然も無い。

「分かりました。待たせてもらいます」


アフタヌーンタイムからバータイムに切り替わったプロントの店内は、まだ客もまばらだった。おそらく5時を過ぎれば仕事帰りの人間で騒がしくなる。ジャズサウンドが流れる静かなフロアは、光一にとって落ち着ける空間だった。カウンターではなく、入口に近い窓ガラス越しに外を窺えるテーブル席で待つことにした。

まだ酒を飲むタイミングでもなく、カフェモカをすすりながらタバコを燻らせる。十五分ほど何することも無く時を過ごしていると、外に見覚えのある女性と、一人の男性の姿が見えた。肩越しまで髪を伸ばした女性はシックなグレーのスーツ、もう一人はハンチングを被り今時珍しい蝶ネクタイをした恰幅のいい初老の男性だった。

先程のビルを出たあたりで会話を交わしていると、やがてタクシーが横付けされる。女性の方が頭を下げると初老の男性は手を上げて応じ、車内へと乗り込んだ。女性が頭を下げたままタクシーは発進して都心方向へ、旧海岸通りを北上していった。

車が見えなくなるのを確かめると、女性はかわいらしい仕草で左手首を返して腕時計を見ていた。

(詩乃さん、かわいいよな。……春香の2つ上だったはずだけど)

光一はヒールから滑らかなカーブを描くふくら脛、そしてスーツへと繋がり決して形の崩れることが無さそうな臀部を眺めていた。すると詩乃は小走りで店の方に近づいてきたので、光一は目が合ってしまいそうなのを恐れて慌てて顔をそらした。

間もなく入口の扉が開く。詩乃は店に入るとすぐに光一の姿を見つけて近づいてきた。

「ごめんなさいね、遅くなってしまって」

光一に席を促されると、肩から掛けていた大きめのデザインケースを空いている椅子の上に置いた。プラスチックで角張った黒いケースには何が入っているのだろうか。光一が見守っているのをよそに、ケースを固定するかのようにハンドバッグが置かれた。

光一は吸っていたタバコをもみ消した。

「こちらこそ突然ですみません。来客中でしたか」

その言葉に、詩乃はガラス越しの外の風景を見た。

「光一さん、のぞき見とは趣味がよろしくありませんわ」

見透かしたようなその物言いは、どこか色気を感じさせる余裕のあるものだった。

「失礼、ふだんは下世話な世界で生きてるものでして。詩乃さんのお綺麗な姿を見ていると癒されるんですよ」

「お上手ですこと。嘘でも嬉しいのですけど、おだてても今日はお説教させていただきますよ」

「いやー、お手柔らかに……」

頭を掻きながら苦笑いをする光一の表情は、詩乃の顔もほころばせる。

「これに春香は騙されたのかしら」

「どうしました?」

「いいえ、独り言です」

詩乃は指で唇を押さえてみせると、ハンドバッグから一通の封筒を取り出した。


L&Dクリエイティブは、伊ヶ崎詩乃が経営するデザイン事務所だ。新興の会社ながらビルのワンフロアを借り切り、堅実に経営を進めているようだった。カタログ、パンフレット、折り込みチラシ、雑誌広告、パッケージ、ポスターなど幅広く数多く受注している。開業当初から料金設定は大手と比べると相当に安く「とにかく信頼を得てコネクションを広げるのを優先すのる」という詩乃の言葉と共に成長していった。詩乃は今でも社長ながら今日のようにアグレッシブに現場で働き、自らが作り上げた会社を引っ張り続けている。

光一が天涯孤独の博徒として生きる限り、本来そんなデザイン事務所のやり手女社長との逢瀬があるはずもなかった。だが、今こうして二人は面と向かって平日の夕方に同じ時を過ごしている。

「今月と先月、それに先々月分もあります」

詩乃は取り出した封筒をテーブルに乗せて光一に差し出す。何も書かれていない白く細長い事務用封筒に目をやると、光一は気が進まない様子でそれを手にとった。中身を取り出すことなく、親指と人さし指を使って口を広げて中を覗く。そこそこの枚数がある紙幣と、一枚の折られた紙。光一は紙の方だけ取り出すと、広げて書面を確かめた。

「こんなに仕事しましたっけ」

光一は頭を掻きながら、目を細めて手にした領収書の額面をにらんだ。

「契約のとおりです。いつも何かと理由を付けて受け取ってくださらない」

詩乃は動じることなく澄ました顔のまま光一の様子をうかがっていた。

「うちは健全経営なんですよ。受け取ってくださらないとむしろ困るんです」

「……というには、こんな胡散臭い男と付き合いがある」

「フリーライターの方に原稿料をお支払いするだけですよ」

「そんな、あの程度の書き散らしたもので。俺はパソコンで文字を打つことすらまともにできない」

「書き起こしは私がやっていますから。そうだわ、先ほど早刷りをいただいたのでお渡ししておきます」

詩乃は傍らに置いていたデザインケースを開けると、一冊の雑誌を取り出した。どきつい蛍光色や赤青の原色がふんだんに使われた文字と、画像や写真がぎっしりと並ぶ表紙だった。最も大きく書かれた誌名タイトルに「THE スロッター」とある。

光一は今度はためらいなく受け取ると、巻頭のグラビアページに目を通し始めた。トップ記事には新台の解析情報が載っている。先ほどまで打っていたバイオハザードの記事だった。どこまで載っているか興味深かったが、掲載されているのはビッグ・レギュラーのボーナス確率と機械割、それにARTの突入率を設定別に表にしたものだけだった。これならば昨晩インターネットで事前に調べていたものとそれほど変わらない。その他は基本的なゲームフローを図や写真で説明するもので、台自体の仕様を正確に把握するという意味では紙面に整えられたこういった記事の方が分かりやすかった。雑誌で情報が出回る頃には、それはもう使用済み。

