第32話 はたらきもの
その日の夜。
バタバタと階段を慌てふためいて昇る音が響く。
「おいオズワルド! 納屋に怪獣が出たぞ! お前は早く逃げろ!」
アパルトメントのドアを、ノックもなく乱暴に開けて飛び込んできたのはボールドウィン侯爵だ。
腕には血管が浮き上がり、戦いの予感に震えているようだが、戦いなど起きるはずがない。
オズワルドには心当たりがあった。しかし、怪獣扱いはいささか不満がある。
「怪獣じゃありません。僕の豚です」
「ああ? お前、何を言ってるんだ!」
「潰したらすぐに処理しないと味が落ちるので、置いてあるだけです。どうせ納屋は空でしょう」
オズワルドは、豚をバージニアにプレゼントしようとして突っ返された事を黙っていた。
恥ずかしかったのだ。
まだまだ見栄を張りたいお年頃である。
「潰す? 処理? あの怪獣をか?」
「だから怪獣じゃなくて、ちょっと大きいだけの豚ですよ。侯爵だって肉を食べるでしょう? 残酷だというのはただのエゴですよ。人は他の生き物を犠牲にしなきゃ生きられないんだ」
何度も繰り返したやり取り。
この話をする時、オズワルドは都会の人間が嫌になっていた。またか、という気分である。
彼ら都会人は、現実から目を背けているようにしか見えないのだ。
肉屋の肉だって元々は生命だし、魚を捌くのと何が違うというのだろう。
「そりゃあ確かに、お前の言う事は正しいが……正論を言えば良いってもんでもねえだろうが。暴れたら街が滅びるぞ」
「動物が暴れるのは大抵、人間の側に原因があります」
「だからそういう次元の話じゃねえっつーの。オレは知らねえぞ、ったく」
侯爵は腕組みを解くと、鏡の前でポージングを始めた。
ボディビルの『基本ポーズ』は八種類あり、一度ポーズを取るごとにクルクルと回転するものらしかった。
「……何かご用ですか?」
「ああ、そうだった。すっかり忘れていたぜ。お前に会わせたい男がいる。……ヨーク少尉、入れ」
「だから中尉です。……失礼します」
入ってきたのは、背の高い痩せ型の男だった。
陸軍士官の制服に身を包んでおり、襟の階級章を見ると中尉であることがわかる。
軍隊の士官になれるのは貴族だけなので、必然的にヨークも貴族だ。
「お初にお目に掛かります、オズワルド・ノートンさん。私は陸軍のビクター・ヨークと申します」
「よろしく」
オズワルドはヨークと握手をする。
ヨークは細身だが、手はゴツゴツして小さな傷が多くある。
貴族には珍しい手だ。
「……ああ、この手ですか? 陸軍は戦闘よりも穴掘りがメインですからね。ふんぞり返って指図するだけでは、兵は言う事を聞きませんので……お見苦しいものをご覧に入れ、申し訳ありません」
「いや、僕は美しい手だと思うよ。働き者の証だ」
オズワルドがこんな手を見たのは、王都に来て初めてかもしれない。
故郷のウバスでは、みんなこんな手をしていたのを思い出す。素直に好感が持てた。
少なくとも、お茶会に出席していた多くの貴族よりも、ずっとだ。
「オズワルドさん。今日、お茶会で何か変った話など……ありませんでしたか?」
「う~ん……豚の話題で盛り上がったね」
オズワルドはお茶会の流れを反芻する。
参加していたのはいずれも王立学院の学生たちらしく、バージニアを除いて面識の無い者ばかりであった。
気になるのは、バージニアがいつも話す漫画やライト・ノヴェルの話を一切しなかった事だ。
その点では異様だったと言える。
「他には?」
「……ああ、そうだ。バージニアが、僕を何かのグループに勧誘しようとしたみたい」
ヨークは途端に厳しい目つきに変った。
冷酷な軍人の目だ。
「オズワルドさん。それ……何のグループですか?」
「それが……途中で豚が目を覚まして騒いだものだから、有耶無耶に」
豚は魔法で眠らせたはずだったが、予定よりも早く目が覚めてしまったのだ。
縛っていたため暴れる事は無かったが、怒りに満ちた声で喚き散らして話どころではなくなってしまった。
「キザでイヤミな執事に追い出されちゃったよ。あいつ、顔は良いから女の子には人気あるけどね、口は本当に悪いんだ。……まあ、良いやつではあるけど」
