第19話 何を信じる
「オズワルド。これをやる」
ボールドウィン侯爵がオズワルドにくれたのは、ラムネだった。
「ありがとうございます。いただきます」
「どうせなら屋上へ行くか。今日は珍しく天気が良いぜ!」
ラムネとは、クエン酸と重曹を砂糖水に溶かし、発生した炭酸ガスでガラス玉を押さえつけ、封をする清涼飲料だ。
レシピを発明したのはジョージ王とされていた。
「ふんっ!」
ボールドウィン侯爵は親指でラムネの玉を力任せに押し込むと、腰に手を当てて飲み始めた。
「――なんだァ? もう無くなっちまったぞ!?」
ラムネの大半は床のコンクリートに吸い込まれ、しゅうしゅうと音を立てている。
秋とは言ってもまだまだ気温は高く、十時の開店前には立っているだけでも汗が噴き出すほどだ。
オズワルドはは玉押し器でビー玉を押し込むと、しばらく待ってから手を放した。
押してすぐに手を放すと中身が噴き出してしまうのだ。
口を付けると、僅かな酸味と独特の香りが鼻孔を包む。
炭酸が弾け、のど越しが心地よい。
いつもはうっすらともやが掛かった太陽が、今日は珍しく青空の中で輝いていた。
このウェール・デパートメント・ストアは、周囲でもひときわ背の高い建物だ。
視界全てが空。上に見えるのは、太陽と真っ赤なアドバルーンだけ。
バルーンの垂れ幕には、『偉大なる大芸術家、カーター・ボールドウィンの世界展』の文字がでかでかと書かれている。
今日もたくさんのお客を捌かなくてはいけない。
腕時計を見ると、そろそろ開店の時間だった。
「ふう……今日も一日大変そうですね。天気が良いから、日陰を求めてお客さんがたくさん来ますよ。迷子が出なきゃいいけど」
「そうだなァ」
ラムネを飲み終え、オズワルドは立ち上がる。
「もうすぐ開店の時間ですね。ごちそうさまでした。美味しかったです」
開店十分前には配置に付かなければならない。
開店直後と昼前後、そして夕方以降。
混雑する時間帯は決まっている。
侯爵がオズワルドの襟を指してきた。
「オズワルド。ネクタイが曲がっているぞ」
「あ、すいません」
「お客様の目に入る仕事だからな。気を抜くなよ」
「はい、気をつけます」
「お前なら、きっと正社員も夢じゃねぇ。しっかりな!」
侯爵はオズワルドの背中を軽く叩いたつもりなのだろうが、二メートル近い大男の手のひらから来る衝撃は強烈だった。
「頑張ります! いつか正社員になって、両親に楽を――」
ネクタイを直しながらオズワルドは違和感に気が付いた。
「…………?」
「どうした?」
「あの……よく考えれば僕、ここに仕事に来たわけじゃ……」
警備員姿はあくまでも変装であり、本来は怪盗をおびき出すための偽装だったはずだ。
しかし、オズワルドはいつのまにか普通に仕事をしていた。
ノートン家の財力は、貴族としては裕福とは言えないが生活には何の問題も無い。
「……………………いいか、オズワルド」
侯爵はオズワルドの両肩に手を置くと、軽く力を込める。
「力だけじゃどうにもならねぇ事もあるんだ。お前は若い。まだまだ学ぶことはたくさんある! これもその一つだ……」
そう言った後、侯爵は目を逸らし何とも言えない奇妙な表情を浮かべた。
「そうそう、そんな事より『シルバー・ピジョン』の予告状が届いたぜ」
「先に言ってください!」
侯爵がポケットから取り出した封筒は、やはりヒューストン夫人に届いた物と同じだった。
おそらく本物、これは予告状であると同時にオズワルドへの挑戦状でもある。
思わず拳を握りしめる。決して負けるわけにはいかない。
この王都中を騒がす大怪盗を捕らえ、名誉を挽回しなくてはならないのだ。
「こちらのシナリオ通りだ。ここまでは、な。気を抜くな」
「…………はい!」
その日から展示場には、黒山の人だかりが尽きなかった。
同じ内容の予告状が各新聞社にも届き、また記事を読んだ一般市民が多く野次馬として訪れたのだ。
「閣下! 対策はどのような形で!?」
「因縁の対決となりますが、勝算は!?」
「閣下はすでに『シルバー・ピジョン』の正体に勘付いておられるとのことですが、それは!?」
禁止されているにもかかわらず、写真機のフラッシュが引っ切りなしに眩く光る。
狙われている『風神の籠手』が他の作品とテイストが大きく異なる事など彼らにはどうでも良く、ただ怪盗に狙われているという事実だけが重要らしかった。
「フラッシュはご遠慮ください! フラッシュは禁止です!」
オズワルドがいくら叫んでも一向に効果は無い。
マグネシウムの燃える煙がもうもうと立ちこめていく。
開店から閉店まで、ひっきりなしに人波は続いた。
◇ ◇ ◇
そして、予告の前日。
この日も開店と同時に多くの人が訪れた。
特ダネを掴もうと、いつもにも増して記者が多い。
「ボールドウィン侯爵閣下。いよいよ明日が予告の日ですが、対策はどうなっておられますか?」
新聞記者は興奮した口調で侯爵に詰め寄る。