「これ、出回るのいつですか?」

「明後日にはコンビニや書店には並ぶと思います。キオスクの流通に乗せたいそうですが、そうは簡単に行かないと編集長さんも言ってましたわ」

「編集長?」

「ええ、その雑誌の。先ほどお見えになってました」

「ん……」

光一はカラーグラビアに並ぶバイオの記事を読む手を止めた。

「編集長が自ら会いに来るんですか? たかだか俺のコラム載せてるだけで」

先ほどまで詩乃といっしょにいたあの初老の男性のことだろうか。貫禄は感じさせたが、確かにお堅い仕事をしている風体ではなかった。

「それだけではないんです。巻末の広告もうちで何ページか作ってますし」

「それは失礼、とんだ驕りようだ」

「いいえ、光一さんのコラムは好評なんですよ。今どきには珍しい……何だったかしら、じ……」

「『ジグマ』ですかね。今のイベント主流のホール状況では珍獣かもしれない」

「とても編集長さんも楽しみにしてらっしゃいましたよ。雑誌の一見客は記事で掴む、固定読者は連載で掴む、って。光一さんのコラムは、今のうちの雑誌には欠かせないものだって」

「俺は博打打ちですよ。作家先生じゃない。あれだけの作文するのにもヒーヒー言ってるんです。中学校の卒業文集だって、あんなに書いた覚えはない」

「面白いですよね、光一さんの文章。言葉と言った方がいいのかしら、飾ってないというか、手垢が付いていないというか、思ったことそのままが言葉になっているから伝わってきやすい」

「そんなに下手ですかね……ちょっとは考えて抑えてるつもりなんですが」

「いいえ、褒めてるんですよ。私が書き起こしているから、間違いが無ければいいんですけど」

そう言うと、詩乃は光一が手に持っている雑誌のページを捲っていった。巻中のモノクロページでその手が止まる。文字の量が多い読み物ページで、見出しには「もう一つのスロット話 ~ある博徒のつぶやき~」とあった。横には黒炭でデッサンしたかのような男の横顔のイラストがある。光一に似ていなくもないが、陰影が強く描かれていて顔の作りまで分かるようなものではない。文章は日記や実戦の記録などではなく、いくつかの段落に分かれただけのものだった。

「何だかそれっぽく見えるからすごいよな……」

「それっぽいだなんて失礼ですわ、光一さん。そのイラスト、私が描いたんですよ」

「え、いや、そうなんですか! ほら、俺こんなにいい男じゃないじゃないですか」

光一は失言に困るのを隠すこともできず、取り繕うばかりだった。詩乃は、そんな姿を微笑みながら見つめる。まるで、今こうしていること自体が幸せであるかのように。

「ページごとうちの会社で引き受けてるんです。だから原稿料もこうして私の方から差し上げてるわけで」

「でも、いつも思うんですが。活字にするのも、それに今日初めて知りましたがイラストを描くのも、詩乃さんじゃなくてもいいでしょう。立派なデザイン事務所の社長なのだから」

詩乃は手で口元を押さえるようにして笑って答えた。

「誰かにやっていただくというのはお金がかかるんです。私がやればその分が会社の収入になりますし」

それに私は光一さんのファンなんですよ、と詩乃は付け加えた。そう言われると返しようもなく、光一はテーブルに置かれたカフェモカを啜ることで間を持たせることしかできなかった。

「光一さん、もう少し書かれるつもりはありませんか?」

詩乃はそれまでのテンションとは変えて話題を切り出した。

「このコラムを続けると? まあ時間がある限りは書けなくもありませんが」

「いいえ、別にもう一件、今のような連載を書かれませんか、というお話です」

「もう一つ?」

光一は宿題をたんまりと出された生徒のように言い返してしまった。

「今日お話した編集長さん、今は月刊と不定期刊でスロット雑誌を担当されているそうなんですけど、不定期刊の方も月刊にして、合わせて隔月ペースにしたいんですって。今日もそれで色々とご相談を受けて。ちょうど光一さんともお会いできたし、是非このお話をお伝えしようかと」

「スロ雑誌ですか……」

自分がパチスロを打ち始めた頃とは、専門誌も様変わりしてきている。昔は月一で二社くらいしかなかった。それがいつの間にか発行ペースも上がり、何社もパチスロ雑誌を創刊させて今では専門のマンガ雑誌までコンビニの一コーナーを賑わせている。パチスロ人口が増えて、自然とそれを取り巻く情報や副産物も増えてきた。その中には、パチスロを打ちつつライター稼業で稼ぐ「誌上プロ」というのも存在しているらしい。稼いで食っていくのに手段の善し悪しは関係ないが、自分にはどうも二足のわらじを履きこなす器量はないように思える。光一にはどこか引っ掛かりのある話に思えた。

「……少し考えさせてください。ありがたいお話だとは思うのですが、これ以上打つこと以外に時間を割くのがいいことなのか分かりません。試すにしても少し怖い。詩乃さんからのせっかくの話ですが。今の生活リズムを崩すのが怖いんです。俺には会社や家族とか、自分を拘束してくれるものが何も無い。自分でルールを決めて自分で時間の使い方を決めなくちゃいけない。そして失敗したらそのまま明日のおまんまに跳ね返ってくる。だから臆病になるんです。お天道様の光浴びて堂々と人生を謳歌している人と比べると、毎日びくびくしながら暮らしている」

光一はテーブルに置かれたままだったタバコへと無意識に手を差し伸べかけたが、詩乃の同席を思い出してその手を戻した。

「お気にせずどうぞ」

詩乃は手元にあった灰皿を光一のそばに移した。

「いえ、すみません」

「逆なんですね」

「えっ?」

「考えていたのと逆でした。光一さんみたいな方は、生まれ持った強運と勝負勘で何も恐れずに自由に生きてるものだと。誰もが最初から諦めているような当たりを、それこそ当たり前のように引いてしまうような人だと思っていました」

光一は少し考えながら雑誌をテーブルに置くとタバコを一本手に取り、火を付けないまま指で挟んだ。

「阿佐田哲也の世界ならそんな強者もいるかも知れない。玄人の意地で全財産賭けて、死んだら丸裸にされて河原に捨てられるような人生もいいかも知れません。若いときにはそんな考えも無くはなかった。でも、まがいなりにも歳食って生きてくると、考え方もせこくなってきるんですよ。ファンに失望させるようで申し訳ないですが」

