第10話 よくある名前
アパルトメントに戻ると、玄関前ではどこかで見た少女が野良猫と戯れていた。
王都に来たその日、駄菓子屋で道を聞いた黒髪の少女だ。
オズワルドを見ると、ぴょこんと頭を下げる。
「こんちゃー」
「やあ、この間はありがとう。ここ、変な貴族がオーナーだから、気をつけた方が良いよ」
「へいきだよー。わたし、カーターと仲良しだもんねー。でも、あそびにきたら留守だったんだー」
あのボールドウィン侯爵に、子供とはいえ女の子の知り合いが居るとは意外であった。
よく見れば可愛らしい子で、大人になればきっと美人になる事だろう。
「ははは、そうなんだ。君にお礼をしたかったが、名前を聞いていなかったね」
「サラっていうのー」
「良い名前だね」
「にしし、いいだろー」
エイプル王国ではサラ王女の誕生以来、産まれた女の子にサラと名付ける親が急増した。
一説によると女の子の三十人に一人がサラと名付けられているらしい。
サラ王女はジョージ王夫妻の忘れ形見で、王族の血を引く最後の一人だった。
その風貌は不鮮明な新聞写真が一枚あるだけで、直接顔を見た者はごく僅かだという。 王族と他の貴族との一番の違いは、使える魔法の属性にある。
すなわち、回復魔法だ。
あらゆる病気や怪我を一瞬で治療するこの特別な魔法は、小国であるエイプル王国の国際社会での存在感を担保していた。
どんな人間であれ、病気や怪我と生涯無縁では居られない。
ジョージ王の登場以来、医療技術も大きく進歩していたが、まだまだ回復魔法には及ばないのが現状だ。
そのため諸外国が各地に植民地を作ろうとする中、エイプル王国を攻めようとする国は皆無であった。
昨年終結した『大陸戦争』こそが、歴史上唯一の例外である。
もっとも開戦当初は、クレイシク王国の過激派により、王を失ったエイプルの報復戦という意味合いもあった。
戦争というのは、一つの原因で起こるとは限らない。
あらゆる思惑が複雑に交錯し、結果として悲劇を呼んだとしか言いようがない。
「ボールドウィン侯爵は筋トレマニアで、よくランニングに出かけるんだ。すぐ帰ると思おうけど……僕は鍵を持っているから中で休むといい。おいで」
「わーい。おじゃましまーす」
サラはお日様のような笑みを浮かべてオズワルドに続いた。
ポケットから鍵束を取り出し、トレーニングジムの扉を開ける。
大家から渡されたジムの合鍵を使うのは、これが初めてだった。
「あいかわらず頭おかしいなー」
「気にしたら負けさ。都会には色々あるんだ」
中には、色々な種類のトレーニング器具がある。
よく見れば身体に触れる部分はスポンジなどで保護されており、拷問器具ではない。
しかし、スプリングや重りを用いており、使い方を間違えると怪我をする恐れがあった。
「ナオミ。僕は先に戻っているからサラが怪我をしないようにここで見ていてくれ。あと、飲み物は自由に飲んで構わない、と侯爵から言われている。出してあげるといい」
「かしこまりました」
「何かあったらすぐに呼ぶんだ。いいね」
オズワルドは足早に自室へと退散する。
もしも侯爵が帰宅するところへ出くわしてしまえば、トレーニングに興味があると見なされて大変な事になるからだ。
とはいえ別に、ボールドウィン侯爵を嫌っている訳ではない。
彼は豪快かつ豪胆ではあるものの、弱きを助け強きをくじく正義感の塊のような男であった。
ナオミも当初は恐れていたものの、徐々に慣れてきているらしい。
◇ ◇ ◇
窓の外から響く、賑やかな声。
ナオミがサラと遊んでいるのだ。
もらった釘は窓際に吊され、いつも正確に北を指している。
窓の外の賑やかさに少し寂しさを覚えつつも、オズワルドは机に戻った。
「さて、借りた本に目を通すか」
バージニアから借りた本は、M・ウィンターソンという作家の小説で、『チキューのプリンセス』というタイトルだ。
最初は訝しんでいたが、やがてオズワルドの意識は本の中に吸い込まれていく。
はるかに科学の進んだ異世界の光景が目の前にありありと浮かんでくるのだ。
美麗な挿絵も雰囲気を盛り上げていた。
気がつけば、いつの間にか窓の外は静かになり、ナオミもいつの間にか帰ってきていた。
「あの子……サラは帰ったのか」
「はい。閣下と何やらお話ししたあと、すぐに。それにもう、お子様は帰る時間です」
「……そうか。近所の子かい?」
「はい――」
ナオミの表情に影が差した。
「可哀想な子なのです。ご両親を早くに亡くして、お家も去年の反乱事件で壊されちゃったそうです。今は遠い親せきの家にお世話になっているそうです」
大陸戦争末期の反乱事件では、列車砲が乗っ取られ、王都にも砲弾の雨が降り注いだという。
その時王城も壊滅的な被害を受け、再建工事はまだまだ終わりそうにない。
王城の被害が象徴的に扱われているが、一般家屋への被害も無視できるものではなかった。
「王都は戦線から離れた安全地帯だったはずなのに、な。ナオミ、あの子が困っていたら手を貸してやるんだよ」
沈んでいたナオミの表情がぱあっ、と明るくなる。
「はい、かしこまりました! とりあえず、お茶を淹れてまいります!」
ナオミは足取りも軽く、厨房へと消えていく。
オズワルドと話す時はこんなに元気なのだが、他の人相手だといつもオドオドとして、まともに会話ができない。
ウバスでは特に困る事はなかったが、人口の多い王都では色々と不都合が生まれる事だろう。
ナオミとて、男のオズワルドでは話しにくい事もあるに違いない。
サラがよく遊びに来てくれるのなら、人と話せるようになる第一歩になるだろう。
そうして段階を踏み、いずれは同年代の女子とも話せるようになるに違いない。
「……別に、寂しくなんかないからな」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
そもそも、ウバスには歳の近い若者がほとんどいなかったのだ。
これは、猛威を振るった大陸戦争の傷跡だ。
エイプルの徴兵年齢は二十歳から三十歳の間の二年間だが、戦時特例として義勇兵制度が始まり、年齢制限が撤廃された。
働き盛りの中年はもとより、一線を退いた老人、子供と言って良い者まで。
四年に渡る戦争は、ウバスからも多くの命を刈り取っていってしまった。
夫や息子を失った未亡人の多くは、職を求めて王都やカスタネといった都市部へと出て行った。
今や、ウバスは人口の多くが高齢者で占められている。
最後まで残った家の一つであるグリーンバーグ家は、長年ノートン家の使用人として仕えていた。
多くの人手を失う中、その重要性は否応なしに高まっていた。
ナオミを付けてもらえたのは、オズワルドにとって幸運以外の何物でもない。
「いよいよ明日は入学式か……。上手くやっていけると良いけど」
期待と不安の夜は更けていく。
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