第33話 魔物つかい

 朝。


「う~ん、今日も爽やかな朝だ」


 時計を見ると、朝の五時。

 ナオミが起こしてくれる時間までは、まだまだある。


「さァて、豚の世話をしなきゃな」


 作業服代わりのシャツと吊りズボンに着替えると、オズワルドは納屋へと向かった。

 使用人室の前で一度立ち止まる。

 ナオミもどうやらまだ寝ているようだ。

 黙っていれば、ナオミは豚の世話をすると言い出すだろう。

 しかし、それはさせられない。

 本来なら昨日潰している予定だったし、余計な仕事を増やす訳にはいかなかった。

 そもそも豚の世話は通常、メイドの仕事ではない。


「ドワオォォォオオオオオッッ!!」


 豚が叫ぶと、窓ガラスがビリビリと震えた。

 オズワルドは豚の世話をした事はないが、ウバスの実家では山羊を飼っていたのだ。

 母が時折、手慰みにチーズを作るためだった。

 使用人が世話をするのを時折見ていたし、基本的な所は変らないだろう。


「まあ、実際にやった事はないんだけどね。さ、まずは……掃除かな?」


 熊手を手に納屋へ入る。

 さほど大きくない納屋は、豚には少々窮屈そうだ。

 以前のアパルトメントの管理人は、トラックを入れていたという。


「もしかしたら、コイツも乳が採れるかな?」


「やめた方が良いでしょう」


 振り返ると、昨夜部屋を訪れた青年士官が立っていた。


「おはようございます。ええと、ヨーク少尉」


「中尉です。おはようございます、オズワルドさん」


 ヨークは灰色の野戦服姿だった。

 戦闘以外にも作業全般に使われるもので、兵との目立つ違いはズボンの裾が広がった乗馬ズボンになっていることだ。


「豚の乳は量も少なく、獣臭くて美味くないと。以前部下が言っておりました」


「そうだね、美味しかったらみんな飲んでるよね」


「ええと……その……一つお願いがあるのですが。この怪獣……いや豚の世話を、私にお任せ願えませんか?」


「どうして?」


「そ、それはその……私も都会育ちなもので、あの、ちょっと憧れていたんですよ。その……大自然の恵みに触れる仕事に」


 家畜の世話を嫌がる者が多いので、こんな申し出は珍しい。


「そうなんだ。じゃあ、お願いするよ。正直、僕もやり方をよく知らないんだ」


「は、はは……お、お任せを」


 暑がりなのか、ヨークは額に汗を浮かべている。

 かと思えば、脚が震えているのだ。

 陸軍士官だけあって、よく歩くから疲れているのだろう。

 小さな声で何かをブツブツと独り言を呟いている。


「昨日はごめんよ。いつか、ウバスの僕の家においで。歓迎するから。緑が一杯だよ」


 むしろ緑しかないが、決して自然が一杯という訳ではない。

 農村の風景は、何世代にもわたって人の手で造られたものだ。

 人がいなくなれば、あっという間に原野に埋もれてしまうだろう。


「そ、それは楽しみ……オズワルドさん危ない!!」


「ズオオッ!!」


 豚の頑強な鼻が、オズワルドをビー玉のように吹き飛ばす。

 衝撃の後、身体にかかる重力は一瞬にして消え失せ、景色が何度も何度も回転する。

 時間にして、ほんの一瞬。

 二階の壁に叩きつけられたオズワルドは、一瞬張り付いたように止まり、壁に沿って地面に落下した。

 頭上からはパラパラと小さな破片が落ちてくる。

 壁にはヒビが入っているようだが、幸い穴は開いていない。


「あわわ……な、なんて事だ……。た……大変だ! くそう、軽はずみに『あんな事』言わなきゃよかった! 未来ある若者を……私が殺したも同然だ……」


 飛ばされた距離は十メートルほど。

 衝撃は大きかったが、全く怪我はしていない。

 顔面蒼白のヨークが駆け寄ってくるが、オズワルドは既に立上がり、尻に付いた埃を払っていた。


「やれやれ、乱暴なやつだな。まあ、僕はアイツを喰おうとしているんだから、お互い様か」


「……む……無傷……?」


 ヨークは驚いた顔をしているが、豚は鼻を武器にするもの。

 向こうもまだ慣れていないのだ。当然と言えば当然である。


「ありがとう、ヨーク中尉。そういう事ならよろしく頼むよ。じゃあ僕、今日から学院に行くから後はよろしくね」


「……………………」


 オズワルドはヨークに熊手を渡すと、きびすを返した。


「…………………………く、くそう……か、怪獣め……! み、見てろよぉ……もうすぐ援軍が……」


 ヨークが何か言っているようだが、小さな声だったのでよく聞こえなかった。

 遅刻してはたまらない。