そう言って光一は笑ってみせた。詩乃はその言葉を複雑な面持ちで受け取った。

プロントの店内には少しずつ客が増え始めていた。仕事帰りの人間がバータイムを目当てにに集まってきている。すでに時刻は七時をまわっていた。

「時間は大丈夫ですか? 詩乃さん、お仕事の途中だったようですが」

「ええ、確かにそろそろ戻らないと」

詩乃は店内の壁時計も、自分の腕時計も見ずにそう答えた。

「こちらはありがたく受け取らせていただきます」

光一は封筒を二つに畳むと胸ポケットに押し込んだ。テーブルのプラスチックスタンドに差された伝票を手に取ろうとすると、それを遮るようにして先に詩乃が抜き取った。

「詩乃さん、ここは俺が……」

「領収書、取らせてください」

「でも」

「私、もう少しだけ休んでいきますので、ここで。これもお持ちください」

詩乃はテーブルに置かれていた雑誌を光一に手渡した。

「そうですか、じゃあご馳走さまです」

光一は指に挟んだままだったタバコを紙箱に戻すと、ライターごと胸ポケットにしまって席を立った。

「そうだ、詩乃さん」

何ですか、と詩乃が見上げるように聞き返す。光一は視線を合わせずに続けた。

「もし……春香から何か連絡があったら……教えてください」

歯切れの悪い、たどたどしい言い方だった。先ほどの人生観を語る腹の据わった男と同じとは思えないような、何とも頼りない声だった。

詩乃は目元に少しだけ目立ち始めた皺をぎゅっと寄せて、歯を見せて笑顔で答えた。

「ええ、必ず」

ありがとう、そう言い残すと光一はこれ以上ここにいるのはいたたまれないかのように店を出て行った。

品川駅の方角へと歩いていく光一の姿を、席に据わったまま窓ガラス越しに見送るその姿が見えなくなると、詩乃は一つ、大きく息をついた。そして店内に顔を向けると、ウェイターに目を合わせて手を上げてみせた。気付いたウェイトレスは、すぐに席にやって来る。

「失礼しました、まだご注文を承ってませんでしたか?」

テーブルには光一が注文したカフェモカと、吸い差しの残された灰皿があるだけだった。

「いいえ、途中から来たのでお気になさらないで」

「ご注文はいかがいたしますか?」

「そうね……ドゥ・リギュールを」

会釈とともにウェイトレスが去ると、それまで揃えていた脚を組み交わして再びため息をついた。テーブル席に年増女が一人。せっかく後の時間は空けてやって来たのにバカみたいだと、詩乃は自嘲した。

「酸っぱいんだか甘いんだか」

離れたカウンターから、バーテンダーがシェイクする音が聞こえる。

そう、私はファンだ、あの男の。もう十年近くファンであり続けてきた。きっとこれからもファンであり続けると思う。私ほど熱烈な〝ファン〟はいない。だから……。

「春香、戻ってくるの?」

カクテルグラスの到着とともに、詩乃の独り言は遮られた。


◇ ◇ ◇  


(終わらない、終わらないよ……)

キャスは今日はたして何回この言葉を心中で叫んだだろうか。

目の前には倒しても倒しても襲ってくるゾンビの姿が液晶画面に映し出されている。1ゲームで4回ボタンを押すから4発、もう一万発以上の銃弾を打ち込んでいるのに元気この上なくウガーと立ち向かってくる。時刻は夜八時近く。光一からは何の連絡もなく、ただひたすら打ち続けている。

突然譲られた初めて打つ台で、最初のうちは必死で目押しを間違えないようにボタンを押していた。「女性の声で細い指は赤」「男性の声で太い指は青」「7揃いでART50ゲーム、終了後は次の7揃いまでAT」「レギュラーボーナスでは状況は変わらない」「ビッグボーナスでタイラントが倒れなければ、このATとARTの連鎖が続く」、店に置かれていた小冊子を読んでインプットした知識も今は昔。キャスはただひたすら終わることの無いコインの放出に怯えていた。やるべきことは分かったし、おそらく取り損なうことなく打つことはできているはず。それに光一の言い付けを守って出来る限り、他のバイオの動向も音を中心に察知して覚えている。ただ、このプレッシャーから早く解放されたい。周囲の視線も怖い。露骨に舌打ちをして近くを通り過ぎていく者もいる。逃げたい。でも出ると分かっている台を途中で捨てることはいくら何でもできない。

だけど、イイこともあった。正確には溢れんばかりにコインを出しまくるというこれ以上ないイイことが起こり続けているのだが。あれはまだ打ち始めて間もない頃。


この店はコインの補給は自動ではなく、台の中のコインが空になると台がエラー音と共に中断する。

キャスは初めてこのエラー音に出会うと、小学生が初めてバスの降車ボタンを押すかのように恐る恐る頭上の呼び出しボタンを押した。間もなく店員が訪れると、座っているキャスに声を掛けた。

「お待たせしました」

「は、はい」

キャスは頭をぶんぶん縦に振って答えた。

「補給しますので……」

「はい、お願いします!」

「ですので」

キャスが座ったまま顔を赤らめていると、背後から別の店員が話しかけてきた。

「お客さま、台を開けてコインを補給しますので、席を空けていただけますか?」

その店員は、緊張と恥ずかしさで心拍数を急上昇させているキャスを解きほぐすような柔らかい笑顔でゆっくりと説明してくれた。すらりとした背格好、ワイシャツに黒のベストを着用して髪は短めでノーフレームの眼鏡を掛けている。

「君、もう一杯持ってきて。終わったらジェットカウンターに。ジャグラーのお客様が片付け始めている」

最初に来た店員にそう告げると、この店員はキャスの顔を少しだけ見てから軽く会釈した。あわてて、席を立ち背後に回るキャス。その店員は脇にぶら下げたキーホルダーから迷いなく一つの鍵を選び出すと、床に置いていた補給用のコインカップを手に持った。

(重そう……でも、平気で持ってる)

