第11話 入学の日 その一

 今日は王立学院の入学式。

 いつもは起こされない限り昼間ででも夕方まででも眠り続けるオズワルドも、この日ばかりは早起きだった。

 部屋に入ってきたナオミが驚いて腰を抜かしそうになるほどだ。

 朝食を済ませ、まだ着慣れない制服に身を包むと、身も心もシティ・ボーイになったようにすら思えた。


「オズワルドさま。制服、とってもお似合いです」


「ふふん。そうだろう、そうだろう。さて、そろそろ行く時間だが……新入生歓迎パーティーで使う衣装は用意してくれたかい?」


 ナオミは一瞬目を逸らしたが、すぐに衣装を入れた鞄を手に取った。


「……こ、こちらにございます」


「よし、行こうか」


 アパルトメントの階段を降り、共用玄関に向かう。

 玄関に差し込む、眩い金色の朝日。普段は煤煙に覆われた空も、今日は雲一つ無い快晴だ。

 光の中で仁王立ちになっていたのは、爽やかに汗を光らせながら一息ついているボールドウィン侯爵だった。

 すでに早朝トレーニングを終えており、玄関先で優雅に牛乳を飲んでいる。

 ……かに思われたが、その白い液体はプロテインの粉末を溶かしたものらしい。


「おう、今日は入学式か! 頑張れよ! 俺も軍隊に入った時、田舎者と馬鹿にされたものだぜ」


「侯爵はフルメントムの出身では?」


「おうよ。畑しかない田舎だな!」


 何気ない会話に衝撃を受けてしまう。


「あの……フルメントムは王都の隣ですし、普通に都会では……。橋を渡って行けますし、お店もあるとか」


「お前の都会基準がわからん。フルメントムは自動車もめったに通らないぜ? 少なくとも、その辺の通行人に聞けば百人が百人、田舎だと答えるだろうぜ」


「お店があっても田舎なのか……」


「お前は何を言っているんだ。いいから早く行け! 初日から遅刻する気か!?」


 侯爵のミトンのような手がオズワルドの背中を叩くと、一瞬息が止まった。


「い、行ってまいります!」


 学院までは徒歩で十分ほど。

 昨日教科書を受け取りに行った事もあり、迷わずに来る事ができた。

 五百年の歴史を誇る王立学院の正門に、制服姿の男女が吸い込まれていく。

 今日からオズワルドも、彼らの一員だ。


「……よし」


 正門をくぐると、女学生たちの浮ついた会話が耳に入る。


「見た? 駐車場に、すっごいイケメン居たの!」


「見た見た! 誰の執事かしら? ……あ~あ、うちの執事と取り替えたいわ」


 昨日は気がつかなかったが、当然駐車場がある。

 オズワルドのように徒歩で通う学生は、どちらかと言えば少数派らしい。

 都会の貴族は基本的に歩くことが無いようだ。


「近頃では『ウォーキング』といって、歩くだけの健康法があるそうです!」


「らしいな。つまり、僕たちは『チョベリグ』で『ナウい』。そうだろう?」


「はい。さすがオズワルドさまです!」


 ナオミとそんなとりとめの無い話をしながら進んでいくと、駐車場で一台の真新しい自動車が停められているのが目に入った。


「おはようございます。オズワルド様」


 自動車の傍らに立っていた青年は、バージニアの執事のデビッドだ。

 通りかかる女学生たちの視線を集めている。


「おはよう、デビッド。前から気になっていたんだけど、この自動車は『おニュー』かい?」


「はい。お嬢様が付属から上がりますので、新調いたしました」


「少し、見せてもらっても構わないだろうか? 僕、こういうの好きなんだ」


「オズワルド様でしたら、お嬢様も何も仰らないでしょう。どうぞ」


 黒く塗られた流線型の車体に、丸いヘッドライト。

 ドアの取っ手は前後とも中央寄りに付いており、両開きになっている。

 窓から中をのぞけば、柔らかそうな革張りシートに艶やかな木製パネルとハンドルが見える。

 そのままオズワルドは車体の下を覗き込む。

 枠内で転がる鉄球を封入したベアリングにより摩耗を防ぎ、耐久性を飛躍的に高めている車軸。

 タイヤは空気入りのゴム製だし、針金を放射状に組み合わせたスポークホイールも付いている。

 さらに板バネで振動を吸収すると同時に、オイルダンパーでバネの揺れを押さえている。

 一つ一つの原理はひどく単純なものだが、それは完成品を見たから言えることであり、ジョージ王以前に同様の物を発明した者は誰一人居なかった。

 ウバスで使っていたオズワルドの馬車には、当然そんな物は付いていない。

 せいぜい鎖で車体を吊し、衝撃を和らげる程度であった。


「すごい……これを実用化するにはとてつもない高度な加工技術が必要なはずだ。マジックアイテムの製造施設を流用しただけでは、ここまでの物は……」


「ナオミにはチンプンカンプンです。でも……」


「ん? 何だって?」


「いえ、何でもありません。ただ、ナオミには機械を見ているオズワルドさまが一番カッコよく見えます」


 こういったメカニズムを見ると、ついつい時間を忘れてしまう。

 これは、オズワルドの悪い癖だった。

 だからだろう、デビッドに言われるまで気がつかなかったのだ。


「そろそろお時間でございます。よろしいのですか?」


 言われてから懐中時計を見ると、遅刻ギリギリだ。


「おっといけない。じゃあね、デビッド。ありがとう」


「お嬢様をよろしくお願いいたします」


 深々と頭を下げるデビッドに見送られ、オズワルドたちも学内に急いだ。


 ◇ ◇ ◇


「ナオミは使用人控室におりますので、ご用の際はすぐにお呼びください。すぐにこれをお届けいたします!」


 ナオミは誇らしげにトイレットペーパーを掲げて見せた。

 パルプ百パーセント、ダブルのロール式トイレットペーパーだ。

 棒に差し込む事で、引っ張るだけで必要な量を調整できる。


「ふむ。トイレの紙は備え付けがあると聞いたが、誰かが使い切ってしまうかもしれないからな。僕がうんこをした後、お尻を拭けないとなれば貴族の名折れだ。そこに気付くとは、さすがナオミだよ」


 ナオミは真っ赤になって俯いた。


「そんな……メイドとして当然の事なのです。オズワルドさまのためなら、ナオミは男子トイレに入る事もできるのです」


「当然? いや違う。誰にでもできる事じゃない。もっと自信を持つんだ。……じゃあ、後で」


「行ってらっしゃいませ、オズワルドさま」


 ◆ ◆ ◆


 ナオミは使用人控室で優雅に紅茶を飲みつつ、オズワルドから借りたライト・ノヴェルを読んでいた。

 本を読んでいれば、誰かと会話する必要が無いからだ。

 そもそも初対面の相手と気軽に話すなど、狂気の沙汰としか思えない。


「…………」


 室内ではデビッドをはじめ、使用人たちが思い思いに待機している。

 主人が授業を受けている間こそが、彼らにとって心から休まる時間なのだろう。

 ナオミ同様読書をする者、談笑する者、チェスに興じる者など様々だ。


 目の前の机には新品のトイレットペーパーが積まれている。

 近くを通る者は首を傾げるが、特に何も言ってはこなかった。


 仮にオズワルドがうんこをした後、紙がないという窮地に陥ったとしても、すぐに助けに行く事ができる。

 ナオミはそう思っていた。

 しかし、男子便所の個室から呼んだとしても、使用人室に声が届かない事をナオミは知らない。

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