 オズワルドは構わずに自室へ戻った。


「おはようございます、オズワルドさま。今日はずいぶん早起きなのです」


「ああ、でも明日からは少しゆっくりさ」


 ヨークが豚の世話をしてくれると知ると、ナオミも安心したようだ。


「よかったのです。あの豚さんにしゃくり上げられると、何メートルも吹き飛んでペチャンコになってしまうのです」


「はっはっは、そんな訳がないだろう。僕はピンピンしているよ」


 シャワーを浴びて朝食を摂り、着替えて家を出る。

 久々の通学路では、途中で珍しい物を見た。

 リベットで組み立てられた、巨大な菱形の車体。側面には大砲。

 左右をぐるりと履帯キャタピラが取り囲み、後ろには方向転換用の車輪を引きずっている。


「お、あれは陸軍のタイプⅡ主力戦車だ。訓練かな?」


 実際に見るのは初めてだった。

 戦車とは、先の大陸戦争の末期に登場した超兵器で、膠着した塹壕戦を打破するために開発されたものだという。

 鋼鉄の装甲は銃弾をも弾き、魔法は全く効かないそうだ。

 人殺しのための禍々しい兵器でありつつも、様々な新技術が投入されているようで、純粋に機械としては魅力的でもある。

 敵だった連合軍でも同様の兵器を開発し、実戦に投入していたという。

 両軍とも数が少なかった上に故障が多く、戦局を動かすほどの活躍はしていない。


「カッコイイなぁ」


「でも、ちょっと怖いのです」


 ナオミはオズワルドの背中に隠れてしまった。


「大丈夫だよ、もう戦争は終わったんだから」


 戦車は舗装を痛めないように、履帯にゴムの覆いが付いているようだ。

 後ろには二十人ほどの歩兵が列を成し、重機関銃と弾薬を積んだ馬車も続く。

 肩を落とし、疲れ切った暗い表情の兵士たちはアパルトメントの方角へ向かっていた。


「……あれっ?」


「どうしたんだ、ナオミ」


 ナオミは棒立ちになると目を擦り、何度も瞬きをした。


「いえ……見間違いなのです。戦車にサラちゃんが乗ってるように見えたのです。その、上の穴から顔がぴょこん、って」


 オズワルドは戦車の上部ハッチに目をやるが、誰も居ない。

 いや、すぐにカイゼル髭の中年男性が顔を出した。

 丸形の珍しいヘルメットとゴーグル。

 首からは双眼鏡を提げ、制服も他の兵士とは違う戦車兵専用の装備だ。


「はっはっは、そんな訳がないだろう。女の子が戦車なんて、漫画じゃあるまいし」


 ◇ ◇ ◇


「おはよう!」


 教室のドアを開くと、教室内の喧噪は一気に静まり返った。

 仕方がないと言えば仕方がないかもしれない。

 自分の席に付くと、ヘレン・フリーマンが読んでいた本を閉じだ。


「おはよう、ヘレン。久しぶりだね」


「…………おはよう。オズワルド、先週からあなたの事で学内の話題は持ちきり」


「いやあ、照れるなあ。僕は目立ちたくないんだけど」


 実際にそう思っている訳ではないが、ライト・ノヴェルによると『目立ちたくない』と言うのがマナーらしい。


「悪魔のオズワルドが次の生け贄を探している、って」


「えっ」


「みんなあなたを恐れている。言動には気をつけて」


「はは……困ったな」


 ヘレンはまた本を開いた。


「…………」


 ヘレンが読んでいる本は、少女漫画だ。同じ本をナオミから借りて読んだ事がある。

 内容は、札付きの不良が仔猫に餌を与えている所をヒロインの少女が偶然見て、彼への認識を改めるというもの。

 オズワルドも動物を飼っている。


「ねえ、ヘレン。豚は好きかい?」


「ええ。私はポークソテーが好き」


「いや、ペットとして」


「ありえない」


「そっか……そうだよねえ」


 これでは動物に優しいアピールなどできそうもない。

 そもそも、あの豚は食べるために買ったのだ。ペットではない。


「しばらく大人しくしているか……」


 都会の人間関係とは、ひどく面倒なものであった。

 時折、『怪獣』という言葉が耳に入ってくる。

 ヘレンは長い前髪を手でよけると、オズワルドに怪訝な瞳を向けてきた。


「あなたが魔界から怪獣を呼び出して、夜な夜な人を襲っている。そんな噂が立ってる」


「はっはっは、そんな訳ないだろう。漫画の読み過ぎだよ」


 やっとの事で、オズワルドの新生活が始まろうとしていた。

 しかし、そこに居て然るべき学友バージニア・リッチモンドは、その日学院に来なかった。

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