キャスは店員の様子を観察していた。左手にコインカップを持ったまま、右手で鍵を持ち台を開ける。台を開けたまま右手で押さえると、腕を交差させるようにして左手でコインを台の中に流し込んだ。間もなく最初に来た店員が戻ってきて両手でコインカップを差し出すと、再び左手で受け取りコインを流し込んだ。流し終えるとそのまま下のほうにコインカップを移して右手の鍵を回す。すると先ほどまで聞き続けていた台のBGMが大音量で再び流れだすと共に、下の払い出し口からコインか吐き出されてコインカップに収まった。

(そうなんだ、直接だとこんな大きくてハッキリとした音で聞こえるんだ)

店員はコインカップで受け取ったコインを下皿に流すと、ゆっくりと確実に台を閉じて鍵を回した。

「お待たせしました」

席に向けて手を差し出してキャスを促す。キャスは一連の店員の動きに見惚れていたところから我に返った。

「ありがとうございます、ありがとうございます!」

キャスは、ぱたぱたと音がしそうな仕草で二回お辞儀をしてから、あふれそうな下皿のコインをこぼさないようにそっと席に座った。

「お困りのことがありましたら、遠慮なく呼び出しボタンをどうぞ。箱が足りなくなった時などいつでもお呼びください」

「はい、押します、押させていただきます!」

「あと……」

店員は頭上に置かれた二箱のドル箱を見てから続けた。

「置ききれなくなりましたら別積みさせていただきたいのですがよろしいですか?」

「別積み?」

「はい、他の場所に置かせていただきます」

「でも、それだと私のかどうか分からなくなったり、誰かに持っていかれちゃったりしません?」

キャスは不安そうに尋ねた。

「ご安心を、お店の者で責任を持って管理させていただきます」

店員は胸に手を当てて、まるで主人に仕える執事のように頭を下げてみせた。

「ふぁ、ふぁい! よろしくお願いします!」

キャスの収まりかけていた心拍数の上昇カーブは、別の理由で再度上昇志向を描き始めた。胸元のプレートに目を向けると「リーダー:渡辺」と名前が書かれていた。

(渡辺さんがいれば大丈夫! きっと打ち切ることができる、二人ならきっとやれる!)

よもや勝手に心のパートナーにされているとは知らぬ渡辺は、会釈とともに席を去っていった。

(パチスロ屋にもステキな人っているんだ……)

ぼーっとフロアの向こうに消えていく渡辺の後ろ姿を追いながら、ベットボタンを押してレバーをコンと軽く叩く。何千回と繰り返している動作なのでボタンの位置も覚えている。第1ボタンから第4ボタンまで液晶画面もリールも見ずに押し続けると、シュワンと通常とは違う音がした。

「特殊リプレイ?」

振り返ると、リールのラインにはリプレイ絵柄が3つに最後だけ7が揃っている。

(打ち始めて12回目、そのうちビッグ1回レギュラー1回に結びついてる。たぶん、成立している役の中ではこれが一番信頼度高いのかな。私が回したのが1126回転だから出現確率はおよそ93分の1……右隣が85分の1、左隣は72分の1、むしろ私の方が低い。ざっくりだと5、6回に1回当たるのかしら)

メモも取らず小役カウンターも使っていなかったが、チェリーや特殊リプレイなどの出現回数をキャスはすべて覚えていた。それに音・リール・液晶画面すべて確認可能な両隣の動きも抑えている。ただし、先ほどのコイン補給の時だけは少しだけ自信が無いが。

(ああ、もう覚えるのも計算するのもやめたいな……)

それよりもあの渡辺さんに優しくされたい、と思いつつ打ち続けるとリプレイと9枚役が交互に成立しながら液晶画面は段々と騒がしくなり、ついにはビッグボーナス成立を示唆していた。またもやタイラントとの決闘、今度こそ終わるかも知れない。

(なんかこの化け物さん強いんだよな……ミサイルとか片手でカーンって弾くし)

ビッグ絵柄を揃え、9枚役でコインがボロボロと下皿に溜まっていく。レバーを叩くとと同時にリール右のタイラントの顔が光り、何とも形容し難い突然音が響いてキャスは驚きの余りに腰を浮かせてしまう。

(ふぅ、ふぅ、ビカビカドギャギャン禁止! 死んじゃう、心臓発作で死んじゃう……)

もしかして、と思いリール上段に赤いビッグ絵柄を狙うと順に揃っていく。そして4つ目。揃った瞬間、また、腰が浮く。

(だからピカピカドカン禁止!)

胸を上下させ息を乱しながら、思わずキャスは頭上の呼び出しボタンをギブアップのサインのようにタップした。両隣りの客は珍獣を目撃してしまったかのように手を止めている。席を立ち両膝に手を突いて息をハァハァさせていると、その姿に気が付いた渡辺は慌てて駆け寄ってきた。

「お客さま、いかがされました? ご気分でも悪くなりましたか」

「死んじゃう、これ以上続けると死んじゃう……」

と言いながら本人としてはさり気なく、渡辺を含め周囲の人間からはあからさまな仕草でキャスは渡辺の胸にすがりついた。

(ああ、こうしてたい。ずっとこうしてたい)

「お客様……もしご気分がすぐれないようでしたら横になれる場所をご案内しましょうか」

(横になりたい、いっそ横にされたい、あなたに横といわず上と言わず)

渡辺は掴まれたワイシャツを見つめつつ困った顔をして、収まりどころとして仕方なくキャスの頭を手で抱えることになった。両隣りの客だけでなくバイオを打つ他の客や通りかかった人間も注目している。確かにほぼ男で占められるギャンブル場で抱き合う男女なんて、台の液晶画面で演じられるCGくらいでしか見られない。

