第15話 垣間見える秘密

「オズワルドさま」


「…………」


「もうお昼です。お食事、できているのです」


「…………」


 返事はない。

 寝室のドアの前でナオミは肩を落とした。


「あとで食べてくださいね、オズワルドさま……」


 オズワルドの停学は三日目に入っていた。

 あれ以来、オズワルドは寝室に引きこもって出てこない。

 都会の富裕層の子女に多いとされる『HIKIKOMORI』である。

 テーブルの上に置いた料理がいつの間にか無くなっているので、その点だけは安心できた。


「ナオミはお買い物に出かけてきます。今日はオズワルドさまが以前から食べたがっていた、お魚料理にするのです」


「…………」


 いつの日か、必ず元の元気な姿を見せてくれる。

 ナオミはそう信じていた。

 いや、信じようとしていた。


「行ってまいります。一時間で戻るのです」


 ◇ ◇ ◇


 アパルトメントから二十分ほど南に歩くと、様々な商店が集まった通りに行きつく。

 ラクーン横丁と呼ばれる王都市民の台所だ。

 生鮮食品は言うに及ばず、食堂や喫茶店、衣類点、酒やタバコといった嗜好品の店、書店や土産物屋など、ここで揃わない物は無い。

 さほど広くない通りはアーケードに覆われ、天気を問わずいつも多くの人で賑わっていた。


「さァ、らっしゃいらっしゃい! 今日はサバが安いよッ!」


 鮮魚店からは店主の威勢の良い声が響く。

 ゴム製の前掛けと、手ぬぐいをねじって頭に巻くのが魚屋スタイルらしい。

 ナオミは思わず足を止めた。


「お魚……」


「へい、らっしゃい! 何にする!?」


 ナオミは王都に来るまで、海鮮を食べたことがなかった。

 内陸の奥地にあるウバスでは海の魚は貴重品で、干物や缶詰以外では見たことがない。

 独特の生臭さもあり苦手ではあったが、オズワルドは魚介類を多く食べたがっていた。

 早く王都に慣れたいのだろう。

 王都から汽車で一時間足らずの港町、ムーサから運ばれた魚だ。


「えっと……」


 氷の山に埋められた魚と目が合う。


 ――俺をどうする気だ、腹を割いて内臓を取り出し、首を落として切り裂く気か! 俺を、食い物にしようってんだな!


