第6話 王都地下迷宮 その二

 数年に一度訪れるかどうか、という大嵐にも似た轟音が轟き、列車が入ってくる。

 驚くべき事に、その列車は機関車に引かれていない。

 僅かな誤差もなく、片側三枚の扉がある列車は所定の位置に滑り込んだ。


「えっ……? ええっ……?」


 ガラス窓越しに見える車内は、無数の人でごった返していた。

 人、人、人。

 男も、女も、老人も、若者も。

 異様な光景だった。彼ら彼女らはほとんどが労働者階級のようだが、圧倒的人口密度に誰一人文句を言う者は居ない。

 駅員が扉を開くと、人々の群れはどっとホームに流れ出した。


「――――!」


 駅員が何かを叫ぶ。

 やがて、ナオミたちの列が動き出し、人並みに揉まれながら車内に押し込まれる。

 周囲三百六十度、全てが人だ。

 オズワルドも乗ったはずだが、髪の毛がわずかに見えるばかり。


「オズワルドさまーっ!」


 押し合い、へし合い、もみくちゃにされ、二人の距離は離れていく。

 前も、後ろも、左も、右も。

 全ては見知らぬ人で埋め尽くされている。

 息が苦しい。酸素が足りない。ナオミは思わず手を伸ばそうとした。

 しかし、その手はオズワルドに届かない。

 二人の間には、無限とも思える距離が開いていった。


 ◇ ◇ ◇


 永遠とも思える時間が過ぎた。

 しかし、実際の時間経過はわからない。

 数分なのか、数時間なのか、あるいは数日か。


「あうっ!」


 人混みはますます密度を増し、ナオミは押し出されるようにして見知らぬホームへ転がった。

 ナオミの三倍はありそうな太ったおばさんが無理矢理乗り込み、その反動で押し出されてしまったのだ。

 おばさんが使っていた香水が不快になり、力が抜けてしまったのもあるだろう。

 クローゼットに入れる防虫剤そのものの匂いだったのだ。


 駅員が笛を鳴らすと、列車は無情にも発進していく。

 降りた乗客たちは足早へ地上を目指し、もはや周りには誰も居ない。


「オズワルドさま……?」


 返事は無い。

 ナオミが仕える主人は、ウバス伯爵家次男オズワルド・ノートンは、ここには居ない。

 いや。

 それどころか、顔を知っている人間すら、誰一人居なかった。

 行き交う人々は誰もナオミに興味を示さない。


「ぐすっ……」


 湧き上がる不安。

 孤独である事を認識した時、ナオミの双眸からは止めどなく涙が流れ始めた。


「うああぁぁぁぁん……」


 陽の光が決して差すことのない地下世界で、ナオミ・グリーンバーグは完全な孤立無援だった。

 誰も知らない。誰も居ない。

 絶海の孤島に流れ着いた漂流者のように、ナオミはたった一人で生きていかなければならないのだ。

 脳裏に浮かぶのは、朴訥な父の顔。優しい母の顔。

 立派な領主。そして、その次男。

 ナオミにとって何よりも大切な、そんな人々と二度と会うことなく、このまま野垂れ死ぬのが運命というのであれば、これほど残酷なことは無い。


「ううっ……オズワルドさま……お別れも言えず……あれっきりなんて、むごすぎます……!」


 返事をする者は居ない。永遠の孤独。永遠の暗闇。

 百万の市民が住む王都の中で、ナオミはたったの一人ぼっちなのだ。

 そして何よりも、オズワルドも同様にたった一人で砂漠のような王都を彷徨っている。

 それを思うと、何も出来ない自分自身が余計に悲しくなったのだ。


「せめて、ひと目だけでも……会いたい……会いたいよぉ……うえぇぇえぇえぇええん……」


「邪魔よ、どいて!」


「ひぃ……しゅ、しゅみません……」


 やたらに化粧の濃いおばさんに追い立てられるように、重い足を引きずりながらベンチに倒れ込むようにして腰を下ろす。

 やがて、また多くの人々が階段を下って列を作り始めた。

 人々は誰もが、表情の無い仮面を被っているようにすら思える。

 ナオミの気持ちなど、誰も分かってはくれない。

 これからどうやって生きていけば良いのか。答えは永遠の霧の中だ。


「え~、列車が~参りゃ~す」


「……!?」


 その時だ。轟音とともに反対側から列車が滑り込み、開いた扉から一人の青年が姿を現した。


「ナオミ、大丈夫か?」


 涙で歪んだ視界であっても、その姿を見間違うはずなどない。

 幼馴染みで。領主の息子で。雇い主で。そして何よりも、憧れの人。


「オズワルドさまっ!!」


 考えるよりも先に、身体が動いていた。

 オズワルドの胸に飛び込み、ナオミは声を上げて泣いた。

 しかしこれは悲しみの涙ではない。一時は諦めていた再会が叶ったのだ。

 もう、ナオミは一人ではない。だからもう、オズワルドを一人にはしない。

 あんな想いは二度としたくないし、させたくなかった。


「ごめんよ、心細かっただろう?」 


「オズワルドさま! もう二度と会えないかと思っておりました!」


 オズワルドは少しはにかんだような顔で頭を掻くと、ぎこちなくナオミの頭を撫でてきた。 

 撫でられた部分が暖かい。

 しかし、これは魔法ではない。


「君が押し出されるのが窓から見えて、次の駅で下りの列車に乗ったんだ」


「下りの列車……ですか?」


 ナオミは線路など一本しか無いものだと思い込んでいた。

 事実、今までに乗った列車はそうだったのだ。

 しかし、王都の地下鉄は上りと下りの二本、あるいはそれ以上の線路が敷かれ、それぞれ方向の違う列車が走っているらしい。


「ごめんよ。僕は少し、生き急ぎすぎたらしい。無理をして、背伸びをして。それで結局このざまだ。自分が情けないよ」


「そ……そんな事はありません!」


 お世辞でも社交辞令でもない、素直な気持ちだった。

 もしもオズワルドがいなければ、この地下鉄を使いこなすのに何年かかっていたか想像も付かない。

 未知に挑む勇気、誰にも負けない冒険心、そして海のように深い優しさ。

 オズワルド・ノートンを主と決めた以上、どこまででも付いていく決心は揺るぎはしない。


「今日はもう帰ろうか。…………その、歩いて」


「…………はいっ!」


 オズワルドの暖かな手を握る。

 あの日、洞窟の最奥を目指した時と同じように。

 思えばあの時も、ナオミは途中で泣き出してしまい、オズワルドに手を引かれて外へ出たのだ。

 入る時はあんなに長く感じた洞窟も、出る時はひどく短く感じたのを覚えている。


 ナオミ・グリーンバーグの冒険は、こうしてひとまず終わりを告げた。

 しかし、これはまた新たなる冒険の序章に過ぎない。

 そう。旅には必ず、帰り道というものがある。


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