「そうしましたらとりあえず事務所の方へ。コインは責任を持ってお流ししますので」

「流してくれるんですか?」

「ええ、ただし台は開放させていただきますが」

胸にかしづくキャスの体がビクッと震えた。

「開放って?」

「あの……お店としてましては打たれない場合は他のお客様に台を空けさせていただくしか」

「それはダメ!」

キャスは渡辺を突き離すようにして胸から離れた。第三者が見ると、訳あり男女の修羅場シーンかのようだった。

「ダメ、止めることはできないの……。私、打ち続けないと怒られちゃう」

「あの人なら怒りはしないと思いますが」

「え?」

「いえ、いや、どなたか存じませんが怒るほどのことではないかと」

渡辺は軽くせき払いしながら無表情を装って誤魔化した。

「でも、出ると分かっている台を手放すことはできません……」

「まあ、それは確かに。お客様少しは落ち着かれましたか?」

「そう言われると……化け物やゾンビをバンバン撃つよりイケメン抱きしめたからかも」

「は、はあ」

返事に困る渡辺のもとに、別の男性店員が近づいてきた。

「渡辺さんアガリですよ。インカム流しても返事ないので」

「あ、ああ! そうですか」

渡辺は心底救われたような顔をして腕時計を確かめた。

「アガリ?」

遠慮なく店員同士の会話にキャスは割り込んでいた。

「いえ、あの、内輪事情ですか自分は早番でして。今日はもう帰宅させていただこうかと」

キャスは甘いひと時の終わりにようやく気付き、肩を落として席にへたりこんだ。


と、男臭いホールにひと時の清涼剤を得たキャスだったが、以降は終わらないARTに疲弊し、増え続けるコインに恐れおののき続ける時間がひたすら続いていた。コインはドル箱一つ千枚と考えて、五千枚を超えている。渡辺の言っていた別積みというので、席の後ろに時代劇で使われるような千両箱が置かれその中にコインが注がれている。

店側としては絶好の出玉アピールで他の客の射幸心を煽りまくっているが、キャスにしてみれば注目される一方で困ることしきりだった。時刻は10時を過ぎ、客足のピークから徐々に帰る者も見え始めた。不安になり店員に尋ねたところ、閉店は10時55分とのことだった。まさかここまでARTが続くとも思わなかったし、光一が戻ってこないとも考えていなかった。キャスはトイレの為に席を立った際に、光一にメールを送った。なぜトイレでなのかと言えば、他の人間に見られたくないからとしか言いようがなかった。

『終わりません、早く戻ってきてください』

冗談も絵文字もない、用件だけ伝えた短いメールだった。いかに切迫しているか伝わればと思って送ったが、返事はなかった。いくら何でも閉店までには戻ってくると信じたい。この時間になって唯一救われるのは、新台とはいえ打つ客が少なくなったことだった。周囲の観察にそれほど気を回すこともなく、ただ目の前の液晶画面に対峙して打倒タイラントを念じればいい。

そして今まさに念じていた。打ち始めて六回目のビッグボーナスを迎え、いよいよ最終ゲーム。レバーを叩くと主人公と思わしき男性がロケットランチャーを構えた。このロケットランチャー、今までにタイラントの片手で弾かれまくり、役に立たないことこの上ない。よくそれで兵隊が務まるものだと恨みがましく、これまで何度も「Next Battle!!」の文字を見つめていた。もちろん、今のキャス以外の全ての打ち手にとっては羨ましい限りの状況である。

ビッグボーナス最終ゲーム。第1ボタンを押す。

「この一撃で最後だ!」

実際にしゃべってるのは液晶画面のキャラクターだが、胸中では同じく叫んでいた。

(最後でお願いします!)

第2ボタン停止、ランチャーが放たれる。

(当たってー、やっつけてー、燃やしてー!)

背後では帰り際の客が数人覗き込んでいるが、もはや気になることもなくキャスはひたすら祈り続ける。

第3ボタンでは演出の進行は無し、そして運命の第4ボタンですべてが決まる。見ていられなくて顔を伏せたまま震わせた指でボタンに触れると、電流でも流し込むかのように気合を入れて押し込んだ。

「ほわっ!」

キャスとしては今までの人生で何回発したことがあるか分からない意味不明の掛け声だった。

だが、その声は周囲の人間に聞こえることはなかった。

「ドゴーン!」

爆炎に巻き込まれる無敵の怪物は、煙と閃光に包まれていく。場面が切り替わりエンディングに相応しい晴れやかな音楽流れ、朝日へと向かう軍用ヘリと共に「GET MEDALS 5236」と画面に表示された。 

(やった……の?)

終わった、と思わせて次にMAXBETボタンを押した瞬間にサプライズが起きて復活するのが、打ち手を喜ばす一つのパターンらしい。自分自身は出会ってないが、左右の客を見ていてそのことを十分にキャスは理解していた。恐る恐るボタンを押すと……通常BET音。洋館の入口フロアあたりに主人公が立ち、手前に見える燭台の蝋燭が風になびくだけだった。この台によく見られる衝撃的な音もなく、ほぼ無音状態が保たれている。

「終わった……」

キャスは両手を胸に寄せて目を閉じながら天を見上げた。閉じた目からは感極まったのに加え、長時間液晶画面とリールを凝視し続けたドライアイも相まって瞼の横から涙がにじみ出ていた。一言で言えば、解放感。何が起こるか分からない、いつまで続くか分からない緊張から解き放たれた喜びだった。そして光一に託された仕事をやり遂げた達成感が、よりキャスの心を明るくさせた。

(あとは50ゲームくらい回して終わればいいかな)

安堵に包まれつつキャスはレバーを叩き、淡々と通常プレイを進めていった。考えてみれば他の客の様子をときおり眺めてはいたが、プレミアムART以外の通常状態をまだプレイしたことはない。ヘビーメタル調のBGMがガンガン流れるART中と異なり、通常時はホラー映画を思わせるような静寂が漂っている。ボタンを押すタイミングで突然銃声が鳴ったり扉が開いてモンスターが現れたりするが、ここまでのハイテンションのせいで麻痺してしまったのか、これくらいのことではもう驚きもしない。

だが、通常時に慣れないキャスにも一種の「盛り上がり」が起こっているのが分かった。「キテる感」とも言えるだろうか、ゲーム数を重ねるに連れて演出が騒がしくなり、何かが起こりそうな予感を感じさせる。そして通常時が始まって10ゲーム目に、警報音と共に洋館を脱出する演出が始まった。

(これ……3~4ゲームでハズレかボーナスかARTか結果が出るやつだ)