 そんな声が聞こえてきそうだった。

 まさしくその通りだが、声なき声にナオミの背中に冷たいものが走る。


「オネーサン、今日は活きの良いのが入っているよ!」


 店主はナオミの顔よりも大きなマグロの首を持ち上げた。

 切断面から真っ赤な血が滴り、床の排水溝に流れ込んでいく。


 ――オレノ……オレノカラダ……カエセ……


 空耳だ。マグロが喋る事など有り得ない。

 マグロから目を逸らし、さっきのサバを指差す。


「あのっ、サバ! サバください!」


「毎度ありっ!」


 都会は怖い物でいっぱいだ。

 あのマグロの事を今夜は夢に見てしまうかもしれない。

 一刻も早くオズワルドの待つアパルトメントに帰りたかった。

 たとえ会話ができなくても、扉一枚挟んで隣にいるだけで心強い。


 自動車が少ない時を見計らって、道路を渡ろうとする。

 不意に鳴ったのは、耳をつんざく金切り音。


「ひいっ!?」


 思わず腰が抜けて尻餅をついてしまう。

 目の前十センチの距離で、メッキされた自動車のラジエーターグリルが揺れていた。


「何をやってるんだ! 危ないじゃないか!」


「しゅ、しゅびばぜんっ……!!」


 左右の確認が不十分だったようだ。

 ぶつかりこそしなかったものの、生きた心地がしなかった。


「おや? あなたは……。大丈夫ですか? お怪我は?」


 運転席から降りてきた青年は、ナオミの姿を見ると不意に態度を和らげた。

 膝を付き、ナオミの手を取って立たせてくれる。


「あっ、デビッドさま……」


 運転していたのはバージニアの執事、デビッド・ペイジだったのだ。

 彼は心配そうな目でナオミの全身を舐めるようにして見ると、胸に手を当てて安堵の素振りを見せた。


「良かった。どうやらお怪我は無いようですね。ナオミさんに何かあれば、オズワルド様に申し訳が立ちませんので」


「あ、あの、すみませんでした」


「気をつけてくださいね。急に飛び出しては危険です。これからお帰りですか? 通り道ですからお送りしますよ。お乗りください」


「えっ、あの、その……」


 デビッドは有無を言わさず自動車のドアを開け、まるで令嬢を出迎えるような態度で頭を下げた。

 こうなっては断りようも無い。

 そっとリア・シートに腰を下ろすと、柔らかなレザーとスポンジが腰を包む。


「すごいです……まるでお貴族様のソファみたい」


「お貴族様のソファですよ。車輪とエンジンが付いているだけでね」


 音もなく自動車は走り始めた。

 すっかり慣れた景色だったが、まるで初めて見るかのように錯覚する。

 車内も香水のような香りがほのかに満ち、快適そのものだった。


「――ところで、オズワルド様の具合はいかがですか? バージニアお嬢様も気にしていらっしゃいます」


「…………その、少し落ち込んでいるのです」


「でしょうね。初日から停学では……。しかしオズワルド様はとても優秀な魔法使いだと聞いております。多少の遅れなどすぐに取り戻せる事でしょう」


「そもそも学院側もいけないのです! オズワルドさまの話も聞かず、一方的に処分するなんて! もちろん一番いけないのはあの三馬鹿なのです!」


 思わず声が荒くなってしまうが、デビッドは落ち着いた様子で淡々と返してきた。


「確かに仰る通りです。ですが、学院は学院で何らかの思惑で動いているのかもしれません」


「それって、何ですか?」


 バックミラー越しにデビッドが溜息を付いたように見えた。


「ここだけの話にしていただけますか」


 デビッドはあくまで仮説、と断りを入れた上で続けたが、それはナオミの怒りをさらに燃え上がらせる結果となった。


「そんな! 寄付金の額が例の三馬鹿より少ないから、なんて!」


 確かにノートン家の領地ウバスは辺境であり、財力だけ見れば王都の一般的な男爵家にも及ばない。

 オズワルドが寮ではなく独自にアパルトメントを借りているのもそのためだ。


「さらに言えば、問題を起こしたこと自体が問題です。教師の仕事が増えても賃金が増えるとは限りませんから。我々労働者の言葉で言えば、『割に合わない』」


「そんなのって……あんまりです! ひどい!」


 拳を握りしめ、唇を噛んでいるうちに自動車は停まっていた。


「着きましたよ」


「えっ? は、はい」


 気がつけばもう、アパルトメントの前まで来ていた。

 徒歩だと二十分の距離も、自動車だとものの数分でたどり着けるらしい。

 ナオミは自動車を降りると、運転席のデビッドに深々と頭を下げる。


「今日は本当に申し訳ありませんでした。あの、それと……ありがとうございました」


「いえいえ、お怪我が無くて何よりです。しかし……オズワルド様は幸せなお方だ」


「幸せなお方は停学になんかならないです」


「いえいえ。不幸を我がことのように怒り、悲しんでくれる人がいるのは、これ以上無い幸せですよ。私ならそう思います。では、失礼」


 デビッドは爽やかな笑みを浮かべ、自動車が走り始める。


「!?」


 思わず目を疑った。

 助手席の足許に置かれた紙袋が急ブレーキの衝撃からか、口が開いていた。

 その中から、人の髪の毛のようなものが覗いているのだ。

 思わず二度見したくなったが、その時にはすでに自動車は走り去った後だった。


「あ……あれって……」


 生唾を飲む。

 一瞬生首かと思ったが、車内に血の匂いはしなかった。髪の毛だけだ。


「デビッドさま……まさか、あの歳でカツラを……?」


 デビッド・ペイジは王立学院の女学生の間で絶大な人気がある。

 この事が明らかになれば、学生たちの力関係に大きな変化が訪れるかもしれなかった。


「……ど、どうしよう……? オズワルドさまに……ううん、それはダメです。どうしよう……」


 ナオミに怪我は無かった。そして、デビッドには毛が無い。

 この事実は墓場まで持っていく必要がありそうだ。


「…………イケメンは髪が無くてもイケメンなのです。それで良いのです。……買っておいて良かった」


 ナオミは買い物籠に手を入れると、ワカメを取り出して眺めた。


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