「……なるほど。『シルバー・ピジョン』ですか」
思わずぎょっとするが、考えてみれば何と言う事はない。
怪盗の正体は政府も承知のはずだ。
「でも、彼とは裏取引が成立しているはずだろう」
「裏取引とは聞こえが悪い。でもまあ、彼の事はそれで良いのです。問題はあなたですよ、オズワルドさん」
「僕?」
「あなたの魔力を欲しがる勢力が、無いとも限りませんからね」
ヨークは目を逸らした。
遠回しな言い方だったが、頭の中でパズルのピースがカチリと組み合う。
「……まさか、バージニアが『マイオリス』だとでも言うんじゃないだろうね」
そんな事はない、という言葉を期待していた。
しかし、ヨークは俯くばかりだ。
「……その可能性も有り得る、という事です」
「失礼な事を言わないで欲しいな。……出て行ってくれ」
「これは根拠があっての事では無く、あくまで仮定の――」
「出て行ってくれ」
「…………」
ヨークとボールドウィン侯爵は、無言で出て行く。
一人になったオズワルドは、誰に言うでもなく呟いた。
「バージニアが『マイオリス』だって? バカバカしい。そんな事、ある訳が無いじゃないか」
しばらくして、紅茶を載せたトレイを持ってナオミが入ってくる。
「お客様はお帰りですか?」
「うん」
ナオミはカップを一つだけ、オズワルドの前に置いた。
いつもの紅茶とは違う香りだ。
「オズワルドさま、すこし怖い顔をしているのです」
「そ、そうかな?」
自分では全く気付いていなかった。
「はい。気分が落ち着くハーブティーを淹れたのです」
「……ん、ありがとう」
口を付けると、ナオミの言うとおり落ち着く香りが鼻孔をくすぐる。
嫌な事など考えず、よく眠れそうだ。
ナオミの手に視線を向ける。
細くしなやかな指だが、水仕事も多いからだろう。
関節には少しひび割れが出来ている。
爪はくすんでおり、何か所か逆むけができていた。
「…………」
昨日、スラムで出会った子供たちを思い出す。
スクラップヤードから使える資材を回収したり、マッチ工場で朝から晩まで働いたり、煙突を掃除したりして生計を立てているという。
誰の力も借りずに。危険を顧みず。煤にまみれて。泥にまみれて。働き者の手で。
彼らの方がオズワルドよりもよっぽど逞しく、よっぽど強いと確信したのだ。
対してオズワルドはどうだろうか。
世話をしてくれるメイドがいなければ、小作料を納めてくれる農民がいなければ、数日で干上がってしまう。
そんな脆い存在だ。
「ナオミ」
「はい、オズワルドさま」
「君がいないと、僕は生きていけないだろう。……いつもありがとう」
「え……? そ、そんな事……もったいないお言葉なのです。し、失礼しますです」
ナオミは顔を真っ赤にして使用人室に引っ込んでしまい、部屋にはオズワルド一人が残されてた。
窓の外には、スモッグで霞んだ三日月が浮いていた。
静かな夜だ。再びカップに口を付ける。
ナオミの性格のように暖かで、優しい味だった。
「ギャオオオオオオオッ!! ドワオォォォオオオオオッッ!!!!」
納屋から豚の咆哮が響き、夜の帳を切り裂いた。
ガラス窓がビリビリと震えている。
「ん…………やっぱり、ちょっとうるさいかな?」
◆ ◆ ◆
「閣下」
「なんだ」
その頃、一階ではカーターとヨークが膝をつき合わせていた。
もちろん『マイオリス』対策の話し合いだ。
「あの怪獣は使えます。私に良い考えが――」
ヨークのアイデアは、思いもよらぬものだった。
確かに、それならば一網打尽も有り得るだろう。
「なるほど。だが、そのアイデアを使うなら、近所からの苦情はお前が受けるんだ。いいな!」
「ええ……? 勘弁してくださいよ……」
ヨークは情けない声を上げる。
この男はいつも大事な所で日和るのだ。
カーターはクローゼットを開くと、来客用の布団を取り出す。
「言い出しっぺの法則だ! お前は今夜から泊まり込みだからな! 使うまで世話もしろよ!」
「え? そんな!」
「オレはオズワルドに怪獣を潰さないように言ってくるぜ。じゃあな、逃げるなよ!」
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