通常時に戻って特殊リプレイやチェリーなど契機役は引いていない。胸の奥底から、収まったはずのじっとりとした嫌な感覚が蘇ってきた。洋館を脱出しようと主人公の男性はルートを選んでいく。青→赤→黄と順に信頼度が高いルートを選び、最後には他の隊員二人も合流している。そしてついに洋館の外へと出る。

(当たったのか……)

と、複雑な心境になった瞬間、突然シーンが切り替わり洋館の壁を破壊してタイラントが現れた。

「ふみゃっ!」

予想していないだけに奇声を発して腰を浮かしてしまった。主人公はタイラントに串刺しにされ、哀れ放り投げられてしまった。

(ふぅ、ご愁傷さま)

終わってほしいと思いつつ、逆転でハズレになってしまう残念さにも後ろ髪を引かれた。これで一連のARTが終わり、打ち手に期待させる演出も終わりを告げる。キャスは散々翻弄されたこの台に別れを告げるべく、最後のゲームを占めようとMAXベッドを押した。

「まだ終わらない!」

その瞬間、派手な効果音と共に、力尽きたはずの主人公がロケットランチャーを構えて復活した。


◇ ◇ ◇  


光一からのメールは「換金して店の前で待っていろ」とのことだった。

涙目になりながら再開したARTを消化し続けた。

店内に閉店の放送が流れると自分から店員を呼んだ。

台に保留されているクレジットは、リプレイ継続中はペイアウトできない。

そういう時に限ってリプレイが永遠と続き気まずい時間が流れた。

背後に千両箱、頭上にも3箱のドル箱。

運ぼとうしたら店員に止められた。

手持ち無沙汰にそばで見ていた。

ジェットカウンターで待つ他の客の視線が痛かった。

見たことの無い枚数のレシートを受け取った。

すぐに計算できたけど怖くて考えるのを止めた。

カウンターでは両手に持ち切れない特殊景品をビニール袋で渡された。

お金の匂いを微塵も感じさせない眼鏡を掛けた綺麗な女性だった。

店の裏口を出てすぐにある駐輪場内のプレハブでできた換金所に向かった。

そして。しかるべき一連の手続きを済ませた結果、目の前に二人の若い男が立ちはだかっている。

朝の行列で見かけたベースボールキャップのデブと、鎖を垂らしたパンク。

ホールの換金所はどちらかと言えば一通りの少ない場所に設置されている場合が多い。そして先程まで閉店ぎりぎりで打ち続け大量のコインを流さなければならなかったキャスは、換金所に来るのも一番最後だった。後から人がくる可能性も低い。

(ああ、メンドくさいなホントに)

キャスがため息をつくと、パンクの方が切り出してきた。

「お前、打つなんて知らなかったよ」

「用があるなら早くして。大声出すわよ」

「おいおい、穏やかじゃないな。挨拶してるだけじゃないか」

「私は用が無いと言ってるの。換金所閉まっちゃうからどいてくれない?」

キャスは二人の間を割って通り過ぎる。足止められはしなかったが、背後から声をかけられる。

「まさか小汚いオヤジの女になって、おこぼれ頂戴するとはな」

「てっきりタカシさんとデキてると思ったら、金の臭いがすると躊躇いなしなんですね」

キャスの足が止まった。振り返ることなくその場で立っていたが、やがて特殊景品の入ったビニール袋を持つ手が震え始めた。

「どんな手を使ったんだ? 一発一箱でいかが、ってか」

「ああ汚らわしいったらありゃしないですね。まあホールに出入りする女なんて、男付きか売女かサラ金行きの主婦くらいのもんですが」

「……臭えんだよ」

「ん?」

キャスは顔だけをゆっくりと横に向けると、面影から妖気を漂よわせるかのように、先程までと違うドスの効いた声色を響かせた。

「お前らの吐く息が童貞臭くて耐えられねえって言ってんだよ、このタコスケが。タカシの言いなりで小銭稼ぐしかできない能無し三流大学生は、黙って養分チューチューされてろっての」

デブとパンクは何を言われたか分からず間抜けな口を開けていたが、ようやく理解できると一気に暗闇の中で顔色を豹変させた。

「この女、手だけは出すなとタカシさんに言われてたが、もう許さねえ」

「制裁します、ドロドロ売春婦を矯正しますっ!」

にじり寄ってくるデブとパンクの気配を感じ、キャスは振り向いて体を対峙させた。

「テメエら、その腐ったタマ蹴り潰してやるよ」

突然、店の駐車場から男の声が響いてきた。

「そうなんだよ、ガコって言って腰抜かしそうな婆さんがいたから揃えてやったのよ。そうしたらさ『あんたはいい人だ、今度うちの孫を紹介するから嫁にもらってくれないか』とか言い出してもう大変よ。……そうそう、それからはもうペカるたびに呼ばれちゃって、こっちは全然集中できないわ、ろくに回すこともできないわ、散々な話だよ」

声は徐々に近づいてくる。

「で、そっちはどうだった? へぇ、エヴァで6掴んで3000枚? いいねえ景気のいい話で、今度飯おごってよ。お姉ちゃんのいるお店でもいいよな。それと、その店教えてよ、今度試しに俺も行ってみるから」

声の主が近づいてくるのに気付いたパンクとデブは、お互いに顔を見合わせてからキャスを睨みつけた。

「タカシさんの女だからって、これ以上付け上がるなよ」

「矯正はまた今度にしますっ」

そう言うと、小走りに換金所の横の脇道へと小走りで去っていった。

キャスは動かずに目で追いながら、その姿が大通りの人混みに消えていくのを確認した。戻ってくる様子がないのを悟ると、駐車場のアスファルトの地面に内股でペタンと尻餅を付いた。ビニール袋から特殊景品が零れ落ち、カラカラとプラスチックの転がる音がする。

「やっぱっそれってカチカチして設定を……あら、大丈夫かいお嬢さん。何だか気風の良い啖呵が聞こえてたけど」

途中まで声高に喋って耳に携帯電話を当てていた光一は、へたり込むキャスを見下ろすと携帯電話を畳んで胸ポケットにしまった。キャスは地べたに座り込んだまま光一を見上げると、一気に張り詰めていた感情を爆発させ、目の前にある光一の脛をグーで何度も殴った。