その口調からは、犯罪を事前に抑止しようなどという考えは微塵も感じられない。
発行部数。彼らにとってそれこそが絶対の正義だ。
「細けぇこたいいんだよ! 来たらとにかくふん捕まえる、それだけだ!」
「ほほう、具体的な策はございませんか。なるほどなるほど」
仮にあったとしても、記者相手にそうそう簡単に話すわけには行かない。
手の内を明かす事になるからだ。
『風神の籠手』は二十四時間体制で厳重な警備が敷かれているし、ここからは見えないが衛兵隊も館内で待機している。
しかし、ヒューストン家の事件では肝心の衛兵隊長がシルバー・ピジョンの変装であった。
結局のところ、記者の言う通り無策に近いのも確かだ。
午後を少し回った頃、オズワルドは交代して警備員控室に引っ込んだ。休憩時間だ。
「お……お待たせいたしました」
「お、サンキュー。今日もきれいだね」
「そ、そんな事ないです! し、失礼しますっ!」
ナオミはナオミでせわしなく控室を駆け回っていた。
侯爵からの要請で、衛兵隊と警備員の給仕を手伝っているのだ。
「あっ、オズワルドさま。お帰りなさいませ」
「ただいま。僕のことは構わないから、みんなの分を頼む」
「は、はい……」
ナオミは申し訳なさそうに頭を下げると、奥の簡易厨房に駆け込んだ。
窓際に並んだソファに腰掛けて一息つく。
室内を見渡すと、警備員や衛兵たちが思い思いに寛いでいた。
一見緊張感が無いように見えるが、来客一人一人に目を配り、不審な者がいないか気を配るのは想像以上に疲れる。
こういったサポートも、彼らの負担を軽減するために無くてはならないものだ。
「お待たせしましたっ!」
いつの間にか、ナオミが弁当箱と水筒を持って立っている。
「だから、僕はいいから――」
「いいえ。オズワルドさまも一緒に働く仲間なのです。おざなりにはできないのです」
「……そうか。ありがとう」
ありがたく弁当に箸を付ける。中身は鶏の唐揚げ、サラダ、麦飯に煮物。
弁当屋に注文して作らせた物で、平民の労働者向けのメニューだという。
平らな形の弁当箱を箸でつつくというスタイルは、かつてジョージ王が発明したと言われている。
「オズワルドさまなら、いつかきっと正社員に……ううん、何でもないのです」
「ふふ、侯爵にも言われたよ。でも、それも悪くないかもしれないな」
汗を流して働くという経験は、オズワルドにとって新鮮なものであった。
働いて自分の力でお金を稼ぐ。
平民にとっては当たり前の事だが、貴族には感覚としてどうしても理解できないところがあった。
貴重な経験だ。実際の経験は何物にも代えがたい資料である。
「それから、こちらも……」
ナオミが差し出した皿には、イチゴの載ったショートケーキ。
「デビッドさまが、バージニアお嬢様からの差し入れと言って持ってきてくださいました。他のみなさまはもうお召し上がりです」
「そっか、ありがたいな」
オズワルドはケーキを受け取ると、弁当箱の隣に置いた。
ケーキはデザートに取って置くことにする。
「おいしそー」
食事に夢中になって気が付かなかったが、いつの間にかサラが隣で指を咥えていた。
「食べるかい?」
「いいのー? やったー」
唐揚げを一つ、弁当箱の蓋に載せてやると、サラは幸せそうな顔で唐揚げにかじり付いた。
「もちゃもちゃ…………怪しそうなひと、いたー?」
「怪しいっちゃみんな怪しいよ。でも、予告は明日だし」
「そっかー」
サラの視線はテーブルの上へと注がれている。
ケーキだ。ケーキを見ている。
「…………その、ケーキ食べる?」
「えー。わるいよー」
そう言いつつも、サラは決してケーキから目を離そうとしない。
バージニアからの差し入れだけあり、高級店のいかにも美味しそうな逸品だ。
サラの喉が動くのが見えた。
「……僕はお弁当だけでお腹いっぱいだよ。お食べ」
そう言うと、サラは瞳を輝かせてケーキに手を伸ばした。
「しょうがないなー。のこしたらもったいないもんねー。いただきまーす」
「ははは、たんとお食べよ」
欲しいなら欲しいと素直に言えば良いのにと思いつつ、オズワルドは思わず笑みを浮かべた。
サラは口の周りをクリームで真っ白にしている。
「もちゃもちゃ…………わたしだったら、あらかじめ宝物を持ちだしておいて、ニセモノとすり替えておくんだけどなー。明日になって、こないなーと思ったら、もうすでにニセモノだった、ってするなー」
「えっ」
胸にざわつきが広がる。
それは、すなわち。
「日付なんて……宛てにならない……?」
「明日っていっておけば、明日くるとみんな思うじゃんかー。ま、わたしみたいなお子様のざれごとだけどさー」
思わずオズワルドは立ち上がっていた。
展示されている『風神の籠手』が本物かどうか、すぐに確かめる必要がある。
「嫌な予感がするな……!」
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