「怖かったんだから! 来るの遅いよ、バカバカバカッ」

「痛いって、キャス。悪かったよって、痛い本当に痛いって」

光一はしゃがんでこぼれ落ちた特殊景品を拾うと、泣きじゃくるキャスの頭を撫でた。


◇ ◇ ◇  


ソファにはまだ目を腫らしたキャスが正座を崩したような姿勢で足を下ろさずに座っている。

テーブルの上にはコンビニで買い込んだ弁当にジュース、光一の分のビールが置かれていた。当の光一は「先に用を済ませる」と言って自室に入ってしばらく経っている。

結局、二日連続で光一の部屋に来てしまった。いろんなことがありすぎたが、勢いで乗り切ってしまったせいか今になって光一のことを全然知らないことに気付いた。男の一人暮らしの部屋にしては広いような気がする。それに家具もそこそこ揃っていて、キッチン周りだけ生活感が無いのがどこか不自然に感じられる。そして何より、学生の狭いワンルームとは違って家賃も高そうだった。パチプロというのはこれくらいは平気で稼げるのだろうか。生々しいから聞くのも気が引けるが、興味深いことには違いない。

「あれ、まだ飯喰ってないのか」

キャスが居間を所在なさげにキョロキョロ眺めていると、光一が自室から出てきた。

「何してたんですか?」

「……まあ、日記付けるみたいなもんかな。収支付けて、今日の設定状況記録して、明日の狙い台を決める」

「へぇ……何か予習復習みたい」

感心した様子でキャスが言うと、光一は苦笑いしながらテーブルを挟む形でソファの反対側に座った。

「学校行ってる時にはこれっぽっちもノートなんて開かなかったけどな。今じゃあの頃よりよっぽど紙とペン使ってるよ」

「紙とペンって、パソコンは使ってないんですか?」

「ああ、ホームページとメール用にパソコンは使ってるけど、どうにもキーボードは苦手でね」

「ふーん……結構アナログなんですね。相手は機械なのに」

「それを使ってるのは店で結局は設定師とか店長とか人だろ。それに最低限の設定とか挙動は頭に入れてある」

「何か説得力あるな、実際にこんな部屋住んでプロやってるんだから」

「かつかつだよ。いつ飢え死にしたって不思議じゃない」

「そうなんですか?」

「一寸先は何とやら、貯金が尽きたらハイそれまで、家賃払えなくなったら追い出されて呆気無くホームレスに大変身だ」

「……」

やはりこれ以上生活のことを聞くと生々しくなりそうだった。キャスはテーブルの上のコンビニ袋から弁当を取り出した。『今夜もガッチリ弁当』という海苔ご飯に揚げ物やハンバーグがぎっしり詰まった1・5人前の量だった。それにレジのそばに陳列されていたフライドポテトにアメリカンフランクも取り出す。キャスは嬉しそうにフランクの上にケチャップとマスタードをかけていった。

「あの、付かぬ事をお伺い致しますが、最近の若い女性はんはそんなに召し上がるのでございますか?」

「何語ですか、それ。お昼にも言ったじゃないですか、頭使うと猛烈にお腹が減るんです」

「はあ、じゃあビールだけで済んじまう俺はどうなんだろうな……」

「よく分からないけど、光一さんは空気に漂いながらカロリー消費量少なそうな感じですね。ふわふわーって動いて、ふにゃふにゃーって打って、力が抜けてるような」

「それこそ何語だ。それよりどうだったバイオは」

キャスはアメリカンフランクをくわえたまましばらく考えると、ガブリと肉を喰いちぎった。

「すごかったです、とにかく止まらなくて7800枚くらい。一日で私の一ヶ月の生活費が稼げちゃいました」

「そりゃあ良かったな」

光一は額面には興味なさそうに缶ビールのプルトップを開けた。飛沫がテーブルに飛び散ったが、気にせずに光一は缶に口を付ける。

「でもあれ、光一さんの続きもらったわけじゃないですか。やっぱりお返しした方がいいかと」

「持ってろ。博打の基本は元手の大きさだ」

「元手って……どれくらい持っていくものですか?」

「まあ十万くらいだろ。天井追いかける場合もあるだろうし、設定分かってんなら当たるまで張りこむこともある」

「十万! そんなのいつも持ち歩いてるんですか!? お財布落としたらどうするんですか!」

「いくら入ってようが落としたら終わりだろ。別に遊ぶために持ってるわけじゃない、仕事の金だ」

「やっぱり何だか怖い……」

と言いながら、呆気無くやっつけたアメリカンフランクの串を置くと、フライドポテトをおかずに『今夜もガッチリ弁当』にキャスは箸をのばした。

「俺はお前の食欲が怖いよ。で、お前さんの収支はいいとして周りの様子はどうだった?」

「うーん、とりあえず覚えていること言えばいいですか?」

「ああ頼む。お前の分析を含めてもいいし、分からないことはそのまま起こったことを話てくれればいい」

光一は缶ビールを置くと身を乗り出して話を本腰で聞き始めた。

キャスは話し始めた。

全台のボーナス回数とART回数。

卵焼きを一口で撃墜。

両隣の特殊リプレイ回数とそれに対するボーナスの当選状況。

テリヤキソースがてかてかと眩しいハンバーグが部位破壊されていく。

台枠ランプから推定した高確率ゾーンでの特殊役当選時、ART当選状況。これも自分だけでなく両隣を含む。

海苔ご飯の広大なる地平が、瞬く間に焦土へと変わり果てていく。

いかにゾンビが恐ろしく、タイラントが無敵だったか。

お新香を控えめに一口。

渡辺という店員がキャスをどれだけ紳士的に扱ってくれたか。

ビールを吹き出しかけた光一が弁当の唐揚げをつまみ食いし、無言で女子大生VSオヤジの視殺戦開幕。

フライドポテトと『今夜もガッチリ弁当』が哀れ胃袋の捕囚となった頃には、キャスが打ち始めた午後以降の新台島の動向や、まだ解析が判明していないバイオハザード自体の挙動が明確にリポート完了していた。そしてキャスが相当の怖がりであり、渡辺が光一からのフォロー依頼を必要以上にこなしていたかも分かった。

「さて、どこから何から話したものやら」

改めてキャスの驚異的な記憶力にため息をつきつつ光一は切り出した。

「とりあえず、あいつら誰?」

キャスは「やはり来たか」という顔で少しの間黙り、ようやく口を開いた。

「同じ大学の学生です」

「そんだけ?」

「で収まるわけなわけないですよね。さっき絡んできた二人は、ただそれだけですけど」

「昼の男は彼氏、いや元彼氏ってとこか?」

「元かどうか微妙ですけど、まあそんなところでして」

テヘヘと頭を抱えながら舌を出してみせた。

「だってお前さん、どう見てもパチスロ打つの初めてじゃないもんな。さしずめその彼氏といっしょに打ってたんだろう。女一人でパチスロ打つ理由がない」

キャスは少しだけ反抗的な顔で口を尖らして反論した。

「それって偏見ですよ。女だからパチスロやらないなんて。ま、私の場合は当たりですけど。でもタカシが打っているのそばで見ていただけど、ほとんど打ってなかったです」

「ふーん、それにしては」

光一はセブンスターの新しい箱を取り出し、トントンと叩くと最初の一本を取り出した。

「目押しできるわ、仕組み知ってるわ、妙に詳しいよな。店員呼んだのは初めてみたいだったけど」

「それはその……私、どうやら動体視力も良かったり、女でもホールとか全然平気だったり、記憶力が人よりちょっとだけ優れていたりして」

「そのタカシって男、驚いてなかったか?」

「最初は驚いてました。でも何だかだんだん違ってきて、私を利用するようになってきたんです」

光一はタバコに火を灯して一息吐くと、頭をポリポリ掻いた。

「何だかヒモ男に貢ぐ女の悲哀を描く劇画系マンガのような展開になってきたな。いいよ、無理して話さなくても」

「ここまで話したんだから聞いてください!」

「あ、ああ」

予想に反して勢いづくキャスに気圧された光一は黙ってうなずいた。

「タカシは大学の研究室で助手をやってます。大学院を出て、就職せずにそのまま数学科の研究室に残ったと聞いています」

「頭よさそうだなー」

「いいですよ、悪魔みたいに。世界に計算できないものや解けない問題は無い、と思ってるんじゃないかしら」

「ああ、好きよそういうタイプ。いいねー、若いっていいよねー」

「何ですか、その投げやりな反応。ちゃんと聞いてくださいよ」

「わりぃわりぃ。続けてくださいな」

「確率統計学のために、と私が言っていたのは本当です。私がゼミで研究室に出入するようになって、そこにタカシがいました。話をしたら、私が前に出したレポートが面白かったとか、この理論を持ち込めば君の検証や仮説を実証しやすくなるとか。すごかった。私が見たり聞いたりして感じていたことが実は法則化できるんじゃないかって思っていたことを、タカシは全部既存の数学的な考え方で説明してくれた。クラメールの連関係数とか、カイ二乗分布とか」

「その具体例は、学の無いオッサンへの嫌がらせか?」

「あ、今のは名前がそれっぽくて覚えてるだけです。もう分かりやすいし優しいし誉めてくれるし……」

「そんで、落ちたと」

「………落ちました」

キャスは顔を真赤にして口を尖らせながら自らの過ちを認めた。

光一は聞いているだけで膨満感を覚え、照れてうつむいているキャスをにやにやと見つめていた。

「おじさんはもう若者のほとばしる青い春の息吹にお腹いっぱいだよ」

「もう、バカにして」

「バカにしてないよ。そういうこと、とても大事だよ」

光一は向かい合っていた位置から立ち上がると、ソファの上に正座しているキャスに近づいた。何をしようとしているのか分からずキャスはきょとんとして動きを目で追うだけだった。そして追跡する対象が近づき、最終的には自分から10センチで止まった。

「失礼」

「きゃっ」

肩が触れるか触れないかギリギリの距離で隣に座る光一。ソファが柔らかく沈んだ分、キャスの体が光一の方に傾く。偏った体重を支えることができず、キャスの体は光一の懐に倒れこむようにして収まった。座りながら膝枕をしている姿勢だった。

キャスはあわてて体を起こそうとしたが、そうするには光一の太ももに手を置かなくてはならなかった。躊躇していると、光一はキャスの肩に手を優しく置いた。

「まあお腹もいっぱいになったし、今日はこの辺で。一日中、打って、騒いで、泣いて、もう疲れたろ」

「………」

キャスはすぐに答えなかった。いや、答えられなかった。口を開くと急激に高まっている胸の鼓動が光一に聞こえてしまいそうで、ただ顔をしかめながら手で胸を覆っていた。

「……」

「安心したよ」

「……何ですか?」

「お前さん、処女だろ」

「!」

「態度で分かる」

「ちょ、何を!?」

「あと匂いも当社比150%で純血性をアピールしている」

「うそ、匂いって!?」

キャスは思わず自分が着ている服の胸元を鼻に当てた。そして体の向きを変えて見上げると、光一がしたり顔でキャスの肩をぽんぽんと叩いた。

「うっそ、もう最低! 人が弱ってるからって女性に対して失礼っていうか、信じられないこのエロオヤジっ!! 匂いとか分かっても言っちゃいけないことでしょ、何よ処女の匂いなんて大体分かる訳ないじゃないドラキュラじゃないんだから、もう死ね、死んじゃえ、パチスロの台に頭突っ込んで感電死しちゃえ!」

ソファ上で光一からマウントポジションを奪い、泣きじゃくりながら平手打ちを連打する処女の勇姿。

光一はキャスが暴れるのに任せたままカラカラと笑っていた。やがてキャスが疲れ果てて手を止めると、光一は耳元で囁いた。

「今日、アイツと何があったか知らんけど……まだ好きなんだろ」

キャスは、光一から離れてソファから降りると目を合わせずに答えた。

「……うん。すごく。なぜだか訳分かんないけど、好き」


(設定4へつづく)

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